頬を引っ叩かれたような




 怪我をした日から、約二ヶ月が経過した。
 安静にしていたおかげで損傷した膝の靭帯は治ったが、前のように歩くことはまだ難しく、今でもリハビリが続いている。

「ありがとう、手貸してもらっちゃって」
「いいよ! 気にしないで!」

 トイレに行くことさえも一苦労。普段の生活すらままならない。移動するたび、同じ部活のクラスメイトが手を貸してくれる毎日を送っていた。

「松葉杖生活もだいぶ慣れたけど、やっぱり不便だなあ」
「千早が早く部活に戻れるように、私もがんばるから、困ったことあったらなんでも言ってね」
「うん、いつも助けてくれてありがとう」

 迷惑かけてごめん――とは思っても言わない。きっと野暮な言葉だからだ。

 お母さんのお見舞いにも行きたいのに、足がこんなんじゃ行けない……。

 漠然とした不安は、今もなお付いて回っている。
 周りの人たちの助けもあって落ち着いていられるが、それが無かったら本当に頭がどうにかなっていたかもしれない。

「そろそろお父さん来る?」
「うん」
「じゃあ着くまで一緒に待つよ」
「ありがとう」

 父から到着の連絡が入るまで、友達がいつも教室で一緒にいてくれる。友達は授業が終われば部活があるが、父が放課後の時間に合わせて迎えに来てくれるので、十分部活に間に合うからと自分から申し出てくれて、今ではルーティンの一部になっている。

「あ、連絡きた」
「じゃあ昇降口まで行こっか」

 友達の手を借りながら昇降口まで向かう。途中、すれ違う人たちが私のために道を開けてくれたりもして、そのたびに「すいません」と「ありがとう」を繰り返していた。
 足を怪我して以来、このふたつの言葉を使う機会が格段に増えたと思う。

「靴、履き替えるよ」

 友達の助けを借りて、片足ずつ履き替えをする。なにからなにまでお世話になって、友達には頭が上がらない。
 昇降口を出ると、父が乗車しているタクシーがすぐに目に入る。私の姿を確認した父が車を降りて寄って来ると、友達は私のサポートを父へバトンタッチした。

「いつも千早を助けてくれてありがとう」
「いえいえ!」

 父の手を借りながら後部座席に乗り込み、シートベルトを着用する。窓を開けて、友達に手を振った。

「また明日ね、美奈。部活がんばって」
「うん、がんばる。またね」

 車が発進して、見えなくなるまで友達はそこに立っている。私は友達の姿をいつも通りミラーから最後まで確認していた。

「家に着いたら、そのままお母さんのお見舞いに行ってくるよ」
「わかった」

 私も行きたい――そう言いたくとも、ワガママであることを自覚しているので口にしなかった。
 言うことを聞かない足は、まだ万全ではない。一日でも早く完治させて部活に戻ることが最優先。ならば、ワガママを言うべきではない。
 そう自分に言い聞かせた。











「お父さん、車買おうかなー」
「え? また買うの? 引っ越す前に売ったのに?」

 その日の夕飯は、スーパーのお惣菜や作り置きの料理がテーブルに並べられていた。
 お気に入りの惣菜サラダを咀嚼していると、父から唐突に話を投げかけられた。

「東京なら電車でなんとかなるかーって思って、資金のために車売っちゃったけどさ、いざっていうときに車がないと不便だなって実感したんだよ」
「あー私が怪我してから、学校行くのにずっとタクシーだもんね」
「やっぱ自分の好きなようにできたほうが移動も楽だし、なにかと都合つけやすいしな。千早もそのほうが楽だろ」

 足を怪我してから悩んだのが、今後の移動手段。これまでは電車を基本として移動していたが、松葉杖を突きながらの電車移動は面倒くさいと想像できた。
 バリアフリーが整っているかどうかも、普段そこまで気にして駅構内を歩かないのでわからず、整っていることが判明したとしても、普段通りの動きができない時点でやっぱり面倒くさい。
 スポーツをやっている以上、いつか怪我を負う可能性は考慮していたが、まさかこのタイミングでそのときが来るとは想定していなかった。
 移動手段は他にも色々あるかもしれないが、現時点でタクシーが一番都合がいいと判断した。
 しかし、タクシーだって普段使いしていれば費用が馬鹿にならない。病院代もタクシー代も、すべて父の懐から出費されている。

「お金、大丈夫なの?」
「中古車で考えてるよ。新車買うよりも費用を抑えられるから。だから大丈夫」

 節約と貯金は日頃から心がけている。私の懐も無駄遣いをしなくなってから久しいので、中学生にしては貯蓄してあるほうだと思う。
 いざとなれば私のお金も足しにしてほしいと思うが、父はそれを許さないだろう。

 仕事、増やさないといいな……。

 父の負担を軽くするために始めたこれまでの行いが、私の怪我のせいでなにもできなくなってしまい、さらには出費もかさむようになってしまっている。これでは元の木阿弥もくあみだ。

「……無理だけは、しないでね」
「うん、しない」

 私の心情を察したのか、父はハッキリと口にした。

「ああ、それから……お母さんのお見舞い、またしばらく行けなくなりそうになった」
「えっ……また?」
「最近お母さんの調子が良かったから面会の許可が下りてたけど……感染リスクを抑えるために、次の面会は期間を置いてほしいって」
「そう……なんだ……」

 ズキリと心臓が痛む。
 不安は積み重なって、私の心を蝕んでいくようだった。

 それからはお互い特に会話もなく、夕飯を食べ終えた。
 夕飯の片付けも終わり、お風呂から上がるとメールが2件入っていた。

〈おじさんからもらったゲーム、色んなバグが見つかっておもしろいよ。クリアしてもわりと楽しい〉

 研磨からだ。前に貸したゲームは結局あげることになって、今もちょくちょく遊んでいるらしい。こうしてたまにゲームの感想をもらっている。

〈またバレーのDVD借りに行ってもいい?〉

 これはクロからだ。クロは、バレー好きな母が趣味で録画し集めたDVDを定期的に借りに来ている。

 私はそれぞれに返事をしてから、ソファに座ってドライヤーで髪を乾かした。
 髪を乾かしたあとは膝の濡れたテーピングを新しく巻きなおして、医者に指示されたストレッチを父が敷いてくれた布団の上で行う。リハビリが始まった頃は、毎日リハビリセンターに通わなければならなかったので大変だったが、今では家でリハビリできるようになっている。家にいる時間が増えただけで生活がぐっと楽になった。
 医者によると、想定していたよりも膝の治りが早く、この調子で順調に回復していけば後遺症もないだろうとのこと。だからこそ日頃から膝に気を配って、無茶な負担を強いる行動はしないようにと釘を刺された。
 父からなにか話を聞いたのか、私が調子こいて家のことに手を出すことがないよう注意されたのだ。要するに、ひたすら大人しくしておけと。実際はもっと丁寧な言い方だったが。

 ……あの男の子、元気にやってるかな。

 めまぐるしい日々が急に穏やかになると、余計なことをたくさん考えるようになった。
 ――バレーを続けていれば、また会える。
 男の子の言葉をふと思い出す。会えるとしたら全国大会だろうか。勝ち進むことができればの話ではあるが、いずれまた会いたいと強く思う。

 すごくバレー好きな子だったから、きっと今もがんばってる。それに比べて私は――。

 比較して、自己嫌悪して、落ち込む。
 いつからだったか、口癖みたく『情けない』と自分を責めるようになった。事あるごとに気分が沈んで、情けないと自分を卑下する。
 自分を否定した先に得るものなどなにも無く、意味のない行為だと頭ではわかっていても、後ろ向きな思考は止まらない。

 母に会いたい。バレーで活躍して喜ばせたい。
 父の負担を減らしたい。父のためにできることを増やしたい。
 クロも研磨もバレーをがんばっている。私も負けたくない。
 バレー部の仲間もがんばっている。早く復帰したい。

 やらなければいけないことが多すぎるのに、なにひとつできない自分が嫌だ。
 医者からの忠言を無視して、壊れた膝に怒りをぶつけたくなる。そのたびに思いとどまって、また自己嫌悪。

 布団にもぐり込んで負のスパイラルに陥る。無理やり目を閉じていれば、いつのまにか朝になっているはずだ。どうせ明日も、いつも通り気分の悪い朝を迎えるのだろう。
 どうか嫌なことがすべて夢であってほしいと空頼みしながら目を閉じた。







「おじゃましまーす。DVD借りに来たー」
「おジャマします」

 日曜日、幼なじみふたりがやって来た。
 DVDを借りたいと言ったのはクロだが、研磨もセットでいるのはなぜだろうとは思わない。いつものことだからだ。

「ふたりともいらっしゃい。最近よく来てくれてありがとう」
「おじさんのくれたゲーム、バグがいっぱい見つかって楽しいよ」
「ほんと? 研磨君が喜んでくれて良かったー」

 いつもなら私がやるお茶出しも、今は父が代わりに出している。

「足どうだ? 結構歩けるようになったよな?」
「治りが早いらしいから、予定より早く復帰できるかも」
「……顔色悪いけど大丈夫? 寝れてるの?」
「寝て……るよ。研磨こそ寝てる? ゲームで夜更かししてない?」
「してないよ」

 熟睡できてないことをごまかしたくて、思わず憎まれ口を叩いてしまった。研磨は少しむっとして口を尖らせた。

「お父さんちょっと買い物行ってくるから、ふたりとゆっくりしててな」

 玄関を出る音がして、部屋は静かになる。
 いつもなら簡単に出てくる雑談の話題も、今はなにを話せばいいかわからなかった。

「えっと……DVDだよね。いつもの棚から好きなの選んで持って行っていいよ」

 黙っているのも気まずくて、とりあえずDVDを選ぶよう促した。
 すぐにクロが動くかと思ったが、席を立つ様子もなく、なんだろうと不思議になっていると思いがけないことを言った。

「このあいだの賭け、一回分使うわ。悩んでること、いま全部話せよ」

 クロにしてはめずらしく直球だった。
 賭けのことなんかすっかり忘れていたし、まさかここで使われるとは思ってもみなかった。

「……賭け使うのはズルくない?」
「ズルくねえ。正当な権利だ」
「急すぎるって……」

 研磨が気になって見やれば、クロと同じく真顔だった。
 笑ってごまかそうと考えたが、効かないだろし、それをやってはいけない。

 ふたりには思い詰めていることがバレバレだったんだな……。

 直球勝負で来た相手を茶化すなんてできない。私を思っての行動なら、なおさら。
 諦めて、正直に打ち明けることにした。

「悩みって言われても……自分でもよくわかってないんだ。なにを話したらいいかわかんないし、楽しい話なんて一個も出てこないよ」
「楽しい話をしてほしくて聞き出してるわけじゃねえよ。怪我してから前に増して顔色悪いから、また頼り方忘れて思い詰めてるんだろうなって思ったんだよ」
「……千早ってもっと図々しかったと思うけど、ここ最近は人に気を遣ってばかりだし、おれたちにくらい話してもいいんじゃない?」
「図々しいって……」

  オブラートに包むことを知らない研磨の言葉にたじろぎつつも、幼なじみにまた心配をかけていた自分に自己嫌悪が始まる。

「……長くなりそうだけど、大丈夫?」
「大丈夫じゃなかったら聞き出さねえよ」
「なんでもいいから、お父さんが帰ってくる前に話したら?」

 父には聞かれたくない私の心情も察している。
 なにもかも幼なじみには見抜かれていそうで、少し怯えた。

「……部屋、片付けられないの」
「は?」

 どこから話そうか考えがまとまらなくて、突拍子もないことから切り出してしまう。

「前までは部屋の片付けなんて普通にできていたのに、最近できないの。したくないの」

 ふたりは今いるダイニングテーブルとは別の、テレビの前に設置しているテーブルに積み上がった勉強道具や資料に視線を送った。

「お母さんが、私とお父さんを心配していたから、安心してほしくて私も家事をやるようになったし、あまり好きじゃなかった勉強も一生懸命やるようになった。でも、最近それができないの」

 怪我をする前からそうだった。理由はわからずとも、自分の行動がおかしいことに薄々気づいていた。

「お母さん、ずっと調子悪いの。しばらく面会できなくなって、最近また面会できるようになったのに、また調子悪くなったって……」

 頬がこけて、体の線が細くなった母の姿は記憶に新しい。

「安心させたくてがんばってきたのにさ、なんでもできるようになったら、まるで"お母さんがいなくてもやっていける"って言ってるようなものじゃない? って思うようになって……でも、なにもしなくなったらお父さんを支えられないし、どうしたらいいかわからなくて」

 母の代わりを自分が務めることで母の心配は解消されると、どこか信じていた。

「お母さんがいないとダメなんだよ、だから早く元気になって……って、ずっと思ってて」

 その思いが、無意識で行動に出ていたのかもしれない。
 片付けても片付けても散らかっていく部屋が、自分の心を表していた。

「膝もさ、あの日練習に集中できていなかったの。ずっと頭がぼうっとしてて、だから注意が足りてなくて怪我しちゃったんだと思う」

 ふたりはなにも言わず、黙って聞いていた。

「バレー、楽しいのに、楽しいはずなのに――楽しくない」

 クロの眉毛がぴくりと動いた。

「好きなんだよ。バレー好きだし、練習して上手くなるのも楽しい。その気持ちに嘘はないの。でも……前みたいに楽しめないの」

 ボールに触る時間も前に比べて減っている。ただバレーを楽しいと感じているだけではなく、そこには"義務感"もあった。

「自分がなにをしたいか……わからないの。やらなきゃいけなことばかり考えてて、なにをやりたいかがわからない」

 毎日やるべきことをコツコツこなしていけば、いずれ不安は解消される。そう確定されたわけでもないのに、信じて行動するしかできなくて、結局空回っている。

 ――情けない。

 卑下が止まらない。なにもかも上手くいかない。行動に移して得られた結果は、周りの人たちに心配をかけさせただけ。

「…………私、なにやってんだろうって、落ち込んでばかりなの」

 これ以上、言葉が出なくて黙りこくる。クロと研磨も口を開かなかった。
 まとまりのない、ぐちゃぐちゃで意気地のない話を聞いて幼なじみはどう思ったのだろうか。怖くて、聞きたくなかった。

「……千早は、なんのためにバレーやってるの?」

 沈黙を破ったのは研磨だった。

「え、と……なんのためって……」

 研磨の言っている意味がわからなくて、言葉が出てこない。

「バレーをやる理由は人それぞれあると思うけど、少なくとも、今の千早みたいに苦しそうな顔をしてやることではないよね」

 容赦のない研磨の言葉にハッとさせられる。

「小学生の頃はもっと楽しそうにバレーしてたじゃん。おれらの前で泣くほど」
「な、泣いたけど……それは……」
「中学に上がってから、たまに変だったよ。楽しそうなのに、楽しそうじゃないっていうか、気持ちがどっかに飛んでる感じ」
「えっ……」

 幼なじみは、私の異変にとっくに勘づいていた。知らなかったのは自分だけ。

「おれはクロがやってるからバレーやってるけど、千早はなんか違うよね。急かされてる……じゃなくて、追い詰められてる?」

 研磨の言葉に胸が痛くなった。
 自分はそんな苦しそうにバレーをやっていたのか。指摘されて初めて知った。

「部屋が片付いてないことが増えたのも変だと思ったよ。千早がそんな適当なことするやつじゃないの知ってたから。……クロもずっと気にしてたよ」

 ふいに名前を呼ばれたクロに視線を移せば、悲しいような、怒ったような、なんと表現すればいいかわからない面持ちをしている。その表情は、私のズキズキ痛む胸を圧迫させた。
 かける言葉が見つかったのか、クロは私と目線を合わせて口を開く。

「……千早がバレーを始めたきっかけってなんだ?」

 なにを言うかと思えば、あまりに唐突な質問だ。

「きっかけって言われても……なんだったかな、急には出てこない」
「なんでもいいよ。思いついたこと、なんでもいいから聞きたい」

 考えの読めない顔は変わらず、クロは改めて尋ねてくる。歳の離れた子供を相手にするような、穏やかで優しい喋り方に少し怯んだ。
 クロの質問に答えるため、過去の薄い記憶を一つひとつ拾い上げて追憶する。

「確か……お母さんが、高校までバレーやってたらしくて、大人になってからもバレーが好きで、テレビで試合をよく観てたの。私にも昔からバレーの話をよくしてて……」

 思い出の中の、楽しそうに笑う母の笑顔が浮かんできた。

「それで、私ママっ子だったから、今もわりとそうなんだけど、それは今はいいか……えっと、私もバレー始めたらお母さん喜ぶかな……って思って。たぶん、それがきっかけ」

 すっかり忘れていたが、私はただ母の喜ぶ顔が見たくてバレーを始めたのだ。

「上達すればお母さんが喜ぶし、楽しそうにしていればお父さんも喜ぶから、それが嬉しくてずっと続けてきて……」

 バレーをがんばる姿を見せると両親は喜ぶ。その反応が嬉しくて、小さい頃からバレーを続けていた。

「お母さんが入院して、お父さんも忙しくなって、前みたいに両親揃って喜ぶ顔が見れなくなってからかな。バレーが楽しくないって少しずつ思い始めたのは」

 記憶を掘り起こしていくと、パズルのピースが埋まっていくように正解が見えてくる。

「バレーをがんばるだけじゃ満たされなくなって、お父さんの助けになれるかもと思って家事とか仕事の手伝いをやり始めたら、少しマシな気持ちになって、だんだんハマっていって」

 これまでの行動を思い返す。
 原動力は、いつも自分ではなく家族によって湧いていた。

「料理とお菓子がひと通り作れるようになったら楽しくて、お父さんが私が作ったものを喜んで食べてくれて、クロと研磨もおいしいって言ってくれて、それが嬉しくて、またがんばったりして……」

 次第に、原動力は家族だけではなくなった。

「部活のチームメイトのためにバレーがんばるのも嬉しくて、人のためにがんばるのって楽しいなあって思うようになってきて。自分が試合に出れなくとも仲間が活躍するだけで十分だと思えたし、自分が活躍すること自体に、あまりこだわりが無かったというか……でも、バレーがんばって結果出さないと、お母さんへの土産話を作れないし……」

 ふいに、病室で母に諭された言葉を思い出した。

 ――千早は、がんばり屋だからなんでもがんばっちゃうけど、自分のためにがんばるのも大事なことだよ。だれかのためにがんばれる千早を、お母さんは誇らしいって思う。けど、千早には心から好きだと思うことに触れて、楽しく生きてほしい。

 ああ、そういうことか。
 母の言葉に、ようやく得心がいった。

「私、自分がやりたくてバレーしてるわけじゃないのかもしれない」

 ストンと胸に落ちる。ひとつ、わだかまりが解消された気がした。
 クロと研磨は、私の言葉に目を丸くしている。

「どういうこと?」

 研磨が、疑問を投げかける。

「どう言葉にしたらいいか、上手く出てこないんだけど……私がバレーをやってて良かったって思えた瞬間って、いつもお母さんが喜んでくれたときなんだよね。さっき言った通り、私がバレー始めた理由も、バレーが好きなお母さんが喜ぶ反応が見たくて始めたの。私がバレーをがんばると喜んでくれて、お母さんが喜んでくれるならもっとがんばろうって思えた」

 できれば、こんなこと気付きたくはなかった。

「逆に言えば――お母さんが喜ばないなら、バレーをやる意味はないって考えてた」

 いつだってバレーの原動力は母の存在。
 良くも悪くも、そうだった。

「部活でも、私がレギュラーに選ばれなくて控え止まりになったとき、真っ先に考えたのが『お母さんになんて言おう』だったの。お母さんは私を責めないってわかってるのに、私が気が引けて言いづらかった」

 どこまでも他人軸な理由である。バレーは自分が好きで続けていたと思っていた――いや、思い込んでいたのかもしれない。

「病気で大変な思いをしているから、せめて私がバレーで活躍する話を聞かせることができれば、元気出るかなって思いながらバレーしてた。でも……最近、全然治る気配がなくて、お見舞いに行くたびに痩せていくし、病院の先生に止められて、お見舞いにすら行けなくなることも増えた」

 不安はずっと付きまとっていた。
 喜んでほしい相手が、いずれいなくなってしまうかもしれない不安。

「お母さんが笑ってくれるからバレーがんばってきたのに……もし、お母さんがいなくなったらどうしようって、考えたくもないことばかりで頭の中いっぱいになるの」

 バレーをがんばる理由は、母のため。
 母の喜ぶ顔が見れるのであれば、いくらでもがんばれた。
 母が病気を患ってからというものの、自分にできることを常に探し続けてきた。そのできることの中にバレーも含まれていた。
 母に喜んでほしくて、母に元気を分けてあげたくて、そのためにバレーをがんばってきた。

「バレーを続ける理由が、だんだん消えて無くなっていくように思えて、それがしんどくて、部活にも集中できなくなっていったの。私は、ただバレーが好きでバレーに夢中になっていたわけじゃなくて――お母さんのためになると思ってバレーを続けていたんだって気付いた。私のバレーは、自分のためにやっていたわけじゃなかったんだ」

 ずっと、自分はただひたすらバレーが好きなのだと思っていた。
 今まで楽しくなかったわけではない。バレーが好きだという思いに間違いはないが、私は――母がいなくなればバレーをやめてしまうのだろうと、どこか確信めいたものがあった。

「お母さんが元気になるのを信じてバレー続けてきたけど、もしかしたら、それが叶わないかもしれないって思い始めたら、どうしようもなく不安で……前みたいに、がむしゃらにバレーに向き合えなくなってきた」

 ふたりは黙っている。私も、これ以上は言葉を紡げそうになかった。

「ごめん、こんな話して。聞いてくれてありがとう。そろそろお父さん帰ってくる頃だろうし、DVDどれ持って行くか選んでいいよ」

 いたたまれなさに耐えられなくて、DVDを持って帰ってもいいと暗に伝える。

 自分の気持ちに着地点を見つける――それに至るまでは、まだ時間がかかりそうだ。
 母の病気も治らないとは決まっていない。近いうちに容体が良くなる可能性も捨てきれない。ならば、私はやるべきことを今までと同じように、毎日一つひとつこなしていくだけ。
 母のことは信じて待つしかない。元気になると信じて、明日からもバレーをかんばるし、家のこともがんばる。
 私にできることは、それしかないのだから。

「……ひとつ、聞いてもいいか?」

 重い空気の中、口を開いたのはクロだった。

「い、いいよ?」

 質問を許したが、クロの口からはすぐに言葉が出てこない。言葉に迷っているようだ。研磨もクロの様子を窺っている。
 数秒経って、ようやくクロは腹を決めた。

「……自分のためにバレーやってるわけじゃないなら、千早のやりたいことってなんだ?」

 意表を突かれた気分だった。
 クロになにを聞かれるか、頭の中でいくつか候補を挙げていたが、どれも違った。

「私の……やりたいこと……?」
「俺さ、思うんだけど、千早ってやらなきゃいけないことは毎日こなしてるけど、自分が本当にやりたいことには手を出してないんじゃないの?」

 言葉に迷う。なんと返答すればいいだろうか。

「やらなきゃいけないことをやるのと、やりたいことをやるのは別だからな」

 聞きたいのはそれだけだ、と会話をめてクロはDVDを選びに席を立つ。
 残された私と研磨の間には、気まずい空気が流れていた。

「…………おれもさ、話したいことがあるんだけど」

 この空気をどうしようか悩んでいると、研磨もおずおずと口を開いた。

「このタイミングで言うのはアレかなって思って、言わないでおこうって考えてたけど……いつ言っても同じようなものだから、ちゃんと話そうと思う」

 悪い意味で心臓の鼓動が早まる。
 研磨の言葉が、重く感じる。

「千早が義理堅い性格なのは知ってるけど、あまり相手のこと考えすぎても、やりきれなくなるときがいつかあるかもしれないよ」

 どういう意味か、理解が追いつかなかった。

「考えすぎって……やりきれないって……?」
「アップルパイ、あと、肉まんも」
「え?」

 本当に、なにを言っているのだろうか、研磨は。

「千早は自分より他人を大事にする性格で、そういうところ、おれにはできないからスゴいなって思う。けどさ、たまに至れり尽くせりが過ぎるところあるよね」
「な、なにがどう、そう思うの?」
「アップルパイ、おれたちが作ったやつ持ってきてくれたよね。おれアップルパイ好きだから嬉しかったよ」
「うん……喜んでくれて良かった」
「でも、あのときって、おれたちが急にお邪魔して、お菓子とご飯をごちそうになったんだから、それだけで十分なお礼になってたよ」
「でも、作るの手伝ってくれたし……」
「ごちそうになるんだから、それくらいするよ。肉まんは、おれは賭けの話とは関係ないから、片付け手伝ったお礼としておごってくれたのはわかる。けど、レアなゲーム貸してくれたじゃん。そのあとゲームもらったし。ちゃんと見返りあったよ」
「あのさ、なんの話……?」
「クロから賭けのルール聞いたけど、勝った回数だけ相手のお願いをなんでも聞くってルールでしょ? だったら、賭けを持ち出した時点でルールに則ってるわけだから、クロに肉まんをおごる必要は本来ないわけ。まあ、気分悪くはならないし、ダメってこともないけど」
「ご、ごめん、本当になんの話か掴めない」
「…………今のは例え話で、本題は別。千早は身内に優しすぎるって言いたいの」

 なおさら、理解が追いつかなくなった。

「いつも絶妙なラインを突いてお礼してくるからわかりにくいけど、千早っていつも一個か二個くらい多めに見返りをくれるよね。それ以外に、世話焼きでもあるし」
「せ、世話焼き……」
「おれのやりたいゲームがロールプレイだったとき、自分も同じゲーム買って夜更かししてまでゲームの練習してたときあったよね」
「あったね……確かに」
「千早は普段から忙しいのに、おれのやりたいゲームに付き合うために睡眠時間減らして練習して、一緒にゲームやってくれたよね」
「うん、やってた……」
「嬉しくなかったわけじゃないけど、そういうやりすぎなところ。ちょっと加減を覚えないとダメだと思う」

 言いづらそうではあったが、研磨は至極真面目な顔つきだ。

「責めてるつもりはなくて、説教のつもりもないよ。千早の周りの人を助ける性格は、良いことだと思う。けど、いつもそればっかりやってたら、疲れるでしょ」

 研磨らしい考え方だと思った。
 研磨らしい考え方で、私を心配してくれている。

「クロが早起きしなきゃいけない日があったときも、起きれそうにないって言ってたら、千早もわざわざいつもより早起きして電話かけてたじゃん」
「そんなことも……あったね」
「クロも遠慮すらしないでラッキーって感じだったけど、自分の問題なんだから自分で起きればいいのにって、おれは思ったよ」

 研磨の言葉が急ハンドルを切ってクロに刺さる。DVDを何枚か手に持ったクロが気まずそうな顔をしていた。

「クラスのトモダチとか、同じ部活の人たちにもそういうところあるよね。おれらにもそんな感じなのに、相手が両親になると千早はもっともっとがんばる。自分が大変な思いをしても、周りの人の助けになれるなら、千早は身を削ってでもがんばっちゃうよね。でも、千早自身は? 自分のためにがんばれることはないの?」

 自分のため――言葉が胸に刺さる。
 大切な人たちのために、自分にできることをやり続けていれば、それは自分のためにもなると考えていた。
 『情けは人の為ならず』このことわざを知ったとき、まさに自分の行動を表しているような言葉だと思った。その言葉通りに行動してきたつもりだった。
 けれども、勘違いしていたのかもしれない。

「その……色々言ったけど、おれが言いたいのは、他人のことばかり尊重して、自分のことは後回しにするの、よくないと思う。見ていられない。"トモダチ"として見過ごせない」

 研磨の言葉に、涙がにじんできた。
 大切な人たちを思ってしてきたことは、自分に良い形で返ってくるのではなく、相手に心配をかける結果になってしまった。
 これでは私の一方通行なだけではないか。

「誤解しないでね。責めてるつもりも、説教するつもりもないから。おれは、トモダチに自分も大切にしてほしいってお願いしてるの」

 にじんだ涙は決壊して、ポロポロこぼれた。
 研磨と、話を聞いていたクロがあわてて近づいてくる。ふたりとも「あ、え、う」と、あ行しか言えてなくて、両隣でワタワタしている。

「ごめん……ごめん……! 心配かけてごめん……! あと、ありがとう……!」

 研磨とクロは、目を丸くして、呆れたように笑った。

「ほら、ティッシュ使えよ」
「うう……ふたりとも抱きしめさせて!」
「え!?」
「やだ」
「なんで!? 今めっちゃ抱きしめてやりたい気分なんだけど!?」
「怪我してるんだから大人しくしときなよ」
「そ、そうだ。研磨の言う通りだ。大人しくしとけ」
「ありがとうって行動で伝えたい!」
「だったら抱きしめる以外でお願い」

 腕を振り回してなんとか抱きしめようとするも、ふたりにかわされる。
 「早く鼻かめよ」とクロに言われ、「顔汚い」と研磨に罵倒されたが、私はお構いなしだった。
 しばらく抱きしめようと試してみるも、椅子から立てないので無意味に腕を振り回しただけで試みは終わった。

「まっ、お前の単純さが裏目に出たってことだな。単純ゆえに極端で、人に頼ることをしなかったところとか」
「千早は案外バカなところあるからね」
「研磨はもうちょっと言葉に手心をというか……」
「手心を加えても気づくような察しの良さがあればそうしたけど、そうじゃなかったからストレートに言うの」
「もうこれ以上切り刻んでくるのやめて……ほんとごめんなさい……」
「ふっ……ははは!」
「ぶっははは! ボコボコじゃねえか!」
「もう……好きに笑って……」

 先ほどまでの重苦しい空気は、いつの間にか緩くになっていた。
 そのおかげか、いつものようにくだらない雑談を交えて、父が帰宅するまで私たちはいつものように笑いあっていた。

 ――やらなきゃいけないことをやるのと、やりたいことをやるのは別。
 ――他人のことばかり尊重して、自分のことを後回しにしてる。
 母も、これを言いたかったのだろうか。あのときは理解できなかったけど、今なら少しわかる気がする。
 病室で諭された言葉を思い出し、反芻した。

 いきなり明日から変わるのは難しいけれど、母と友達の言葉を胸に刻んで、少しずつでも自分を変えていこうと思った。