ボタンのかけ違い




「夏休みだーーー!!!」

 夏休み初日。私は部屋の中でひとり歓喜の声を上げた。

「お父さん! おはよ!」
「おはよ、朝から元気だな」

 歓喜の声はリビングまで届いていた。夏休みを迎えて晴れやかな気分の私とは違い、夏休みなど関係なく仕事がある父は、疲れ切った顔をして遅めの時間に起床した。

「コーヒー淹れるね」
「ありがと」

 労いもかねて、父に朝のコーヒーを用意する。夏だろうが、朝は熱々のコーヒーを飲むのがルーティンの父は、テーブルの上に出されたドリップコーヒーの香りを楽しんでから口をつけた。

「そうだ。スーパーのチラシ入ってたぞ」
「今日はなにが安いって?」
「タイムセールやるっぽい」
「マジ!? 何時から!?」
「午前と午後で2回。午前は11時から、午後は17時から」
「午前もやんの!? 行ってくる!」

 大体は夕方から始まるタイムセールが、今日は午前も行うとのこと。なんて僥倖ぎょうこうな知らせだろうか。これは行くしかない。

「行くのか? 俺、寝不足だから車出せないぞ」
「チャリで行くから大丈夫!」
「外は暑いから気をつけろよ」
「わかってるって!」

 先日、わが家はようやく購入した中古車を納車した。ふたり家族なので大きい車は不要と、購入したのは軽自動車だが、収納を重視した使いやすいタイプを選んだ。車が使えるようになってから移動がさらにグッと楽になり、自動車様様だ。ちなみに、愛車の名前は父のセンスで"ジョニー"と名付けた。

「早めに行ってくるね! タイムセールは戦争だから出だしが大事!」
「たくましいな」

 朝食を済ませ、洗濯物を終わらせたあとは、タイムセールに備えるため、早めに家を出た。
 財布よし、時間よし、暑さ対策よし、とひとつずつ準備万端であることを確認し、相棒の自転車を引っ張り出して出発した。

 ジリジリと照りつける太陽の下、汗を垂らしてペダルをこぎ続ける。
 徒歩と自転車では移動の楽さが段違いとはいえ、この馬鹿みたいな暑さでは、どちらにせよしんどいのは変わらない。時間経過と共に強くなる日差しに嫌気が差しながら、しばらく自転車を走らせてやっとスーパーにたどり着いた。
 スーパーの前で自転車のスタンドを立て、鍵を閉める。ガチャンと音のする動作に、こちらをチラリと見る人が何人かいたが、べつに私が気になってるとかではなく、単純に音に反応しただけだ。

「……桂ちゃん?」

 まさか、そんなはずはない。
 夏休み初日からスーパーで出くわすとか、まさかまさか。
 そんなワケが――、

「……及川、先輩」
「口元、口元。俺と会うの嫌だって隠せていないよ」

 引きつる口元をすぐさま手で抑えるが、今さらもう遅い。

「な、なんで先輩がスーパーなんかに……」
「俺だってスーパーくらい来るよ」

 似合わないな。つい、そう思ってしまった。

「似合わないって思ったでしょ」
「なんでバレて!」
「桂ちゃん、結構わかりやすいよ」

 なにも言い返せなくて、ぐぬぬ……と口をつぐむ。
 及川先輩がスーパーになんの用だろうかと気になり、つい手にしている袋の中身をチラリと視線を送る。

「……牛乳パン?」

 及川先輩が手に持っている袋の中には、大量の牛乳パンが透けて見えた。

「……家に入ったチラシ見たら、安売りしてるってあったから」
「ああ、そういえば……私も見た気がします。牛乳パンお好きなんですか?」
「まあ、ね」

 なるほど、好きな食べ物となれば自らスーパーに足を運ぶのもわかる。

「部活はどうしたんですか?」
「最初の二日間は休みなの」
「そうなんですか……」

 会話はそこで途切れ、互いに続きが出てこない。及川先輩もうまく笑えておらず、居心地悪そうにしている様子を見るかぎり、及川先輩も少なからず私に苦手意識を持っているのだろうか。
 私の及川先輩に対する苦手意識が隠しきれていないのを思えば、私にも原因の一端がある。

「じ、じゃあ、タイムセールが始まるので、私はそろそろ……」
「そ、バイバイ」

 すぐにでも話を切り上げたほうが、お互いのために良いと判断した。その判断は有効だったようで、及川先輩もそそくさと立ち去った。

 私はスーパーの入り口近くに貼られたチラシを確認し、今日のタイムセールの対象商品を改めて頭に叩き込む。
 事前確認した内容と相違なくて安心していると、

「……ん? え、あれ? う、うそ……ウソウソウソウソ!!」

 タイムセール品の横に並んで、価格がいつもより下がっている卵と箱ティッシュの画像が目に入る。タイムセールの対象外ではあるが、卵がおひとり様一パックまで、箱ティッシュが5箱セットでおひとり様ふたつまでの表示に、背筋が凍りつく。

 タイムセールに気を取られすぎて見逃した!!

 ひとつだけでも多めに買えるのと買えないのとでは大きく違う。
 携帯画面を開いて時間を確認すると、タイムセール開始まで残り約15分。今から家に帰って父を呼んでも、タイムセールに間に合わない。それに、こんな暑い中、車も出せないのに自転車を走らせて二度も往復はしたくない。いつもなら迷わず自転車を走らせるが、さすがに猛暑ともなればキツすぎる。
 タイムセールを捨てて卵と箱ティッシュを取るか、はたまた卵と箱ティッシュを捨ててタイムセールを取るか――かくなる上は。

 いや……どっちもほしい!!!

 私は即座に駆け出した。目的は――今しがた去って行った及川先輩だ。
 全速力で及川先輩が向かった方向へ走り続けると、すぐさま及川先輩の背中を捉えた。

「及川せんぱあァァァァァイ!!!!!」

 突如、大声で名前を呼ばれた及川先輩は、大きく肩をはねらせ勢いよく後ろを振り向いた。
 髪を振り乱し、汗をかいて、必死の形相で駆け寄って来る私を見て、及川先輩は「ギャアッ!?」と悲鳴を上げた。

「な、なに!!?」
「ハッ……はぁ……ハアッ……す、すみません急に……折り入って、お願いがあります……!!」
「お、お願い?」

 呼吸を整え、体調を落ち着かせてから、大きく深呼吸をする。生ぬるい空気が肺に入り込み、ウッとむせりそうになるのを抑えて、私は言い放つ。

「――私と!! スーパーで買い物してくれませんか!?」







「いやー! ホンット助かりました! ありがとうございます! これ、お礼に追加の牛乳パンです!」
「お役に立てなのなら、まあ……」

 疲れ切った顔になっている及川先輩に、牛乳パンとジュースの入った袋を手渡す。
 及川先輩を追いかけたあと、事情を説明して及川先輩にはスーパーに同行してもらった。
 渋々というか、ややドン引きして付いてきてくれた先輩と、タイムセール品をかけた主婦の戦いを乗り切ったのち、無事に卵と箱ティッシュも望みどおりに手に入れた。

「まさかスーパーで主婦とバトることになるとは思わなかった……」
「先輩ががんばってくれたおかげで、豚肉も安く多めにゲットできました!」

 及川先輩への苦手意識がどうとか、今はそんなことよりも、私は予想以上の収穫にウッハウハして細かいことを忘れていた。むしろ、主婦にもみくちゃにされていた及川先輩を思い出して、普段からは想像つかない先輩の姿に笑いがこぼれそうだった。

「俺のこと苦手じゃなかったの? よく頼めたね」
「背に腹は変えられなかったので」
「あ、そう……」

 及川先輩は怪訝な目を向けてくるが、機嫌のいい私はへっちゃらだ。こういうところが研磨に図太いと言われる所以ゆえんなのだろう。

「今度こそ帰るよ」
「はい! 本当にありがとうございました!」

 及川先輩に頭を下げて、もう一度お礼を言う。
 私も帰ろうと自転車のカゴに買い物袋を乗せて、少し走らせていると、

「…………」
「…………」

 及川先輩に追いついてしまった。目がかち合うと、互いに口を横一文字にして、真顔で見つめ合う。
 よくよく考えれば、及川先輩を追いかけたときも、買い物が終わって帰ったときも、私の帰り道の方向と被っていた。
 なんでもっと早く気づかなかった! 時間を置いてあとから行くこともできたのに! と後悔しても遅い。

 どうしよう……追い抜くのもなんかアレだし、かといってチャリで後ろをついていくのもなあ……。

「……桂ちゃんって、家どのへんなの?」

 この場をどう乗り切るか悩んでいると、気を遣った及川先輩が話しかけてきた。
 自宅のマンションの場所を教えると、どうやら途中までは帰り道が一緒のようで、このまま微妙な距離感でいるのも気まずいので、なりゆきでおしゃべりしながら帰ることになった。

「へぇー、東京観光とかしなかったんだ」
「はい。毎日忙しくしてて、時間が空けばすぐに他の予定を入れてたんで、観光とかに行く考えはなかったです」

 自転車を押しながら、及川先輩と並んで歩く。
 さりげなく道路側を陣取った先輩に、モテ男の理由を感じ取った。

「なんでそんなに忙しかったの?」
「……やることがたくさんあったから、ですかね」

 東京の話になると、大概のことは母をセットで話さなければ説明にならない。
 しかし、母の話は他人には重いので、なるべくは避けたいと思っている。なので、言葉を濁した。

「あまり話したくないなら、無理に聞かないよ」
「い、いえ! 話したくないとか、そういうのではなくて……この話をすると、気を遣わせるってわかってるので、そうさせたくないだけです」

 及川先輩は人をよく見ていると言うべきか、とても察しがいい。私がわかりやすいだけかもしれないが。

「桂ちゃんがバレーをやめた理由を話してくれたときあったよね」
「はい。ありましたね」
「他人のためのバレーをやっていたってのが、やっぱりよくわからなくて、聞いても大丈夫なら聞いてもいい?」
「……あまり楽しい話になりませんが、それでも良ければ」

 及川先輩は首を縦に降った。
 私は及川先輩が良いと言うのなら話そうと思って、過去を思い返す。

「私のお母さん、病気で入院してたと前に言いましたよね」
「うん、聞いた」
「東京に引っ越したのも、お母さんの病気を治すためだったんです」

 頭の中で言葉を整理しながら、ゆっくり話を始めた。

「私は、お母さんが喜ぶかどうかでバレーをしていました。バレーを好きなことに間違いはないんですけど、周りとは別の種類の好きだったんです」

 及川先輩は表情に疑問を浮かべるが、黙って聞いてくれた。

「周りは単にバレーが楽しいからとか、今まで続けてきたからとか、そういう理由でバレーをする人が多かったんですけど、私の場合は、お母さんの機嫌をうかがうバレーをしていたんですよ」

 そこまで言って「お母さんがヤバい人だったとか、そういうのではないですよ。いたって最高のお母さんでした」と付け足して、私は続けた。

「私は、お母さんのことが好きすぎたんですよ。小さい頃は気づきませんでしたけど、昔っから私は、お母さんが喜ぶかどうかでバレーを続けていました。お母さんが喜べば正解、お母さんの反応がイマイチなら不正解。そんな考えでバレーをやってたんです」

 バレーを楽しんでいたことに間違いはない。それは自分でもわかっている。が、根底には歪な考え方があった。

「お母さんの病気がなかなか治らなくて、不安でどうしようもなくなっていた時期があったんです。お父さんと友達に心配かけて、なのに私は大丈夫って強がって……嫌な考えが浮かぶ暇なんてないくらい、あえて忙しくして、自分を追いつめていました」

 お見舞いの土産話にするために、会うたびに新しい活躍の話ができるようにと、ただ母を喜ばせるためのバレーをしていた。
 それが生きがいとでも言うかのように必死で母のためのバレーを続けて、不安をごまかし続けた。

「状況が悪かったのもあって、だんだんバレーに真っ直ぐ向き合えなくなっていきました。いつでも正解を教えてくれたお母さんは家にいなくて、悩みを打ち明けられたはずのお父さんとは会話すらできなくて……だんだん不安を隠すことが当たり前になっていきました」

 私の不安なんて、両親に比べれば大した問題ではない。両親のほうが大変なんだから、だから甘えるなと、自分に言い聞かせていた。

「そんな私を見かねたお母さんと友達が、私にアドバイスをくれたんです。それがきっかけで、私はプレーヤーとしてバレーを続けていくよりも、サポート側に回るほうが好きなんだって気づけました」

 母と、クロと、研磨――みんなのおかげで、私は自分を変える機会を得ることができた。

「これからは心から好きだと思うことに触れて、楽しく生きていくって、お母さんと約束したんです。だから、他人のためのバレーをやめて、好きなことをしようと決めました」

 答えになったかな? 心配になって及川先輩の顔を横目でのぞくが、なにを考えているか読めない表情をしていた。こういう読めないところが苦手なんだと、改めて思い知る。

「それで、マネージャーになろうって決めたの?」
「はい、そうです」
「……そっか」

 会話が続かなくなり、またマズいことを言ってしまったかと不安を覚える。

「……私からも、ひとつ聞いていいですか?」
「なに?」
「先輩は、どうして私と話してくれるんですか?」

 聞かれると思ってなかったのか、及川先輩は目を見張った。
 これを聞くのは勇気がいるため、口にするか悩んだ。わざわざ聞かれても困る質問なのはわかっている。
 それでも、私は意を決して聞いた。

「自分で言うのもアレなんですが、私が及川先輩のこと……その……」
「怖がってる?」
「は……はい。気づいていたんですよね? だけど、先輩は私にたびたび話しかけてくれるので、なんでだろうと……聞いといてなんですが、言いにくかったら、話さなくても大丈夫です」

 うーん、と言葉を選ぶそぶりを見せてから、及川先輩は口を開いた。

「桂ちゃんが飛雄と幼なじみだと知って、それから最近バレーをやめたってのも聞いて、どうしてバレーをやめたんだろうって気になってたんだ」

 私がバレーをやめたという情報をどこで仕入れたか、飛雄となにがあったのか。それも以前から聞きたかったが、話の腰を折ることになるので、今は聞くタイミングではないと判断する。

「でも、初対面で怖がらせちゃったし、せめて少しずつ打ち解けてから聞き出そうかなって考えてたんだけど……俺、今あまり余裕なくってさ。そのあとも何回か怖がらせたよね、ごめんね」

 申し訳なさそうに、苦い顔で私に笑いかけてきた。

「い、いえ、私も露骨に態度に出しすぎてたと思いますから……」
「俺のこと見かけるたびに隠れるのは、さすがに笑ったよ」
「それもバレてたんですね……」

 性格は違えど、人のことよく見ている点においては父と重なっている。コミュ力の高さと観察眼に優れていることは比例するのだろうか。

「俺、桂ちゃんがバレーをやめた理由って、飛雄が関係してると思ってたんだ」
「え?」

 あえて飛雄の話題は出さなかったのに、及川先輩から切り出してきたことに驚く。

「飛雄ってさ、いわゆる天才だろ?」
「そう……ですね。まだ練習しているところしか見たことないですが、私から見ても才能にあふれていると思います」
「あれだけバレーに愚直なヤツ、そうそういないよね。あんなのが近くにいたら、嫌でも目に入るヤツもいると思うよ」

 そこまで言われて、あれ?と疑問を浮かべる。

「でも、私がバレーをやめたのは引っ越す前で、飛雄の才能を目の当たりにしたのは、そのあとですけど」
「そうだよね。桂ちゃんがバレーをやめたってのは聞いたけど、いつやめたのかとか、細かいことはなんにも知らなかったから色々勘違いしたんだ。俺、今は余裕ないって言ったでしょ?」

 余裕がないから、よく考えればわかるところまでたどり着くができなかったと、そういうことだろうか。

「余裕ないのもそうだけど、桂ちゃんが飛雄のこと比較対象として見てるんじゃないかって、どこかでそう思っていたんだ。そうだとしたら……」

 そうだとしたら、なんだろうか。及川先輩はそこで言葉を区切ってしまい、続きを聞けなかった。

「……ごめん、ホント余裕ないわ。情けないとこ見せたね」

 及川先輩は、自嘲するように軽くため息をついた。
 ――情けない。
 身に覚えのある、親近感すら湧くその言葉に、胸が締め付けられるような感覚を思い出した。

「情けない、なんてことはないです」
「……え?」
「詳しいことはわからないですが、情けないなんて思わないでください」

 突然ハッキリした物言いをする私に驚いたのか、及川先輩は足を止めた。

「私、自分のこと"情けない"と責めるのが癖だったんです。余裕がなくて、やきもきして、自分の不甲斐なさに落ち込んで……情けないと常に自分を責め続けていました。余裕がないと、自分を責めたくなっちゃうんですよ」

 だれかの前で口には出さなかったが、心の中で己を責めることで、ある意味バランスを保っていた。自分は周りに比べて、こんなに情けない人間なんだから、もっと努力すべきだと、自分を奮い立たせていた。

「でも、今は情けないなんて、あまり思わなくなりました。必要以上に自分を責めても、良いことなんてありませんから」

 けれど、それは間違いで、ただ自己肯定感を下げるだけの行為だった。結果として得られたのは成長ではなく、積み重なるだけの不安ばかり。
 たまには自分を省みることも大切だが、何事も使い方を間違えてはいけない。

「だれにでも思い悩むことはあります。悩むってことは、それだけ真剣に向き合っているということです。たぶんですけど、先輩が抱えてる悩みって、自分を責めなきゃいけないようなことではないと思います」

 明言はしていないが、及川先輩は悩みを抱えている。そして、おそらくそれは飛雄に関係していることだ。話の流れからして、及川先輩は飛雄と自分の才能を比較してしまって悩んでいるのだろう。
 部外者の私が口を挟むつもりなどなかったが、"情けない"の言葉が出てきて、たまらず物申してしまった。

「だから、先輩は情けなくなんかないです。今は、前に進むための事前準備みたいなものじゃないですか?」

 最後まで言い切り、私は今しがた口走ったことを悔いて、顔を青くした。

「あ……! 先輩に対して説教なんて! なにも知らないくせにって話ですよね! 生意気なことを言ってすみません!」

 腰を90度に折って、深く謝罪する。
 その勢いで自転車を倒しそうになって慌てていると、

「俺が悩んでるって、バレちゃったね。さっきの話を思えば明け透けだったか」

 顔を暗くしていた及川先輩の雰囲気が、少し柔らかくなっていた。

「生意気だなんて思ってないよ。気にしなくていいから」

 気にしなくていいと言われて、素直に気にしないほど図太くはないが、及川先輩がそう言うのであれば繰り返すのはくどいと思い、これ以上は口を開かなかった。
 私は余計なことはなにも言わず、及川先輩の寛容さに感謝した。

「俺こっちだけど、桂ちゃんは?」
「あ、私はこっちです」

 話し込むうちに、互いに別れる道までたどり着いたようだ。

「あの、買い物に付き合ってくれてありがとうございました。それと、今さらですが、無理言ってすみませんでした」
「いいのいいの。むしろ俺のほうこそ、ありがとう」

 なにに対しての感謝かピンと来なくて、モテ男術のひとつなのか、などとあきらかに見当違いなことを考えた。

「じゃ、気をつけて帰ってね」
「は、はい……先輩もお気をつけて」

 及川先輩はスマートな去り際だったというのに、私はというとアホな顔をさらしていた。

 こういうときに使う"情けない"は、使い方合ってるよね?

 やはりモテる男はやることが違う。
 私も及川先輩を参考にして、飛雄や美桜ちゃんの前でもスマートなデキる先輩としていられるだろうか。
 そこまで考えて、私がやると事故が起こりそうだと思い、すぐにあきらめた。

 次からは、及川先輩と普通に話せるかも。

 あれだけ苦手意識を持っていた人に対して、互いの心の内を打ち明けただけで気を許してしまい、あまりにもチョロすぎると己の残念さに羞恥を覚えた。

 それから二日後のこと。

「じゃ、部活がんばって。今日はカレー用意して待ってるから、忘れないでね」
「おうよ!!!」

 楽しみにしていたポークカレーを食べられると、朝から浮かれている飛雄を見て、私は思わず笑いがこぼれる。

 夏休みになっても、飛雄と朝の登校を共にする習慣は変わらない。部活が被る日は、当たり前のように待ち合わせをして、今日もふたり揃って学校に来た。
 いつものように校門前で別れようとすると、馴染みある顔と出くわす。

「金田一君と国見君。おはよ」

 朝の挨拶をすると、ふたりは「おはようございます」と、淀みなく返してくれた。
 背負い投げ事件以来、少し距離を置かれてしまった時期もあったが、それも時間の問題だったようで今では普通に話してくれるようになった。

「あ、金田一君。私の教科書なんだけど」
「あっ……」
「金田一君が持ってるんだよね? 飛雄から聞いたよ。夏休み中には返せる?」
「か、返せます!」
「今度からは私に言ってから借りてね。教科書くらい、いつでも貸してあげるから」
「はい!」

 教科書の話題を出すと、金田一君はばつが悪そうに視線を逸らした。飛雄も勝手に又貸しした罪悪感があるのか、先ほどまで浮かれていたのに、すっかりしおらしくなった。

「それじゃね! 三人とも朝練がんばって!」

 三人と別れ、私は生物部の部室へ向かう。

「部長、おはようございます」
「桂さん、おはよ」

 部室に入ると、部長がすでに生き物のお世話を始めているところだった。
 私はいつも早めに登校しているつもりだが、部長は私の上を行く早い時間にいる。これでは私が重役出勤みたいではないかと思い、もっと早めに来ることを一度は考えたが、

 ――俺は好きで早く来てるから、桂さんはいつもどおりの時間でいいよ。

 と言ってくれたので、私は今でもルーティンを変えずにいる。

「モンちゃーん。朝ごはんだよー。お食べー」

 ヒョウモントカゲモドキのモンちゃんに、ピンセットでつまんだコオロギをあげると、パクリと一口でいった。おいしそうにムシャムシャ食べる様子にいやされる。

「夏休みもこうしてみんなに会えるのはうれしいですね」
「だね。俺もうれしいよ」

 部長と生き物のお世話をしながら、来年の話や、夏休みの予定を語らう。
 部長は、部活意外でも個人的にフィールドワークをやる予定らしく、なんて素敵な予定なんだと感嘆した。

「お疲れ様でした!」
「お疲れ様。気をつけて帰ってね」

 生き物のお世話を終えて、昇降口前で部長と別れる。頭を下げて帰っていく部長を見送りながら、私も部長のように素敵な夏休みの予定を立てたいと考えていた。
 夏休みの予定をひとつ立てると、次々とやりたいことが頭に浮かんでくる。

 まだ読み切れていない本の山を完全制覇したい。
 父や友達とお出かけしてみたい。
 おじいちゃんとおばあちゃんにも会いたい。
 飛雄とバレーの試合鑑賞して盛り上がりたい。
 また影山家と一緒にご飯を食べたい。

 そして――たまには飛雄とバレーしてみたい。

 以前に比べれば、めっきりバレーをしなくなったが、ふとたまにバレーをしたくなるときがある。
 昔みたく、飛雄とバレーをしたら楽しいだろうと常々思っていた。今では飛雄のほうがボールの扱いは段違いに上手いだろうが、私も長年バレーをやってきたぶん、それなりに相手できると思う。

 今度、飛雄にバレーしよって言ってみようかな。

 飛雄なら提案に乗ってくれるだろうと期待して、私も真っ直ぐ帰った。

 そして夕方になり、カレーをいつでも出せるよう準備していると、自宅のインターホンが鳴った。
 時間的に飛雄かな?と予想すれば、インターホンの画面に映っていたのはやはり飛雄だった。

「鍵開いてるよ、入ってきて」

 オートロックを開錠して招き入れ、少しするとふたたびインターホンが鳴ったので玄関前まで迎えに行くと、

「おつかれ! ……って、どうしたの?」

 飛雄はいつもの無愛想な表情を、とりわけしわくちゃにさせて、ぶすっとした顔でそこに立っていた。

「まあいいや、とりあえず入りな」

 飛雄がたまによくわからない様子でいることには慣れた。いちいちツッコむのも疲れるので、最近はスルーする回数も増えてきた。

「ッ! カレーのニオイ!」
「準備できてるから、いつでも食べられるよ。早く手洗ってきな」

 部屋に充満するカレーの匂いで、飛雄の不機嫌そうな表情が一変して期待に満ちた顔つきになる。とことん現金なヤツだと思った。

「飛雄君、おかえり」
「た、ただいま、です」

 リビングにいた父に"おかえり"と言われ、飛雄は少し返答に困った。
 近所の人に、すれ違い様におかえりと言われると、ただいまと返していいのか正解がわからないときと似ている。

「「いただきまーす」」

 三人揃ったところで手を合わせて夕飯を食べ始める。
 前と同じように、飛雄には大盛りでカレーを出した。温卵も二個のせて。
 飛雄は、顔をほころばせて大盛りカレーにがっつく。先ほどまでの不満顔は、忘れたように消えていた。

「ウメェ!!!」
「こら、口に入れたまましゃべらない」

 ご褒美カレーは相当美味いらしい。飛雄は、夢中になってカレーを食べていた。

「飛雄、勉強がんばったもんね。たくさん作ったから、おかわりもしていいよ」
「おかわり!!!」
「はやっ!」

 あいかわらずの食べっぷりに舌を巻く。急いでおかわりを持ってくると、飛雄はまた夢中でカレーにがっついた。

「千早の教科書貸して飛雄君の成績上がったんだよな? まさかあんなラクガキだらけの教科書が役に立つなんてな」
「ただのラクガキじゃないからね。内容に沿ってわかりやすくした解説だから」
「先生に見つかったら怒られるから、やりすぎには気をつけろよ」
「はぁーい」

 父にも私の愉快な教科書は知られている。初めて見られたときはゲラゲラ笑われたものだ。

「…………」
「ん? どうしたの?」

 父と教科書の話をしていると、飛雄がカレーを食べ続けたまま、また不愉快そうにぶすっとした。
 そういえば、家に来たときも同じ顔をしていたなと、一度はスルーしたことを思い出す。

「部活でなんかあった?」
「…………」

 確実になんかあったな。不愉快そうなまま、黙りこくってなにも言わない様子から察した。
 言いたくないなら無理して聞き出さなくてもいいかと、もう一度スルーしようとすると、

「……部活のヤツらに、キレられた」
「え? なんで?」
「知らねえ」

 まごまごした喋りで事情を話されるが、要点がつかめない。飛雄も理由がよくわかっていないようで、ただただ気に食わないといった様子だ。

「なに言われたのか話せる?」
「……ズルいって言われた」
「ええ? なにが?」
「俺だけ構ってもらってズルいって」
「ごめん、よくわかんない」

 説明が足りなさすぎて、なにも理解できない。口の周りをカレーで汚しながら、なんでわからないんだと不満げに見てくる飛雄に、私は悪くないとの意味を込めてジト目で返した。

「もうちょっと詳しく」
「……毎日、千早と朝一緒に学校に来て、カレーも作ってもらって、勉強も見てもらって……あと、千早といつも一緒にいる先輩にもかわいがられてズルいって言われた」
「な……なんだそりゃ」

 ようやく詳細が聞けたが、それでも話がつかめない。喧嘩というわけではなさそうだ。飛雄が責められるようないわれもないと思う。
 理不尽に責められたのなら、飛雄があまりに不憫だと同情の念を抱くと、

「あっははは! それはしかたないっちゃあ、しかたないかもな!」

 父が大笑いした。

「なにがしかたないの?」

 飛雄が悪いことをしたと決まったわけでもないのに、責めた側の肩を持つ父に少しムッとした。

「そりゃあ、アレだよ。飛雄君がうらやましいんだろ」
「ええ? なにがうらやましいの?」
「年頃の男の子が、女の子に構われるのをうらやましがるのは普通だろ。嫉妬だよ嫉妬。かわいいもんだろ」
「いや、だとしても、沙織や彩花ならともかく、私もそこに含まれるのは困るな……」

 父の言うことが正解かどうかは知らないが、本当にそうだとしても、私はただの幼なじみであって友達である。ましてや、同級生の男子を背負い投げした場面も見られて、一時期は遠巻きにされた。自分で言うのもなんだが、虫や爬虫類などの生き物が平気で、むしろかわいがっている女に魅力を感じるやつなどそういないと思っている。変人扱いされている自覚はあるのだ。

「あ……もしかして、私の教科書貸さないといけない雰囲気だったってのも、それが原因?」
「…………」

 飛雄は黙りこくる。当たりのようだ。

「周りのヤツらの勢いが、なんかスゴくて、つい……」
「そういうことかー……ごめんね、責めちゃって」
「いや、俺も勝手に貸して悪かった」

 事情がわかれば、飛雄を責めるのはかわいそうだと、又貸しについて怒ったことを謝罪した。

「でも、私はバレー部の人たちに変人扱いされてるんだよ? 怖がってる人もいたのに」
「そこまではわからないけど、相手がだれとかはともかく、飛雄君がうらやましいポジションにいるのは間違いないと思うぞ」
「俺にどうしろと……」

 飛雄は眉根を寄せて、困惑している。

「部活やりにくいなら、距離置こうか?」

 飛雄に迷惑をかけるのは本意ではない。部活に集中してもらうためなら、朝の登校を一緒にするのをやめるし、家に呼ぶことも、友達と会いに行くことも一切やめる。
 飛雄と距離ができるのは寂しいが、第一に優先すべきはバレーだ。その思いで提案してみると、

「しなくていい!」
「でも……」
「カレー食べられなくなんのは嫌だ!」
「あ、そう」

 飛雄の返答に、このカレー馬鹿め、とあきれた。

「飛雄がいいって言うなら今までどおりにするけど、やめてほしいことあったらちゃんと言ってね」
「わかった」

 バレー部で起きた一悶着ひともんちゃくを知り、また悩みの種が増えてしまったと悶々する。
 これまで男子との距離感を深く考えたことはなかったが、幼なじみと言えど距離感を考え直さなければならないのかもしれない。男子よりも女子のほうが距離が近いのは確かだが、中学生にもなれば、もっと男女間で距離が広がってもおかしくはない。
 小学生の頃と同じようには立ち行かなくなり、自分の行動をまた見つめ直すべきかと悩みがふくらむ。

 もしかして、クロと研磨も困らせてたかな……。

 ふたりの本音を知りたくとも、わざわざこんなことを聞くのはきまりが悪くて聞けない。

 沙織と彩花に相談してみようかな。

 ひとりでは解決に至らない悩みを、友達に打ち明けようと決心する。ふたりなら、込み入った話も真面目に聞いてくれるだろう。頼りになる友達なのだから。

 私が思い悩む間も、飛雄はカレーをおかわりして、もりもり食べて胃袋の中にかき込んでいた。
 飛雄を見ていると、私が深く考えすぎなのだろうかと、また悩む。

 今、あれこれ考えてもしかたないか。
 答えを決めるのは、沙織と彩花に相談してからでもいい。

 そう結論を出して、その日は素直に夕飯の時間を楽しんだ。