一喜一憂は待ったなし




「千早、そろそろ出るぞ」
「はーい、今行くよー」

 私と父は、父が昔お世話になった人のお宅へ向かうため、手土産を持って家を出た。

「本当は東京のお土産持っていきたかったんだけどな」
「賞味期限があるからな。しかたないよ」

 ふたりで自転車に乗り、夜の道を走らせる。
 カゴに入っている手土産は、宮城のデパートで買ってきた少しお高めのお菓子だ。







「千早ちゃん! いらっしゃい!」
「おじゃまします!」

 時間は夜。各お宅がだいたい夕飯を食べ始める時間帯だ。

「夕飯時にすみません」
「いいのよ! うちの主人も揃ってとなると、ほとんど夜しか空いていないから」

 私たちは、楽しみにしていた予定のひとつ、鷲匠さんのお宅へとお邪魔していた。

「これどうぞ。今日買い物行ったら、デパートでおいしいお茶菓子が売ってたので」
「あら! わざわざありがとう!」

 趣のある玄関を抜けて居間に入ると、あいかわらず厳格な雰囲気の鍛治さんがちゃぶ台を前に座っていた。

「鷲匠さん! お邪魔します!」
「来たか。まあ座りなさい」

 父が鍛治さんの隣に座り、私は向かいに座る。

「お夕飯まだでしょう? 今出すわね」
「手伝いますか?」
「いいのよ! 千早ちゃんは座ってて!」

 にっこにこで奥さんは台所へ行く。この時間ともあって、今日私たちは鷲匠さん宅で夕飯もいただくことになっていた。

「今日はゆっくりできるんだろうな」
「もちろんです。この前はバタバタしててすみませんでした」

 さっそく父と鍛治さんが話し始める。
 あまりおじいちゃんの家というものに馴染みのない私にとって、鷲匠さんのお宅はまさにそれだった。初めてお邪魔したときも思ったが、この家に来るとやたら心が落ち着く。

「千早ちゃんは、学校はどうだ?」
「楽しいです! 馴染めるか不安でしたけど、友達もできました!」
「そうか、ならよかった」

 私の祖父も、こんな感じだったのだろうか。母方の祖父は、まさに厳格な頑固親父だったとは聞いていたが、ロクに会った記憶がないのでピンと来ない。

「え? 秋恵のお墓参りに行ってくれたんですか?」
「当たり前だ。場所だけ聞いていたからな。この前妻と行ってきた」
「ありがとうございます……きっと秋恵も喜んでいます」

 鷲匠さん夫妻は、母のお墓参りに行ってくれたらしい。母もきっと喜んでいるだろう。私も、すごくうれしいと思った。

「さあどうぞ。今日はカレーを作ったの」
「カレー!?」

 話し込んでいると、奥さんがカレーを持って居間に入ってきた。目の前に置かれたカレーからは、腹の音を誘い出す香ばしい匂いが漂ってくる。

「将吾君に千早ちゃんの好きなもの聞いたら、なんでも好きって言ってたから、なに作るか迷っちゃってねえ。カレーなら大丈夫かと思って作ったの」
「カレー大好きです! いただきます!」

 なんてタイムリーなのだろう。ポークカレーのアレンジに悩んでいるときに、他所のお宅でカレーを出されるとは。
 使用するカレールーの違いなのか、家によって微妙に味が違ったりするから、なにかしら参考にさせてもらおうとカレーをいただく。

「――ッ! おいしい!」
「あら、そう? よかったわあ」

 奥さんのカレーは、今まで食べてきた中で一番おいしかった。甘すぎず辛すぎず、コクがあって何杯でも食べられそう。完璧に私好みの味だ。

「なんのカレールー使ってますか!? 隠し味とかは!?」
「うちではダーモントのルーを使ってるわね。あと、今日のはお味噌を入れてるのよ」
「味噌!? 試したことないです!」
「わりと定番なのよ」
「なんの味噌ですか!?」
「八丁味噌よ。たまにあわせ味噌も使うわ。いつもは仙台味噌を使うのだけれど、今日はちょうど切らしちゃっててね。お味噌によって味が変わってくるから、色々試すと楽しいわよ」
「味噌……! ありがとうございます!」

 思わぬところでアイデアを得た。カレーの隠し味にリンゴやはちみつ、チョコレートなどはよく聞くが、味噌が使えるとは知らなかった。

「お父さん! 明日の買い物で味噌も色々買ってきて! ダーモントはうちも使ってるからまだストックあったと思うけど、足りなさそうだったら追加で!」
「も、もしかして、しばらくカレー作り続ける気か?」
「もちろん!!」
「ま、まじか……」

 父はカレー続きの食事を想像し、顔を伏せてげんなりした。
 仕事柄、家に引きこもることが多い父は、夕飯の残りものや、賞味期限の近い食材などを普段から主に消費している。カレーは一度作れば大漢食でもないかぎり、だいたい次の日の朝まで残るので、カレーを消費するのも父の役割となる。
 父には申し訳ないが、影山家を迎える日まで辛抱してもらいたい。私は人に食事を出すなら、納得のいく出来にしたいのだ。

「あら、カレーでなにかあるの?」
「今度お客さんをうちに呼ぶ予定があるんです。そのときポークカレーを作るので、せっかくならおいしいカレーが作りたいと思って、良いアレンジがないかずっと探してました」
「まあ! いいわね、楽しそう」

 奥さんが朗らかに笑う。この人といると、気持ちがポカポカして安らぎを感じる。

「千早ちゃんがいると、孫が来たみたいで楽しいわねえ」
「私も楽しいです! おじいちゃんとおばあちゃんに構ってもらってるみたいで!」
「あら……うれしいわ」

 一瞬だけ間があった。父と昔からの知り合いということは、うちの事情を知っていてもおかしくはないことに気付く。

「まだまだカレーあるから、たくさん食べてね」
「はい、ありがとうございます」

 その後、奥さんに言われるがままカレーをおかわりし続け、なんだかんだ三杯くらい平らげてしまった。

「片付け手伝います」
「お客さんなんだから座ってていいのに」
「ごちそうになりましたし、父もなにか話したそうなので、手伝わせていただけませんか?」
「それなら……お願いしちゃおうかしら」
「はい、ぜひ」

 食事の最中、父と鍛治さんの様子を見て、どうやら積もる話がありそうだと察した私は、進んで片付けの手伝いを申し出た。
 台所で奥さんが洗ったあとの食器を拭いていると、居間から声が途切れ途切れに聞こえてくる。

「あれから――……会って――のか?」
「一応、結婚と娘が――はしましたが、連絡は――ません。今は連絡すら――……」

 詳細は耳に入らないが、おそらくは先ほどの流れからうちの事情の話をしているのだろう。やはり席を立って正解だった。私がその場にいては、父も話しづらいと思うから。

「千早ちゃんは働き者ね」
「いえ、私なんてまだまだ。父のほうがよっぽど働き者です。宮城に引っ越してからも、ずっと働き詰めですから」
「謙遜しなくてもいいのよ。その人になにができるかなんて、人それぞれなんだから」

 優しさとあたたかさに包まれた声で、奥さんは私を慰める。おばあちゃんって、皆こんな感じなのだろうか。

「……お父さんから聞いていると思いますが、私、自分のおじいちゃんとおばあちゃんに、まともに会ったことないんです」

 ぼそりと切り出した私の声は、水道から流れる水の音にかき消されそうになるが、隣にいる奥さんには聞こえているようだ。静かに私の話に耳を傾けてくれている。

「母方のほうは、私が小さい頃にふたりとも病気で立て続けに亡くなりました。父方のほうは……昔から反りが合わないらしくて、いまだに顔すら見たことないんです」

 なんで急にこんな話をしてしまったのか、自分でもわからない。
 奥さんの柔らかい雰囲気に触発されたのか、父と鍛治さんの会話に影響されたのか、この落ち着きのある家にいて気が緩んだのか、あるいはそれ以外か――わからない。
 しかし、一度口にしてしまったら、止まらなくなった。

「だから、おふたりと過ごす時間が楽しいです。良ければ、また父とお邪魔してもいいですか?」

 精一杯の感謝の気持ちを声に乗せて、また会いたいと伝えた。

「もちろんよ。主人は日中あまりいないけど、私が家にいるから、いつでも来たいときにおいで」
「ありがとう……ございます」

 奥さんは私の目を見つめて、柔らかく笑いかけた。この笑顔を向けられるたび、私の心にあたたかいものが流れてくる。

「あ、そうだわ。千早ちゃんが良かったら、私のこと"おばあちゃん"って呼んで」
「えっ? いいんですか?」
「うちの孫も大きくなったから、最近うちに遊びに来る機会がめっきり減っちゃってね、寂しいのよ。千早ちゃんがおばあちゃんって呼んでくれたら、うれしいわ」

 奥さんは私に「ふふっ」と笑いかける。心惹かれる素敵な提案に驚き、私は一瞬だけ声が詰まった。
 胸の高鳴りを感じながら、恐る恐るその言葉を口にする。

「……おばあちゃん」
「あらあ! やっぱりいいわねえ! それと、敬語も使わなくていいから! 気軽に話してちょうだい!」

 花が咲いたように奥さんがはしゃぐ。私は初めてのおばあちゃん呼びに照れ臭くなり、つい目を逸らしてしまった。今、顔が赤くなっているとわかる。

「片付けも終わったし、向こうも話が終わったようだから居間に戻りましょ」
「は、はい」
「敬語!」
「あ……う、うん」

 慣れない感覚だ。うれしいのは間違いないが、気恥ずかしい思いもある。
 が――私にも祖母ができたようで、心がポカポカして不思議だった。

「お、戻ったか。片付けありがとうな、千早」
「うん……」
「ねえ、あなた! 聞いてちょうだい! 千早ちゃんが私のこと"おばあちゃん"って呼んでくれたのよ!」
「……そうか」

 キャッキャウフフとはしゃぐ奥さんに対し、鍛治さんは落ち着いている。父には敵わなくとも、他人の感情の機微にはそれほど疎くないと自負しているが、鍛治さんのことはあまり読めない。

「千早ちゃん。主人のことも"おじいちゃん"って呼んであげて」
「え!?」

 奥さんからの唐突な提案に驚き、声が上擦る。
 そろりと鍛治さんに視線を向けると、奥さんの提案に対してなにも言わずにじっとしていて、それが逆に"おじいちゃん"呼びを待っているようにも見えた。

「ほら!」
「あ、あの……えっと……」

 奥さんに急かされるが、緊張してしまって上手く言葉が出てこない。
 しかし、この場にいる全員が私の言葉を静かに待っていて、恥ずかしくとも言わなければならない状況となっていた。

「――お、おじいちゃん……」

 意を決して"おじいちゃん"と口にする。
 奥さんは「わあ!」と喜び、父もニコニコと笑っているが、鍛治さんは変わらず落ち着いた様子でいて、やっぱり他所の若造におじいちゃんと呼ばれるのは嫌だったのではないかと不安になる。

「……飴があるから、持って帰りなさい」

 鍛治さんがようやく口に出した言葉は、予想外のものだった。
 へ? と素っ頓狂な声が漏れて、別の意味で恥ずかしくなっていると、ゆっくり立ち上がった鍛治さんが棚の上にある菓子器に手を伸ばし、中から黒あめを取り出して外装ごと私に渡してきた。

「あ、ありがとう、ございます……?」
「千早ちゃん、敬語」
「えっ……? あ……ありがとう……」

 奥さんにピシャリと指摘され、敬語を外してお礼を言い直す。やっぱり鍛治さんは落ち着いており感情がいまいち読めないが、どこか満足げにも見えた。

「千早、そろそろお暇しようか」
「あ……もうこんな時間か」

 楽しい時間は、いつもすぐ終わりを迎える。
 まだここにいたい気持ちはあるが、そうするわけにもいかない。

「好きなお菓子を言いなさい」
「え? えっと……黒あめ好きだよ」
「他には?」
「お、お煎餅とか、茎わかめを最近食べるかな」
「そうか、用意しておく」
「あ、ありがとう……」

 鍛治さんなりの歓迎だろうか。
 本当に孫を相手にしているような対応だ。

「またね、千早ちゃん。いつでもおいでね」
「ありがとう。……お、おばあちゃん」
「まあ! ふふっ」
「お……おじいちゃんも、ありがとう。またね」
「ああ、またいつでも来なさい」

 玄関先で見送ってくれるふたりに、私は照れながら手を振って鷲匠さん宅を後にした。

 帰路に着いて、父と前後に並んで自転車をこぐ。
 心地よい風に煽られ、体は涼やかだが、胸のあたりはまだポカポカしていた。

「お父さん! 私、おじいちゃんとおばあちゃんができたよ!」

 前後に並ぶと声が届きづらいので少し声を張る。ただし、夜なので近所迷惑にならない程度に。

「そうだな! お父さんもうれしいよ!」

 父も、少し声を張って返事をした。

 帰り道の私たちは、会話がいつもより少なく、ただひたすらに自転車をこいでいた。
 私は相棒の自転車――もとい"ジス子"をこいで、晴れやかな気分でその日は帰宅した。







「飛雄。私は今、新作のカレーを試している最中なの」
「な、なに!?」
「楽しみにしててね」
「ああ!!」

 鷲匠さんの家にお邪魔してから三日が経った。
 あれから私は、父が買ってきた様々な味噌を隠し味としたカレーを作り続け、研究を進めていた。
 父といえば、毎食カレー三昧ざんまいで、そろそろうんざりしていそうだった。父には申し訳ないが、一度やる気スイッチをオンにした私は止まらない。

「カレーどのくらい食べられそう?」
「いっぱい!!」
「いっぱいって、どのくらいよ」
「いっぱいはいっぱいだ!!」
「……とりあえず、大きい鍋で作るからね」
「おう!!」

 今日も朝の登校中に飛雄と会話を進めるが、いまだ飛雄との会話はコツを掴めない。
 最初の頃に比べて口数が多くなっただけ良しとしているが、やはり会話とはなにかを少し教えてやるべきだろうか。
 ……いや、教えても無理がありそうだ。見守ると決めたのだから、このまま続行するとしよう。

「んじゃ、またね」
「またな」

 いつもの時間に、いつもどおり校門前で別れる。
 飛雄と朝の登校を一緒にするようになって数日も経てば、この流れもスムーズになっていた。

 教室に向かおうとして歩いていると――、

「あれ? 桂ちゃんじゃん」

 先日、西野先輩を手伝った際に知り合った――及川先輩と遭遇した。

「あ……おはようございます」
「おはよ」

 あの日から、及川先輩に会うのは少々気まずかった。
 私がなにかやらかしていた場合、次から気をつければいいと思ったが、そもそもなにをやらかしたのかわからないのだから、対策のしようもなかった。
 なにに注意を払えばいいのか知らないから、対峙しても手の打ちようがない。

「奇遇だねえ」
「そうですね……及川先輩は朝練じゃないんですか?」
「昨日、教室に忘れ物しちゃってさ、取りに行ってたんだよ。朝練にはこれから行く」
「そうだったんですか」

 爽やかな雰囲気はあいかわらずだ。あのときに見せた含みのある視線も送ってこない。
 先日のことがなければ、普通に気のいい先輩としか思わなかっただろう。

「それじゃあ、朝練がんばってくださいね」

 いつあの怖い目を向けられるのかとヒヤヒヤして、きまりの悪さに耐えられず、半ば無理に話を切り上げようとした。
 すると――、

「桂ちゃんさあ、飛雄と幼なじみなんだよね?」

 声をかけられて振り向けば、及川先輩はあのときと同じ、暗い感情を宿した目で私を見据えていた。
 その目にぞわりと寒気がして、喉がヒュッと鳴る。
 表情は笑っているのに、私に対する好感はみじんも伝わってこなかった。

「飛雄って、昔からああなの?」
「ああ、とは……?」
「"天才てんさい"だったのかってこと」
「天才……と言えば、そうかもしれません。良くも悪くも、バレーのことしか考えていないようなヤツでした」
「そうなんだ、へぇ」

 突然、飛雄の名前が出てきて驚く。
 及川先輩はいったいなにが知りたいのだろうか。飛雄に興味がありそうだが、決して良い感情ではないことはわかる。

「あの……もう行ってもいいですか?」
「待って、もうひとつだけいい?」
「は、はい、なんでしょう?」
「桂ちゃんもバレーやってたんでしょ? なんでやめたの?」

 なんでそれを知っている――とは言いにくい空気だった。
 担任の先生や友達にはすでに話しているし、飛雄も知っているから、おそらくどこかで情報が漏れたのかもしれない。
 情報源が気にならないと言えば嘘になるが、知られても特に問題ないので、及川先輩が情報を掴んでいる事実は別にいいとして――、

「私は、飛雄ほどバレーに一直線じゃなかったんだと思います」

 私は、素直にやめた理由を口にした。

「……どういうこと?」
「自分のためにバレーをやっていたと言えばそれも正解なんですけど、どちらかと言えば、他人のためにバレーをしていた、のほうが近いかもしれません」
「ますますわからないんだけど?」

 及川先輩には上手く伝わらないが、私にとってはこれがしっくりくる例えなのだ。

「お母さんが大のバレーファンだったんです。お母さんの影響で私もバレーを始めたんですけど、なんと言えばいいか……お母さんに喜ばれることだけがやりがいだったんです」
「"だった"?」
「その……ちょっと前まで私のお母さんは病気で、長らく入院していたんです」

 それを言うと、及川先輩は目を丸くして、私の話を急かさなくなった。

「東京の友達と、お母さんのおかげで、私はプレイヤーとしてバレーに関わるんじゃなくて、サポート側で関わるほうが好きだと気づいたんです。プレイヤーであることはやめましたけど、バレーは変わらず好きなので、高校生になったらマネージャーをやると決めて……それでやめました」

 まとまりはないが、話せる範囲で理由を話し尽くした。
 最後まで話を聞いた及川先輩は、数秒置いて、閉じていた口をゆっくり開いた。

「そうだったんだ。ごめんね、急に聞いちゃって」
「い、いえ……」
「ありがとね、話してくれて。もう行くよ」
「はい……朝練がんばってください」
「うん」

 及川先輩は、体育館のある方向へ去って行った。去り際の及川先輩の表情は、わずかに鋭さが無くなっていた気がする。
 気まずいのはあいかわらずで、結局なにを思ってあんな目を私に向けたのか理由はわからないが、正体不明な誤解が少しだけ解けたように思えた。

 こ……怖かったあ……!

 及川先輩が立ち去ると、止まっていた心臓が動き出したような感覚がして、バクバクと音が鳴り始める。
 ものすごく緊張していたのだろう。肩の力が抜けて、全身が脱力した。

 できれば、及川先輩とは、ほどほどの距離感でいたい……。

 飛雄となにかあるのは違いない。それがなにかはわからないが、飛雄と深い関係にある私もよく思われていなかった。
 今のやりとりで、なんとなくそれだけは察した。

 この先、及川先輩に会うときは、それなりの距離感を保とうと私は決意した。






 そして放課後、私は生物部の部室にやって来た。

「生物部に入部希望の桂千早です。よろしくお願いします」

 自己紹介を終えると、顧問の先生と部員たちから拍手が起こる。
 部員は私を合わせて四人だけと少ないが、小規模の部活と聞いたので、しかたないと言えばしかたないのかもしれない。
 私の自己紹介のあとは、顧問の先生に始まり、部員たちがひとりずつ挨拶をしていく。

「今日は仮入部ってことで、見学だけになるけど、桂さんは前向きに入部を考えてくれているそうだよ」

 顧問の先生がそう言うと、部員たちはワッと盛り上がった。

「うちは昆虫や爬虫類、あと両生類もいるから、苦手な人が多くて入部希望者が少ないんだよ。桂さんが来てくれてうれしい」
「私こそ生き物が好きなので、この学校に生物部があってうれしいです。これから生き物について色々教えてください」

 男子生徒の部長が大喜びで私を歓迎してくれる。
 これから始まる部活動に、私は今朝のことを忘れてワクワクしていた。

「ちなみにだけど……ゴキブリとか冷凍ネズミもいるんだよね。前もって聞いてると思うけど、念のためもう一度聞くよ。大丈夫?」
「トカゲとヘビのえさですよね? 平気です。本当になんでも好きなので」
「よかったあ! 爬虫類は好きでも、餌がダメって人も多いから心配だったんだ!」

 そういった話はよく聞く。生き物が好きでも、餌が生理的に受け付けなくて鑑賞専門になる人は多い。私が少数派だという自覚もある。

「さっそくだけど、うちの子たちを紹介するね」
「お願いします!」

 事前に聞いていたとおり、生物部には様々な爬虫類や両生類、昆虫が飼育されていた。
 ヒョウモントカゲモドキ、フトアゴヒゲトカゲ、ボールパイソン、コーンスネーク、ゼニガメ、ベニツノガエル、ニホンアマガエル、メダカ――そして、

「いくよ……!」
「はい!!」

 あるものを隠している布に部長が手をかけて、思いっきり取り払うと、餌となるデュビアやレッドローチが衣装ケースの中でひしめき合っていた。

「わあ! いっぱいいる! 家に出るやつ以外のゴキブリ初めて見ました!」
「これを見ても怖がらないなんて……逸材だ!」

 部長を始めとした部員たちが「おお!」と歓声を上げる。

「あの、マダゴキとかはいないんですか?」
「マダゴキも知ってるの!?」
「はい。ヨロイモグラゴキブリとかも、実は興味あります」
「そこまで知ってるなんて! 俺らも興味はあるけど、部員が少ないからお世話が大変で、かわいそうだからこれ以上は増やさないようにしているんだ」
「そうなんですね……それなら、しかたないですね」

 少々残念ではあるが、家では滅多に買えない生き物と触れ合えるだけでも十分だ。
 その後は少しだけ生き物たちと触れ合わせてもらい、めいいっぱい可愛がった。

「うちの子たちの紹介もしたし、詳しい部活動の説明をするね」
「はい!」

 部長から直々に部活動の説明が始まる。
 大まかな内容としては、週一でメインの活動日があり、部員たちが集まって生き物の観察と記録などを行う。それ以外の日は、朝と放課後にやって来て、飼育する生き物たちのお世話をするとのこと。そして、やはり土日も通うことになる。しかし、生き物のお世話は当番制なので、毎日欠かさず来るわけではないようだ。あらかじめ先生から説明は受けていたが、規模の小さい部活なので、本格的な研究などはしないらしい。
 部活動の説明を終えると、今日の仮入部は終了となる。

「明日から朝早いけど、来れそう?」
「転校してから毎朝早く来てるので、大丈夫です」
「ならよかった。明日からよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願いします」

 こうして、私はこの日の部活動を終えた。
 今までと打って変わった真新しい活動の始まりに、ドキドキが止まらなかった。

 部活も終えて、帰宅しようと校舎を出ると、運動部らしき生徒たちが校門前にまばらに集まっていた。見た感じ、これからロードワークが始まるようだ。

 ん? あれってもしかして。

 その運動部たちの中に、やる気満々でアップしている見知った顔がいた。

「ん? 千早じゃねえか」

 そこにいたのは飛雄だ。
 飛雄は私を見つけると、声をかけて寄ってきた。

「これから帰るのか?」
「そうだよ。飛雄はロードワーク?」
「おう」
「そっか、がんばれよ」
「おう」
「私は帰ったら、またカレーの研究するから」
「――ッ! おう!!!」

 カレーの単語に反応した飛雄の、力いっぱいの返事が響き渡り、他のバレー部員たちが一斉にこちらに目を向けてきた。
 ……恥ずかしいからやめてほしい。

「ん? なんかお前クサくね? またカメムシか?」
「はあ!? クサいとか言うな! 失礼なヤツだな!」

 平気でひどいことを言い放つ飛雄に驚いて、私まで大きな声が出る。
 手は洗ったし、自分では臭わないと思っていたが、飛雄の鼻が効くのだろうか。

「部活始まったんだよ! 生物部! さっき仮入部で行ってきたの!」
「ああ。そういや、そんなこと言ってたな」
「まーた"そんなこと"って言う! さっきちょっとだけ生き物と触れ合わせてもらったから、たぶんそのニオイだよ!」

 クサいと言われたことに腹を立てて、つい飛雄を怒鳴りつけたが、当の本人はどこ吹く風だ。

「なに触ってきたんだ?」
「カエルとか、ヘビとか、色々。あとゴキブリもいた」
「ゴッ……!?」

 ゴキブリに驚いた飛雄は、信じらんねえコイツと言いいそうな引いた目で私を見てきた。

「あれ? 飛雄ってゴキブリだめだっけ?」
「べつに好きでもねえよ」
「それが普通だよね」
「家に出るようなやつがいんのか?」
「違うよ。ゴキブリにも餌用の種類がいるの。それを飼育して、トカゲとかにあげるの」
「そ……そんなのがいるのか」

 初めは生物部のことを忘れていた飛雄だが、あまりにも未知の世界だったからなのか、興味を示し始めた。

「今度、見学に来る? 顧問の先生と部長に聞いてみてからだけど」
「行く」
「わかった。聞いてみる」

 顧問の先生含め、生き物好きなメンバーが揃った部活だ。生き物に興味があると知れば、もしかしたらオッケーが出るかもしれない。

「影山、全員集まったから行くぞ」

 飛雄と話していると、金田一君が声をかけてきた。

「行ってくる」
「いってらっしゃい」

 飛雄と、私にぺこりと一礼した金田一君に手を振って、ロードワークに行くのを見送った。

「あ、千早! カレー作る前に手洗えよ!」
「洗うに決まってるわ!!」

 ふざけたことを抜かす飛雄にキレると――ほんの一瞬、及川先輩と視線がかち合う。
 やはり含みのある顔でこちらを見てくる及川先輩に、私は引きつる口元をなんとかごまかして浅く一礼した。

 心臓に悪いって……。

 今朝の一件で、及川先輩にはすっかり苦手意識が芽生えてしまった。
 お昼休み、友達に及川先輩についてそれとなく聞いてみたが、すごくモテる人と言っていた。言われてみれば確かに、女子に人気そうな人ではある。私の好みが格闘家のヘビー級世界チャンピオンであるため、あまり気にしたことはなかったが。
 ちなみに、及川先輩が気になるのかと友達にからかわれたが、私好みの選手を教えたらすぐに興味を失っていた。

 帰宅して、いつもより念入りに手を洗い、愛用のエプロンを身につけて、今日もカレーの研究に意気込む。

「千早……俺、そろそろ他のご飯食べたい……」

 ここ三日間ずっとカレー続きだった父が、げんなりして私に申し出てきた。

「今日で終わるよ。味比べも大体終わったから、あとはどの味噌を使うか決めるだけ」
「良かったあ……!」
「でも、消費しなきゃいけないカレーはまだまだ冷蔵庫にあるからね」
「…………」
「ふたりでがんばって食べようね」

 なんとか味変しつつ日頃からカレーを消費しているが、作り置きのカレーはまだ残っている。
 私も飽きてきた頃だが、作ったからには捨てられないので食べるしかない。

『また千早が変な方向にがんばってる……』

 夜、寝る前のこと。
 夕飯を食べ終えてお風呂に入ったあと、今日は研磨と電話をしていた。

「お世話になってる人たちを迎えるんだから、おいしいものを出さなきゃ!」
『普通のカレールーでいいじゃん』
「そんな! 確かに今の時代の企業努力はすごいけど、やるからには全力でやりたいじゃん!」
『…………ところで、前に教えたゲームはやった?』
「あ! 話そらした!」

 めんどくさくなった研磨は、カレーの話題を避けようとゲームの話題に無理矢理切り替えてきた。

「ゲームはまだやってないんだ。買いはした。もう少し落ち着いたらやる」
『忙しいの?』
「前よりはマシだけど、まあ忙しいかな」
『そっか。でも、声は元気そうだし、大丈夫だね』
「大丈夫だよ。毎日楽しい」
『生物部に入ったんだっけ?』
「そうなの! 明日から本格的に始まるの!」
『文芸部に入るとばかり思ってた』
「考えなかったわけじゃないけど、幽霊部員が多いって聞いたからやめた」
『ゴキブリ飼ってるとか、信じらんない……』
「餌だから、しかたないよ」

 やはりゴギブリはドン引きされる。
 承知の上だが、ゴキブリまで平気ともなれば、むしろ私が変態的なのだと思う。

「他にもいないかなーって思ったけど、部員の数が少ないからこれ以上は増やせないんだって」
『へえ、生き物飼うって大変だね』
「大変だと思うよ。生き物のお世話に休みはないから」

 以前となにも変わらない気だるげな声色が、やたら落ち着く。実家のような安心感とはこのことか。

『人のお世話といい、生き物のお世話といい……世話好きも極まれば、もはや趣味だね』
「趣味って……」
『まあ、がんばって。無理しすぎない程度に』
「うん、がんばる」
『それじゃあね』
「ばいばーい」

 ブツリと電話を切って、アラームの設定を確認してから携帯を枕元に置く。
 あぐらをかいていた布団にもぐり込み、明日の部活動のことを考えながら目を閉じた。

 ふと――及川先輩のことを思い出す。
 飛雄はバレー部で先輩と喧嘩でもしたのか、それとも単に気が合わないだけなのか、事実は知らない。が、仮に気が合わない人だったとしても、飛雄が一定の距離感を上手く作れるとは思えない。
 言っては悪いが、飛雄はコミュニケーションが下手だ。良くも悪くも、バレーのことしか考えていないのだから。

 …………寝よ。

 考えても答えが出ないときは寝るにかぎる。
 夜は余計なことまでゴチャゴチャ考えがちだから、明日の朝になって覚えていたらまた考えよう。

 今度こそ、私は深く眠りについた。