幼なじみの変化と不穏な出会い




 その日の夜、我が家のリビングは静まり返っていた。

 どうしよ……なんて説得すれば……。

 私はダイニングテーブルを挟んで、父と対面する形で座っている。目の前に置いてあるのは、白紙の入部届だ。

「部活に入らないって、本当か?」
「うん」
「バレー部に入らない理由はわかってる。けど、部活自体やらない理由が、"家のことに専念したいから"なんてのは聞いてないぞ」
「……うん」

 たぶん、父は怒ってはいない。ただ、あまりに真剣な表情で私を案じるように見てくるので、萎縮してしまう。

「なんで今まで黙ってたんだ?」
「……反対されると思って」
「いつかは言わなきゃいけないんだから、早いか遅いかの違いだろ」
「……どっちにしても反対されるだろうから、言いづらかった」
「はあ……」

 ため息ひとつに私の体が固まる。父は私の行動に二の句がつげないようだ。

「やりたい部活、なにもないのか?」
「……興味ある部活は、ある」
「なんの部活? 興味あるなら、なんでそれをやらないんだ?」
「えと……文芸部と、生物部なんだけど……文芸部は幽霊部員ばっかりらしくて、生物部はそもそも無いらしいから……」
「家庭科部とかもあるだろ。興味ないのか?」
「家事やるのは好きだけど、部活ってなるとちょっと違う……」
「他には?」
「ば、バレー部も、考えなかったわけじゃないけど……やっぱりやめた」

 お互いに黙りこくる。私たちの間に流れる空気は、やや重い。
 少ししてから、父が口を開いた。

「お父さんはな、無理して部活に入れ、とは言わないよ。けど、家のために諦めるってんなら話は別だ」
「あ、諦めるとか、そんなんじゃないよ!」
「じゃあ、ちゃんと千早の考えを聞かせてほしい。隠すんじゃなくて」

 真っ直ぐに見据えてくる父の目は、どこか物悲しさを感じた。

「……お父さんはさ、私とお母さんのためにずっと無理して仕事も家事もがんばってきたでしょ。お母さんが病気になってから仕事増やして、がんばりすぎてクマがひどいし、体調崩すことも増えた」

 作業机に向かう父の背中を思い浮かべながら、訥々とつとつと思いの丈を語った。

「いつも体痛そうにしてるし、ろくな睡眠も取れてない。夕飯は一緒に食べてくれるけど、それ以外はちゃんとご飯食べないことが多い。健康のために運動する時間すらまともに取れない」

 いつも視界に入る父の背中は丸まっていて、その頼もしい背中は、たまに痛々しく思う。

「心配なの。助けたいの。お父さんに支えられてばかりじゃなくて、私も支えたいの。家族なんだから」

 言葉に詰まりながらも、『家族』とハッキリ主張し、私は言い切った。
 父は目を見張り、意表を突かれた顔をしたかと思えば視線を下に向け、その表情からはやはり物悲しさがうかがえた。

「……千早の気持ちはわかった。お父さんのことを思ってくれるその気持ちは、すごく、すごくうれしい。けど、お父さんは、千早に学校生活を楽しんでもらいたいんだ」

 今度は、父が本音を語り出す番だ。
 私は静かに黙って、父の言葉に耳を傾けた。

「東京にいた頃は、お父さんが不甲斐ないせいで千早に大変な思いをさせた。本当はもっと友達と遊びに行きたかっただろうに、ほぼ毎日家と学校の往復ばかりさせて、家のことだけじゃなくて俺の仕事まで手伝わせてしまった」

 父は私と視線を合わせなかった。下に向いたままの顔からは、切なさが感じ取れる。

「だれかのために、じゃなくて、自分のためにやりたいことを見つけたって聞いたときは、お父さんうれしかったんだ。自分の気持ちに目を向けてくれるようになったんなら、きっと今までできるはずだったのにできなかった思い出作りが、これからはできるんじゃないかって」

 父はようやく顔を上げて、私に視線を合わせた。
 その顔からは、物悲しさが消えていなかった。

「お父さんを思ってくれる気持ちは本当にうれしいんだ。千早が優しい子に育ってくれて、本当にうれしい。けど、お父さんのせいでまたなにかを諦めさせることになるなら、それはうれしくない」

 まるで自分が"情けない"とでも卑下するように、父の顔は悲痛に歪んだ。

「……だから、私は諦めたんじゃないって」

 たったひとり残された家族を大事にしたいと選んだ私の選択は、父からすれば暴走しているだけに見えるのだろうか。

「私、ちゃんと友達できたよ。飛雄ともまた仲良くやっていけそうだよ。部活は入れたら、そりゃ楽しいかもだけど、なんとなくで入った部活で心の底から楽しめるとは思わない。少なくとも、私はそう」

「私は家族も友達も、両方選んだの。欲しいところを抱えきれるだけ抱えて、全部取りこぼしてやるもんかって」

「たしかにもっと良いやり方は、考えればあると思う。時間の取りやすい部活を選ぶって手もある。だけど、私は









 私物をほとんど置いていない自室のど真ん中に布団を敷いて、その上にあぐらをかく。目の前にあるのは、白紙の入部届。担任の先生は提出を待ってくれてはいるが、内心そろそろ出してほしい頃だろう。
 バレーに一筋、約七年。その私が、いざ新しいことを始めるとなると、迷いに迷ってなにも決められずにいた。

「文化系の部活やってみたいのは変わらないけど……やっぱり文芸部? いいネタが見つかりそうかも。ビブリオバトルも楽しそう。いやでも、わりと園芸部も捨てがたい」

 候補はたくさんリストアップしている。リストアップだけして、先に進めない状況だ。

「そういえば、文芸部って幽霊部員が多いって聞いたな……本当にそうだったらどうしよう……。園芸部はお花以外に野菜も育ててたまに調理もするって聞いたし、そっちにする? でもなあ……」

 植物は好きか嫌いかで言われると、好きではある。が、お世話したいほど大好きというわけでもない。どちらかと言えば、食虫植物のほうが興味ある。しかし、学校で食虫植物を育てているはずがない。どうせなら好きなことに関わる部活がやりたい。
 ――ふと、あることを思い出す。
 以前、東京に住んでいた頃、小さい観葉植物を家に置いていたことがある。初めは毎日お世話をしていたが、受け皿の水にどこからか入ってきた虫が寄ってきて湧いて困ったことがあった。
 虫は平気だ。むしろ好きだ。が、それとこれとは違う。虫を目的に園芸部に入るのなら、自分の家でカブトムシとかを飼えばいい話だ。

「虫……虫……ミミズとかイモムシにいちいちテンション上げそうだな。いっぱいいると、なんか"おお……"ってなるし」

 虫を思い浮かべたら、連想ゲームのように虫のことばかり考える。

「虫……虫かあ……あ、そうだ」

 リストアップの中に、もうひとつ気になる部活があったのを思い出す。

「"生物部"」

 生き物全般が好きな私。なんでもいいからペットを飼いたいと常々思っていた。
 しかし、母がアレルギー持ちであったことと、東京ではペット禁止のマンションだったので、今までその願いは叶わなかった。

「生物部かあ……いいかも」

 今住んでいるマンションもペット禁止だ。学校で生き物と触れ合えるのなら、その問題も気にせずに済んで、悪くない。

「生き物飼うなら土日も行くのかな? へへっ、毎日触れあえるのかあ」

 つい顔がほころんでしまう。両生類、爬虫類、魚類、昆虫――様々な生き物が頭の中に浮かぶ。なんの生き物を飼育していのか、想像は膨らむばかりだ。

「生物部にするなら今の生活も変えなきゃだな。お父さんに相談してみるか」

 昨日から仕事を再開して、仕事部屋にこもって忙しくしている父の元へ向かう。扉をコンコンとノックすると、中から「はーい」と父の声が聞こえて、仕事部屋の扉を開けた。

「今、大丈夫?」
「どうした?」
「部活のことなんだけど……」

 生物部に入部を決めたと父に伝える。意外にも、父は驚いた顔をして少し困惑していた。

「え? 生物部?」
「ダメかな?」
「ダメじゃないけど……文芸部に入るもんだと、てっきり」
「文芸部も考えたけど、帰宅部が多いって友達から聞いたから」
「そっかあ……今の若い子が、どんな本が好きか知れたらいいなって思ってたけど」

 なるほど。父は私が文芸部に入ることで、市場をリサーチできると踏んでいたのか。

「文芸部のほうがいい?」
「いや、千早がやりたい部活に入ればいいよ。ついでくらいに思ってただけから」
「そっか。なら、生物部に入る」
「生き物を飼育してるんだろ? 土日は?」
「たぶん、土日も行くかも」
「忙しくなるけど、大丈夫か?」
「忙しいのは慣れてるよ。好きなことなら忙しくても嫌じゃないし」
「なら、がんばりなさい」
「うん。がんばる」

 こうして、私は生物部への入部を決心した。





 次の日の朝。

「おはよー。今日は髪綺麗だね」
「はよ。今日はなんともなかった」

 昨日まで「おはよう」だけを交わしていた朝の挨拶も、今日は一言多かった。その小さな変化が、私にとっては大きな喜びとなった。

「部活なに入るか決めたよ」
「なにに決めたんだ?」
「生物部」
「そんなのあったか?」
「あったよ。生き物飼育して、観察するの」
「ふーん……」

 あいかわらず、ぶっきらぼうな返事ではあるが、意外にも少し興味のあるそぶりを見せた。

「気になる? 生物部」
「少しだけ」
「バレー以外に興味ないと思ってた」
「俺……動物に好かれない気がするんだ」
「ああ、そういえば、昔から犬とか猫によく警戒されてたね」

 幼い頃から、飛雄は近所で飼っている犬に吠えられたり、野良猫に威嚇されて逃げられることが多かった。そのことを気にしているようだ。だからだろうか、ほんの少しだけ生物部に関心を寄せている。
 それでもバレーには敵わないのだろうが。

「ペット飼いたくても飼えなかったから、楽しみだなあ」
「お前そんなに動物好きだったっけ?」
「好きだよー。なんでも好き」
「人間も好きそうだもんな」
「動くならなんでも好きって言いたいのか」

 クロと研磨なら軽口と捉えられたが、飛雄は真剣マジっぽいのが否めない。

「ちげえよ」
「じゃあ、なんでそう思ったの?」
「人付き合い、上手いから」
「え? そう見える?」

 意外だ。バレー以外、私にすらあまり興味がないと思っていた飛雄が、私のことをちゃんと見ていた。

「上手いって……べつにそんな上手くないよ。お父さんのほうが圧倒的」
「でも、だれにでも笑ってる」
「笑ってると人付き合い上手いの……?」

 飛雄の謎理論に、少し理解が追いつかない。

「千早は友達もすぐできただろ」
「沙織と彩花のこと? それは、ふたりが気さくに話しかけてきてくれたからだよ。ふたりだったからすぐ友達になれたの」
「俺は千早みたいにはできねえ」
「飛雄は……まあ……」

 飛雄がだれにでもニコニコ笑って人に囲まれていたら、それはそれで怖いと思ってしまった。

「俺は千早みたいには無理だ」
「そういうのは人それぞれだから。人間関係は複雑だし、上手い人でも悩むことだってあるよ」
「昨日は仲良くやれだのどうの言ってたじゃねえか」
「無理に上手くやれって言うつもりはなくて、歩み寄る努力は大事って言いたかったの」
「……わかんねえ」

 昨日、私が言ったことを気にしているのだろうか。飛雄が難しい顔をしている。

「私が言うのもアレだけど、昨日のことは気にしなくていいよ。私が言いすぎただけだから」
「気にしてるわけじゃねえよ。ただ……」
「ただ?」
「……なんでもねえ」

 いや、その返し方めっちゃ気になるやつ。
 深く突っ込もうかと一瞬思ったが、もし触れられたくない話だった場合を考えると飛雄に悪いのでやめた。

「飛雄は飛雄のペースでやっていけばいいんだよ。無理にやろうとしなくていい」
「……そうか」

 飛雄は腑に落ちないと言いたげな微妙な顔だ。

「とりあえずは今までどおりバレーに打ち込んだら? 飛雄だったら、バレーで仲間と会話する方法が一番性に合ってるかもよ?」
「バレーで会話か……いいな、それ」
「でしょ?」

 言葉の会話が不得意でも、飛雄ならバレーの実力で仲間とコミュニケーションを取る機会をいくらでも作れそうなので、バレーで会話する方法を提案してみた。実力で語っていけばいいと、そのつもりで。
 その提案を聞いた飛雄は、先ほどよりはいい顔つきになった。"バレーで会話"の言葉に納得したのかもしれない。

「ほら、学校着いたよ。今日も朝練がんばってね」
「おう」

 校門前で別れようとして校舎の方向に視線を向けると、ふたつの見慣れた顔がそこにいた。

「あ、金田一君、国見君。おはよ」
「おはざっす」
「っす」

 初日に比べればスムーズに出てくるようになったふたりの挨拶に、壁が少しずつ薄くなっている気がしてうれしくなる。

「はよ」
「はよ……」
「……はよ」

 飛雄の挨拶に、金田一君と国見君は距離感の遠さを感じる挨拶を返した。お前らは二文字しか言葉を知らないのかとツッコみたくなる。まだまだ先に進むのは長そうだ。

「……飛雄?」

 飛雄が、ふたりをじっと見つめて固まっている。目尻が鋭くなっていて、にらんでいるようにしか見えない。
 金田一君と国見君も、飛雄の尋常じゃない様子に身構えた。

「な、なんだよ影山……」
「…………ミカサとモルテン、どっち派だ」
「「は?」」

 飛雄の唐突な切り出しに、ふたりは驚いて素っ頓狂すっとんきょうな声を上げた。

「どっち派だ」
「……ミカサ」
「…………モルテン」
「そうか」
「え? なに? なんなの?」
「意味わかんねえ……」

 右に同じく、私も意味がわからなかった。

「ふたりはバカチンのママ、知ってるか?」
「だれだよ。どこのだれのバカチンだよ」
「なんなんだよ急に……」

 飛雄の突飛な質問に、金田一君と国見君は困惑している。

「飛雄、違う……全部違う……」
「あ? なにがだ?」
「バカチンのママじゃなくて、アホボンのパパ」
「そうか」
「そうか、じゃない! どうしたの!?」

 昔から変わっているところがあるが、今はますます様子が変だ。

「千早が言ったんだろ。バレーで会話って」
「ああ、そういうことか。アホバンのパパはなんで?」
「バレーの話が続かなかったから、千早が言ってたみたいに別の角度から攻めてみた」
「うん……努力したのはえらい」
「桂先輩。なんの話ですか?」
「ごめん、私がアドバイスしたの」
「はあ……」

 金田一君は、説明されても腑に落ちない顔をしている。そりゃそうだ、事情を知らないのだから。
 飛雄は、私の言った"バレーで会話"を言葉どおりに受け取り、それを実践したのだ。

「飛雄、あとでまたちゃんと話そう」
「? おう」

 早急に飛雄の認識のズレを解消しなければならない。が、今は部活が優先だ。話は後回しにすることにした。

「飛雄、お昼にまた体育館近くまで行ってもいい? ちょっと話したいことがあるの」
「ん? おう」
「ありがと。じゃ、三人とも朝練がんばって!」

 飛雄以外、それぞれがそれぞれの不安を抱えて私たちは別れた。

 そしてお昼の時間となり、給食を食べ終えた私は友達を引き連れて、飛雄の元へ向かうため先席を立った。

「沙織、彩花。行こう」
「よっし、行くか」
「なんでこれから戦に行く人みたいな雰囲気なの?」

 友達を連れていく理由は、私ひとりでは解決できないなにかが起こったときの保険だ。今朝の飛雄の話をして、ぜひふたりからも助言をいただきたいとお願いした。
 ふたりは快く――というより、おもしろがって引き受けてくれた。

「今日もやってんねー」
「あんな綺麗に真っ直ぐボール上げられるのすごいね」

 バレー初心者のふたりから見ても、飛雄の実力は上等らしい。

「飛雄、お待たせ」
「おう。……ん? 千早ひとりじゃないのか」
「お邪魔してごめんねー? 千早だけがよかった?」
「いえ、べつに」
「飛雄。ふたりは強力な助っ人だよ」
「助っ人?」

 私の言っている意味はわかっていないようだ。まあ、それはいいとして。

「さっそくだけど、今朝は私の話を聞いて試そうとしたんだよね?」
「そうだけど」
「うーん……」
「なんだよ、なんか悪いか」
「悪いとかじゃなくって……。あのね飛雄、仲間と打ち解ける努力をしたのはえらい。いいこいいこしてもいいくらいえらい」
「バカにすんなよ」
「それでも、話しかけ方はちょっと違ったかな」
「どう違うんだよ。普通に話しただろ」

 本気でアレでいいと思っている様子が飛雄らしい。らしいが――違うのだ。

「あれじゃあ脈絡がなさすぎて、相手もビックリするよ」
「みゃく……?」
「行き当たりばったりというか、話が急すぎるってこと。私との普段の会話を思い出して」
「同じようにしただろ」
「同じ……えっと、私は飛雄の様子を見ながら、考えて話してるよ、一応。相手がどんな話題なら乗ってくれるかとか、この話したらどんな反応するかなとか、私なりに色々考えてるの」
「そんなことゴチャゴチャ考えながらいつも話してんのか?」
「そんなことって……やっぱり脊髄で話すタイプか……」
「セキズイってなんだ。日本語でしゃべれ」
「日本語だよ」

 飛雄とちゃんと話すと決めたのに、これでは意味がない。いい具合に落とし所を見つけたいが、前述のとおり飛雄が脊髄で話すタイプなので、落とし所を思いついても通じなさそうだ。

「影山君さあ、なに気にしてるのかわかんないけど、あまり深く考えなくてもいいんじゃない?」

 私がうんうん頭を悩ませていると、彩花が口を開いた。

「得意不得意は人それぞれなんだしさ、下手に苦手なことに手出しても、逆にもっと深みにハマって上手くいかなくなるパターンになりかねないよ」
「うんうん。入学してからまだ一ヶ月くらいなんだし、焦ることないって。得意なことでやっていけばいいよ」

 沙織も、彩花と一緒になって口を開く。

「千早も深く考えなくていいと思うよ。みんなそれぞれ自分に合ったやり方は違うんだかや」
「うん……たしかに」

 ふたりからのアドバイスに、私は冷静になって落ち着きを取り戻した。

「バレーで会話……ってやつですか?」
「なにそれ」
「千早が言ってました。チームメイトとはバレーで語っていけばいいって」
「あ……飛雄はバレーの実力で語るのが一番合ってるんじゃないかなー、なんて思ったの」
「なんだ、とっくに千早が答えを出してるんじゃん」
「そうそう。影山君は好きなことを突き進んでいけば、なんとかなるんじゃない? もし問題が起きたら、そのときまた考えればいいよ」

 飛雄の突飛な言動に驚いて、なんとかしようとあわててしまったが、ふたりが援助してくれるおかげで話がまとまりそうだ。

「バレーで会話って、そういうことか」

 飛雄は今度こそ意味を理解したようだ。

「今までどおり、バレーをがんばるってことでオッケー?」
「おう、そうする」

 飛雄はこくりと頷いて、腑に落ちたようにどこかすっきりした顔をしていた。

「沙織、彩花も、ありがとう」
「いいえー」
「どいたまー」
「飛雄、練習の邪魔してごめんね。私たちはそろそろ行くよ」
「おう」

 今はなにもなくても、いつか飛雄も壁にぶち当たる日が来るかもしれない。どんなに好きなことでも、一直線に向き合い続けていれば必ずなにかが起こって、思い悩むときが来る。
 そのときが来たら、そのときに少しでも私が力になれればいいなと思った。

 それから踵を返して教室に戻ろうとすると、どこからか虫が飛んできて、飛雄の頭に止まった。

「あ、飛雄! カメムシ頭に止まってる!」
「は!? カメムシ!?」
「カメムシ!?!!」
「いやあ!!」

 カメムシに驚いた飛雄が、自分の頭を手で振り払おうとする。沙織も彩花も、突然のカメムシの登場に悲鳴をあげて震え上がった。

「ま、待って! 動かないで! カメムシは刺激すると臭い匂いを出すの!」
「んなこと言っても! どうすんだよ!」
「私が取るから! じっとして!」
「お……おう!」

 ピシリと石のように体が固まった飛雄の頭に、そっと手を伸ばして、カメムシの行く先に手を添えて自分の手に乗るよう誘導する。
 すると、飛雄がピクリと動いたことで急にカメムシが羽を出して飛び上がり、私以外の三人が大慌てした。

「く、クセェ!!!」
「いやー!! こっち来た!!」
「あっち行けー!!」
「み、みんな落ち着いて!!」

 あたりはカメムシ臭が漂い、大惨事となる。
 カメムシは一人ひとりのところへ飛んで行き、臭いを染み付けてはまたターゲットを変えて飛んで行く。

「なんでまた俺のとこ来るんだよ!! 千早のとこ行けよ!!」
「当たり前のように私を犠牲にするな!!」
「クサッ!! マジでクサイ!!」
「虫嫌いなの!! ほんとイヤ!!」

 嫌がらせのように私たちにまとわりつくカメムシのせいで、この場はパニック状態となる。
 カメムシはいまだに立ち去ることなく居座り続けている。虫が平気な私がなんとかしないと、場が収まらないと思い、思わず飛んでいるカメムシに手を伸ばして捕まえようとした――が、

「つ、捕まえ――ッ! ……っあ」

 勢いあまって、バチンと大きな音が響き渡る。嫌な予感がして、自分の両手を広げてみると、グロテスクな光景が手のひらの上にあった。

「ぎゃあーーー!!!!!」
「千早!! お、おま、オマエ!!」
「近寄んないで!! こっち来ないで!!」
「マジで無理ィ!!」

 私の両の手のひらには、カメムシの無惨になった死骸がべったり付着していた。どこにも触れず、行き場のない手をなるべく見ないようにして立ち尽くすしかできない。

「手……手ぇ洗いたい!! 水道どこ!?」
「こ、こっち!! 早く洗って!!」
「その手を見せないでぇ!!」
「クセェし汚ねえし最悪だ!!」
「なりたくてこんなんなってるんじゃないんだけど!!」

 ひとしきりカメムシに騒いだのち、私たちは異臭を体にまとって各々教室へ戻ることとなった。
 クラスメイトたちからは遠巻きにされ、午後の授業はずっと窓を開けられていた。先生方も異臭に気付いたようで、顔をしかめて授業をする姿に、きまりの悪さと申し訳なさでいっぱいだった。

 こうして、飛雄のコミュニケーション問題は、突如現れたカメムシによって幕を閉じた。
 部活の時間となってもほんのり異臭を放つ飛雄に、だれも近寄らなかったと、のちに遠野から聞くことになる。








「入部届、提出するの忘れてた……」

 帰宅して、夕飯と入浴を済ませたあと、私は入部の件についてすっかり失念していたことに気づく。
 昨日と同じように、自室のど真ん中に布団を敷いて、その上であぐらをかいて頭を悩ませていた。

「やらかした……カメムシのせいで……」

 カメムシ騒動がもたらした弊害は多かった。入部届の提出を忘れただけではなく、帰りの時間になるまでクラスメイトみんなが私たちに引いていた。飛雄もきっと部活でつらい思いをしたはず。
 手のひらをクンクンと嗅いでみれば、お風呂に入ってもまだ臭いが残っている気がした。

 私がもっと上手くカメムシを捕まえていれば……。

 こんなことにはならなかっただろうと、己の不甲斐なさに気を落とす。
 クロと研磨が聞いたらどう思うだろうか。ふたりの声を聞きたいような、聞きたくないような、複雑な想いが胸中を巡る。

「明日は絶対、忘れずに入部届を出そう……」

 色々後悔はあるが、考えてもしかたない。明日も明日で学校の時間はやって来る。

「そうだ、ポークカレー。いつ作ろう」

 飛雄の頼み事を思い出す。毎日部活に明け暮れているから、食べさせるとすれば夜しかない。

「一与さんと美羽ちゃんも呼ぼうかな」

 またみんなで食卓を囲むのも悪くない。むしろ、そうしたい。

「明日、飛雄に聞いてみよ。お父さんにも聞いてみなきゃ」

 ひとまず父と飛雄に相談してからだ。あとは――、

「ポークカレーかあ……いつも市販のルー使ってるから、せっかく作るならアレンジしてみようかな」

 布団の上から立ち上がって書斎に赴く。
 本棚の一部分には、私が普段から愛用する料理本が並んでいる。その料理本の背表紙を指でなぞり、これだと目を付けた本を何冊か手に取った。

「やっぱり春野先生の本かなあ」

 料理もお菓子もどちらもお任せ。シゴデキな尊敬する春野先生の簡単アレンジには、いつもお世話になっている。

「色々調べて試してみようかな」

 どうせなら、おいしいポークカレーを食べてもらいたい。飛雄に食べさせる前に試しに作ってみて、どんなもんか味わってみなければ。

 何冊か本棚から取り出した料理本を、目を通した順に枕元に積み上げて、アレコレ考えながら私は眠りについた。





「はよっす」
「はよ……」

 いつものようにマンション前で待っていると、眉間にこれでもかとシワを寄せて、不機嫌オーラを全身からかもし出す飛雄がやって来た。

「……なに?」
「……ポークカレーを食わないかぎり、俺は機嫌を直さねえぞ」
「なに子供みたいなこと言ってるの」
「昨日のカメムシ……アイツのせいで、俺は部活のヤツらから避けられた」
「え? ああ……やっぱそうだったんだ」

 私らでさえクラスメイトから引かれたのだ。飛雄も同じであったと想像に難くない。

「千早が動くなつったからじっとしてたのに、結局クサくなったじゃねえか」
「はあ? 飛雄が動いたからでしょ」
「俺は動いてねえ」
「動いたよ。ちょっとだけ。だからカメムシが飛んだんだよ」
「俺は動いてねえ!!」
「頑なだな!?」

 飛雄はあきらかにイライラして、目つきがどんどん鋭くなっていく。
 どうしようか。本当にポークカレーを食べるまで機嫌を直す気はなさそうだ。

「飛雄」
「あ"?」
「ポークカレーのことだけど」
「――ッ! おう!」

 ポークカレーと言った途端、顔つきが変わって良くなった。なんて現金なヤツだ。

「お父さんが一与さんに連絡取ってくれるらしいから、一与さんと美羽ちゃんが良ければ、来週あたりとかまたみんなでご飯食べるのどう?」
「俺はいつでも行ける! 部活無いときなら!」
「あとは一与さんたち次第だね。もしダメでも、飛雄だけでも来れそうなら来なよ。一与さんにはちゃんと話してね」
「おう!!!」

 ポークカレーを食べるまで機嫌を直さないと言ったのはどこのどいつだったか。すっかり機嫌を直したようで、ホクホク顔になっていた。

 そうして話し込んでいるうちに、校門に到着する。

「またね。部活がんば……あ、飛雄」
「ん?」
「頭にゴミついてる」

 私は自分の頭を指差して、ここにあるよと教えた。

「ココか?」
「違う違う。もっと右」
「こっちか?」
「逆逆。もっと右だってば」
「……ん」

 なかなか取れないゴミに苦戦していたら、しびれを切らした飛雄が頭を差し出してきた。私に取れっていうことか。

「ほら、取れたよ」
「さんきゅ」

 ゴミを取ってあげるくらいなんてことはないが、ポークカレーの件といい今といい、だんだん自分が本当にお母さんポジションになってきたように思える。

「国見……見たか、今の」
「見た……」

 後ろから声が聞こえて振り返ると、金田一君と国見君がいた。なにやら私たちを見てヒソヒソと話している。

「ふたりとも、おはよ」
「おはようございます」
「おはよう、ございます……」

 昨日よりも一段とスムーズに出たふたりの挨拶に、日に日に距離が縮まっている気がした。このまま進展して、もっと色々な話ができるようになれたらうれしい。

「たぶん、飛雄は普通になったよ」
「え? なんの話っすか?」
「昨日みたいに、急に変な話は切り出してこない……と思う」
「ああ、それですか」

 私は飛雄に聞こえないよう、小声で金田一君と国見君に話した。
 友達の協力もあって、飛雄は今までどおり過ごすと決まった。結局なにを思ってあんな行動に出たのかはわからないが、考えて試してみる自体はいいことだ。そこはわかってあげたい。

「まだ中学に入って一ヶ月くらいしか経ってないですけど、変わったヤツなのはわかってるんで、あまり気にしてないっす」
「そうなの?」
「困りはしましたけど」
「あ、あはは……」

 私は苦笑いしかできなかった。

「影山をまともに相手できる桂先輩がスゴいんです」
「私も結構悩むところはあるんだけどね……」

 国見君に比べ、金田一君のほうが口数は多いようだ。今のところ、私とちゃんとしゃべってくれるのも、金田一君がほとんどだ。

「私も飛雄マニュアルを更新中だから、お互いに情報交換といこうじゃん。なにかあったら、いつでも言ってね」
「マニュアル……ですか」

 白けた目を向けられて、なにか間違ったことを言ったかと不安になる。

「おい、朝練始まるから、もう行くぞ」
「あ、うん! いってらっしゃい!」

 飛雄が体育館に向かって歩き出すと、金田一君と国見君も私にぺこりと一礼してから行った。
 残された私も、教室に向かうべく歩き出した。





 お昼休み。私は入部届を手に、職員室へ赴いていた。

「失礼します」

 ノックしてから入室し、担任の山内先生のデスクの傍に立つ。

「先生、入部届持ってきました。遅くなってすみません」
「部活決めたんだね。どれどれ……生物部? バレー部か文芸部じゃなくていいの?」
「生物部がいいです」

 あらかじめ転校前の私の話を聞いていた先生は、てっきりバレーか文芸部のどちらかで悩んでいると思っていた模様だ。

「本当にいいの?」
「はい。やりたくて選んだので、大丈夫です」
「桂さんがいいなら生物部でも構わないけど、虫とか爬虫類もいるし……平気?」
「生き物全般好きなので、ぜひお世話したいです」
「そっか、なら預かるよ。顧問の先生には話しておくから、がんばってね」
「はい。がんばります。よろしくお願いします」

 虫が苦手な人は多い。犬や猫ならまだしも、一部の爬虫類や両生類なども飼育しているという話だから、先生は私の苦手意識を心配したのだろう。
 生物部に入部すると決めている時点で問題ないはずだが、念のための確認といったところか。

「失礼しました」

 無事に入部届も提出完了し、職員室を出る。
 すぐに教室へ踵を返そうとしたが、友達はふたりとも部活のことで先輩に用ががあるらしく、今は教室にいない。持ってきた本も今朝読み終えてしまったので、戻ってもひとりで暇をつぶすことになる。

 そのへんでもブラブラするか……。

 入学してから数日が経ったが、校内をまだ把握しきれていない私は、この機会にまだ行ったことのない場所を巡ってみようと思い立つ。

 まだ中庭に行ったことないし、行ってみようかな。

 前から気になっていた場所を片っ端から回ってみようと、まずは中庭に行くことにした。
 廊下をしばらく歩いて、中庭へ続く扉を出ようとすると、前から重そうな荷物を運ぶ女子生徒が現れる。その女子生徒は小さな段ボール箱をふたつ抱えて、視界が悪いのか前を見づらそうによたよた歩いていた。

「あの、よかったら運ぶの手伝ってもいいですか?」
「え……?」
「重そうなんで、ふたりで運んだら楽ですよ」

 急に話しかけられて驚いている女子生徒は、悩んだ様子を見せる。

「そんな、悪いよ」
「私は大丈夫ですよ。友達が教室にいなくて、ちょうど暇してたんです」
「じゃあ……お願いしようかな」

 二段積み上がった段ボールの上を取って、女子生徒と並んでついて行く。持った段ボールは、思っていたよりは軽かった。

「どこまで行くんですか?」
「バレー部の部室まで」
「バレー部! 幼なじみもバレー部なんですよ!」
「幼なじみ?」
「影山飛雄って一年の男子です」
「影山……ああ! 影山君!」
「知ってますか?」
「そこそこ目立つから」
「そうなんですね」
「あなたは二年生?」
「そうです、二年です」

 おそらく色違いのシューズを見て判断したのか、すぐ気づいたようだ。相手は三年だろう。私と違う色のシューズを履いている。

「ということは、転校生の子?」
「え? なんで知ってるんですか?」
「バレー部でちょっと知られてるよ。毎朝、校門前で影山君と仲良さそうにしてるの見かけるから」
「そうだったんですね」

 どこからか情報を得ているのか、私が転校生ということまで先輩は知っていた。学校内ネットワークは思っているよりも緻密に張り巡らされているのかもしれない。

「ちなみに、どう知られているんでしょうか……」
「気難しい影山君を手懐けてるって」
「ええー……」
「男バレの話だから、詳しくはわからないけど」

 想像以上に変な噂が広まっているようだ。

「あと、羊羹がどうたらって」
「出た……羊羹……」

 あまり思い出したくない不名誉なあだ名に、思わず口元が引きつる。

「よくわかんないけど、あまりいい感じのことじゃないっぽいから、嫌なら私からやめるよう話そうか?」
「いえ! 私は大丈夫です!」
「そう、なにか困ったことあったら言ってね」
「先輩……! ありがとうございます……!」

 先輩は察しのいい人だった。優しい気遣いが心に染みて感動する。
 "羊羹オンナ"呼びがいまだ続いているのなら、決して愉快な気持ちではないが、先輩の手を煩わせるのは避けたかった。

 その後も先輩と荷物を運びながら話し込むうちに、女バレの部室前までたどり着く。

「今、部室開けるからね」

 先輩が荷物を地面に置いて、ポケットから出した鍵を使って部室の扉を開けようとすると――、

「西野じゃねえか。どうしたんだ」

 突然声がして振り向くと、そこにはツンツンした短髪に、つり目の男子が立っていた。

「新しいビブスが届いたから、先生に頼まれて部活まで運んでたの。岩泉こそどうしたの」
「俺らも頼まれてビブス運んでたんだ」
「俺ら?」
「及川も部室にいるんだよ。……そっちは?」

 話がこちらに振られて、私は改まる。

「二年の桂千早です」
「私が荷物運んでいるときに声かけてくれて、一緒に部室まで運んだの」
「桂……ああ、影山の」

 先輩とタメ口で話す様子を見るあたり、この男子も先輩なのだろう。今は外なので靴を履き替えてて、シューズの色での判断はできないが。
 それにしても、私が飛雄の幼なじみだと、思っているよりもバレー部に浸透しているようだ。

「私って、そんなにバレー部で知れ渡っているんですか?」
「知れ渡っているかは知らねえが、金田一と国見から話を聞いたから、俺は名前だけ知ってた」
「そうだったんですね」

 ふたりが先輩にどんな話をしたのか気になる。

「改めて、桂千早です。先日転校してきたばかりです。知ってるかと思いますが、影山飛雄とは幼なじみです」
「俺は岩泉一。三年だ。よろしくな」

 岩泉先輩。バレー部ということは、飛雄の直属の先輩ということになる。

「飛雄がいつもお世話になっています」
「母ちゃんみたいなこと言うな」
「あっ……」

 またやってしまった。ここまで来ると母親面しているようで、だいぶ気持ち悪い。気を引き締めなければ。
 自分の行いを反省していると、岩泉先輩の後ろからもうひとり男子がやって来た。

「ちょっと岩ちゃん。置いてかないでよ」
「うるせえ。お前がモタモタしてんのが悪い」
「ひどい……」

 長身で、爽やか風の人だ。男らしい雰囲気の岩泉先輩とは真逆に思える。岩泉先輩に気さくにタメ口で話しかけるのを見るに、おそらくこの人も三年の先輩だろうか。

「ん? その子だれ?」
「金田一と国見が話していた、影山の幼なじみだとよ」
「……へぇ」

 岩泉先輩が代わりに私を紹介すると、その人は爽やかな顔に少し陰りを見せて、含みのある視線を送ってきた。冷ややかとも、不信感とも言える感情が伝わってきて、胸がざわつく。

「あの、桂千早といいます。二年です」
「俺は及川徹。三年だよ。よろしくね」

 自己紹介をすれば、及川先輩が見せた暗い表情は一瞬で消えた。

「あとは私がやっておくから、千早ちゃんは教室に戻っていいよ。そろそろ友達も戻ってきてるんじゃない?」
「ああ、はい。お願いします」
「手伝ってくれてありがとう」
「いえいえ」

 西野先輩に促され、私は先輩方に一礼してから踵を返そうとして、

「あ、先輩」

 西野先輩に声をかけた。

「先輩とのおしゃべり、楽しかったです。また私とおしゃべりしてくれませんか?」

 そう言うと、先輩はポカンとして、照れくさそうにはにかんだ。

「うん、またおしゃべりしよ」

 かわいく笑う先輩に、私も笑い返してから歩き出した。

 教室に戻る途中、私は及川先輩のことが引っかかってモヤモヤしていた。
 私たちはさっきが初めましてだったはず。なのに、あんな表情を向けられる理由はなんなのか。

 見間違い……じゃ、ないよね。

 一瞬ではあったが、確実に私に向けられた感情だった。
 アレはなんだったのだろう。先輩に対していつのまにかヘマをしてしまったのかと、身に覚えのないことに肝が冷える。

 考えてもしかたないか。わからないんだから。

 なにかやってしまったのだとしても、すでに起きたことは今さらどうしようもない。誤解であれば解きたいが、誤解があるのかすらわからない。なので、これから失礼のないように振る舞えばいい。
 頭を切り替えて教室に戻ると、西野先輩が言っていたとおり友達は戻ってきていて、授業が始まるまでおしゃべりをした。





 その日の夜。

「千早、一与さんから連絡来たぞ」
「ホント!? 一与さんなんて!?」
「来週の土曜の夜に三人で来るってさ」
「よっしゃー!」

 父に頼んでいたポークカレーの件について、一与さんからオッケーの返事が来たと報告があった。

「楽しみだな」
「私がんばってポークカレー作るよ!」
「お父さんも一緒に作るよ。今うちにある鍋で飛雄君足りるかな? もっと大きい鍋買ってくるか?」
「確かに。私より食べるだろうから、もっと大きくてもいいかも。明日、買い物ついでに鍋も見に行く?」
「それと車も見に行きたいと思ってるんだ」
「いいね! 早く買わないとだもんね!」

 宮城に来てから、食材の買い出し以外、まともな買い物にまだ出かけていない。買い物の予定を立てながら、私と父はウキウキして小躍りまでしていた。

「本当は、お父さんお母さんも呼べればいいんだけどね」
「あのふたりは仕事で忙しいからな」

 飛雄の両親は、昔から仕事で忙しく、あまり家にいない。必然的に一与さんと美羽ちゃんと飛雄の三人だけを招待することになり、一抹の寂しさを覚える。

「あ、そうだ。千早、明日の夜空いているか?」
「空いてるよ。なんで?」
「急だけど、鷲匠さんのお宅に挨拶に行こうと思ってな。その日の夜なら空いているらしいからさ。千早も一緒に行けるか?」
「行く! 行きたい!」

 楽しい予定が目白押しで、小躍りするだけでは物足りないくらい私はハイテンションになった。

「なら、明日は朝から出かけるから、早くお風呂に入って寝なさい」
「はーい!」

 一気に楽しみな予定が乱立し、私は胸を踊らせながらその日は寝た。

 今日の出会いが、新たな不安の火種になるとも知らずに――。