君さえ


それはふたりきりの夜のこと(アルベド)


 部屋を出る際適当にひっかけてきたサンダルは、どうやら冬の夜の中に突入するための装備としては少々頼りないものだったらしい。薄い靴底から足裏を伝い駆け上がってくる寒さに身体を震わせながら、私はもうとっくのとうに消灯時間の過ぎたモンド・西風騎士団本部の建物内を歩いていた。
 窓の向こうから降り注ぐ微かな月明かりだけを頼りに、けれども私の爪先は躊躇も迷いもなくただただ廊下を進んでいく。その中にも足音を無意識に気遣ってしまうのは、建物内に満ちた空気があんまりにも静謐なものだったからだろう。日中のあの騒がしさを知っているせいで少し落ち着かない気持ちにはなるけれど、私はこの時間帯にだけしか味わえないこの雰囲気が案外嫌いではなかった。
 アルベド隊長の下でいち調査小隊隊員として錬金術の研究に励むようになってしばらく。研究途中に仮眠を取ろうとしてこの時間帯まで寝こけていた、なんて馬鹿をするのはもうこれで何十回目だろうか。数えるのも諦めてしまったそれを治そうとする気も、正直私の中にはあまりない。ここの居心地がよすぎるのがいけないのだ。これもまたもう数十回目になる言い訳を呼吸に溶かして、私はとある扉の前でぴたりと足を止めた。
 その扉にかけられたプレートには、『給湯室』という文字列が几帳面に並んでいる。私はそれを確認することも疎かに、出来うる限りの静かな動作で目の前の扉を押し開けた。
 先に言った名の通り『給湯室』という役目を与えられたこの部屋には、その役目を果たすにはいささか十分すぎるほどの設備を備えている。というのも、ここには湯を沸かすための暖炉だけでなく、食品を保存するための貯蔵庫や簡易な調理台、茶器、食器、カトラリーまでもがきれいに揃えられているのだ。
 簡潔にまとめれば、つまりここは一般家庭のキッチンよりも上等なぐらいの調理場が用意されているということ。ちなみに騎士団員ならばこの場所の使用は自由であり、私のように夜食にありつこうと足を運ぶ人だってその実少なくはないのだ。
 とはいえ、私がここに足を運ぶのは、大抵の場合夜も午前の2時を回った頃であり、夜勤前や夜勤上がりの騎士たちの利用はと言えば精々日付が変わる前後が関の山。この時間帯に私がここで自分以外の誰かと出会ったことは、はっきり言って今までに一度もない。そしてそれは、きっと今日も同じこと。
 そっと覗き込んだ給湯室に誰もいないことを確認して、私は弾む足取りで中へと滑り込んだ。廊下と違って給湯室は流石に暗いので、扉近くの棚に置かれていたランタンに火をつけ、それを手に調理台の方へ。
 きれいに片付けられた調理台に帰り際の掃除を徹底しなければなと心して、私はランタンをその隅に置く。からりと小さくこぼれた音は、まるで「お前また来たのか」というランタンの呆れた声のよう。
 それを気に止めることも無く、時折ゆらゆらと揺れる橙の光を頼りに、私は小さく鼻歌を歌いながら貯蔵庫を物色し始める。卵がふたつに、乾麺がひと袋。中途半端に残されているハムと、様々な野菜の切れ端たち。うんうん、今日の献立はこれにしよう。
 今挙げた全部を調理台の上に並べた私は、てきぱきと暖炉に火をつけ適当に薪を加えた。そうすれば、冷えきっていた給湯室内にふわりと温もりが広がっていく。思ったよりもここまでの道のりで体が冷えきっていたようだ。ぐんと背を伸ばした炎にほっと息を吐いて、いくらか動かしやすくなった肩をぐるりと回した。
 ぱちぱちと木の爆ぜる音を聞きながら、次に手を伸ばすのは壁にかけられていた中ぐらいの片手鍋。それの7分目まで水を入れれば、あとはぽいと火にかけてしまうだけ。
 軽く水洗いした卵を勢いでふたつとも投入した直後、流石に夜食の量としてはまずいだろうかという思いが過ぎる。しかしまあ、昨日の昼から固形物を一切摂取していないこの空腹具合ならば何とかなるだろう。安易にそう結論づけて、私は手元にあった砂時計をくるりと逆立ちさせた。本当は半熟が好みなのだが、この卵がいつのものなのかが分からないので念を入れて固茹でだ。
 卵を茹でている間に別の鍋で野菜類も茹で、ハムは適当に切っておく。お出汁は便利な顆粒のものを使ってしまおう。ぐつぐつと煮立つ鍋の音に、思わずまた鼻歌がこぼれてしまった。
 砂時計の最後のひと粒がこぼれ落ちるのを横目に、お玉で鍋から卵をすくい上げる。それを冷水に通しながら、まだ沸騰しているお湯だけの鍋に乾麺と顆粒出汁を投下。麺は少し柔いぐらいが好きなので、卵の殻を剥いている間にゆっくりと茹でられてもらおう。
 そんなこんなで野菜も程よくくたくたに煮えて、卵もきれいに剥き終え、麺も解けた。あとは全部をお皿に盛りつければ完成、ということで、先に用意したお皿に私が麺を入れようとした、その瞬間。

「――……何をしているんだい?」

 声にならない悲鳴が喉元に引っかかって、そのまま勢いよく噎せそうになった。そりゃあ誰だってそれぐらいに驚くだろう、こんな時間にこんな場所で、なんの前触れもなく突然誰かに声をかけられてしまえば。
 手から滑り落ちそうになった片手鍋を慌てて捕まえ直し、私は声の聞こえた給湯室の出入口の方へと視線を向けた。そしてそこにあったその人の姿を認めた直後、さらなる驚きにまたしても目を瞬かせることとなる。

「ア、アルベド隊長!? こんな時間になんで……」

 夜闇の中に、ランタンの微かな光だけで輪郭を描いたその姿。けれども真っ直ぐに私を見すえる一対のパライバトルマリンの輝きは堪らなく鮮明で。どきりと心臓が跳ねたのは、驚きからか、それともこんな所を見られてしまった恥ずかしさからか。
 驚きのままに跳ね返した私の言葉を受けて、彼はこてりと首を傾げてみせる。顔立ちも相まって酷く幼げにも見えてしまうその姿だけれど、何を隠そう彼は他でもない私の上司かつ、ここ西風騎士団の首席錬金術師様だ。だからこそ、なんだそれ可愛いな、という失礼極まりない言葉は必死に奥歯にかみ殺した。

「それはこちらの台詞でもあるのだけど。……それにしても、なんだかいい香りがするね。夜食かい?」
「あ、は、はい……仮眠を取ろうとしたらこの時間まで寝過ごしてしまって。アルベド隊長もこの時間まで実験を?」
「ああ。何か温かいでも飲もうと思ってね。こんな時間だから誰もいないだろうと思っていたのだけれど、まさかキミがいるとは」

 どこかしみじみとした彼の声色に乾いた笑いだけをこぼして、私はふと考える。こんな時間まで研究室に篭っていたということは、アルベド隊長も小腹ぐらいは空いているのではないだろうかと。
 私の手元には、ひとり分の麺とそれには少し多いぐらいの具材たち。このまま彼の前で自分だけ夜食にありつくというのも、なんだか気分が落ち着かない。そうと決まれば、ひとまずはお伺いを立ててみよう。思い立ったが吉日とばかりに、私は彼へ向けて言葉を飛ばした。

「……よければ隊長も食べますか?」

 ぱちり。彼の瞳が瞬く。まさかそんな提案をされるとは思ってもいなかったのだろう。

「とは言ってもただのあったかい麺ですけど……あ、お腹が空いてなければ無理にとは言わないので!」

 彼は確か少食なひとだったはず。そんなことを咄嗟に思い出して、私は落ちた沈黙を蹴り飛ばすように慌てて言葉を並べていく。彼の誠実さと優しさは私もよく知っているのだ。そんな彼に、まさかこんなところで気を遣わせてしまうわけにはいかない。
 しかし、そんな私の焦りをよそに、彼は私を真っ直ぐに見据えて唇を震わせる。その口元が微かに綻んで見えたのは、夜闇に私が見たただの幻覚だろうか。それとも。

「――それじゃあ、是非お言葉に甘えようかな」

 へ。と間抜けな声がこぼれたのは、他でもない私の喉元から。提案者はこちらであるというのに、なぜ私はこんなにも驚いているのだろう。そんな思考回路も曖昧に、私は慌てて首を何度も縦に振った。
 そうと決まればやることはただひとつ。まだ少しどきどきとしている心臓を押さえつけながら、私は彼を調理台に並べた椅子へと案内する。
 何か手伝おうか、という彼の言葉を有難く受け取りながらも丁寧に断って、私は自分用にと用意していた器の隣にもうひとつ器を並べた。
 伸び始めた麺を2等分して、野菜とハムと半分に切り分けたゆで卵を盛り付けて、最後にお出汁をかける。ふわりと浮かんだ湯気と一緒に、柔らかなお出汁の香りが私の鼻腔をくすぐった。うん、これは絶対に美味しいやつだ。
 そうして数分も経たずに完成したそれを、少しの緊張と共に彼の前へと差し出す。もちろんお箸も一緒に。

「とても美味しそうだ。頂くよ」
「あはは、残り物の有り合わせですけどね。どうぞ召し上がれ!」

 お出汁の温かさが滲む器に手を添えながら、私は自分の麺に手をつけることもせず彼の様子を見つめてしまう。胸の内に燻る感情はかなり複雑で、その中でもとりわけ大部分を占めていたのは『好奇心』、だろうか。
 まさか、彼とこんな風に夜食を囲むことになるとは露ほども思っていなかった。彼との付き合いももうそれなりの長さになるが、思えばこうして仕事や研究以外の場で言葉を交わすのはこれが初めてのことだった。きっとそんな事実もまた、今私の胸を食んでいる言い表せないくすぐったさを助長しているのだろう。
 そしてやはり、手抜きの塊でしかないこの夜食麺を食べる彼の姿というのは、普段の彼を思うとなんだか不思議な感じがする。どこか浮世離れしたところのある彼だけれど、ちゃんとこうして私と同じように生きているのだなぁと、そんな馬鹿げた思考が微かに脳裏を掠めていった。

 麺をひと口。お出汁を少し。
 口に運んで、咀嚼して、飲み込んで。

「……うん、美味しい。とても優しい味がするよ」

 ふわり。
 こんなにも柔らかく綻んだ彼の表情を見るのは、もしかするとこれが初めてのことかもしれない。そうか。そんな顔もするのか、このひとは。
 目を瞬かせて思わずその姿に見とれる私と、視線の先でするすると麺を食べていく彼。その器が半分ほどになった頃、ようやく私も我に返って自らの分に手をつけ始めた。
 出汁を吸って柔らかすぎるほどになってしまった麺を、努めて丁寧に口へと運ぶ。その途中に温かいお出汁を喉へ通したのだけれど、それによって身体が温まる感覚が思ったよりもささやかで。その時私はようやく気づいた。自分の体温が、何やらやけに上昇していることに。
 あんなに冷えきっていたはずだというのに、一体どうして? いつの間に? 考えるけれど答えは分からないまま。未だに早鐘を打ち続けている心臓の理由も読み解けないまま。
 他でもない自分自身のことだというのに、そこらの錬金術の参考書より難しそうな問題だ。そんなことをそこはかとなく感じ取りながら、私はゆっくりと麺を啜った。
 ちなみに、私がそんなこんなしている間に彼はもう出汁も残さず完食している。どうやら彼も存外空腹であったようだ。少食とはいえ、空腹ならそれは箸も進むというもの。

「お腹、満たされました?」
「ああ。丁度いいぐらいに」
「それなら良かったです」

 思わずにやけてしまいそうになる顔を必死に抑えるのだけれど、それも大した意味を成しはしなかった。にまにまと綻ぶ唇をそのままに頷けば、彼もまた、その瞳をゆるりと細めて私を見つめてくる。

「こうして誰かと夜食を共にするというのも、なかなかにいいものだね。新しい発見だ」

 その姿を『嬉しげだ』と解釈してしまっても、きっと、多分、世界は許してくれるはず。だって彼は今、こんなにも優しい表情を浮かべているのだから。
 またひとつ跳ね上がった心臓に首を傾げて、私は何かを振り払うように出汁をひと口飲み込んだ。温かいその温度にほっとするはずだというのに、やっぱりなんだか落ち着かない。この感覚に、この感情にもしも名前をつけるなら、一体どんな音がふさわしいのだろう。

「……そう、ですね。私もそう思います」

 分からないことばかりの中でただひとつ、あまりにも明白で明確な思いがあった。けれどもそれを口にするのはなんだか憚られて、私は彼の言葉に曖昧な頷きだけを返した。

 だって、きっと困らせてしまう。
 この夜が、あなたと過ごすこの時間が、ずっとずっと続けばいいのに。なんて、そんな言葉を突然彼に言ってしまったら。

 だから私は、その言葉を温かなお出汁と一緒に飲み込んだ。それは酷く寒くて堪らなく温かい、とある冬の夜のことだった。

 ――その時の私は、まだ知らない。

 それ以降、私が夜食を求めて深夜に給湯室を訪れる度、そこに彼もまた姿を現すようになることを。彼と過ごす秘密の時間が、これから先もずっと続いていくことを。


2021/1/18

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