君さえ


それがたとえ必然だとしても(タルタリヤ)



「──お待ちくださいお嬢様!!」

 待てと言われて律儀に待つような奴は最初から逃げ出したりなどしないのだと、頭の固いあの教育係はいつになったら理解するのだろう。今朝方無理やり着せられた無駄にけばけばしい衣装の裾を掴みあげて、私は屋敷の廊下をひた走る。目的地なんてありはしない。この場所にいたくない、私の行動原理なんてただそれだけのこと。
 由緒正しい良家のお嬢様。この世界に生まれ落ちた瞬間から否応なしに塗りたくられたその称号。朝から晩まで隙間なく詰め込まれた、政治経済歴史外交読み書きそろばん礼儀作法エトセトラのご教育。行きたくもない会食やパーティに連れていかれて、聞きたくもないご高説を聞かされて、どうでもいい相手を結婚相手にと勧められて。
 お嬢様なのだからもっとお淑やかに、付き合う相手は選びなさい、あなたにはこのお家を守る義務が。全部全部、全部全部全部全部聞き飽きた。私はこの家が、この場所が、あいつらが、大嫌いで大嫌いで仕方なかった。
 私の命を、人生を、あいつらなんかのために費やしてやりたくはなかった。
 けれど私はまだお酒も飲めないただの子どもで、出来ることと言えば、こうしてただ家から逃げ出す程度の酷く幼稚な反抗だけ。そんな自分自身すら、私はもうとっくのとうに大嫌いになっていた。
 廊下を駆け抜け突き当たりに差し迫った私は、そのままの勢いで開いたままになっていた窓から外へと飛び出した。ここは2階だけれど、着地さえ失敗しなければ怪我なんてしない。
 身体が宙に浮く感覚。重力に従って落下していくその最中、誰かと視線が交わった。
 深い海を溶かしこんだようなその色彩にはっと息を呑む。思わず意識の全てがそちらへ持っていかれそうになったけれど、私の真下にはその間にも硬い地面が迫っていた。慌てて意識を自らの着地へと戻し、私は衣装の裾をつかみ直す。
 たん、と石畳に足裏が叩きつけられる。意識が逸れようとも身体はこの着地にもう随分と慣れていて、大した衝撃も痛みも訪れることはなかった。
 着地した姿勢のまま、視線をゆっくりと上に持ち上げる。最初に見えたのは誰かの足元、次に胴体、そして最後に――…
 また、視線が交わった。かすかに見開かれた、光さえも届かない深海を孕んだその瞳と。今度は確かに、真っ直ぐに。
 時が止まるような錯覚に襲われた。頭上からはまだ教育係の声が微かに聞こえている。急いでここから逃げなければと頭の中で警鐘が鳴り響いていた。けれどどうしてか身体が動かず、私は目の前のその人と見つめ合うばかり。

「――……君は、」

 酷く曖昧なその沈黙を先に破ったのは、彼の方だった。傾ぐように揺れた頭に、柔らかな橙混じりの茶髪がはらはらと踊る。その動きを見た瞬間、その声を聞いた瞬間、私はようやく我に返った。

「っ、失礼しました!」

 彼の言葉に応えることもなく、私は即座に踵を返してその場から逃げ出した。直前の硬直など欠片も感じさせぬほど俊敏なその動きに、その人からのそれ以上の声は飛んでこないまま。
 最早自らの庭のごとく駆け回れる璃月の路地裏をしばらく走り、たどり着いた人気の少ない場所で私はようやく立ち止まる。少しばかり荒れた息を整えながら、私は脳裏に先ほどのあの姿と色彩を蘇らせた。

「……誰、だったんだろう」

 どこか異国然とした外見に立ち居振る舞い。あんな人がこの璃月に居ただろうか。記憶を遡るけれど、彼に関する情報など欠片も思い当たりはしない。
 世界各国を旅する旅人、だろうか。
 だとしたらもう二度と彼には会えないのかもしれない。そう思うと、なんだか少しだけ切ないような心地がした。彼の名前も知りはしないというのに、どうしてか。

 ――また、会えたらいいな。

 そんな酷く儚い願いが私の胸にころりと落ちた。叶うはずもない、泡沫のような夢。
 ……それが、まさかその3日後に流星のごとく叶うこととなるなんて。一体誰が想像していただろうか。


「やあ、二度目ましてかな。今日も元気そうでなによりだ。ここで君を待っていて正解だったよ」

 その日も私は最早日課となった教育係とのデッドレースに勤しんでおり、最後の一手として先日と全く同じ窓から飛び降りた。おかげで今回もデッドレースの勝者は私となったわけではある、のだけれど。

 ――まさか窓から飛び降りた先に先日のあの人が待ち構えていて、さらには着地しようとしていた私を抱きとめられることになるなんて。

 一見細身に見えてその実随分と逞しいその腕に抱きかかえられたまま、私はぱちぱちと目を瞬かせる。その視線の先には、上記の言葉を紡ぎにこにこと嬉しそうに微笑む彼の表情が。
 体勢のせいもあって、お世辞抜きに美丈夫だと褒め称えられる彼のかんばせとの距離が酷く近い。そのことに恥らえばいいのか、それとも突然の展開に驚けばいいのか。困惑しきった思考回路ではその答えも見つけられない。

「……あの、えっと……?」
「ああすまない、自己紹介がまだだったね。俺のことはタルタリヤと呼んでくれ。君の名前を聞いてもいいかな?」
「いやあの、まずは降ろしてもらえます?」
「ん? はは、どうしようかなぁ。……君が名前を教えてくれたらすぐにでも」

 彼が一体何を考えているのかがひとかけらも読み解けず、私の思考回路には不信感ばかりが降り積もっていく。もしも私が脳内お花畑なただのお嬢様だったなら、すでに彼の容姿に絆されてしまっていただろうけれど、生憎とこちらはお嬢様から逃げ出そうとしている身だ。
 私の視線が怪訝なものになったのを即座に感じ取ったのだろう、彼の表情がどこか困ったようなものに塗り替えられた。

「そんなに怖い顔をしないでくれよ。折角の可愛らしい顔が台無しになってしまう」
「……あなた、一体何が目的?」

 お嬢様から逃げ出そうとしているとはいえ、今のところはまだ、私の肩書きは『お嬢様』なのだ。そこらの悪人にとって、私のような小娘の使い道など五万とある。そういう輩に狙われた経験だってこちらも数えられぬほどあるのだから、この警戒だって当然のものだろう。
 鋭い私の問いかけに、彼は何かを思考するようにかすかに視線を泳がせた。その姿に何か言い訳を探しているのだろうかと私は警戒を強めるけれど、今この場で言い訳を考え始める悪人などあまりにも間抜けすぎるのではないかということにはたりと気づく。私を籠絡したり拉致誘拐したりしようとするなら、最初からそれ用の言い訳なんて十も二十も用意しているのが普通に決まっている。そうでなくとも、こうして分かりやすく考える素振りを見せるのはあまりにも不自然なのだ。彼が悪人だと仮定すると。
 ……となると、彼は一体?

「――目的、か」

 ぐるぐると思考を回す私の視線の先で、ようやく言葉を見つけたらしい彼がゆるりとその瞳を細める。随分と柔らかなその表情に心臓がおかしな拍子を刻むのを意識の奥底で理解しながら、私は固唾を呑んで彼の言葉を待った。

「君のことを知りたい。それじゃ駄目かな?」

 え。掠れた情けない声が喉からこぼれ落ちる。
 予想外も予想外なその答えに硬直する私をよそに、彼はまたにこりと笑みを浮かべて言葉を紡いだ。相変わらず、彼が一体何を考えているのかが私にはひとかけらだって分かりはしない。

「というわけで、よければ俺とデートでもしませんか? 可愛らしいお嬢さん」

 けれど、ただただなんとなく。本当にただ直感的に。自分と彼との付き合いは長くなりそうだと、そんなことを考えた。




 この後ファデュイとの会食で公子としてのタルタリヤと出会ったり云々してすれ違ったりすれ違わなかったり共闘したりなんやかんやありつつ結ばれて欲しい。夢主のおうちの古くさい慣習も多分タルタリヤと一緒にぶち壊していくんだろうな、多分。
 続かない。

2020/3/9

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