8月のある日


「あ、やっと起きた。また夜遅くまで起きてたんでしょ、もうおそようの時間だよ」
そう言って笑う彼女の顔を見て鴻上了見はこれが自分の夢であると認識した。
「どうしたの了見?まだ寝坊助さんなのかな?」
ケラケラと彼女は笑う。その笑い方は了見が最後に見た彼女の笑い方そのものであり、やはりこれは自分の夢の中の世界なのだと強く実感させられた。
いまだ、鴻上了見の目の前で笑っている彼女こと、名字名前は了見と同い年の幼馴染であった。
「名前、なのか」
了見は目の前にいる彼女が名前であるとわかっていながらも確認することをやめなかった。
「なにそれ、忙さのあまり会ってないからって幼馴染の顔忘れちゃったの?」
彼女はなおもケラケラ笑う。最後に会ったときと何一つ変わらない笑顔だった。
「それにしても了見ひどいな〜毎月は厳しいにしても三か月、ん〜半年に一回くらい会いに来てくれたっていいじゃない」
そう言った名前の表情は、頬を膨らませ唇を尖らせあからさまに拗ねていると了見に示しているものであった。その表情を見た了見はコロコロと表情が変わる名前の様子に懐かしさをおぼえた。
「なかなか会いに行けなくてすまない」
了見の謝罪に名前は一瞬だけ驚き目を見開いたがすぐに笑顔へと変わった。その笑顔は先ほどまでのようなケラケラと笑っている表情ではなく、まるでかの聖母マリアのように慈悲深く瞳は笑みで細められ、その瞳に了見を映した。
「いいの、了見が忙しいってこと知ってるから。というより、見守ってるから、かな」
名前のその言葉を聞いて過去にこれでもかと痛んだ胸がまた少しだけ軋むような痛みをみせた。
名前は十年前に亡くなっている。交通事故であった。了見と花畑に行く約束をした名前は、待ち合わせ場所へ向かう途中で自動車にはねられ亡くなった。即死であった。
待ち合わせの時間を過ぎても訪れない了見が名前を探しに行き見つけたときには名前は物言わぬ抜け殻となっていた。
「お前はいつも私のことを見守っていてくれたのだな」
了見にとっては名前と相対するのは十年ぶりである。
亡くなった八歳のころの姿ではなく今の了見と同じような年齢の見た目をした彼女が目の前に現れたのを見て、瞬間的に了見はこれは自分が見ていきたかった未来の名前であり、決してかなわぬ夢だと察した。
それが胡蝶の夢だとわかっていても、それでも目の前にいる名前は自分の幻想で生み出したものではない本物の名前である、と明確な根拠など何一つなくとも了見は確信していた。
十年ぶりの彼女との対面に了見は話したいことがたくさんあった、そしてあの日のことを謝罪したかった。自分が花畑などに名前を誘わなければ彼女は死ぬことはなかった、と後悔しなかった日はない。
「名前、」
彼女の名前を呼び謝罪をしようとしたがそれは叶わなかった。謝罪の言葉を述べようとする了見の口が開く前に名前は遮るかのように言葉を発した。
「謝らないで。だって了見は何も悪くないもの」
「しかし、あの日私があんな約束をしなければ」
「ううん、了見は悪くない。わき見運転していた運転手と横断歩道でちゃんと周りを確認しなかった私が悪いの。だからもう自分を恨むのをやめて」
名前の表情が泣きそうなものであることに了見は気が付いた。了見が自分を責めることにより、事故にあったのは自分と相手の不注意だから了見が自分を恨むべきではない、そう感じている彼女を傷つけていたのだと了見は悟った。

了見は謝罪することをやめ、会えなかった十年分の隙間を埋めるように名前と話しをしようと試みた。最初は先ほどの空気から気まずさがあり少しぎくしゃくしていたが途中からそのような空気は消え、竹馬の友の二人の間には笑顔があふれていた。

しかし了見の夢の中とはいえ楽しい時間は有限である。
名前は何かに気がついたかのような顔をした後口を開いた。

「もう時間みたい、そろそろ行かなくちゃ」
彼女との別れが再び迫っていた。もう自分の夢に彼女が現れることがないのだと、なぜだか了見は確信していた。これが彼女との最後でも名前の笑顔を見れたことは間違いなく了見にとっての幸せであった。
「久しぶりに名前と話せてよかった」
「うん、私もだよ。じゃあ、ばいばい」



ふと意識が浮上する。窓から入る日差しのまぶしさに了見は少しだけ目頭を押さえた。
陽の光にも目が順応したころ了見はカレンダーを見て気が付いた。

「あぁ、今日は彼岸だったのか」

そうつぶやくと了見は簡単に出かける用意を済ませ目的の場所まで歩いて行く。
歩き出して十分もたたないうちに目的の場所についた。
着いた先は名前の墓前である。

「名前、あまり会いにこられなくてすまない。これからも頻繁には来られないかもしれない。だが名前のことを忘れたことは一度だってない。絶対にまた必ず来る、待っていてくれ」

名前の墓前でそう宣言した了見の頬を風が優しく撫でるように通り過ぎている。
オカルトの類を信じてはいない了見であったが、いま自分の横を通り過ぎた風は彼女だったと確信した。

「ではまた」

そう言い残し了見は名前の墓を後にする。
名前の墓には先ほど了見が備えていったニゲラの花が嬉しそうにそよそよと風になびいていた。



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