君さえ


やっぱりきみには敵わない!(魈/現パロ)



 ピコン。

 不意に鼓膜を叩いた短く軽い電子音に、自宅のリビングでひとり読書に耽っていた魈ははっとそのかんばせを持ち上げた。その直前まで紙面に並んだ活字を追いかけていた視線は、ローテーブルの上に寝かされた自らのスマートフォンへと向けられる。
 どうやら誰かからメッセージが飛ばされてきたらしい。おもむろにそれへと手を伸ばし、画面を明るくする。見慣れたロック画面にはいつも通りの日時表記に加えて、メッセージアプリからの通知が表示されていた。
 アプリのアイコンに、メッセージの送り手の名前。そしてメッセージ内容の冒頭。それら全てに目を通し、そしてその意味を理解した瞬間、魈の表情が険しく顰められる。不快感と苛立ちを隠そうともしていないその姿は、今にも手にしたスマートフォンを握りつぶしてしまいそうなほど鬼気迫っていて。

「何をしているんだあいつは……」

 そんな呟きと舌打ちをひとつこぼし、魈は腰かけていたソファから勢いよく立ち上がる。自室に行ってコートを持ち出してくる程度のことも今は億劫で、ソファの背にかけていた薄手のパーカーだけを適当に羽織った。
 ポケットにスマートフォンと財布だけを雑に詰め込み、戸締りをした魈は家を出る。不機嫌を乗せた彼の爪先が向かうのは、先ほどのメッセージの送り手がいるだろう場所。確か仕事終わりに道中のスーパーで買い物をして帰ると言っていたはずなので、家からそのスーパーまでの道を辿ればどこかで会えるはずだ。
 乗り込んだエレベーターの中で再びスマートフォンの画面をのぞき込む。一度もロックを解除せずにそのまま家を飛び出してきたため、画面にはまだメッセージアプリからの通知が曖昧に取り残されたまま。
 当然、そのメッセージの内容だって先ほど見た時と一切変わってはいなくて。再び込み上げてきた釈然としない苛立ちに、魈はまたひとつ舌打ちを落とす。腹の底が煮え立つような感覚を燻らせながら、せめてもの当てつけとばかりに、またしてもそのメッセージに既読を付けることなくスマートフォンをポケットの中に放り込んだ。
 エレベーターの扉がゆっくりと開いていく。それが完全に開き切るのを待つ余裕もないまま、魈は外の世界へと足を踏み出した。


『ごめん! 帰り道ですごい美形に絡まれちゃったので帰るの遅くなりそう!』


 随分と頭の悪いその内容が脳裏をちらつく度に、どんどんと魈の歩くスピードが速くなっていく。
 この衝動的な行動にも、沸き立つ苛立ちにも、もちろん正当な理由があった。なぜならそのメッセージの送り手は、他でもない魈の同棲相手兼恋人である彼女だったのだから。


  ***


「……それで、お前は何をしているんだ」

 心底呆れたとでも言いたげな魈の言葉に、彼の目の前で地面にしゃがみこんでいる一人の女がぱちりと瞳を瞬かせた。スーパーで買ったのだろう物を詰め込んだエコバッグをその傍らに置いている彼女は、正しく魈の探しに来た相手であって。
 魈が彼女の姿を見つけたのは、家からほど近い場所にある小さな公園の入り口付近でのこと。どうやらここで、彼女は件の『美形』とやらに絡まれたらしい。

「あれ、魈くん? どうしたのこんなところで」
「質問しているのはこっちなんだが」
「ええ……さっきメッセージ送らなかったっけ? 見ての通り、超美形な子に絡まれちゃったから少し愛でさせてもらってるだけだよ」

 ね〜、と同意を求めるように自らの足元へ声と視線を落とした彼女に、魈はより一層その顔に滲ませた呆れと疲れの色を濃くした。いやまあ確かに、彼女のことだからどうせそんなところだろうとは薄々思っていた。思ってはいたけれど。苦虫を噛み潰したような心地に、頭が今にも痛みを訴え始めそうだ。
 いつの間にか彼女の足元から魈の方へと歩み寄ってきていたその『超美形な子』は、そんな魈の様子を気にも留めず、にゃあにゃあと無邪気に彼の脚へとじゃれついている。ここまで言えば全て理解出来ただろうと思うが、彼女が件のメッセージで言及していた『美形』とは、つまりこの猫だったというわけだ。

「…………はぁ……」
「え、なに、ほんとにどうしたの?」
「……なんでもない。帰るぞ」

 大きなため息を吐いた魈の内心も知らず、彼女はただ目をぱちくりとさせるばかり。素直に全貌を話してやるのもやはり癪な気がして何も言わぬまま彼女の腕を引けば、彼女はほんの少し名残惜しげな顔をしながらも抵抗することなく立ち上がった。

「またね、美猫さん」

 片手に彼女の手を、そして片手に買い物袋を持ち、魈は公園を背に歩き出す。
 しばらくはそんな魈の後ろにつき従うように歩いていた彼女も、数歩の間に彼の隣へ並んで。少しばかり低い位置にある視線が、伺うように魈の表情をのぞき込んだ。

「……なんか、機嫌悪い?」

 その声に魈は一瞥を向けるけれど、答えとなる言葉を紡ぐことはしない。すぐに目線を正面へと戻し、沈黙を貫いた。けれどもその沈黙を、彼女は即座に「肯定」と捉えたようだ。普段は間が抜けているくせにそういうところばかりは変に鋭いのだから、彼女という存在は本当に分からない。

「洗濯物出し忘れてた?」
「……」
「違うか。朝出る時に何か散らかしてた?」
「……」
「ええ……あと何だろ、冷蔵庫の中にあった杏仁豆腐勝手に食べたのバレた?」
「……それは今知った」
「あ、やば。失言」

 衝撃の事実に思わず彼女へ視線を向けた魈へ、彼女はにこにこと悪戯っぽい笑みを浮かべて見せる。その表情を見た瞬間、ほとんど直感的に「やられた」と思った。


「――私が他の人に目移りしちゃうと思った?」


 鋭く的確に核心を突いたその言葉に、魈は再び口を噤む。先ほどと同じ沈黙だというのに、彼女にとってみればやはり何かが違うようだ。より一層深みを増した彼女の笑みに、魈は何とも言えない感情を飼うこととなる。どうやら彼女のあのメッセージは、確信犯による犯行だったらしい。
 掴んでいた手を振り払ってやろうかとも思ったが、それも既に読まれていたのか彼女の手が魈の手をぎゅうと握り込んできて。その指先のあまりの温かさに、どうしてか途端に心が絆されてしまうのだから不思議なものだ。

「ふふふ」
「……その気味の悪い笑い方をやめろ」
「いやいやこれは仕方ないでしょ。だって魈くんのそのパーカー、部屋着じゃない? そんなに急いで来てくれるなんて思ってなかったから」

 帰ったら不機嫌そうな魈くんが待っていたとか、そのぐらいしか想像してなかったから。そう言ってくふくふと満足げに笑う彼女の、なんと腹立たしく愛おしいことか。首元へぐるぐると巻き付けたマフラーに口元を埋めた彼女へ、魈は不機嫌に顰めた表情を向けてやる。しかしその瞳には隠し切れない柔らかさと優しさが滲んでいて。
 再びひとつ小さなため息を吐き、魈もまた彼女と繋いだ手に少しの力を籠めた。

「心配しなくても、私は魈くん一筋だよ」
「……当たり前だ」
「ふふふ。……その恰好、寒くない?」
「別に問題ない」
「でも見てる私が寒いからくっついちゃおっと」
「おい、人の話を聞け。歩きづらいだろう」

 そう苦言を呈しながらも、身を寄せてきた彼女を魈が拒絶することはない。それが答えで、全てだ。堪らなく愛おしいその事実を噛みしめ、女はまた笑みをこぼした。

「帰ったら魈くんのご機嫌取りしないとなぁ……何がいい? 何して欲しい?」
「…………杏仁豆腐」
「あはは、やっぱり。じゃあとびっきり美味しいのを作ってあげる。もう市販の杏仁豆腐じゃ満足できない身体にしてみせるから覚悟しててよね」

 相変わらずぶれることのない彼からの答えに、女は帰宅後のスケジュールを更新する。今日の夕食後のデザートは杏仁豆腐に決定だ。
 ちょっとした悪戯のつもりだったのだけれど、まさか彼がこんなにも真剣に、そして衝動的に動いてくれるだなんて。そのことに対する驚きを改めて胸中で溶かしながら、女は今更じわじわと染まり始めた頬をマフラーで隠した。こうしていれば、この表情もきっと隣を歩く彼にはバレないはず。その考えがあまりにも容易すぎるものだったと女が理解させられるのは、瞬きひとつの後。


「――ああ。楽しみにしている」


 不意に隣から落とされたその声に、思わず視線が持ち上がる。その終着点でこちらを見つめる黄金の瞳と目が合った瞬間、体温がまた1度上昇したような感覚に襲われた。
 人と比べてやや表情と言葉に乏しい彼は、その分こうして瞳に全てを宿す。だからこそ女はその瞳が何よりも愛おしくて、それゆえに苦手だった。
 心臓が焼き焦がされていく。言葉どころか呼吸までつっかえて、何も言えぬまま女は頬を赤く染めた。そんな彼女の姿を見て、魈はどこか満足げな表情を浮かべている。どうやらまんまとやり返されてしまったようだ。そう理解した女は慌てて口元をマフラーに埋めるのだけれど、それにももう意味などない。
 先ほどまでの不機嫌はどこへやら、一転して機嫌の良さそうな彼に手を引かれて女は家までの帰路を歩く。季節はまだ残寒の厳しい冬の終わりだったけれど、彼のせいで寒さはひとかけらも感じられなかった。


2021/3/6

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