人生の転機と未練
半月後。膝の怪我は完治して、私は部活に復帰していた。
「はい、ドリンク!」
もう松葉杖を突く必要はない生活が快適で、体を自由に動かせることに感動を覚えていた。
それでも、しばらくは無理をしないようにと顧問の斎藤先生が下した判断により、私のやることはマネージャーの仕事が中心になっている。
激しい運動はできなくて、壁打ち、壁トス、筋トレなどの自主練も合間に行っているが、わりとマネージャー業のほうが楽しくて充実していた。
「千早の膝が予定より早く治ってくれてよかった。戻ってきてくれてうれしい」
「美奈がたくさん助けてくれたおかげだよ、ありがとう」
友達が毎日のように支えてくれたおかげで、膝も早く治ったのだ。感謝は尽きない。
「休憩終わり! 次、サーブ練習!」
齋藤先生の号令で部員たちがコートに戻り、私もボール拾いに入った。
不安はすべて解消されたわけではない。今でも気持ちが重くなる瞬間はある。
でも、幼なじみがぶつかってでも私の心の内を聞いてくれたおかげで、どこかすっきりした気分でバレー部に復帰することができた。
周りの助けが無かったら、いまだに思い悩んでいただろう。人に恵まれていることに感謝して、私も周りの人たちの助けになれることがあれば、全力で力を貸したいと思った。母と幼なじみの助言は忘れず、適度に。
帰宅すると、父からうれしい報せが入った。
「千早! 病院の先生からお母さんとの面会許可下りたぞ!」
「え!? ホント!?」
首を長くして待ち望んでいた母との面会。以前、諭された言葉の意味がわかったと母に直接伝えたかった。
「いつ!? いつ行ける!?」
「今度の日曜! 部活も休みだろ? 良かったなあ! 千早、会いたがってたもんなあ!」
「お父さんもでしょ!」
膝が治ってから、長らくお休みしてた家事と父の手伝いも復帰して、私はやる気に満ち溢れていた。今日の夕飯も、私が腕を振るって作ったおかずがテーブルに並んでいる。
クロと研磨に話を聞いてもらってから、私の心境に変化が起こった。父に心配させていたことを謝罪して、今後はどちらかに負担が偏るやり方ではなく、手分けして助け合っていこうと話が決まった。父もこれ以上は無理して仕事を増やさないと決めて、現状維持でやっていくと話していた。それでも十分に生活できるからと。
お互い心に落ち着きを取り戻し、以前に比べて会話も花が咲くようになったのがうれしかった。
母は、私たちが無理するのをいちばん心配していた。
母を安心させるために始めた行動が、結局は母を心配させる形になってしまったことは反省しなければならない。
人に頼る――もう無理はしないと誓った。
怪我してる間、手助けしてくれたみんなにお礼をしたいと思う。
またお菓子でも作ろうかな? なにがいいかな?
お世話になった人たちへのお礼の品を考えながら、母の面会日が待ち遠しくてウキウキしていた。
▼
「お母さん!」
「千早、久しぶり。膝は痛んでない?」
「もう大丈夫! 完全復活!」
久々に見る母は、あいかわらず声も体も痩せこけていた。
また不安が蘇りそうだったが、母に勘付かれないよう努めた。
「前より元気そうね」
「わかる? 色々あってさ」
幼なじみとの一件を、母に話す。
母はいつもの柔らかい笑みを浮かべて、静かに聞いてくれた。
「素敵なお友達ね」
「そうなんだよ! めっちゃ良いやつらなの! おかげで、お母さんに言われたことの意味もわかったよ。お見舞いでしか会えてないし、あと電話くらいしかできてないのによくわかったね。お母さんすごい」
「お母さんだよ? お見通しに決まってるじゃない」
やはり母はすごい。尊敬が止まない。
「お父さんも、いつもありがとう。千早は目を離すとすぐ無茶するから、これからもよく見てあげてね」
「わかったよ。俺に任せて」
父も久しぶりに母と顔を合わせたから、うれしそうだ。
「……お母さん。私ね、バレー楽しいよ。バレー好きだよ」
「わかってるよ。お母さんが好きなもの、千早も好きになってくれてうれしい」
「でも、お母さんの好きと、ちょっと違うのかなって思うの」
「うん。千早と好きと、お母さんの好きの形は違うのかもね。それもちゃんとわかったのね」
「やっぱり気付いてたんだ……」
「お母さんだもの」
母には、なにもかも見透かされていた。
「お母さんは選手としてバレーに向き合ってたけど、私は――選手じゃなくてもいいかもしれない」
母は変わらず、穏やかな雰囲気のまま聞いている。
「バレーは好きだけど、お母さんと同じ向き合い方じゃなくても楽しめるかもしれない。むしろ……」
「"サポート側"に回る方が楽しい?」
「そ……そう! それ!」
ここまで見透かされているとは、母には恐れ入る。
前に諭されたときは、曖昧な言葉ではなく、もっと明確に伝えてほしいと思っていたが、母は私が自分で気付くよう導いていたのだろうか。
「お母さんに良いところ見せたくてレギュラー入り狙ってたけど、私がレギュラーになれなくても、他のみんなの努力が実ってレギュラーになれたのを見れただけでうれしかったの。たくさん一緒に練習してきた仲間が活躍するのを応援するだけで、結構満足しちゃってる」
「そうなの。それはよかった」
「よかった……のかな」
「よかったに決まってるじゃない。千早が本当に好きなことを見つけた証拠だよ」
「そう……なのかな。それなら、いいな」
「じゃあ、これからは――"マネージャー"かしら」
「……マネージャー?」
また、母は新しい道を示してくれた。
――マネージャー。
とても、とても胸にときめく響きだった。
「マネージャー……うん、マネージャーいいかも」
何度も胸の内で噛み締め、飲み込むのを繰り返す。
「でも、今のチームにいるかぎりはバレー続けなさいね。中途半端には終わらせないように」
「うん、私もそう思ってるし、そうする」
「がんばりなさいね、お母さんはいつだって応援してるよ」
ひとつ、将来が開けた気がした。
今のチームで卒業までバレーをがんばって、高校生になったらマネージャーを始めてみようか。きっと楽しい毎日になるだろう。
"仲間の活躍を支え、応援すること"が、私のやりたいことなのだとハッキリ自覚した。
「千早、お母さんが前に言ったこと、覚えてる?」
「自分のためにがんばることも大事。自分の好きなことに触れて、私に楽しく生きてほしい……ってやつ?」
「覚えてくれててよかった。今でもそう思ってるからね」
「約束するよ。これからは、そう生きていくって」
「がんばれ千早」
「うん、がんばる」
笑い合って、母と指切りをした。
久々に触る母の手は、とても冷たかった。
今日の面会時間は20分間。時計を見ると、あと10分。
そろそろお父さんと交代しよう。ずっとお母さんとの会話を奪ってしまった。
「私トイレ行ってくるね」
区切りを付けるため、トイレに行くフリをする。
べつに行く必要はないが、私がいると話せないこともあるだろう。席を外して、ふたりだけの時間を作ることにした。
一応トイレに入り、出たあとはいつものように手指の手洗いと消毒を済ませてから病室に再入室する。
母の横たわるベッドに視線を向けると、両親は私がいるときには見せない幸せそうな顔をしていた。
よかった。ちゃんと、ふたりの時間を作れた。
ふたりだけの世界が出来上がっていて入りにくいが、戻ってきてしまったので割り込むしかない。
「あ、千早。戻ってきたのか」
「うん。時間は?」
「あと3分くらいかな」
「じゃあ、ギリギリまでここにいよっか」
残り少ない時間、私たちは目一杯に話を続けた。
この時間が、いずれわが家にも訪れることを願って。
そして、面会終了の時間となる。
私と父は、満足しないまま荷物をまとめた。
「お母さん」
「なあに、千早?」
「――ありがとう」
病室を出る前に、これまでのすべてを乗せて感謝を伝える。
母は一瞬だけ驚き、私がバレーをやりたいと初めて言ったときと同じく、朗らかに笑った。
「私こそ……ありがとう」
何に対しての感謝かはわからない。
けれど、母の心底うれしそうな表情からして、本心で言っているのは間違いなさそうだった。
名残惜しい気持ちを残して、私たちは病室を去った。
その日の夕方、私はクロと研磨をいつもの河川敷に呼び出した。
「三人でバレーするの久々だね」
「確かにな」
「部活やってるとなかなかね、千早なんておれたちより忙しかったし」
「まあねー」
クロから研磨へ、研磨から私へ、私からクロの順番にボールをパスしていく。初めて三人でバレーをしたあの日に比べて、私たちはずいぶんと上手くなっていた。
「で、なんで急に呼び出したの? ただバレーがしたいだけじゃないんでしょ?」
研磨が聞いてくる。やっぱり、わかりやすかっただろうか。研磨の言う通り、ただ三人で久々にバレーをするために呼び出したわけではない。
「……ふたりを頼らせてもらおうかなって、気持ちに踏ん切りをつけるために」
「なんのこと?」
クロが訝しげにこちらを見てくる。
ボールのパスは続けたまま、自分の思いをふたりに打ち明ける。
「私、バレーやめようと思う」
クロが、自分に来たボールを受け止められず、地面に落とした。
「い、今なんて……」
「だから、バレーやめる」
「なんでッ!?」
仰天しているのはクロだけではない。研磨も特徴的な猫目をまん丸にして私を見ていた。
「今日、お母さんのお見舞いに久しぶりに行ったの。で、お母さんと話したんだけどさ、これからはマネージャーやってみたいって思って、選手じゃなくて」
「マネージャー!?」
「急すぎて頭が追いつかない……」
呼び出し含め、急展開にビックリしているふたりに、私は続けた。
「……ふたりに話を聞いてもらってから、今までのこととか色々考えたの、本当に色々。で、今日お母さんのお見舞いに行って気付いたんだけど、自分の好きなこととか、やりたいことに当てはまるのって、バレー選手じゃなくてマネージャーなんじゃないかって思い始めたんだ」
落ちたボールも拾わずあんぐりするクロと、丸めた猫目を細めて顔によくわからないと書いてある研磨を見て、おかしくてフフッと笑ってしまう。
「今のチームにいるかぎりは最後までバレーやるよ。高校生になってからの話」
「膝の怪我でバレー続けられないとかじゃなくて……?」
「膝はもうなんともないよ。一生スポーツできないほどの怪我じゃなかったし」
「だからって、こんないきなり?」
「今日こうしようって決めたら、そうしてみたくなったの」
「今日考えて、今日のうちに決心するとか……」
クロが「はあぁー……」と野太いため息を吐いた。
「そうだった……忘れてたけど、コイツはこういうヤツだった……」
「思い切りがいいと言えば良いけど……悪く言えば猪突猛進タイプ」
「切り替えが早いのは私の長所でしょ」
「良くも悪くもね」
「研磨はどうしてすぐ私にチクチク言うかなあ」
相談もなしに急な話ではあるが、自分の進む道をクロと研磨に言われて決めるのは違うと思った。自分で考えて、納得した上で決めるべきだと。
バレーをやる理由はそれぞれ違っても、互いにずっとバレーで切磋琢磨してきた仲だ。自分で決めた道だけど、ふたりにきちんと報告したかった。
「しかたなく決めた、とかじゃないんだよな?」
「もちろん。クロの言ってた『やらなきゃいけないことと、やりたいことは別』って言葉が効いてるよ。ちゃんと"やりたいこと"を選んだよ」
「なら……なら、いいのか……?」
クロはどうにも納得しきれない様子だ。
「研磨の『自分を後回しにしてる』って言葉もね。自分を後回しにしないで考えて、決めたことだよ」
「……なんか思ってたのと違うけど、千早が納得してるなら、いいんじゃない、かな」
研磨も、まだ戸惑っていた。
「でも、マネージャーやるってもう決めてるのに、気持ちに踏ん切りをつけるってのは?」
研磨が戸惑ったまま、疑問をぶつけてくる。
「……マネージャーやるって決めたけど、バレーは小学生の頃からずっと続けてきたから、いざやめるってなると変な感じするの。だから、ふたりとバレーやれば、この気持ちを切り替えられるかなって考えて、頼らせてもらうことにした」
「思ってた頼り方と違う!!」
「アッハハ! クロは別の頼られ方を期待してたかもね!」
「なんでおれらとバレーをやるって考えになったのか……」
「なんとなく! 思いついたのがこれだったから!」
クロが落としたボールを拾い、ずいっと見せつけると、ふたりは今日イチの大きなため息を吐いた。
「……ねえ、クロは音駒高校に行くって話してたよね?」
「ん? ああ、そうだけど」
「研磨も同じとこに行くの?」
「まだそこまで考えてないけど、たぶん?」
「じゃあさ――私も音駒に行ったら、一緒にバレーがんばれるね」
そう言うと、またしてもふたりは目を丸くした。
「三人でバレーがんばるの、ちょっと夢だったんだ」
ずっと思っていた。小学生の頃、引っ越したばかりで不安定だった私と一緒にバレーをしてくれて、それからもバレーで繋がってきたふたりと一緒のチームでバレーができたら、きっと楽しいと。
今のチームの友達と同じ高校に行って、友達が所属したバレー部でマネージャーをやることも考えたが、その友達は中学でバレーをやめると言っていた。残念ではあったが、それならば幼なじみたちの活躍を支える形でバレーに携わりたいと、そう思った。
「バシバシサポートしてやっから、超がんばってね」
「こわっ……千早がサポート側に回るとか、鬼監督みたいになりそう……」
「研磨! そのチクチク言葉も矯正してやるからね!」
「マネージャーうんぬんの話より前に、お前は勉強がんばれよ。手抜くとすぐ平均点下回るからな」
「ア"ァ"ッ!! 勉強……!!」
「文系は問題ないのに、理数系ダメダメだからね」
「3年になったらよろしくお願いします研磨さん」
「やだ。今から自分でがんばってよ」
「お願いだよ!! 見捨てないで!!」
目標を決めた矢先に、別の問題が突然浮上して、私は軽くパニックになりかける。
「なんで勉強できないヤツって、自分でがんばらないですぐ人に頼るのかな」
「私に言ったアドバイスはもう忘れたの!?」
「頼れってハッキリ言ったのはクロでしょ。クロに頼りなよ」
「ケンマァ!! 都合よく俺に丸投げすんな!!」
「お願いだよォ!! 見捨てないでぇ!!」
それから三人でひとしきり揉め合い、結局バレーを再開して、この日は別れた。
これからは新しく見つけた目標のため、自分のやりたいことのため、やらなきゃいけないことばかりに目を向けずに、やりたいことにも目を向けて進んでいこうと決めた日だった。
▼
降り注ぐ雨粒の音が、痛いくらい耳に響く。
参列してくれた人たちからの、お悔やみの言葉が流れるように聞こえてくる。
――お経を唱える声が、全身に重く乗しかかる。
深く、暗い海に溺れているような気分だった。水中にいるみたいに、周囲の音がくぐもっている。
漂うお焼香の臭いで鼻が曲がりそうだ。心なしか、呼吸も整わない気がする。
なにもかも現実味がなかった。家に帰れば、母が「おかえり」って迎えてくれる気がする。
「皆様、本日はご多忙の中、亡き妻の葬儀にあたりまして、心からのご会葬をいただき誠にありがとうございます――」
父の挨拶を読む声はハッキリと聞こえているにもかかわらず、意識は母が眠る棺桶に向いていた。
――あそこに、お母さんがいる。
目、覚ましてくれないかな。
今すぐお父さんと一緒に帰ろうって声をかけたい。
叶わない願いばかり考えて、頭から現実を追い出して空想を広げる。
今起きていることはすべて非現実で、明日の朝になれば嫌な夢だったなで終わらせたい。
一ヶ月前まで病院のベッドで横たわっていた母が、今は棺桶に眠っている。
百合の花に囲まれ、死化粧を施されたことで、痩せこけた顔はいくぶんか以前のような綺麗な顔に戻っていた。
痩せてても綺麗だったけど、お花に囲まれるなら棺桶じゃなくて公園のお花畑でも良かったじゃん。いくらでも連れて行くのに。
尊敬する母に向かって精一杯の減らず口を叩くが、だれに聞かれるでもなく、私の心に虚しさだけを残して霧散した。
悲しさやらなにやら通り越して、反抗的な態度でも取らないと、自分の中のなにかが決壊しそうだった。
母が霊柩車に積まれ、火葬場に運ばれていく。
母の遺影を持つ父の目からは、まだ涙は流れていなかった。
私もまだ現実を受け止めきれなくて、涙は出そうになかった。
母の遺体が、炉の中に入っていく。
やめてと叫んで止めに入りたかったけど、口も足も動きはしなくて、眺めるしかできない。
火葬場の熱気で肌はじんじん痛むのに、なぜか体の内側は冷えていく。手足の末端が冷えている感覚がわかる。
炉からバラバラの骨になって出てきた母の遺骨からは、凄まじい熱が立ち昇っていた。その熱から夏の異常な暑さを思い出し、あと数ヶ月もすればキツい季節がまたやってくるのかと的外れなことを考えて、どうにかこうにか正気を保つ。
シュリーレン現象って言うんだっけか。
陽炎のようにもやもや揺れる遺骨を見て、なにかで調べたことのある記憶が蘇る。
参列者の人たちにより、母が骨上げされる。母がどんどん骨壷に収納されて、台の上から少しずついなくなっていく。
自分の番が回ってきて箸で母の骨を拾うと、病気だったからなのかは知らないが、骨が
脆そうに見えた。
最後に父が喉仏を拾い上げて、骨上げは終わる。
とうとう骨壷に収まってしまった母を見つめるが、その姿が痛ましくてちゃんと向き合えなかったと思う。
「帰ったよ、お母さん」
母の遺骨を連れ帰ると、父の優しくか細い声が耳に入る。
――本当なら、生きているうちに家に帰ってきてほしかった。よくやく家に帰れたというのに、骨になって帰るのは本意ではなかっただろうに。
自宅に設置した祭壇の前で、遺骨迎えの儀を執り行う。
お坊さんの読経が、母はもういないのだと無理矢理現実を突きつけてくる説教のように聞こえた。
そうして葬儀が終えて、忙しない一日も落ち着き、就寝時間となる。正直、遺骨迎えのあとのことは全く記憶にない。
暗い部屋の中で床に入り、頭から布団をかぶって、私はまたテレビを観ている感覚に陥る。そうすることで、現実を頭の中から追い出せると思った。
母を連れて帰宅するまで、すべてがぼんやりしていた。
葬儀の様子を細かく覚えてはいないが、火葬場での熱気だけは肌に染みてハッキリ覚えている。
「おかえり、お母さん」
布団の中から、今になってやっと母に声をかけた。
ただいま――そう返事してほしかったが、母の遺影からは無音だけが返ってくる。
今日起きたことはすべて非現実で、明日になれば嫌な夢だったで終わる――せめてそうであってほしいと思い込んで、眠くもないのに無理して目を閉じた。
▼
「千早……」
名前を呼ばれ、顔を上げる。目の前にはクロと研磨がいて、案じ顔で私を見つめている。どちらに名前を呼ばれたかは、わからなかった。
「ふたりとも……来てくれて、ありがとう」
声を振り絞る。かすれた声でも、これだけ静かな空間なら余裕で聞こえたはず。
上手く笑えただろうか。……きっと笑えてはいないのだろう。だって、ふたりとも表情が一層暗くなったのだから。
葬式を終えた次の日、クロと研磨は母に線香をあげるため、親と一緒に家まで来てくれた。父と私にお悔やみの言葉を伝えて、母の祭壇の前に正座し、手を合わせている。
お線香をあげたあと、父が二人の親をダイニングテーブルに座るよう促し、私が全員分のお茶を出す。
空気は湿っているが、これから大事な話をしなければならない。
「じゃあ、私はあっちの部屋でふたりと話してくるね」
「ああ。こっちも終わったら声かけるから」
父は父で、私は私で部屋を分けて、互いに話の場を設ける。
本棚がたくさんある部屋にクロと研磨を招き、簡易テーブルの上に三人分のお茶を置いた。
「ふたりとも、ごめんね急に。全員揃って話しても良かったんだけど、ちゃんと私の口から話したいってお父さんにお願いしたの」
「それはべつに大丈夫だけど……」
「大事な話って……?」
これまでクロと研磨にはたくさんお世話になった。ふたりがいなければ、不安を溜めたまま塞ぎ込んで、今でも自分を"情けない"と卑下し続けていただろう。
だから、父からではなく、私の口から直接の話したかった。
「――私、宮城に引っ越す」
ふたりとも、なにも言わず驚いていた。
一拍置いて、クロから口を開く。
「急な話、だな」
「……お母さんが関係してる?」
「そう。お母さんの骨を、宮城にあるお墓に入れるの。おじいちゃんとおばあちゃんと一緒に」
母の故郷である宮城には、母方の祖父と祖母が眠るお墓がある。結婚しているので、父方の家系のお墓に入るのが通例だが、父の事情でそれは無理なので、宮城にある母方の家系のお墓に入ることになった。
母としても、馴染み深い場所で眠るほうが良いだろうという話になって。
「お母さん一人娘だから、兄弟いないし、お母さん亡くなったから宮城にあるお墓の管理者がお父さんになるんだって。そのあたりの詳しいことはわからないけど、お母さんの遺言もあってそうなったって。それに……いつでもお母さんのお墓参りに行けるようにしたいから、お父さんと話し合って引っ越しを決めた」
東京に来たのは、母の病気を治療するためだ。その理由が無くなってしまったのだから、このまま東京にいる必要も無くなった。
もし母が完治して、今も生きていれば、このまま東京に住み続ける未来もあったかもしれないが。
「ちゃんと今の学校も最後まで通いたかったし、今のチームで最後までバレーも続けたかったけど……」
「まあ、しかたない……よな」
「……うん」
クロと研磨が見合って黙る。母の葬式と引っ越し、急な出来事が一気に重なり、さすがにふたりもかける言葉が見つからないのかもしれない。
「えっと、引っ越しはいつになるんだ?」
「早くてもニ、三ヶ月後くらいかな。転校の手続きと引っ越しの準備で時間かかるから」
「部活は……どうするの?」
「しばらく休む。明日、休部届を出すよ。基本的にお父さんが準備進めるけど、ひとりだと大変だし、私もいないとダメなときもあるから」
「そっか……」
ふたりに事前の相談もなく引っ越しを決めて良いものか迷ったが、母が宮城のお墓に入るのは決定事項だ。父と離れ離れになるわけにもいかなく、どちらにせよ引っ越しを決心していたかもしれない。
「ふたりと離れるのは寂しい……けど、お父さんとお母さんが宮城に行くなら私も行くし、アテもないのに中学生で一人暮らしするのも無理があるから」
「そりゃ無理だろ。東京に残る考えもあったのがビックリだわ」
クロに突っ込まれて、少し心が軽くなる。いつも通り軽口を叩いてくれるほうが、今の私にとっては良かった。
「……じゃあ」
研磨が、おもむろに口を開く。
なにを言うか待ち構えると――、
「千早が引っ越しするまで、たまに三人で集まってバレーやろ」
研磨の口から出るとは思わなかった言葉に、今度は私が目を丸くした。
「バレーを……? ゲームじゃなくて……?」
「…………やらなくても、いいけど」
「やる! やります! やらせてくださいッ!」
クロも、まさかお前がそれを言うとは、と言いたげな顔をしている。クロからならともかく、研磨から発案されるとは思わない内容だったから、クロの気持ちはわかる。
「クロもやるでしょ?」
「あっ……ああ、やる!」
「時間が空いたとき、千早からメールしてよ。おれらも都合つきそうなら合わせるから。場所は河川敷でいいよね」
「問題ありません!」
研磨なりの励ましだろうか。研磨が優しいのは知っているが、普段私には当たりが強いので、ふと見せる優しさにどうしても驚いてしまう。
「……ありがとう、研磨」
「………………なにが?」
少し間があったが、きっと慣れないことをして照れているのだろうと解釈した。
「……千早」
「なに?」
クロに名前を呼ばれ、視線を移す。
「引っ越しても今までと変わらないからな。頼れるヤツがいなかったら連絡よこせよ」
研磨とは違い、クロは真面目な顔でそう言った。
「……クロも、ありがとう。今はお父さんに頼りまくっているけど、お父さんにも頼れないときは連絡するよ」
今まで散々助けられたが、これから先もふたりにはお世話になりそうだ。
「頼る意外にも連絡するから。ふたりのバレーがんばってる様子とか知りたいし」
「全国大会行ってやるから、超応援しろよ!」
「もちろん! 超超超、応援する!」
サムズアップしたクロに、私も笑ってサムズアップで返す。
自然に笑えて良かった。ふたりを出迎えたときは上手く笑えていなかったから、心から安堵した。
三人でバレーの話をしていれば、いつもの空気に戻っていた。これを見越していたのかは知らないが、研磨がバレーの話題を出してくれたのがきっかけのように思う。
必要以上のお礼はかえって悪いとはわかっているが、ふたりにこんなにも助けられて、お礼にお菓子を返すだけで足りるのだろうか。
「ふたりとも、本当にありがとう」
「なんだよ、改まって」
「何度も言わなくてもわかったよ……」
ふたりが呆れて笑った直後、父が扉をノックして声をかけてきた。父も話が終わったということだろう。
母のために来てくれたクロと研磨の親にも改めて感謝を伝えて、玄関先で全員を見送った。
その日の夜、私は父にお願いして、ふたりで横並びに布団を敷いて床についた。
中学生にもなって恥ずかしいだろうか。でも、今日は父の隣で眠りたかった。
「おやすみ、千早」
「……おやすみ、お父さん」
パチンとスイッチの音が鳴り、電気が消えて部屋の中は真っ暗になる。いつものように目を無理矢理閉じてみるが、時間が経っても眠れる気がしない。
「…………お父さん、起きてる?」
「……起きてる」
「なんか……眠れない」
「久々にお父さんと一緒に寝るからかな」
「わかんない……」
取り止めのない会話が始まる。眠れないのは、私だけではなかったようだ。
「あのさ……変なこと聞いてもいい?」
「ん? なんだ?」
「――泣いた?」
「………………まだ、かな」
「だよね……私も、まだ」
現実を受け止めきれていないのは父も同じ。頭ではわかっていても、それとこれとは別ってやつだ。
「親戚の人、結構来てくれたね」
「お母さんは愛されてたからな」
「お父さんも愛されてるよ」
「俺は……千早がいるからな」
「友達いっぱいいるじゃん。私もいるし」
「……そうだな、お父さんは幸せ者だ」
目的なんて特にない会話。
でも、父と穏やかに話せるのはずいぶん久々に感じた。
「引っ越し先の家はどこにするとか決めてるの?」
「まだかな。まず不動産屋の人に相談してみないと」
「前の家、まだ残ってるかな?」
「できれば、前の家に帰りたいよな」
「お母さんの実家だし、できればね。買い戻せるお金がなかったら別の家でもいいよ」
「大丈夫、お父さんに任せなさい」
「前の家に戻れたら、また一緒にバレーやってた近所の男の子に会えるかな」
「引っ越したりはしてないらしいから、会えると思うぞ」
「それは……嬉しいな」
次第に、次から次へと話題が出てくる。
「中学は学区で決まるんだっけ? てことは、もし前の家に戻れたならその子と同じ中学に行けるのかな?」
「他の学校に行きたいなら、そこでもいいぞ」
「いや、特にないよ。知ってる人がいるほうがいい。できればね」
「勉強がんばれよ。学校が違うと進み方も違うだろうから」
「がんばる……しか、ないよねえ」
「平均点は取れてるんだから大丈夫だろ」
眠気は吹っ飛んで、父との会話に花が咲いていく。
「……もう一個、変な話してもいい?」
「いいよ」
「私さ……東京に引っ越してから、たまに変な感じになるときあったの」
「変な感じ?」
「不安でいっぱいいっぱいになると、テレビ観てるときみたいな感じになるの」
「テレビ……?」
「昨日も、夜寝るとき不安でどうしようもなくて、色々考え込んでいたら、だんだんテレビ観てるときと同じ気持ちになって……そるすると、なんというか……不安を追い出せた感じ?になるの」
「……それ、お父さんにもわかるかもしれない」
「ほんと? お父さんにもわかるの?」
意外だった。父はいつも明るくて、ひょうきんな人だ。仕事柄、家を出る機会が少ないのに、東京に引っ越してから商店街とかで、あっという間にたくさんの友人を作ってしまった。
私よりも人付き合いが器用で、勝手なイメージだが私のように不器用に不安を抱え込むタイプとは思えない。
「昔の話だけどな、お父さん毎日悩んでいたときがあって、千早が言っているテレビ観ているときと似たような感覚になることがよくあったんだ」
「お父さんにも、そういうのあったんだ……」
「お父さんだって人間だからな。で、あとから気付いたけど、そういう感覚になるときって、決まって"現実逃避"しているときだったんだ」
「現実……逃避……」
すんなり、腑に落ちる。この感覚の正体は掴めなかったのに、ずっと前から身近にいたような、妙な親近感のある言葉だ。
「最近も久しぶりにそういう感覚を思い出したんだけど、もしかしたら、千早もそうなんじゃないか?」
「現実逃避……うん、そうかもしれない」
「……ずっと、不安にさせてごめんな」
違う。お父さんに謝らせたかったわけじゃない。
「謝らないで。お父さんはなにも悪くない。私とお母さんのためにずっとがんばってくれてたじゃん」
「……千早にも、たくさんがんばらせちゃったな。たくさん助けられてきたけど、本当はもっと千早に友達と遊びに出かけてほしかったんだ。その時間を作ってやれなかった」
「そんなこと……ちゃんと友達と楽しく過ごしてたよ」
「でも、学校と部活と家のことばかりで、せっかくの東京なのに、ロクに色んなところ遊びに行けなかっただろ。お父さん知ってるんだ。千早が、俺が仕事してるのに自分だけ遊んでいられないって思ってたこと」
ぎくりとした。一回たりとも父に本音を漏らしたことないのに、すでにバレていたらしい。
「……知ってたんだ」
「お母さんほど勘が鋭いわけじゃないけど、千早がお母さんが帰ってくるって信じて、お父さんと三人揃ってから東京観光を満足しようと思ってるのは気付いた」
「十分、勘が良いと思うよ……」
母もそうだったが、父の直感力の高さにも舌を巻く。
「……あのね、話変わるけど、前にも言ったように高校生になったらバレー部のマネージャーやろうと思う」
「うん」
「それでね、私ずっと思ってたの。バレーしんどくて、ちょっとだけやめたいって思ってた時期もあったけど、バレーをやめたら、応援してくれたお父さんとお母さんの想いを裏切ることになるんじゃないかって」
「そんなことないのに」
「そう、そんなことないって頭ではわかってたの。けど……踏ん切りがつかなかった」
「長年やってると、急にやめるのが怖くなるんだよな」
父の言う通り、長らくバレーを続けてきたからこそ、今さらバレーをやめるのがとても怖かった。バレーをやめたら、バレーでできた繋がりがすべて断たれる気がしたからだ。
「バレーが好きなお母さんに喜んでほしくてバレー始めたのに、バレーやめたら中途半端になるって思ったら、怖くてやめたいって言い出せなかった。お母さん、中途半端は許さなかったから」
「お母さんの言う中途半端は、自分のためにならない、いい加減な終わらせ方は良くないってことだよ。理由があるなら、怒らなかったよ」
「お父さんも、私のこと応援してくれてたから、その気持ちを否定することになる気がして……」
「千早にプレッシャーかけちゃったかな。お父さんだって、お母さんと同じで、千早にはやりたいことやって楽しく生きてほしいと思ってるよ」
違う。違うのに。父の応援をプレッシャーになんて感じていたつもりなんてなかった。
「応援うれしかったよ。本当に。励みになってた」
「けど、本当に好きなことを見つけたんだろ? だったら、また応援するよ」
「……ありがとう」
皮肉なものだ。母がいなくなって、ようやく父と腹を割って話ができたのだから。決して、こんな形で話をするのを望んではいなかったのに。
「…………お母さんと、また三人で川の字になって寝たかったなあ」
こぼすつもりのなかった本音が、漏れ出てしまった。
「……お父さんもだよ」
「一度は帰ってこれたのに……前に比べて料理もお菓子作りも上手くなったのに、結局食べてもらえないままになっちゃった……」
「お父さんも、千早と三人で、色んなところに遊びに行きたかった」
「お母さんが生きていたら、もうちょっとだけバレーがんばれたかもしれない」
漏らした本音を皮切りに、母が生きていたらやりたかったことリストが、交互にポロポロこぼれ出てくる。
「松本さんの目利きすごいから、サンマ食わせたかったな」
「洗濯物も上手に畳めるようになったの、褒めてほしかった」
「新作の小説、読んでもらって感想が聞きたかった」
「お父さんの仕事の手伝いもしてるの、見てもらいたかった」
「鉄朗君と研磨君のお父さんとお母さん、すごく良い人たちだから、お母さんにも友達になってほしかった」
「クロと研磨も、すごく良いヤツらだから、ちゃんと紹介したかった」
堰を切ったように、ひたすら喋り続けた。
「それに、東京で知り合った人たちにも、この人が俺の自慢の妻ですって、紹介して回って買い物したかったな」
「そのノロケに、私も混ざりたかったな」
「うんざりするだけかもしれないぞ」
「かもね。でも、うんざりしてでも、そうしたかったと思うよ」
――気が付けば、鼻声になっていた。
「……お母さんと、もっと一緒にいたかったぁ――ッ!」
枯れたと思っていた涙が、時間をかけてやっと流れてきた。一度栓が取れると、溜まっていた涙は止まることを知らない。
「――ふっ、ぐ……」
父もこれ以上はなにも口にしなかったが、泣き声を漏らして私と同じくらい泣いていた。
父も、テレビを観ている感覚だったのかもしれない。最近も久しぶりにその感覚を思い出したと言っていた。
母がいない現実を受け止めきれなくて、不安を彼方に追い払うことで、やっとやっと正気を保っていたのだと思う。
――私たちはやっぱり親子だ。こういうところばっかり似ている。
泣いて、泣いて、泣き明かして――いつの間にか朝になっていた。
ふたりで目を腫らして酷い顔になって、起きがけに互いの顔を見て笑って、ひとつ憑き物が落ちた気がした。
今日もやるべきことはたくさんある。
それを果たすため、私たちはいつものように動き出した。