馬鹿と天才はなんとやら
梅雨に入り、衣替えの季節となった。
天敵である湿気が一年の中でも一番多く、私の癖っ毛を襲う。
「毎年この時期になると髪整えるのが大変でさー。飛雄は直毛でいいなあ」
「ちょくもう?」
「生まれつき髪の毛が真っ直ぐだってこと」
「髪の毛にも色々あんだな」
この時期は飛雄の髪質を羨ましく思う。
まだ髪が伸びきってないショートヘアを毎朝整えるのに、かなり時間を食ってしまう。
昔からずっとショートヘアだったので、ロングヘアに密かな憧れを持っていた。伸びるのが楽しみではあるが、今の中途半端な長さを維持するのは結構めんどくさい。
「知ってる? 食べるものによって髪の毛って伸びやすくなるんだって」
「へぇ」
「和食中心の食事がいいらしいよ」
「俺はカレーが食いてえ」
「はいはい」
半袖のジャージを身にまとい、夏スタイルになった飛雄と、今日も朝の登校を共にする。
転校してから一ヶ月以上が経ち、飛雄との会話に困っていた最初の頃がすでに懐かしく感じる。飛雄と共にする朝の登校も、今ではルーティンの一部となった。
「んじゃ、今日も朝練がんばって」
「おう」
校門前で飛雄と別れ、私は生物部の部室へ向かう。
朝は必然的にバレー部の面々と顔を合わせる機会も多く、すっかりバレー部の有名人となった私と顔見知りになったメンバーも増えた。
バレー部の先輩や後輩と軽く挨拶を交わす程度の仲になり、私のやらかしを思えば複雑な心境もあるが、知り合いが増えるのは普通にうれしかった。
「今日も元気でいいですねぇ、ジョン」
ジョンこと、ヒョウモントカゲモドキに餌をやり、生き物との触れ合いに癒される。
部活動のある日は、私の至福の時間でもあった。
同級生を背負い投げした問題の日から、なんだかんだ私は田口君と連絡先を交換して仲良くしている。
美桜ちゃんとの交流も続き、たまに三人で出くわすと昼ドラの展開が発生し、今では妙な三角関係が出来上がってしまった。
それでも、ふたりと過ごす時間を楽しんでいる。
不慣れな学校生活も今では心身共に馴染み、転校したばかりの頃のような疲れはもう感じない。楽しい日々が続き、今のところ順風満帆と言える。
ただひとつを除いては――だが。
「あ、及川先輩……こんにちは」
「やあ、桂ちゃん」
昼休み、生物部の顧問の先生に用事があり、私は職員室を訪ねていた。用事が終わって職員室を出た先には、いまだ苦手意識を持っている及川先輩がいた。
及川先輩とは会うと簡単に挨拶を交わす仲だが、その先の会話が続いた試しがない。今も、このまま去っていいかどうかもわからず、ただギクシャクした態度を取っていた。
「職員室でなにしてたの?」
「ぶ、部活の顧問の先生に用があって、出向いていました」
「ふーん」
ほら、会話が続かない。いつもこうだ。
及川先輩にも私の苦手意識がバレているのか、向こうも毎度言葉を選んで話すそぶりを見せている。及川先輩にも気を遣わせてしまうのが申し訳なくて、なおさらすんなり言葉が出てこないのだ。
「で、では失礼します」
変な空気に耐えられず、私はこの場を去る選択を取った。
背中に刺さる視線に痛みを感じて、心苦しくなる。今度こそ及川先輩とも普通に話したいと、意気込みを新たにして教室へと戻った。
そして放課後、私は生き物たちのお世話を終えて帰宅しようと昇降口を出た。
外に出ると、なぜかバレー部の面々がスポーツバッグを携え、校門前のあちこちにたまっていた。
「お、千早」
声をかけてきたのは飛雄だ。
ロードワークに行く雰囲気でもなく、これから自主練をする様子もない飛雄に疑問が生じる。
「飛雄? 部活はどうしたの?」
「明日、体育館の点検があって、これから業者が準備に入るんだとよ。たまには体を休めろって言われた」
「つまり、今日はもう帰るの?」
「おう」
珍しいことだ。バレー馬鹿の飛雄なら、部活が休みでも自主練をすると思った。バレーのためになるなら、休むことも素直に受け入れるのだろうか。
「自主練しようとしたら、岩泉さんに怒られた……」
「ああ、なるほど」
やはり先生の言いつけを破って自主練しようとしていたようだ。それを岩泉先輩に叱られたと。なんとも飛雄らしい。
「じゃあ、一緒に帰る?」
「おう」
朝は飛雄と登校を共にするのが日課だが、帰りはそれぞれの部活もあって一緒に帰ることはない。
むしろ初めてかもしれない機会に、イベント気分で少しテンションが上がった。
「あ、桂ちゃんだ」
突然、苦手な声に名前を呼ばれて肩がはね上がる。
できれば向けたくない視線を、恐る恐る声のした方向に向けると、
「桂ちゃんもこれから帰り?」
「は、はい、そうです」
予想どおり、そこにいたのは及川先輩だった。
「今日は……よく会いますね」
「だね。俺いま、岩ちゃん待ってるんだ。暇つぶしに俺ともおしゃべりしてよ」
「エ"ッ!?」
岩ちゃんとは、岩泉先輩のことだろうか。
暇つぶしと言われても、私で相手になれるのかいささか疑問を感じる。
「え、ええっと……今日は、いい天気ですね」
「なに言ってんだ。ずっと曇りだっただろ」
「飛雄! しっ!」
余計な口をはさむ飛雄を黙らせる。
「明日はちょっと天気がいいらしいよ」
「そうなんですね……」
気を遣わせてしまった。
まさか天気の話題を広げられるとは。
「桂ちゃんは夏は好き?」
「夏は……嫌いじゃないですけど、得意ではないかもです」
「暑いの苦手とか?」
「できれば暑くないほうがいいですけど……」
「けど?」
「その……」
夏が嫌いなわけじゃない。夏特有の雰囲気や、お祭り、夏服、食べ物、虫など、楽しみは多い。
が――、
「……暑いと、ちょっと嫌なこと思い出すんです。なので、心から好きとは……言いづらいです」
言い淀み、下を向く。
口に出して、言葉選びをミスったかと心配になる。この言いっぷりでは逆にもっと気を遣わせるかと思ったが、及川先輩はなにも追求してこなかった。
「なにが嫌なんだ?」
飛雄は気にせず追求してきた。
ある意味ハートの強い飛雄の投げかけに、言葉が詰まる。
「え、えっとね、その……あとでね」
及川先輩もいる手前、この場で理由を言い出すのは気が引けた。
あとで話すと伝えれば、飛雄もそれ以上は追求してこなかった。
「せ、先輩は、夏はお好きですか?」
話を逸らすように、及川先輩に話を振った。
「夏は好きだけど、暑いと部活がキツいんだよね」
「この時期の部活は大変ですよね」
「まあね。でも、なまける気はないよ」
そう言い切った及川先輩は、ひたすらに真剣な顔つきだった。
「熱中症には気をつけて、がんばってくださいね」
「ありがと。がんばるよ」
次の瞬間には、いつもの掴みどころのない雰囲気に戻っていた。
でも――なぜだか、さっきから引っかかる。
「あ、そうだ。千早、今日家に行ってもいいか?」
「え? どうして?」
「新しいDVD借りたい」
「ああ、わかった。いいよ」
正体のつかめない違和感に釈然としないでいると、飛雄が思い出したかのように話を変えた。
「観たいのあったんだ。セッターがすげえやつ。一回生でテレビで観た。あの試合、千早んちにもあった気がする。参考にしたい」
「どれかはわかんないけど、好きに持って行きな」
飛雄と会話を続け、ふと及川先輩の様子を確認した。
私と飛雄のふたりだけしかわからないDVDの会話を続けても、及川先輩を弾いているように思えたからだ。
「…………」
――見たくないものを見てしまった。
久々に見る、含みのある暗くて怖い表情。
なぜ今なのか。なにが及川先輩の琴線に触れたのか。理由はわからないが、確かなのは、及川先輩は今、不機嫌になっているということだ。
「及川」
私が及川先輩を苦手になった原因を目の当たりにし、怖々としていると、後ろから岩泉先輩がやって来た。
「あ、岩ちゃん」
「待たせたな。帰んぞ」
岩泉先輩を前にした及川先輩は、一瞬で表情を切り替え、いつもの調子に戻った。
「岩ちゃんも来たし、俺たちは帰るよ。話に付き合ってくれてありがと。じゃあね」
及川先輩は手を振り、岩泉先輩と去っていく。私と飛雄は、去っていくふたりの先輩に頭を下げ、見送った。
「私らも帰ろっか」
「そうだな」
朝と違い、新鮮な気持ちになって帰路に着く。
でも、会話の内容は、朝と似たり寄ったりな雑談ばかりだった。
あ……なんか変な感じした理由、わかったかも。
飛雄と会話するうちに、先ほどの違和感の正体をつかむ。
及川先輩と交わした会話の中に潜んでいた違和感――及川先輩は、三人で会話しているように見えなかったのだ。
気を遣い合ってはいたが、特筆して変わったことなどない会話だった。私も、おそらく飛雄も、三人で会話しているつもりだった。しかし、思い返せば、及川先輩だけは私とふたりで会話しているように見えたのだ。
さりげなく、周りから見ればだれもわからないような、私がご飯を作るときに隠し味を加えるレベルの、小さな違和感。
及川先輩は――飛雄を避けている。
なぜなのか。それはわからない。
思えば、及川先輩と初めて会ったときも、私が飛雄の幼なじみだとわかった途端に怖い顔を向けてきた。
部活で、飛雄となにかあったのだろうか。飛雄はいつもと変わらない様子だし、及川先輩の凄さをたびたび語っているので、飛雄自身にはなにもないのかもしれない。
なにかあるとすれば、及川先輩のほうだろう。
「千早?」
「え? あーごめん! ぼーっとしてた」
及川先輩と飛雄の関係が気になるが、部外者の私が首を突っ込んでいい問題ではない気がする。
一旦、及川先輩のことは置いといて、私は話題を変えた。
「……飛雄、さっきの話だけど」
「さっき?」
「夏は嫌なこと思い出すって話」
「ああ、それか」
言い出しにくいが、話すと私から申し出た以上、簡単にでも話さなければなるまい。ここでごまかすこともできるが、飛雄が妙なタイミングで思い出して、また人のいる場で聞かれても困る。
先のことを考え、秤にかけて、ちゃんと話すことに決めた。
「暑いと、嫌なこと思い出すって言ったでしょ」
「ああ……」
一拍置いて、深く息を吸う。
飛雄が相手とはいえ、これを話すのはかなり勇気がいる。
意を決して、私は口をゆっくり開いた。
「なんでかって――お母さんのこと思い出すからなの」
飛雄は目を丸くして、言葉を発さずに、歩みだけは止めなかった。
「火葬したあとの暑さが忘れられないの」
蒸し暑くなってきた今の季節と、母の火葬後の熱気が、自分の中で重なっている。
暑さに身を包まれると、火葬の重苦しい空気と、胸に泥が溜まったような息のしづらさを思い出すのだ。
「だから、夏は好きだけど、あまり好きじゃない」
この複雑な感情を、どう言い表せばいいかわからなくて、言葉遊びのような伝え方になる。
「ごめんね、急にこんな話。できれば、他の人には話さないでくれると助かる」
「……わかった」
重い話をされて、胸の内に秘めなければならないなんて、飛雄でなくとも苦だろう。やはり話すべきではなかったと後悔が押し寄せる。
「……暑いのが嫌なら、涼しくなればいい」
「え?」
飛雄が突然、意味不明なことを言い出す。
「暑いときは水をかぶればいい。うちわで
扇げば、いくらかマシになる。あ、下敷きでいいか。あと水分も摂れよ」
誰でもわかるような暑さ対策を、飛雄がつらつらと語る。
一瞬なんの話かわからなくてポカンとしてしまったが、すぐに意図を察した。これはおそらく、飛雄なりの慰めだ。
「飛雄、ありがとう」
「…………」
飛雄はそれから、なにも話さなかった。
私も話さなくなって、ただぼんやり帰り道を歩いた。
飛雄が話さなくなって、気まずい思いをさせてしまったかと心配したが、様子を見るかぎりそうではないっぽい。
会話がなくとも、居心地の悪さもなく、穏やかに時間は過ぎていった。
それから飛雄を自宅に招いて、約束どおりDVDを選ばせた。
たくさんの試合のDVDコレクションを前にすると、飛雄はいつも目を輝かせている。今日も、どのDVDを持って行こうか楽しげに悩んでいた。
「お! 増えてる! これ新しいやつか!」
「そ。私も試合観てるし、ついでに増やしていこうかなって」
「これ貸してくれ!」
「どうぞどうぞ」
5枚ほどDVDを手にした飛雄に紙袋を渡して、これに入れるよう伝える。
うれしそうに、いそいそと紙袋の中にDVDをしまい込む飛雄がほほえましくて、ふっと笑ってしまう。
「DVDサンキューな」
「はーい。鑑賞楽しんでね」
「おう!」
エントランスまで飛雄を見送り、私は家に戻る。
「飛雄君、帰ったのかい?」
「帰ったよ」
「じゃあ、夕飯食べよう」
「うん」
父の作った夕飯を食べ、ゆっくりした時間が流れる。
夕飯を食べ終えたあとは、いつものルーティンでお風呂に入り、歯磨きをして、軽く勉強と父の仕事の手伝いをしてから布団を敷いた。
バレーをやめてから以前のようにトレーニングをすることは少なくなったが、寝る前のストレッチや筋トレの習慣は体に染み付いていて、今でも簡単なものだけは行っている。
ストレッチしていると気分がリラックスして、今日の出来事を冷静に振り返る。
私、完全に及川先輩のこと無理になったかも……。
ただイキってオラついているだけの人なら、べつになんとも思わない。いつも怒鳴ってばかりだったり、嫌味な人が相手でも、ここまで苦手には思わない。
及川先輩には"読めない"怖さがある。得体が知れないのだ。
対処法がわからないと焦って思考が止まるように、及川先輩にどう接したらいいかわからない。私が及川先輩を苦手だというのも、おそらくバレているはずなのに、向こうから話しかけてくるからなおさら困惑する。
もうすぐ夏休みに入り、及川先輩と顔を合わせる機会も必然的に減る。一時的なものだが、今すぐ解決することでもないので、ひとまずはそれを救いに及川先輩の問題は置いておくことにした。
今はそれよりも――。
長期休みに入る前の問題は、及川先輩のことだけではない。近い日に訪れる悩みの種に考えを切り替えると、頭を抱えたくなって、その日はしばらく寝付けなかった。
▼
「もうダメ……頭パンクする……」
「泣きごと言ってないで、とにかく公式覚えな。千早は理数系がダメダメなんだから、がんばらないと」
ある日の昼休み。私は苦手な数学の勉強に追われて、頭がショートしていた。
「文系は問題ないから理数系をとにかくやれ! 頭に詰め込め!」
「沙織! 私もう無理! 一回休ませて!」
「始めたばっかでしょ! 気合い入れろ!」
スパルタになった友達に尻を叩かれ、私は泣きそうになりながらペンを走らせている。
もうじき夏休みに入る頃、私は学生らしい壁にぶち当たっていた。そう――期末テストだ。
自力ではどうにもならない分野をなんとかしたくて、理数系が得意な友達に教えを乞うているが、苦手分野を相手にしてものの10分でギブアップした。
「セミがいっちょまえに鳴いてらあ……元気だなあ……」
「現実逃避するより問題解いて。テスト前で部活も休みだから、今日は放課後も勉強会するよ」
「うわあーーー!!!」
勉強道具を投げ出して、今すぐにでも教室を走り去りたい衝動に駆られる。勉強は学生の本分とはいえ、責任感だけでは乗り切れない問題だってこの世にはある。
「授業も真面目に聞いているし、普段から勉強もしているんでしょ? なんでできないの?」
「沙織のストレートな言葉がつらい! 普段からやってても苦手なことは苦手だし、できないことはできないの!」
「得意科目だけやる気出して、他はおざなりだからこうなるんでしょ。テストは目の前なんだから踏ん張れ」
「彩花だって社会が苦手なくせに!」
聞こえないフリをする彩花をにらんでも、現状はなにも変わらない。やらなければ、結果も出せないのだ。
「てか、千早の教科書おもしろすぎ。ラクガキだらけじゃん」
「この教科書読み込めば、嫌でも頭に入ってくるわ」
沙織と彩花が見ているのは私の教科書だ。国語、社会、英語、理解(生物)の教科書それぞれに、家で勉強した際の様々な落書きが所狭しと描き込まれている。
「見てよこれ! ムツケン風に描くの上手すぎ!」
「ご丁寧に替え歌まである!」
「真犯人は〜〜〜ちゃんちゃんちゃん、オ・レ!」
「「アッハハハハ!!」」
歴史の教科書の、本能寺の変について書かれたページを見せながら替え歌をノリノリで披露すれば、ふたりは大いに笑った。明智光秀が親指で自分を差し、ドヤ顔している落書きと自分の顔を並べて、おどけてみせる。
「って、笑ってる場合じゃない! 勉強!」
「うっ……」
この場をごまかせたと思ったが、そう上手く事は運ばなかった。沙織にせっつかれ、すぐに数学地獄に突き落とされる。
いつもなら昼休みなんてあっという間に終わるが、勉強している今は長い長い責苦の時間に思えた。
そして、大量の数字に頭を支配されながらようやく昼休みが終わり、午後の授業を経て放課後となる。放課後も勉強会が開かれるので、私の気分は底辺まで落ちていたが、友達の力を借りているのだから文句ばかりも言っていられない。
「部長に呼ばれてるから行ってくる。戻ったら勉強またがんばるから」
「いってらー」
生物部の部長に、放課後話があると言われており、私は三年の教室へと向かった。普段立ち入らない上級生のいる階に上がるだけで緊張するが、教室に入るときはなおさら緊張が走る。
部長のいる教室の前に立って中を見ると、わりと人が残っていて、三年生も私と同じように勉強していた。
受験生だし、私よりもっと勉強に力入ってるよね。
私も来年は勉強漬けの毎日を送ることになるのかと想像しただけで、すでに胃が痛くなりそうだった。
教室の入り口近くにいた先輩に声をかけ、部長を呼んでもらうと、すぐに部長はやって来た。手招きされて、部長の席らしき場所に案内され、私は隣の席の人の椅子を借りることになる。
椅子に座って向かい合わせになると、部長はさっそく本題に入った。
「勉強で忙しいだろうに、来てくれてありがとう。話はすぐ終わるから」
ちょうどいい息抜きなので、むしろ良かったです。とは言わなかった。ギリギリになって切羽詰まっているとバレるのは、面目ないから。
「ごめんね、三年の教室はちょっと居心地悪いでしょ? 今しか時間作れなかったから、悪いけど来てもらったんだ」
「だ、大丈夫です。話とはなんでしょうか?」
「来年のことなんだけど……」
部長は、来年の生物部について話し始めた。
今の生物部には部長含め、三年生がふたり在籍している。来年になると、残るのはわたし含め二年生の三人だけだ。三人だけで部活を存続していくのは厳しいとのこと。
「生き物のお世話のことも考えると、できればあとひとりかふたりは欲しいんだ。毎年、新入生が入ると勧誘してたけど、生き物なんでも平気って人が少なすぎるから、やっぱり厳しくてね……」
「ですね。難しいですよね」
「爬虫類がオッケーでも、餌がダメって人も多くって……だから、桂さんに力を貸してほしいんだ」
「私に……ですか?」
部長が言うには、生物部の中で私が一番コミュ力が高いから、勧誘に乗ってくれそうな人がいるのではないかと踏んだらしい。
「恥ずかしい話だけど、俺ら三年は話しかけるので精一杯で……今の二年生の子たちも自信ないって言ってたんだ」
「ですが、私もコミュ力に自信があるわけではないですよ?」
「そんなことないと思うよ。桂さんに積極的に話しかける人、たくさん見かけるよ」
部長の言うとおり、最近は美桜ちゃんや田口君以外にも、私に話しかけてくれる同級生や下級生が増えた。上級生に関してはまばらだが、以前たまたま出会った西野先輩にはわりと可愛がってもらっている。
「桂さんって、普段から色んな人の手助けしてるでしょ? それで知り合った人も多いって前に聞いたから、きっと来年は力になってくれそうだって思ったんだ」
「うー……ん。お役に立てるかはわかりませんが、私も生物部は続けていきたいので、勧誘がんばります! あの子たちの面倒を見てくれる人もほしいですから!」
あの子たちとは、言わずもがな生物部で飼育している生き物たちのことである。
「ありがとう! これで俺も安心して受験に臨めるよ!」
「来年全力を尽くせるよう、私もがんばります!」
グッと拳を握り、力いっぱいに返事をする。私の意気込みに感動した部長は「おお!」と声を上げ、表情を輝かせた。
「時間取らせてごめんね。戻っていいよ。勉強がんばってね」
「あ……勉強……はい、がんばります……」
意気込んだのは良いものの、勉強というワードを聞いて、一気に現実に引き戻された感覚がした。
しょんぼり肩を落とし、三年の教室を出る。
気を落としたまま階段を下りて自分の教室に戻ると、意外な人物が私の席に座っていた。
「と、飛雄!?」
なんと、飛雄が友達と向き合って、教科書とにらめっこしていた。
「あ、おかえりー。ほら影山君、千早来たよ、起きて」
「……お、やっと来たか」
「やっと来たか、じゃないよ! どうしたの!?」
状況を把握できない私に、彩花から説明が入る。
「影山君が千早に勉強教わりに来たんだって」
「私に!? 飛雄が!? そんな無茶な!」
「千早が来るまで私らで教えてたんだけど、5分でギブアップした」
「勉強苦手っては聞いてたけど、そこまでひどいとは聞いてない」
「うるせえ」
聞くと、飛雄は私が来るまで、白目を剥いてオーバーヒートしていたらしい。
「こんなにアホな子、初めて見たわ」
「全教科が壊滅的にダメって、なかなかいないよね。勉強できそうな顔してるのに」
「ふたりとも……お疲れ……」
私に勉強を教えるとき以上に疲れた顔をしているふたりを労えば、苦笑いして乾いた笑いを漏らした。
「飛雄、テストの点数低かったとしても部活はできるでしょ? なんで勉強やろうと思ったの?」
「顧問の先生に怒られる」
「……なるほど」
いくら中学では赤点が存在しないとしても、学生の本分である勉強を無視しては何事も通れない。顧問の先生も生徒を預かる身である以上、そこを見て見ぬフリはできなかった、ということだろうか。
「今はなんの勉強してるの?」
「漢字の勉強してるよ」
沙織に言われて飛雄のノートに視線を向ける。
「……字、汚な」
「うるせえな。俺が読めればいいんだよ」
飛雄はむちゃくちゃな理論を振りかざした。
「でも、影山君のこの小テスト、ほらココ。答えは合ってるのに、一回バツされて丸になってるよ。字汚すぎて先生読めなかったんじゃない?」
「ぐっ……」
沙織に指摘された飛雄は、気まずそうに口元を歪める。
「小テストなんて、よく取っておいたね。飛雄ならすぐ捨てるかと思った」
「教科書に挟まってた」
「飛雄らしいっちゃ、らしいね」
とりあえず、小テストの答えがどれだけ間違っているか確認する。が、なるほど、友達が壊滅的と言っていた理由がわかった。15と書かれた点数に頭を抱える。他の教科の小テストも見せてもらったが、どれも似たような結果だ。
私は国語の小テストの間違い部分を指で差しながら、飛雄に問題点を指摘した。
「さすがにこれは……空欄多すぎ、漢字間違いすぎ、せめて読み仮名くらいできるようになろうよ」
「なんだよ! 千早も勉強はニガテだろ!」
「理数系はともかく、文系なら問題ないよ」
「ぐぅ……!」
「ことわざの問題もあったんだ。どれどれ……棚からぼたもちの意味を答えよ――おやつのじかん!? なんでそうなるの!?」
「ぼたもちつったらおやつだろ!!」
「おバカ! 棚からぼたもちは『思いがけない幸運が訪れる』ことだよ! てか"時間"くらい漢字で書け!」
「うるせぇーーー!!!」
逆ギレし始めた飛雄は、今にも教室を飛び出していきそうだった。私は勢いよく立ち上がった飛雄の肩を抑えて、なんとか椅子に座らせた。
「勉強教わりに来たんでしょ! 逃げるな!」
「逃げてねえ!」
「逃げようとしたでしょ今!」
「逃げてねえよ!!!」
"逃げる"のワードに、飛雄の負けず嫌いが反応する。逆ギレが加速し、飛雄の眉間のシワが増えて恐ろしい顔つきになっていた。すぐそんな顔するから動物が逃げるんだよ、と言ったら怒るだろうから言わない。
とにもかくにも、このままでは
埒が開かない。私は飛雄をなだめて、勉強を続けさせる作戦に出た。
「勉強がんばったら、またカレー作ってあげるから、今だけでも集中して」
「――カレー!? ホントだな!?」
「ほんとほんと。だからがんばれ」
カレーに釣られた飛雄は、先ほどよりもやる気を見せた。やはり単純なやつは相手しやすくて助かると、及川先輩の怖い顔が頭をちらついて比較してしまった。
「千早、自分の勉強はいいの?」
「私よりもヤバいのがいるから……ごめんけど、今だけは飛雄のために付き合って、お願い」
「はいはい」
沙織に言われて、自分の勉強もしなければならないことを思い出すが、自分よりも緊張している人を見ると逆に冷静になるの法則と同じで、今日一日で詰め込まなくとも自宅で勉強し、わからない部分を明日また先生や沙織に聞けばいいかと冷静に考えた。
私もギリギリなことに変わりはないが、それでも今は壊滅的レベルを最低限ラインまで引っ張り上げなければならない飛雄をなんとかしなければ。
小テストの内容にひととおり目を通してから、暗記でなんとかなる漢字は置いといて、物語の問題を出してみる。
「"
蓬莱の玉の枝"か、これは竹取物語の話だね」
「たけとり……?」
「かぐや姫だよ。美しいかぐや姫に求婚してきた5人の男たちが、かぐや姫から出された無理難題を引き受けて大変な目に遭うの」
「きゅう……むりなんだ……?」
「結婚してって迫ったら、かぐや姫に無茶ぶりを出されたってこと……」
「ああ、なるほど」
これは相当噛み砕いて話さなければ伝わらないと覚悟する。
「まず、竹取物語はかぐや姫の話だってことはわかったよね? さて、ここで問題です。竹取物語は日本にある物語の中で、どのくらい古い物語でしょうか?」
「めちゃくちゃ古い物語」
「アバウトすぎるわ。もっと細かく答えて」
「知らねえよ!!」
「習ってるんだよ! ……正解は"一番古い"物語。ちなみにこのテストだと選択問題になってるから、答えは"イ"の"最古"」
「さいこ……?」
「最も古いってこと」
はい次、とすぐさま問題を出す。
そうでもしないと、飛雄はすぐに飽きそうだからだ。
「竹取物語は、いつの時代の物語で、作者はだれでしょうか?」
「知らねえ」
「ちょっとくらい考えなさい。正解は"平安時代"の物語で、"作者は不明"でした」
飛雄の眉間にまたシワが寄り始める。
「翁の言葉の意味はなんでしょうか?」
「おきな? しっ……沖縄と似てるな」
「また知らねえって言おうとしたでしょ。沖縄、全然関係ないし。正解は"おじいさん"でした」
間髪入れずに、次の問題を出す。
「次は読み取り問題ね。この現代語訳の文章を見ながら答えて」
「げんだいご……なんだ?」
「今の時代の言葉に直した文章のこと。原ぶ……こっちの元の文章に、もと光る竹と書いてあるけど、この光る竹を見つけたときの、おじいさんの気持ちを現代語訳から抜き出して」
「……………………わかんねえ」
「正解は"あやしがりて"でした。なんだこの光る竹は?って変に思ってるの。次の問題いくよ。おじいさんの名前は?」
飛雄は現代語訳の文章にかじりついて名前を探すが、わかるわけねえといった顔で悩んでいる。
「時間切れ。正解は……"さぬきのみやつこ"でした」
「どこに書いてあんだよ!」
「名をばって書いてあるでしょ。名前はってこと」
「知らねえよ!!」
「知らない禁止。知らないを知るための勉強です」
漢字が読めない飛雄に読み取り問題は難しいかと思ったが、答えが用意されている選択問題すら怪しいので、お手上げ状態だ。
「じゃあじゃあ影山君。三寸はどのくらいの長さでしょうか?」
「知ら……うっ……ワカリマセン」
「答えは約9センチです。一寸で約3センチだよ」
彩花も問題を出してみるが、今のところ全問不正解だ。勉強が苦手な人は大抵国語だけはできるものなのだが、残念ながら飛雄には当てはまらない。
「勉強やらなくてもバレーはできるだろ!!」
「顧問の先生に怒られるって言ったのアンタでしょ」
「ぐっ……」
「飛雄はバレーはズバ抜けてるけど、世の中バレーが上手いだけじゃ、やっていけないこともあるの。三年生になったら受験もあるんだよ? 行きたい学校に行けなかったら大変でしょ?」
「ぐうぅ……!!」
飛雄ならスポーツ推薦という手もあるだろうが、今ここでそれを言ってしまっては逃げ道になってしまう。なにも医者や研究者を目指せるレベルまで頭良くなれと言っているのではない。必要な最低ラインは越えるべきだと言っているのだ。
「私としては文字の練習もしてほしいな。独特すぎるよ」
「俺が読めればいいんだよ!」
「またそんなこと言う……先生も読めてなくて、正解なのにバツつけられてるでしょ。弊害出てんの」
「へい……?」
「……悪い影響が出てるってこと」
「千早は難しい言葉を使いすぎなんだよ! 日本語しゃべれって言ってるだろ!」
「だから日本語だよ!!」
これまでも飛雄と話が通じないことはちょいちょいあったが、国語すらこのレベルなら納得である。普段からこの調子なら、一与さんや美羽ちゃんもさぞ頭を抱えていることだろう。
「とにかく、顧問の先生に怒られない程度にはがんばって」
「…………」
「がんばって」
「…………おう」
勉強なんかするならバレーがしたいと顔に書いてある。不本意でたまらないのだろうが、これからもバレーを続けていくのであれば勉強は避けて通れない。がんばってもらうしかないのだ。
「そうだ、千早の教科書貸したら?」
「私の?」
沙織が、名案とでも言いたげに提案してきた。
「千早のことだから、どうせ一年のときの教科書にもラクガキしまくってるんじゃないの?」
「どうせって……してるけど」
「やっぱりそうじゃん。影山君みたいに勉強が苦手な子は、千早の教科書読み込めばそれなりに頭に入りそうだしさ、試すだけでもやってみたら?」
「確かにいいかも。飛雄、私の教科書使ってみる?」
私も沙織の提案に乗ると、飛雄は怪訝な目つきで私を見てきた。
「ラクガキなんかで勉強できんのか?」
「まあまあ、ものは試しってやつで」
「……わかった、千早が言うなら」
「おっし、なら今日うちに来な。ついでに一緒に勉強していく? 今日の夕飯はカレーじゃなくて素麺だけど、たくさんあるから夕飯食べていけばいいよ」
「素麺……でも勉強……」
「帰るときに飛雄がまだ見てないDVDも貸してあげる」
「行く!!!」
素麺と勉強の狭間で揺れ動いていた飛雄に、トドメのDVDをチラつかせれば簡単に釣られた。やはり飛雄は釣りやすくて助かると内心ほくそ笑む。
文系なら私も教えることができるので、小テストのようなザマはなんとか回避させたい。
「人の勉強見るのもいいけど、自分の勉強もがんばんなよ?」
「わかってるよ。今日教えてもらったとこ、明日にはできるように勉強してくる」
その日の勉強会は予定より早めにお開きにして、私たちは解散した。
飛雄を連れて帰宅すると、父が夕飯に出す素麺を茹でているところだった。
「千早、飛雄君、おかえり」
「ただいまー」
「おジャマします」
事前に飛雄が来ると連絡を入れておいたので、父は飛雄のぶんの食器も用意していた。
「今日はアレンジ?」
「いつも麺つゆだと飽きるからな。塩ラーメン風にさっぱりしたやつ作ってるよ」
「おいしそー!」
飛雄と一緒に手洗いとうがいを済ませ、母にお線香をあげてから着替えのため自室に入る。
着替えを終えて、飛雄を待たせているリビングに戻ると、飛雄がすでにコップを出してくれていた。何回か我が家に来てるからか、なにがどこにあるか、すっかり覚えたようだ。
「コップありがとう」
「おう」
三人で食卓を囲み、父特製の塩ラーメン風素麺を食べ始める。飛雄のぶんだけ素麺が多めに盛られていたが、食欲旺盛な飛雄は一番にペロリと平らげた。いくらさっぱりしてて食べやすい素麺だとしても、やはり豪快な食べっぷりには舌を巻く。
夕飯を食べ終えたら、ダイニングテーブルの上の食器を片付けて、私たちは勉強を始めた。
「これ私の使ってた教科書。国語と、社会と、英語。東京にいたときのだから、こっちの学校で使ってるのとは違うけど、内容はほぼ同じだから使えると思う」
飛雄の教科書と、私が一年のときに使用していた教科書を見比べ、中身を確認する。出版社が違うだけで習う内容は大して変わりないので、十分に活用できそうだった。
「ホントにラクガキだらけだな」
「漫画で覚える歴史の本もあるし、それと似たようなもんだよ」
「あんまり褒められたことじゃねえだろ」
「だとしても、飛雄よりは成績いいよ」
「…………」
飛雄に白けた目を向けられても、私は無視して勉強を始める。
ほら勉強と急かせば、飛雄も渋々勉強に手をつけた。
「どう見てもツボにしか見えねえなコレ」
「あ、ルビンの壺だ。飛雄は壺と人の顔どっちに見える?」
「ツボ」
「私も。ドクロの隠し絵は?」
「ドクロ」
「だよね、私もドクロにしか見えない」
当時、教室で盛り上がった教科書の内容を見て、少しテンションが上がる。東京のクラスメイトを思い出して、懐かしさを覚えた。
「国語はおもしろいよ。色んな小説が読めるし、隠し絵みたいに物語も人によって捉え方が違ってくるから、それを知るのも楽しいよ」
「おれは眠くなる」
「飛雄は国語以外の科目でも寝てそう」
雑談を交わしながら私は数学を、飛雄は国語を中心に勉強する。腹が満たされて船を漕いでいる飛雄を起こしながら、なんとか勉強を進めさせた。
しばらく勉強を進めると、父から声がかかった。
「そろそろ帰る時間だから、終わりにしなさい」
「え? もうそんな時間か」
「飛雄君は俺が送っていくよ」
すっかり眠くなってポヤポヤしている飛雄の顔の前で、ほら起きてとパンパンと手を叩いて起こす。ンガッと喉を鳴らして起きた飛雄は、すぐに状況を把握できなくて、私が帰る時間だと伝えれば帰り支度を始めた。
「はい、約束のDVD」
「サンキュ」
「今から勉強漬けしても難しいだろうから、せめて私の教科書を読み込んで。文系の教科だけでも、少しでも点数上げるためにがんばって」
「…………おう」
嫌々
頷く飛雄の背中を、先生に怒られないように気合い入れろと、バシンと一発叩いた。
「テスト終わったらカレー作ってあげる。夏休み中になると思うけど」
「――ッ! カレー!」
大好物のカレーに反応した飛雄は、すぐに覚醒してテンションを上げた。現金なやつめ。
「また明日ね」
「またな」
父と共に玄関を出ていく飛雄を見送ったあと、私はお風呂に入る支度を始めた。
お風呂から上がれば、父はすでに帰っていた。父に次お風呂に入るよう促し、私は寝る前の歯磨きをしてから勉強の続きを始めた。
期末テストは目前に迫っている。どうにか平均点は取りたいものだ。これは自分のためでもあるが、父に学校の成績で心配かけたくないのもある。
昔の父よりは勉強できているらしいので、父はあまり気にしていないが、万が一にでも成績不振で呼び出しを食らうことになれば申し訳が立たない。
その日はいつもより遅い時間まで勉強をして、日付が変わる前に就寝した。
それからも私は、いつもの倍以上の勉強量をこなし、たまに飛雄にも教える毎日を送り続けた。
そして、期末テストが終わり、緊張のテスト返却日――。
「よかったー! わりと良い点数!」
文系は元から心配ないとして、理数系の教科は平均点にギリギリ及ばずとも、予想を上回る点数を取れた。
「沙織のおかげだよ! ありがとう!」
「どういたしまして」
沙織は90点を超える点数を取っており、さすがと言える。文系の教科も80点を超えていて、成績が良い人のすごさを思い知った。
「彩花は? 社会どうだった?」
「千早が貸してくれた教科書のおかげで、いつもより良い点数取れたよ」
飛雄以外に、私は彩花にも落書きだらけの教科書を貸していた。文系は今から勉強しなくとも問題ない自信があったので、ある程度範囲を勉強し終えてから彩花に教科書を貸したのだ。
これでみんな心置きなく夏休みを迎えられると、ひとまず安心した。
残る問題は――。
「飛雄、テスト見に来たよ」
「お、おう……」
いつもより早い時間に迎えた放課後。私は友達と一緒に一年の教室へやって来た。目的は、飛雄のテストの結果を確認するためだ。
テストが返却されたら確認しに来ると約束しており、友達も飛雄の勉強を手伝ったので、結果が気になると言って付いてきた。
上級生の女子が下級生のクラスにいるからなのか、私たちが飛雄を取り囲んでいるからなのか、そのどちらもなのか、周りにいる一年たちからの視線があちこちから刺さる。
私は上昇する心拍数を感じながら、飛雄からテストを受け取り――感動した。
「すごい! 国語が小テストより20点上がってる!」
「社会も影山君にしては良いほうじゃない? 英語と家庭科は……まあ、思ってたよりはひどくないかな」
決して褒められた点数ではないにしろ、飛雄としては上々な出来で、沙織も感嘆していた。
「飛雄ー! すごいよ! よくがんばったね!」
あまりの感動に、思わず飛雄の頭を撫でくりまわしてしまった。
ついやってしまい、ハッとして飛雄の頭から手を離して様子を窺うが、驚きながらも意外にすんなり受け入れていた。ぐちゃぐちゃになった頭で、誇らしげなドヤ顔も付けて。
「あの影山の成績が上がった……?」
「授業中、居眠りばっかしてる、あの影山が……?」
クラスのあちこちから上がる声が耳に入ってくる。下級生の会話から飛雄の普段の行いを知り、お前ってヤツは……とジト目であきれてしまった。
「影山君すごい! 勉強始めて5分で白目剥いていたとは思えないよ!」
「理数系はやっぱりダメダメだけど、文系の教科だけでも点数上がってるし、勉強した甲斐あったね」
沙織と彩花も褒め称え、私に倣って飛雄の頭をよしよしと軽く撫でた。飛雄は驚いて固まるが、相手が先輩なので気を遣っているのか、気まずそうにしながらも拒否しなかった。
「あとは顧問の先生がなんて言うかだけど、前の飛雄の成績から考えれば良い結果出せたんだし、がんばりくらいは認めてもらえるんじゃない?」
全体的に見れば良い点数が取れたとはあまり言えないが、飛雄の実力だけに視点を絞って考えれば、悪くはない。決して私が飛雄に甘いわけではない。
「これで心置きなくバレーができるね」
「おっしゃァ!!!」
飛雄は、なんの心配もなくバレーができる喜びに、歓喜の声を上げた。私も、飛雄が安心してバレーができることに、一緒に喜んだ。
「約束どおり、今度ご褒美としてカレー作るから、予定空く日わかったら教えて」
「カレー!!!」
大好物のカレーを食べられる喜びもあいまって、飛雄は完全に浮かれている様子だ。
「これからバレー部のミーティングあるんだよね? 私らは帰るから、先生がどんな反応だったかあとで教えてね」
「おう! またな!」
私たちは飛雄に手を振って一年の教室を出る。
運動部に所属する友達も、このあと部活のミーティングがあるらしく、私は飛雄の勉強を見てくれたお礼を改めて伝えてから別れた。
「あ、教科書返してもらうの忘れてた。……ま、いっか、今度で」
どうせまたすぐ飛雄に会うのだから、返してもらうのは今日でなくとも問題ないと、そのまま帰宅した。
このとき教科書を返してもらっておけば良かったと後悔する日は、そう遠くない。
後日、金曜日のこと。
終業式を迎え、夏休みに入る前の学校最後の日。
「飛雄!」
私は帰りのホームルームを終えたあと、真っ直ぐに飛雄の教室に赴いた。
教室の入り口から呼ぶと、飛雄はすぐに顔を上げてこちらを向き、私の元までやって来た。
「どうしたんだ?」
「貸してた教科書返してもらいたいの」
今日の帰りは友達と帰る約束をしているので、忘れないうちに教科書を返却するよう言いに来た。
部活の関係で、こういう機会でもないと友達と帰り道を一緒にすることはなく、今日の帰りをイベント感覚で楽しみにしていた。
「そうだ、飛雄も一緒に帰る? 友達が飛雄も一緒にどうだって言ってたの」
昨日の別れ際に、今日の帰りは別行動だとあらかじめ飛雄に伝えていたが、友達から飛雄が良ければ一緒に帰るのはどうだと提案があった。なので、飛雄にも提案してみる。
「俺は……いい……」
すると、飛雄は口をモゴモゴさせて、きまり悪そうに断った。
やはり女子三人の中に男子ひとりは気まずいかと、なんとなく予想できなかったわけでもないので、そんなには驚かなかった。
「わかった。じゃあ今日は友達と帰るね。教科書返して」
「教科書は……その……」
また飛雄は口をモゴモゴさせて、なにか言いづらそうにしている。
「どうしたの? 早く返して」
「…………」
昇降口で友達を待たせているため、私は早く事を済ませたくて飛雄を急かすが、変わらず煮え切らない態度のままだった。
「失くしたの?」
「違う」
「ならどうしたの? 友達待たせてるから早く行きたいんだけど」
「……教科書は、貸した」
「はあ? だれに?」
「…………金田一に」
「なんで!?」
知らないうちに私の教科書は又貸しされていて、予想外の出来事にかなり驚いた。
「なんで私に一言も言わないで貸しちゃったの!?」
「…………」
「飛雄!」
「…………貸してくれって、言われたから」
「言われるがままに貸さないでよ! 私の教科書だよ!?」
「貸さないと……なんかダメな雰囲気だった」
「どんな雰囲気よ!? 別に貸したくないわけじゃないけどさあ、順序ってもんがあるでしょ!」
金田一君に貸したくないとか、そういう意地悪なことは思っていない。夏休み中も部活はあるので、金田一君としばらく会えないなんてこともなく、返してもらえる機会はいつでもある。
しかし、持ち主の私に断りもなく、勝手に又貸ししてしまうのはいかがなものか。
「ハァー……貸しちゃったならしかたないか。友達待たせてるし、金田一君に今度会ったら返してもらえるよう言うよ。飛雄も金田一君に言っておいてね」
「わかった」
たとえ使わなくなった一年のときの教科書だとしても、このままうやむやで放置していたくはない。ちゃんと手元に帰ってくる見込みがほしい。
「じゃ、私は行くから。またね」
「またな」
夏休みも会おうとはお互いわざわざ言わない。部活のある日は、朝の登校はいつもどおり一緒にするし、たぶんそれ以外でもたまに会う確信があるから。
その後は友達と合流して、三人で帰りを一緒にした。
コンビニに寄って買い食いをしたり、ちょっと遠回りしておしゃべりする時間を延長したりと、先生に見つからない程度に寄り道をして、滅多にない友達との帰り道イベントをめいいっぱい楽しんだ。
「影山君、どうだったって?」
「思ったほど先生の反応は良くなかったみたい。私らがいっぱい褒めたから、先生も同じくらいの反応してくれるって思ったらしいけど」
「総合的に見れば平均点かなり下回ってたし、普通に良い成績とは言えないからね」
そう、私らが甘やかしてただけで、飛雄の成績自体はそこまで良いとは言えない。"飛雄にしては"良くなっただけのこと。冷静に見れば、もっとがんばりましょうレベルだった。
「がんばりは認めてもらえたようだから、まあいいんじゃない?」
「また勉強教えるときあったら教えて。一緒にやるよ」
「ありがとう! でも、飛雄に勉強教えるの大変じゃない?」
「影山君アホすぎて珍回答多いから、逆におもしろいよ」
「そっか、おもしろいならいっか」
半分遊び感覚なのが否めないが、すっかり飛雄がお気に入りとなったらしい友達ふたりは、私と一緒に飛雄に会いに行くことも増えた。
友達もいると楽しいし、頼りにもなるから、私も喜んで友達を引き連れて行く。が、悪ノリしやすいふたりなので、あまり飛雄をからかいすぎないよう注視はしている。
「バイバーイ! 夏休みも時間作って遊ぼうね!」
あれこれ話し込んでいるうちに帰る時間となり、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。友達と途中で別れ、私も帰路に着く。
今日の夕飯はなんだろうな、夏休みはだれとどこに遊びに行こうかな、夏休み中も生き物たちに会えるの楽しみだな、飛雄ともバレーしたいな、練習試合も観に行ってみようかな。
頭の中には、これからの予定がたくさん浮かんでくる。東京にいた頃は、毎日やることは大して変わらず、夏休みだろうと少し生活ルーティンが変わるだけで同じことだった。こんなふうにやりたいことを思い浮かべて、先のことに胸を弾ませる日々が新鮮に感じる。
ぶっちゃけた話、及川先輩と顔を合わす機会が減るのはかなり大きい。そのことが、夏休みを迎える高揚感に拍車をかけていた。
及川先輩の存在を忘れてはいないが、いつまでも苦手な人のことを考えるわけにもいかない。不安を上回る楽しみな予定を考えることで、頭からかき消した。
夏休み楽しむために、宿題がんばって終わらすぞ!
拳を握り、ふんと鼻息を荒くして気合いを入れる。
今年の夏休みは、一味違ったものとなりそうだ。