そのひと時は久々に
10月上旬。暑苦しい時期はとっくに過ぎ去り、心地よい清秋の風が吹く季節。
中学に入学してから半年が過ぎたある日のこと。
日曜日の午前中。雨がしとしと降る中、私は買い出しの帰りに研磨の家へ寄った。
「研磨、ゲーム返しにきたよ。貸してくれてありがとう」
「わざわざ持ってきてくれたんだ」
玄関先でバッグからゲームソフトを取り出し研磨に返す。
研磨がわざわざと言ったのは『雨の中わざわざ家に寄らなくとも学校で会えるんだから、そのとき返せば二度手間にならないのに』といった意味だと察する。
研磨の家に寄らずとも学校で返そうかとも考えたが、先生に見つかって没収される可能性を考えれば恐ろしくて持って行けなかった。なにより自分の所有物ならまだしも、人からの借り物だ。なおさら没収なんてされてたまるかと、手間はかかるが自宅まで届けようと思い至った次第である。
「ストーリーと世界観の設定がすごく良かったし、参考になった。クリアするまで時間かかったけど……」
「敵が強いのばかりだからね。やっぱり千早には難しかったか」
「研磨はゲームシステムが良いって言ってたけど、クリアするのに必死でそこまで気にする余裕なかったよ」
研磨から借りたゲームは、実力が下手の横好きレベルの私にはかなり難しく、クリアに至るまでが大変だった。
しかし、暇つぶしや興味本位で借りたわけではなく、私にとって目的がありプレイする必要があったので寝不足になりながらもがんばったのだ。
「千早じゃん」
「あ、クロもいたんだ」
私たちの会話が聞こえてきたからだろうか。二階からクロが降りてきた。
「遊びに来てたの?」
「研磨とバレーしようかと思ってたんだけど、雨降ってきたからトランプしてた」
「トランプ? ゲームとか試合のDVD観るとかじゃなくて?」
「なんか今日……テレビの調子悪くて動かないんだ……」
「研磨にとって死活問題だね」
かわいそうにと研磨を見ると、あきらかにげんなりしていた。
「雨降ってるけど……帰り大丈夫?」
「大丈夫! 雨もたいしたことないし、家までそんな遠くもないじゃん」
研磨は帰りを心配してくれるが、それには及ばない。今のところ外はそれほど強い雨ではなく、買い出しの荷物は二袋あってパンパンに食材が詰まって重いが、普段から鍛えているので持ち運ぶのは苦ではない。研磨に言った通り、家まで距離があるわけでもなく普通に歩いて帰れる程度だ。
だからと言って雨の日に長く外出していたくもないので、さっさとお暇しようとしたが――、
「千早! 帰る前にトランプで一戦交えようじゃねえか!」
なぜかテンションの高いクロが止めに入る。あまりに急なクロの提案に、私と研磨は言葉も出ず
唖然とした。
クロはニコニコと人好きのする笑顔を浮かべている。本人は平静を保ち、本音を隠しているつもりだろうが、その笑顔の裏から必死さが
滲み出ている。私はその表情から、クロの
目論見を薄っすら察した。
これは……なにか
企てている顔だ。
研磨の方にチラリと視線を流すと、あきれてものも言えないとでも言いたげな顔で、ハァーとため息をついていた。
この様子からして、おそらくなんらかの理由でコイツは私と勝負をつけたいのだろう。そして負かしたいと。その理由がなにかはわからないが、こういうときのクロには乗っからない方が身のためだ。
「いや、今日は帰るよ。お隣さんからもらった"リンゴ"がいっぱいあってね、食べきるの大変だからこれからお菓子作ろうと思ってるの。それに、お父さんのお友達が今日うちに寄るらしくて、旬の"サンマ"を持ってきてくれるって。午後に来る予定だから受け取れるよう家にいなきゃ。せっかくだから夕飯サンマにしたいし、どのくらい持ってきてくれるかもわからないから、食べきれなかったら明日も食べれるように下処理して保存しなくちゃいけないの。やることがたくさんあるから……ね?」
この場を去りたい一心で、舌がぐるんぐるん回る。とにかく必死だった。
嘘は言っていない。ある程度の下準備は買い出し前に終えているから、言うほど忙しくはないだけだ。リンゴもサンマも、クロの企みを避けるための方便に使っただけである。
今度こそじゃあと帰ろうとしたが、ふたりの様子がおかしいことに気づく。
「リンゴの……お菓子……?」
「旬の……サンマ……?」
私の話を聞いたふたりの表情が、にわかに輝いた。
その反応を見て、しまった……と自分の失言を悟った。
「リンゴのお菓子、なに作るの?」
「サンマ、いっぱいあるのか?」
リンゴ、サンマ――それぞれの大好物の材料であることを忘れていた。
研磨はアップルパイ、クロはサンマの塩焼き。大好物であれば心が惹かれないわけがない。その上、今の季節は秋。リンゴもサンマも、一年中でいちばん美味しくなる季節だ。実際、リンゴはアップルパイにするつもりで材料を用意していたし、新鮮な旬のサンマなら下処理なしで美味しく焼きあげられるからシンプルに塩焼きにする予定だった。
この場を逃げきるために使った方便が、ふたりの興味をそそらせる燃料となってしまった。思わぬところで火に油を注いだ数秒前の己の言動が恨めしい。
たぶんコイツらは今日、うちにやってくるつもりだ。そして焼きたてのアップルパイとサンマを食べたいと思っているはず。どちらも目からキラキラビームを放っている。
それらしい理由を述べれば忙しいとわかってもらえて、すぐにでも帰れると踏んだのが甘かった。つまびらかに話してしまった私のミスだ。
「……………………わかった、お父さんに聞いてみる」
期待のまなざしに思わずウッ……とやられ、観念してしまった。
ふたりは私の返答にパァッと顔を明るくして喜びをあらわにした。
すぐさま携帯を開き、父のメールアドレス宛幼なじみたちを家に呼びたい旨を入力・送信すると、父から速攻で返信が来たので内容を確認する。
〈やったーーーーー!!!!!〉
とっっってもわかりやすい返事だった。この一文だけで了解を得たも同然で、おまけに大歓迎ときた。これで実はノーでしたと言う方が厳しい。
横目でクロと研磨を見れば、顔に「どうだった?」と書いてあり、見るからに期待している。
それぞれに目を合わせてからオッケーのハンドサインを出すと、ふたりは今日いちばんのまぶしい笑顔を見せた。「イェーイ」とグータッチなんかもしている。
大層うれしそうなふたりには悪いが、墓穴を掘ってしまった身としては複雑な心境だ。
逃げきれなかったことを悔やむが、私も大概ふたりに甘い。肩をすくめて小さくため息をついた。
「作るの手伝うからな!」
「できることなら、なんでもやるよ」
クロと研磨は、ふんすと鼻息荒く興奮している。大好物が懸かっているならば気合も入るのだろう。
「あ、研磨! 親に千早んちに行くって言わないと!」
「今出かけてるから……電話……!」
「俺も連絡しないと!!」
ふたりは、あわただしく二階に上がっていく。
こうして旬のリンゴとサンマを、研磨とクロにも振る舞うことが決まった。
意志薄弱な自分を嘆かわしく思うが、リンゴは元から量が多く、おそらくサンマも父とふたりで食べるには多いくらい届くと見ている。どう消費しようか悩んでいたのは事実なので、結果オーライだ。結果オーライ、便利な言葉だ。
トランプ勝負のことは絶対に触れないでおこう……イヤな予感しかしない。
クロのうさんくさい笑顔を思い出し、これだけは徹底して避けると決意した。当人はサンマに興奮してすっかり忘れているようだが、このまま注意が逸れてくれることを願う。
「父さんオッケーだって、すぐ準備してくる……!」
「俺もオッケーだった! よっしゃあ!」
すぐに話がまとまったようだ。研磨とクロは、ふたたび二階に上がっていった。
ふたりを待つ間、新たに増えた悩みの種をどう回避すべきか、ひとり作戦会議を始める。
その悩みの種とは――父である。今頃、自宅でウキウキと小躍りしているのは想像に
難くない。一生懸命お茶菓子とか探し回っているだろう。メールを見て、間違いないと確信した。
新たな心配事を抱えてしまい、ひとり
悶々としていると、クロと研磨が二階から降りてきた。
クロは荷物が少ないのか、上着だけを持っている。対して研磨はパーカーのままだ。
研磨は降りてきてすぐリビングに入り、お菓子がいくつか入ったビニール袋を手にして出てきた。
手早く準備を済ませたふたりは、玄関先で靴を履きながら、お互いほころんだ顔を見合わせている。
こんなに嬉しそうにされては、こっちも作り甲斐があるというものだ。内心くっそーと悔しがりながら、私もお菓子と夕飯を振る舞うのが楽しみになってきてしまった。
「俺、荷物持つよ」
「だ……いや、お願いしようかな」
大丈夫――と言いそうになったが、クロの立場を考えて荷物を持ってもらうことにした。
ひとりだけ傘を差している状況は手持無沙汰になるだろう。自分に置き換えて考えても、どうか荷物を持たせてくれとお願いすらしていたと思う。
二袋ある買い物袋のうち一袋をクロに手渡すと、クロは中身をしげしげ見ていた。
「おれも、持とうか?」
「持てるから大丈夫だよ。研磨はその袋があるでしょ」
「……わかった」
多めに入ったお菓子の袋を抱えて、研磨は少し気まずそうだ。気を遣ってくれたのはわかる。しかし、私だけ荷物を持たないのは所在ない。みんなで一袋ずつ持てばバランスが良いと思った。傘を差しながら二袋持つのも歩きづらいし。
「じゃ、行こっか」
ガラリと玄関を開ければ、来たときは弱かったはずの雨足が強くなっていて驚いた。ザーザーと雨音が周囲の音をかき消している。
この降水量ならば足元が濡れるのはやむを得ないだろう。多少不満はあるが甘んじて受け入れようと傘を開き、ピチャピチャと音を踏みつけて帰路につく。
強い雨の表現って、なんだったっけ……。
驟雨、
豪雨――
村雨は古い言い方だったかな? 気象用語でも色々あったような……あとで調べよ。
雨に打たれながら、ぼんやり取るに足らないことに思いふける。
「ネギ、卵、牛乳、納豆、豚肉、大根、漬け物、梅干し、冷凍うどん、カップ麺と……いっぱい入ってんな」
クロはまだ食材に興味を示していた。たぶん、サンマの塩焼きを期待してめぼしいものを探したのだろう。大根を見つけたときのにやけ顔を見てしまった。
「夕飯用と軽食用で色々買い込んだからね」
「あっ、千早の袋からなんかの粉が見える……! もしかして、アップルパイに……!?」
「強力粉だね。アップルパイ作るつもりで材料買ったから。てか、研磨はアップルパイを期待してたんでしょ」
「…………千早は察しがいい」
「研磨はわかりにくいようで結構わかりやすいよ」
他愛のない話が続く。久々に訪れた穏やかな時間だった。
中学に入ってからというものの部活漬けの毎日で、私たち三人が揃う機会はめっきり無くなった。たまに今でも河川敷でバレーをしているが、小学生の頃と同様にとまではいかない。加えて、私は以前に増して家庭に専念するようになり、バレーと勉強と家事を並立して毎日があわただしい。
お互い交友関係も変われば、日々の過ごし方も少しずつ変わり、それに伴って行動を共にする時間が減った。
それでも、こうしてたまに三人揃って会う機会が今でもあるのは、素直にありがたい。
だからこそ甘くなるのかなぁ……。
なんだかんだ言いながら、友人との時間を楽しんでいる。トランプ勝負のことは気がかりだが、今日くらいは楽しもうと、いつもどおり頭を切り替えた。
ちなみに、うちの父はふたりのことが
大層お気に入りだ。わが家に遊びに来ると、仕事を投げ出してお出迎えし、
自らもてなしてその場に居座るほどに。さも当然のように、ふたりの隣をキープする。そのたびに「仕事しろ!」と私が叱るのが一連の流れだ。悩みの種とは、これである。
在宅仕事であるため、父は今日も家にいる。久々に幼なじみふたりが家に来るのだから、おおはしゃぎするに違いない。仕事の締め切りも近いから浮かれている場合じゃないというのに。
私が
防波堤にならないと……!
トランプ勝負よりも、正直こっちのほうが懸念だった。父の仕事の進捗を守れるのは私しかいない。しっかりしなくては。
「な、なんか顔怖いぞ千早」
いつの間にか顔がこわばっていたようで、クロに指摘されて気づいた。
「ごめんごめん。お父さんのことを考えてて……」
“お父さん”の単語でおおかた察してくれたらしい。ふたりが「あぁー…」と言葉を
漏らして、控えめにハハッと笑った。
「おじさん忙しいんだよな? やっぱり急に家行くのはマズかったか……?」
「大丈夫! 全ッ然問題ない! お父さんめっちゃ喜んでるし! それに私も楽しみだから! お父さんがまた仕事投げ出してふたりにウザ絡みしないか心配なだけ!」
「べつに、俺はおじさんいても構わないけど? おもしろい人だし」
「おれも……」
「あっ、でも仕事があるか……」
「そう! 気を遣ってくれるのはありがたいけど、締め切りが近いのに私たちと遊んでいるヒマが今のお父さんにはないの! いざとなれば力づくでも……」
拳に力を込めながら言うと、ふたりの顔が引きつった。
そうしてだらだらおしゃべりしている間に、自宅マンションに到着した。
建物に入る前に、外で傘を閉じてバサバサと雨粒を振り落とす。大量に飛び散る雨粒が、降水量の多さを物語っている。結局、足元はびしょ濡れになった。
オートロックマンションであるため、四桁の暗証番号を入力し、風除室を抜けてエントランスに入る。
この一連の流れを目の当たりにするたび、クロと研磨は「おぉ…」と、ふたり揃って感嘆の声を漏らす。
ふたりの心をくすぐるなにかがあるのだろう。気持ちはわからなくもない。私にとっては今や手慣れた作業だが、住み始めた頃はふたりと同じ気持ちになっていた。
「あれ……? エレベーター使わないの?」
「あ、ごめん! いつもの癖で!」
階段を昇ろうとする足を止めて、エレベーターの前にスタンバイするふたりの元へ駆け込んだ。
私は日頃の生活を、できる限りトレーニングとして消化するため、エレベーターやエスカレーターをなるべく使わず、階段を利用することを意識しながら生活している。状況にもよるが、ただの買い出し程度ならいつも階段を選ぶ。その習慣がつい出てしまった。
今日はふたりを招いているし、荷物も持たせているのでエレベーターを使うべきだった。特に研磨なんて省エネ気質だし。
エレベーターに乗り込み、7のボタンを押す。上昇し始めたエレベーター内で、三人揃って顔を見上げて階数表示を眺める。エレベーターに乗るとみんなコレやるよなあ……とか考えた。
「ねえ知ってる? エレベーターの階数表示の板って『インジケーター』っていうんだよ。もしくは『
表示灯』とか『
階数表示器』ってもいうんだよ。細かい使い分けがあったと思うけど、それは忘れた」
「豆いぬみたいな語り口だな」
図らずとも豆知識を教えてくれるキャラクターの口調になった私に、クロのツッコミが入る。
研磨は小声でボソッと「インジケーター…」と呟き、目を輝かせた。横文字、あるいはゲームの技っぽい名称に惹かれたのだろうか。
4、5、6――階数の番号が順番に光っていき、7でチャイム音が鳴って扉が開く。
エレベーターを降りて外廊下に出れば、ふたつ隣の部屋に住むママさんの佐々木さんとばったり会った。
「こんにちはー」と挨拶をして軽い世間話を交わすと、佐々木さんが、びしょ濡れになった私たちの足元を見て、秋とはいえ寒くなってきたから風邪ひかないように気をつけるのよ、と心遣いの言葉をくれた。佐々木さんの言葉はいつもあたたかい。
感謝を伝えてから佐々木さんと別れ、部屋を目指して歩く。
少し歩けば部屋に着き、扉を開けると、玄関に置いている芳香剤から漂うフリージアが鼻に広がった。
「あがってあがってー。スリッパはそこに出てるの使って」
「お邪魔しまーす」
「おジャマ、します」
「おとーさーん! ただいまー! いるー?」
靴を脱いでスリッパに履き替えながら父に呼びかけると、バタバタ大きな足音を立てたかと思えば、次いでドサドサッ!となにか重いものが複数落ちる音が聞こえてきた。突然の物音にびっくりした私たちは、身を縮めて呆気に取られた。
帰宅して早々あわただしくなるわが家。思わず「あちゃー…」と額に手を当てた。
「てつろーくん! けんまくん! いらっしゃい! ひさしぶりィ!」
父が歓喜の声を上げて、リビングから勢いとともに華麗に滑り出てきた。漫画であればシュバーッ!とかあたりの効果音がついただろう。
喜色満面にあふれ、お花が飛び散っている幻覚すら見えた。
あまりの熱烈な歓迎に押されたクロと研磨が、びっくりして体を飛び上がらせていた。クロは挨拶が「こ、こん……」で途切れ、研磨は言葉も出ていない。
父がそのままふたりに飛びかかる勢いでこっちに寄って来たので、マズイ!と危機感を覚えた私はとっさに手を広げて、遮るようにふたりの前に立った。
「お父さん! うれしいのはわかるけど落ち着いてよね! おっきい物音まで立てて! 近所迷惑になるでしょう!? ふたりのこともビビらせないで!」
ぴしゃり。父に一喝する。
とたん、動きが固まっておとなしくなった。
「はぁー……ふたりともびっくりさせてごめん。とりあえず荷物置こうか。……ほら! お父さんは仕事にもどって! あとでまた声かけるから!」
「えぇ!? お父さんもみんなと遊びたい!」
「昨日、出版社の人から進捗確認の電話が来てたでしょう!?」
「でも、これからお菓子作りするんでしょ!? 大人の監督がないとダメだろう!」
「私がいるから大丈夫! それに私らもう中学生だよ!? お父さんは締め切りが近いんだから踏ん張らなきゃ! 後回しにしてきた分、今追い込まないと間に合わないよ!」
続けざまに叱り飛ばすと、父はあきらかに気を落として「せっかく……鉄朗君と研磨君が来てくれたのに……久々なのに……」とぼやき、すごすごと
踵を返した。背中から哀愁が漂っている。
「おじさん、大丈夫か? めっちゃ落ち込んでいたけど」
「休ませてあげたいのはやまやまだけど、良いネタが浮かばないーとか、話の展開が上手く書けないーとか愚痴こぼしてばっかで仕事後回しにしてたから、ちょっとはがんばってもらわないと。尻に火がついてるの」
「尻に!? なにそれ怖ッ!? かちかち山のタヌキの話か!?」
「モリオなら溶岩に落ちても、ケツが焦げるだけで済むよ」
「追いつめられてるってこと! 慣用句! あと、かちかち山のタヌキのやけどは背中! モリオの話はしてないッ!」
ズレたことを言う幼なじみに、すかさずツッコんだ。
「あ、お土産……渡しそびれた……」
「私からお父さんに言っておくよ、お菓子ありがとう。あ、クロ、上着そこのハンガーにかけていいよ」
「おう」
研磨からお菓子の袋を受け取り、キッチンのウォールキャビネットの中にしまい込む。外から帰って来たので、三人で順番に手を洗い、うがいも忘れない。それから買い物袋の中身を手分けして冷蔵庫の中に入れた。
「はい、エプロン。服汚れるからこれ着て。あとバンダナ」
「花柄……」
「俺のは、ヒヨコ……」
「私、使えればいい派だし、それ安かったから買ったの。汚れるよりいいでしょ?」
花柄ピンクのエプロンをまとう研磨と、ヒヨコが胸元にプリントされたイエローのエプロンをまとうクロ。中学生男子にしてはかわいらしく、ちょっとキツいチョイスだったかもしれないが、サイズ的にこれ以外のエプロンがないので受け入れてもらうしかない。
バンダナはよくある無難なペイズリー柄のもので、ピンクを研磨に、イエローをクロに渡した。配色は正直狙っている。ふたりから何か訴えたそうな目を向けられたが、知らんぷりした。
自分も愛用のエプロンをまとって、頭にバンダナを巻いて、再度手を洗った。すでに手洗いうがいを済ませたが、先ほど少し雨に濡れた買い物袋や、スーパーで買ってきたものを触ったので、念のためもう一度。
自分だけ食べるならまだしも、今日は幼なじみも呼んでいるし、作ったアップルパイはリンゴをくれたお隣さんにもおすそわけするつもりだ。
他人の口に入ると考えたら、どうしても気を遣ってしまう。
私がもう一度手を洗うのに
倣って、クロと研磨も自ずと手洗いをしてくれた。
――じゃあ、始めるか。
腕まくりをして、作業を開始する。
「じゃあまず、型にパイシート敷くよ。打ち粉を振ってからめん棒で伸ばして――」
お手本を見せつつ、並行してふたりに一つひとつ指示を出していく。慣れない作業にクロと研磨は苦戦していた。
ふたりのぎこちない手つきでパイシートを伸ばす
様を見守りながら、オーブンレンジのスイッチを入れて予熱をかけ、あらかじめ冷やしておいたリンゴのフィリングを冷蔵庫から取り出しておく。
買い出し前に下準備をして良かったと思う。必要な調理器具も用意しておいたし、パイシートの解凍と、リンゴのフィリングを作るような時間のかかる工程も済ませていたので、スムーズに事が進む。ナイス私と自画自賛した。
「そうそう、型にぴったり敷いて、余った部分は切り落として。……コラ、よそ見しない。包丁で手切らないように気を付けて」
しゃかしゃか卵液を混ぜる動きがおもしろいのか、包丁を持ちながらじっと私の手元を眺めるふたりに釘を刺す。
ハッとしたふたりは、包丁をしっかり持ち直して慎重に扱った。
「お菓子作りおもしれーな」
「わりと……」
「ふふっ、楽しいならよかった」
型に敷いたパイシートの上にケーキクラムを乗せて、さらにリンゴのフィリングを乗せる。
「上にかぶせるパイシートはこのくらいの幅で切って、こんな感じで網目状に並べてね」
ふたりとも真面目に作業してくれるおかげか、とんとん拍子でお菓子作りが進んでいく。
普通サイズのアップルパイを作り終えたら、今度は一口サイズのアップルパイを作っていく。こっちは型を使わないミニサイズだから、さっきよりも作るのが楽だ。
クロと研磨にコツコツ作ってもらう間に、私は卵液の準備をする。片手で卵をパカリと割るたび、クロと研磨が「おお…」と感嘆の声を漏らすのがおもしろくて、必要以上の個数を割ってしまった。
そうして形になったアップルパイは、それぞれ個性のある仕上がりになった。
私は作り慣れているので、それなりに格好つく形にできた。クロはところどころ歪ではあるが、初めてにしては上手いし、十分な出来栄えだ。ぶっちゃけ私が初めて作ったときよりも上手い。悔しいので口には出さない。研磨は……ちょっと手を抜いたな。わかるぞ私には。少しだけ手直ししておこう。
最後に
刷毛で生地に卵液を塗り、ようやくオーブンで加熱だ。
「ひとつずつ焼いていくよー。何回かに分けて焼くから、焼き上がるまで大体40分くらいかかるかも。しばらく時間かかるから、その間に片づけしちゃおう」
焼き上がる過程が見たいのか、ちょっと名残惜しそうにするふたり。それも一瞬だけで、すぐに作業していたテーブルに戻ってきて片づけを始めた。
テーブルの片づけはふたりに任せて、私はシンクに運ばれてくる器具をどんどん手洗いしていく。
今では食器洗いも毎日のルーティンになり板についたが、やはり食洗器がほしい。お父さんにお願いしてみようかな。
――ピンポーン。
「あ、もしかして! ちょっと出てくる!」
洗い物をしているとインターホンが鳴った。
急いで手についた泡を水で流して、タオルで手を拭いてから駆け足で通話ボタンを押す。
「はーい。 あ、松本さん! お久しぶりです! 部屋開けましたから、どうぞ入ってください!」
予想通り、モニターには父の友人である松本さんが映っていた。例のサンマを持ってきてくれる人だ。
松本さんが到着するまで片づけを再開しようと振り向けば、クロと目が合った。目で「サンマですか?」と尋ねてくる。
そうです、サンマですの意思を込めてサムズアップすると、クロの目が光った。
少し待つと、ふたたびインターホンが鳴る。モニターを確認してから玄関の扉を開けると、発泡スチロールの保冷ボックスを携えた松本さんが立っていた。
「お久しぶりです! 父のために、わざわざサンマ持ってきていただいてありがとうございます!」
「久しぶり、千早ちゃん。これくらいなんてことないよ」
松本さんと挨拶を交わし、わざわざ持ってきてくれたのだから家に上がってゆっくりするよう促したが、これから用事があると申し出を断られた。
それならばと急いで仕事中の父に声をかける。松本さんが来たと伝えれば、顔を明るくして玄関に向かった。
私は、玄関で松本さんと雑談する父を一瞥して、受け取った保冷ボックスをカウンターテーブルまで運ぶ。
キッチンを見ると、クロと研磨が洗い終わった器具を布巾で拭いていた。片づけを続けてくれたふたりに「ありがとう」と言って、拭き終えた器具を収納していく。
「ソレか!? それにサンマ入ってるのか!?」
「そうだよー。お父さん今お話してるから、すぐ戻ってくると思うし、そしたら一緒に開けよう」
「アップルパイ……ずっといい匂いしてる……!」
「そうだねえ。もうちょっと待っててね」
ふたりとも大興奮だ。今か今かと待ちわびている。
研磨なんて、洗い物を片付け終わったらオーブンレンジの前に張り付いて、アップルパイが焼かれる様子をかじりつくように見ている。
「じゃあ、片付けも終わったし、お皿とコップ用意しておこうか」
「おじさんも食べるんだろ? 四人分でいいか?」
「うん、お願い」
食卓にお皿、フォーク、コップを並べる。研磨は集中モードに入り込んでいたので、クロと顔を見合わせて、そのままアップルパイを眺めさせることにした。
「お待たせー! 鉄朗君、研磨君、ちゃんと挨拶できなくてごめんね? ふたりが来てくれて、ついうれしくてはしゃいじゃった」
そうこうしているうちに父が戻ってきて、クロと研磨が居住まいを正した。
「い、いえ、こちらこそ! お邪魔してます!」
「あの……お土産、大したものじゃないですけど……持ってきたんで、あとで食べてください……」
「千早から聞いているよ! わざわざありがとうね! もう俺は、久々にふたりと話せて楽しいよ!」
父も大興奮だ。上機嫌でふたりに話しかけている。
「お父さん、サンマ開けていい?」
「もちろん!」
クロが待ってましたとばかりに口角を上げた。
私が保冷ボックスの前に立つと、三人がうしろからのぞいてくる。
期待を込めて蓋を開けると、中には立派なサンマが六本並んでいた。
「わあー! すげー! めっちゃ新鮮そう!」
クロの喜びようが
凄まじい。でも、私も同じ気持ちだ。
艶やかな銀色の体色はキラキラ輝いていて、目にくすみや濁りがなく透明だ。新鮮なサンマの背中には、くっきりとした黒い線が入っていると聞いたことがあるが、目の前のサンマにはそれがある。一本持ち上げてみると、硬く弾力があり、刀のようにピンと一直線に立っていて、丸々と太った
体躯が脂ののりを感じさせた。
「スッゴいのもらったね……お父さん……」
「松本さんの目利きはサイコーだな!」
素人目から見てもすごいサンマだ。研磨も感嘆している。
「クロ、よかったね。めっちゃ良いサンマだわコレ」
「俺、千早に出会えてよかった……」
「なんか調子のいいこと言い始めた」
ふと時計を見る。時計の針は午後3時を回っていた。おやつの時間としてはちょうどいい。
ひとまずサンマは後回し。夕飯までしばらく保冷バッグの中で冷やしておくことにした。
「お父さん、仕事はひと段落ついた?」
「いや……行き詰まってるけど……」
「そっか。アップルパイまだだけど、休憩がてらコーヒーでも淹れる?」
「じゃあ、お願いしようかな」
ぐったりして椅子に座り、深いため息をつく父。相当疲れが溜まっているようだ。
「ふたりも座ってて。飲み物出すから、好きなの飲んで休んでていよ」
「おう」
「うん」
クロと研磨には飲み物を三種類出す。オレンジジュース、コーラ、お茶のラインナップに、どれを飲もうかお互いに尋ねている。
コーヒーの準備をしている最中、帰宅して早々に父を叱りつけてしまった自分の行いを思い返して、罪悪感が募ってきた。
しかたない、しかたないんだ……仕事には守らなきゃいけない期限があるんだから……心を鬼にしなきゃいけないときだってあるんだ……。
罪悪感と責任感の
狭間で心が揺れ動く。父を労わりたい気持ちもあるが、責任を果たすための環境を整えるべく、時にはシビアな態度を取ることも大事だと経験から学んでいる。
厳しさと優しさの間を行く曖昧な気持ちをなんとか振り切り、ドリップコーヒーにお湯を注ぐ。ほろ苦い香りが立ち上り、鼻腔をくすぐられると、雑念が少し落ち着いた。コーヒーの香りにはリラックス効果が期待できると聞いたことがあるが、わりと本当かもしれない。
父にコーヒーを出してからオーブンレンジの中身を確認すれば、結構いい感じに焼けていた。仕上げにもう一回焼く必要があるので、ホイルをかぶせて焼き時間を10分に設定し、ふたたびスイッチを押した。
ここいらで私も休憩をはさみ、四人で雑談を交わしているうちに、オーブンレンジから「チン」と音が鳴る。その音に、研磨がいち早く反応した。待ちに待ったアップルパイが焼き上がったのだ、喜びもひとしおだろう。
急いでキッチンに向かいオーブンレンジのドアを開ければ、漂っていた甘い香りがさらに広がって幸福感が増した気分になった。
ミトンを手にはめてアップルパイを取り出し、焼き具合を確認する。――うん、いい感じだ。生焼けになっていない、生地もパリッとして美味しそうだ。
両隣で、クロと研磨がキラキラの目でのぞき込んでいる。特に研磨が「早く早く」と目で急かしている。
「今切るから待っててねー」
また板の上でアップルパイを六等分に切っていく。包丁を入れると、ザクリとした感触が手に伝わってくる。パイは何度か作った経験があるが、この感触はいつも感動する。
アップルパイの中から昇ってくる甘い香りを含んだ湯気と、食感の良さそうなサクサク生地、断面から見える綺麗なリンゴのフィリングが、私たちのテンションを爆上げさせた。
出来立てのアップルパイを前に、つい破顔してしまう。それはクロと研磨も同じだった。
――パシャッ。
突然シャッター音が聞こえてきて、音の発生源に視線を移す。いつのまにか携帯を構えていた父が、私たち三人を撮影していた。
「かわいい……みんながかわいい……! あとで鉄朗君と研磨君の親御さんにも送ろ!」
「ちょっと! なに勝手に撮ってんの! あとで私にも送って!」
「俺にも!」
「恥ずかしいんだけど……」
にぎやかに始まった撮影会は、10枚ほど撮り終えた時点で、私が父を止めたことで終了した。
あのまま撮影を許していれば、50枚は撮らないと父が満足しなかっただろう。大げさでも何でもなく、父の人柄をわかっている上での判断だ。案の定、素直に携帯を懐に納めようとせず、少しごねていた。
全員が席に着いたところで、カットしたほかほかのアップルパイを皿に取り分けて、めいめいに飲み物をコップに注ぐ。父にはコーヒーをもう一杯淹れてあげた。
「「いただきまーす」」
みんなで手を合わせて、出来立てのアップルパイにかじりつく。口の中に広がるあたたかい甘みが、ようやく一息つける時間が訪れたことを実感させた。
食べるとき火傷しないようみんなに注意しながら、私も気をつけて出来立てのアップルパイを口に運んでいく。我ながら文句のない出来だ。
研磨はめずらしく緩みきった顔でアップルパイを
頬張っているし、クロも「一仕事終えたあとのおやつは最高」とか言って、ムシャムシャおいしそうに食べていた。
根を詰めていた父も気が抜けたらしく、目の前のコーヒーとアップルパイに夢中だ。
「そういえば今さらだけど、松本さん、なんでサンマ持ってきてくれたの?」
「このあいだ松本さんの引っ越し作業を手伝ったんだよ。そのお礼にってさ。魚屋の店主と知り合いで、本人も釣り好きだから目利きには自信あるって言うし、せっかくだからもらっちゃった」
「仕事進んでないのに、お手伝いに行ったの?」
「ア˝ッ!? いや、それは……」
「……まあ、たまの息抜きは大事だよね。人助けも」
ほんわか緩んだり、急に
強張ったり、力が抜けたり、父の表情筋は忙しい。仕事の話題を逸らしたいのか、父がクロと研磨に学校とゲームの話を振った。
三人が雑談する様子を見て、ふと父のある一面について考え込む。
家に帰ってきた際、父の勢いがあまってふたりを驚かせたが、別にクロと研磨は父を苦手としていない。なんだかんだうちの父はコミュ強なのだ。あの研磨でさえも父とは普通に会話するのだから、そのコミュ力は折り紙付きだろう。三人の周りには、なごやかな空気が流れている。
それを横目に、アップルパイをフォークで刺し、また別のことを考え込む。
――このアップルパイは私が作ったやつだから、あとはクロと研磨が作ったやつも焼かなきゃ。それからミニサイズのも。夕飯のあとにでも焼いて、冷蔵庫で冷やしておいて、明日家まで持って行って……ああ、それからサンマも下処理しないと。夕飯の献立は、味噌汁と、だし巻き卵と、あとは……。
「千早、また顔が怖いぞ」
「えっ?」
クロに指摘され、自分の顔をぐにぐに触る。
「まーたゴチャゴチャ考えてたろ」
「ま、まあ、そのとおりだけど……ってか、またって?」
「前から思ってたんだよ。たまに顔怖くなってだんまりするなぁって。な、研磨?」
「え!? 研磨もそう思ってたの!?」
「うん……まあ……」
「えぇっ!?」
どうやら、私は考え込むと顔が怖くなる癖があるらしい。初耳だった。
「さっすが鉄朗君と研磨君。千早の癖バレてるね」
「お父さんまで知ってたの!?」
「お父さんだからね。小6の頃くらいの頃からたまに眉間にシワ寄って、目つきもこーんな鋭くなること増えた。前にも言ったことあるんだけど、覚えてない?」
「覚えてない……」
父が自分の目尻を指で吊り上げる。自分でも知らなかった新事実を突きつけられて、父の変顔を笑いたい気分になれなかった。
「初めに怖い顔してるのに気づいたのは研磨なんだよ。で、言われて俺も確かにって思った」
「最初はなんでそんな怖い顔するんだって思ってたけど……何回か見てたら、なんか考え込んでるんだろうなってわかった」
「たまに女子たちも怖がってるからな」
「うっそでしょ!? みんな怖がらせてたの!? どうしよ! 気をつけなきゃ!」
顔の皮膚を引っ張っては
潰して、また引っ張っては潰してを繰り返す。
たまに女バレの子たちに引いた態度を取られていたのは、そういうことだったのか。今さらそれに気づく自分の鈍さが情けない。
「んで? なに考えてたんだ?」
「あっ……夕飯とアップルパイのこと考えてた。クロと研磨と保存用で、四本は下処理しなきゃなって。夕飯食べ終わったら残りのアップルパイも焼こうかと」
「そんなこと考えるだけであんな顔怖くなってたのか!?」
「そんなに私の顔、怖かった……?」
「サンマって、本で数えるの? 一匹二匹じゃないんだ」
「そうだよ。研磨も今度から本で数えてみな」
「べつに、本じゃなくても伝わればいいじゃん……」
「研磨! そこじゃねーだろ!」
これ以上、私の顔について話を引っ張られても困る。騒がしいクロはさておいて、アップルパイを食べ終えたので食器を片付けて夕飯の準備に取りかかることにした。
「三人はもう少しゆっくりしてていいよ」
「いや、手伝うよ」
「まだ大丈夫。人手が必要になったら声かけるから」
お米を4合研いで、炊飯器のタイマーを5時半に炊き上がるようセットする。
次いで、サンマの下処理に取りかかる。保冷バッグの中から冷えたサンマを取り出すと、改めて新鮮さに感動する。
まな板のそばに料理本を置いて、それを参考にたどたどしい手つきで手順通り下処理こなしていく。
「へぇ……そうやって中身取るんだな」
「けっこう簡単にできるんだね」
下処理の作業に興味を示したクロと研磨が、キッチンをのぞきに来た。
父はどうしているのか気になって目線を移すと、また携帯を構えてこちらに来ようとしていたので「そろそろ仕事したほうがいいんじゃない?」とけん制すれば、肩を落として仕事部屋に戻っていった。
ああ……胸が痛い。
「なんで全部コレやらないで四ひ……四本だけやるんだ?」
「サンマって新鮮ならワタを取らなくても食べられるんだけど、苦くて好き嫌いあるし、取ったほうが風味が出るんだって。クロと研磨はワタ苦手だから取り除いて、お父さんと私はワタが好きだからそのままにする。あと、今日中に食べないで保存する分は下処理しないと味が落ちるし、菌も増えて危ないから必ずやりなさいって、このサンマくれた人に教わったことがあるの」
「なるほどなー。俺サンマは大好きだけど、まだ苦いところは食べられないから助かるわ」
「うん、おれも苦いところムリ」
下処理が終わったら、残り二匹は横腹の部分に切れ目だけ入れておく。六本すべて冷蔵庫に一旦保管しておいて、次は副菜の調理に取りかかるべく、冷蔵庫の中から食材を取り出す。
油揚げ、ネギ、卵、大根、その他諸々。
「ふたりとも、今大丈夫? 手貸してくれる?」
「よっしゃ任せろ!」
「お皿とコップは流しに入れればいい?」
「ありがとう研磨、あとで洗うから入れておいて」
食材と箸やボウル、すりおろし器などの調理器具をふたりに渡して、簡単な作業からお願いしていく。
だし巻き卵に使う卵液作りはクロに、大根の擦りおろしは研磨に任せる。
卵を片手で割ろうと挑戦するクロを見て、好奇心をくすぐられた研磨がソワソワしている。気づいたクロが研磨にもやらせていたが、ふたりとも上手く割れなくて、混ざってしまった殻を箸で取り出すのにワタワタしていた。
私もあんな感じだったなあと、料理を始めた頃の自分をしみじみ思い出す。
「卵液混ぜたら、こし器を使ってこして」
「なんでコレやるんだ?」
「卵液をこすと、ふわふわになるんだって。本に書いてある」
「へぇー」
「大根終わったよ。この量で大丈夫?」
「うん、おっけおっけ。次は油揚げ切ってもらっていい? こんな感じで……」
料理本に書いてあるお手本を見せて、次から次へと指示を出していく。アップルパイ作りのときも思ったが、いつもひとりで料理をするから、人手がある頼もしさにちょっと感動する。
午前中はサンマ以外になにを作ろうかずっと悩んでいたが、冷蔵庫には父特製の作り置きも残っている。今日中に食べてしまいたい食材だけ使うことにした。それほど多くの品数を作らなくとも間に合いそうだ。
だし巻き卵、わかめと豆腐と油揚げ入りの味噌汁、カイワレと大根とちくわを混ぜた和風サラダ――あとは父が作り置きしたほうれん草の胡麻和え、茄子の煮浸し――それからつくねが冷蔵庫にあったので、チーズを乗せて焼こうと思う。これだけあれば、とりあえず十分だろう。
栄養のバランスとかは正直まだよくわかってないので、思いつくものだけ作った。
クロと研磨に手伝ってもらいながら、大体の夕飯のおかずを作り終えたのは、夕方5時半を過ぎた頃。ちょうどいい時間だ。
ご飯も炊けて、蒸らしの10分も経ったところで蓋を開けて、しゃもじでかき混ぜる。ピカピカでふっくらした炊きたての白米の香りが、胃袋の空腹音を誘った。
おかずの盛り付けをクロと研磨にお願いして、お風呂のお湯を張るために一旦その場を離れて給湯器のスイッチを入れに行く。戻ってきたところで、サンマとチーズつくねを焼き始める。
サンマは水気をキッチンペーパーで取ってから塩を振り、予熱したグリルで加熱。つくねは油を引いたフライパンに並べて、焼き目をつけていく。
部屋中に香ばしい匂いが充満すると、クロが幸せそうな表情を浮かべた。
サンマが焼き上がったところでグリルを開けて、クロと研磨にお披露目する。パリッと焼き上がったサンマを見たクロが、今日イチではしゃいでいた。喜んでくれたようで何よりだ。
そうして食事の支度を進め、テーブルに夕飯が並んだところで時間は夕方の6時を回った。
「お父さん、入るよ」
父の仕事部屋に入ると、パソコンに向かって黙々と作業する背中が目に入る。少し猫背気味の背中から、疲労が感じ取れた。
「ご飯できたから、出てこれる? 一緒に食べよ」
「……ああ、もうそんな時間か。今行くよ」
こちらを振り向く父の顔を見れば、おやつ時よりも目の下のクマが深くなっているように思えた。罪悪感やら痛ましさやら、複雑な感情がせり上がってくる。
「おお……! いい匂いする!」
「俺たちも一緒に作ったんですよ! な、研磨!」
「は、はい。作りました」
「ふたりともありがとう、すごくおいしそうだよ。千早もありがとうな」
「うん……夕飯は、ゆっくりできそう?」
「もうすぐで仕上がるから、ちょっとはゆっくりできるかな。まあ、ちゃんと原稿を送るまでは安心できないから、夕飯食べたらもう少し仕事するよ」
「わかった……」
できることなら仕事を代わってやりたいが、父の仕事は父にしかできないことだ。私が余計にでしゃばったところで解決はしない。
あくまで私にできることはサポートだけ。
力不足な自分が、悔しく、もどかしい。
「じゃあ、あたたかいうちに食べよっか」
父の声かけにハッとして、一瞬沈んだ考えを振り払った。
四人で椅子に座り、同時に手を合わせる。
「「いただきまーす」」
「サンマだー!」「もうちょっと落ち着いて食べなよ」「胃袋に染みる……」三人の声が、夕飯時をにぎわしくする。
テレビを点けると、日曜日のバラエティ番組が流れた。テレビの向こう側では、芸能人たちが街中にある話題の飲食店を巡って、人気メニューを紹介している。
新鮮なサンマの塩焼きがおいしい。
父の作り置きのおかずもおいしい。
炊き立てのホカホカご飯が最高。
クロと研磨と一緒に作ったおかずも、普段よりおいしく感じる。
父がゆっくりご飯を食べている姿に安心する。
久しくにぎやかな食卓が、多幸感をもたらしてくれる。
アップルパイ作りだって楽しかった。
クロと研磨が帰ったあともやることはあるけど、苦に思わない。
今夜はぐっすり寝られそうだし、明日からまた部活をがんばれそうだ。
――なのに、これはなんだろうか。
懐かしい、前にも味わったことがある。
たんだんと視界がぼやけていき、現実味がなくなっていく。
目の前で流れているテレビを観ながら、しばらく覚えのなかった感覚を懐かしむ。
その正体は――いまだ気づかない。
「あっ、千早、明日学校でトランプ勝負しようぜ。絶対な」
「……えっ?」
「もう忘れたと思っただろ、ちゃんと覚えてっから」
「ちょ……あの……け、研磨」
「もう諦めたら?」
「や……やだァーーー!!!」
急なタイミングでぶっ込んできたクロの発言に、さっきまでの浮ついた感覚は綺麗さっぱり消え去った。
今あるのは、明日への不安感のみ。
やっぱり今日はぐっすり眠れないかも……。