Tell me what is love (twst/ジェイド)
※attention※
・固有名前有not監督生夢主
・固有名はシェリー
・捏造過多ご都合主義、ファンタジー要素多め、ネタバレ有
・時間軸はジェイドがまだ1年生ぐらいの頃を想定
・何でも許せる人向け
・大団円ハッピーエンドはないです。
──その扉は、広い図書室の奥の奥。学園での授業や課題などでは滅多に利用されることのない本当に古い資料や文献が並ぶばかりで、人の足も滅多に伸びては来ないような場所に、ひっそりと隠れるように存在していた。
本棚同士の間隔も狭く、その中に乱雑に並べられた書籍たちはそれでも隙間がないほどに詰め込まれて、まるで僅かな音すら全て吸い込み、この場所にただただ沈黙だけを落とそうとするかのよう。天井には他の場所と変わらず一定間隔で灯りが灯されているというのに、どうしてかその一角だけは、切り取られた別世界かのように酷く薄暗かった。
視覚的な錯覚により導き出された圧迫感と薄ら寒さを感じながら、男、ジェイド・リーチは、そんな図書室の最奥で僅かな足音を周囲に響かせていた。
浅い海の色を宿した短髪にひと房だけ長い深海の色を揺らす姿が酷く特徴的な彼が、どうして授業時間中でもある今、こんな場所にいるのか。その理由は酷く簡単。今この時間、彼はとても『暇だったから』だ。
予定調和や退屈を嫌い、柔らかい笑みと穏やかな立ち居振る舞いの裏では、常に好奇心を満たしてくれるような新しい刺激を求め続けている彼が、こうして未だ自分の知らない場所へと気まぐれに足を向けることは、そう珍しいことでも、可笑しなことでもなかった。
つい先ほど、教師の都合で突然言い渡された自習の時間。とはいえ課題なども全て終わらせてしまっているジェイドには特にすることもなく、中途半端に生まれた暇を潰そうと興味の赴くままに彼が足を勧めた先が、今日は、『ここ』だった。本当に、ただそれだけ。
──そしてその偶然は、運命とも名付けられそうな不思議な出会いを呼ぶことになる。
図書館の奥のとある一角。本ばかりで満たされた、代り映えのしない光景の一部。書架と書架の間に隠されるように存在していたのは、──小さな、小さなひとつの扉。
それは、190センチという、人間の基準で考えれば高身長の部類に入るジェイドでは、かなり身体を屈めて頭を下げてやらなければ中には入れないほどのサイズだった。その高さは、目測でおおよそ170センチほどだろうか。これでは、人間でも背の高い者ならば入るのに苦労してしまうだろう。
本棚と同じ色の木材で作られたその扉は、窓ガラスも備えられてはいないとてもシンプルなデザインのもので、それなりに年季が入っているのかどこか古びた様子を纏っていることも相まって、ジェイドが少し拳で叩けばたちまちに壊れてしまいそうなほどに儚く見えた。
きっと書庫か何かに繋がっているだけなのだろう何の変哲もないその扉が、どうしてか今は、酷くジェイドの好奇心を掻き立てた。無意識に伸ばしていた指先が、ドアノブに触れる。革手袋越しにも肌に伝わるひやりとした金属の感触をそっと握りしめて、右に回した。
けれど、ドアノブはがちゃりと乾いた音を立てるだけで扉を開こうとはしない。鍵がかけられているのだろうかと考えたけれど、それにしては様子がおかしいと直感的に察知する。
その違和感に急き立てられるまま、ジェイドはおもむろに自らの制服の胸ポケットからマジカルペンを取り出して、そこに嵌め込まれた透明な魔法石をドアノブへと向けた。そして小さな声で呟くように詠唱を唱える。刹那、ふわりと僅かな風がジェイドを包むように巻き起こり、その髪先を柔く撫でていった。
それ以外に世界へ何を起こすこともなく、風はすぐさま消えていく。残されたのは変わらずそこに佇むジェイドと、小さな扉と、そして。
「……これはまた、随分と手の込んだ鍵がかけられていますね」
ドアノブの上に浮かび上がったのは、海の底を切り取ったような深い蒼色で記された魔法陣の姿。この世界において、『鍵』以上に強固で厳格な守りの手段、即ち『魔法』がその扉にはかけられていたのだ。
恐らく普通の生徒ならば、それを見た時点でこの扉を開けることは叶わないと信じ込み、そして諦めてしまうのだろう。だがしかし、今それを見つけてしまったこの男、ジェイド・リーチはそんな『普通』の枠には属さない存在だ。落胆するどころかむしろ瞳を輝かせて、ジェイドはその魔法陣に視線を落とした。
そこに浮かぶ魔法陣の形も、それを構成する文字も、陸の世界で見られるものではなかった。きっとこの学校で用いられる教科書や参考書を探しても、この魔法についての内容は記されていないだろう。……けれど、ジェイドはそれを知っていた。なぜならそれは、
──古き海の魔法。
これは随分とマイナーで珍しい魔法を使っているものだと、ジェイドは心の中に笑みを転がした。ジェイド自身も、それについてあまり多くを知っているわけではない。それは今や、ジェイドの生きていた珊瑚の海でも知る人は数えられる程にしかいないような、それほどに古い魔法なのだから。
確かそれについて記された本を読んだのは、もう4年ほど前のことになるだろうか。
あの頃、自分を馬鹿にした世界を見返すためにと努力に努力を、そして勤勉を重ねていた、彼の幼馴染とも呼べる存在である、アズール・アーシェングロット。そんな彼がどこからか見つけ出してきた文献の中に、本当に小さくではあるが記されていたのがその魔法だった。
もう随分と朧げな記憶に鞭を打って、そこに書かれていた内容を思い出す。きっとアズールならば瞬時に理解に繋がったのだろうけれど、今ここにいない存在に頼ることなどできないし、パズルというのは自らの手で解いてこそというもの。
ひとつひとつの文字を、掠れた記憶と照らし合わせながら読み解いていく。円状に五つの列が並ぶそれは、どうやら歌の歌詞か何かをなぞっているようだ。読めない文字の部分は前後と繋がるように解釈して、そうして歌を繋いでいく。そうして一節を読み解いた頃、ジェイドはふと、その言葉の並びにもどこか覚えがあることに気がついた。
一体どこでその歌を聞いたのだろうかと首を傾げながら、さらに先へと目を通す。
『海の底、私は歌う、水面を仰いで、光を望んで、空に歌う』
『青い色、空とは違う、深いあお、ここは暗く寒い場所』
『私の声は、空に生きるあの人には、決して、決して届かない』
『この想いを、この焦がれを、空は恋と、呼んでいた』
全ての文字を解読し終えた刹那、ジェイドの脳裏に呼び覚まされたのは、長い時間の中に色褪せてしまった、古い古い過去の記憶だった。
本当にまだ幼い稚魚の頃。近所に住んでいた、随分と長い時間を生きてきたというひとりの老いた人魚が、よく口ずんでいたあの歌。海の中に生きてきた十数年の時間の中で、その人魚以外がそれを歌っているのを聞いたことはなかったので、それはきっとかなり古く、そしてごく一部の人魚だけが知っているような歌だったのだろう。
飽きもせず繰り返されていたその歌を、フロイドと共に穴ぐらの中で微睡みながら耳にしていた記憶が、弾けるようにジェイドの頭の中に蘇った。ジェイドの脳内に残るそれとはやや異なっている部分もあったが、今目の前に展開されている魔法陣に記されたその歌詞は、確かにあのいつかの日に聞いた歌のものとほとんど同じ文字列を並べていた。
そして同時に気づく。歌詞にはまだ続きがあったことに。
この後に続く言葉は、一体何だっただろうか。記憶をぐるぐるとかき混ぜて、ひっくり返して、そしてジェイドは思い出す。いや、思い出したというよりは、こぼれ落ちてきたと表現した方が正しいかもしれない。頭の奥底に辛うじて残されていたその歌が、メロディーが、歌詞が、ほろりとジェイドの唇を無意識のうちに震わせ、そして世界へと飛び出していった。
「──『恋とは何か、教えて』」
瞬間、ぱちんと何かが弾けるような音がジェイドの鼓膜を叩き、そして視界に映る世界が淡い光に埋め尽くされた。網膜を焼き尽くす程の眩しさではなかったけれど、突然の光の襲来によって、ジェイドの瞼は反射的に閉ざされる。
薄い皮膚越しに感じる世界の明暗から光が収まったことを確かめて、ジェイドは恐る恐る目を開いた。その視界を埋めるのは、先程と変わらない──いや、一か所だけ変化した、図書室と小さな扉の姿。そのたった一つの変化は、つい先程までドアノブを守るように浮かび上がっていたあの魔法陣が消えてしまっていたこと。
どうやらあの歌詞の続きを唱えることが、魔法陣を解く方法だったらしい。
図らずとも解けてしまった魔法陣に呆気なさを覚えながらも、記憶を辿り解いていく感覚はやはりパズルのようで楽しかったと満足さにも満たされる。……そしてまあやはり、開いたのならばその向こうに何が隠されているのかも気になってくるところ。
世界の約9割以上がもう知りはしないだろう古の海の魔法と、さらには古い海の歌を使って封じられていたということは、ただのいち生徒には見られたくない、もしくは見られてはいけない何かがこの向こうには存在しているということ。理性がそんな危険を冒すなと言っている気がするが、その声も無視してジェイドは再びドアノブに手をかける。
今度はすんなりと、何の邪魔も入ることはなく扉はゆっくりと開かれた。
身体を屈めて、ジェイドはその扉を潜り抜ける。背後から差し込む図書館側からの光を頼りにその中に視線を巡らせれば、そこには暗く短い廊下のような空間が存在し、そしてその向こうには、何やら橙色の光を微かに揺らす広い部屋の姿が見えた。
振り返り扉にマジカルペンを一振りして静かに閉ざしたジェイドは、その温かく灯った光だけを頼りに足を進める。時折ゆらゆらと揺れているようにも見えるそれは、炎を光源にしたランタンか何かによるものだろうか。
足音だけでなく呼吸の音すらも出来る限り押し殺して、消し去って、ジェイドは短いその廊下を抜けた。どくどくと普段よりもいくらか速度を増した心臓の音が、鼓膜のすぐ傍に聞こえている。
廊下の終わり、そして部屋との境目で、一度ジェイドは足を止めた。
ゆっくりと、中を覗き込むように顔だけを壁の向こうへと傾ける。
窓のひとつも存在しない、円柱状になったその部屋の中に満ちていたのは、闇と、複数のランタンが淡く灯した橙色の光と、ぐるりと部屋を囲い込むように壁一面に並べられた、数えきれないほどの本の群れ。そして──、
ぱらり、ぱらり。静かな部屋の中に、紙同士が擦れ合う乾いた音が微かに響き渡る。
円柱の底面。つまりは円形をしたこの部屋の床の中央に、誰かの姿があった。
自分自身を囲むように本の山を築いて、そして手に持っている1冊のページを無心で捲り続けているその誰か。ジェイドからはその後ろ姿しか見えないが、それは小さな体躯を持った1人の少女であるようだ。四方のランタンからこぼれた光に、優しい亜麻色を宿した長い髪の毛が、きらりと柔く瞬いている。その輝きに、どうしてか瞬きすら忘れてしまうほど視線が奪い取られてしまって、ジェイドは思わず息を呑んだ。
それによって空気に生まれた僅かな揺れに、その誰かもジェイドの気配に気づいてしまったらしい。ゆらりと小さなその背中が揺れて、ジェイドとは反対側の方向を向いていた顔がゆっくりとこちらへ傾けられていく。
ジェイドは咄嗟に廊下へと戻って姿を隠すことも出来ず、ただその視線に射抜かれる瞬間を待つだけ。僅か数秒にも満たないその時間が、まるで秋の夜のように感じられた。
ぱちりと、翡翠の宝石をそこに嵌め込んだかのように鮮やかな緑の色を宿した瞳と視線が交わる。ランタンの明かりに照らし出されたその輪郭は、やはりまだ年若い、ジェイドとそう年齢も変わらないだろう少女の柔くまろいもの。陶器のように滑らかそうな肌は、暗がりにいるせいか少し血色が悪そうにも見えた。けれど彼女が身に着けている黒を基調としたドレスは、その白い肌によく映える。亜麻色の前髪は少し短すぎるほどに切り揃えられ、浮かぶ表情は静けさを纏った無だけれども、少し垂れた目元や下がった眉が相まってどこか眠たそうにも見受けられた。可憐な青い花の髪飾りが、少女の動きに合わせて柔く揺れている。
……まるで、完成された精巧な人形のようだと、そう思った。
視線を交えてふたり、二度、三度とそれぞれに瞬きを繰り返す。落ちた沈黙にジェイドは適切な言葉を探そうとするけれど、普段の自らの能弁さも忘れてしまった彼は、ただただその静けさの中に唇を引き結ぶことしかできない。
──その沈黙を壊すように言葉を転がしたのは、彼女の方だった。
「……珍しいわね、ここに人が入って来るなんて。貴方、あの魔法が解けたの?」
鈴のような、と比喩するには少しトーンが低く、落ち着いている、どこか静けさを孕んだその声。耳朶を震わせたその音にどうしてか連想されたのは、深い深い海の底。ゆらゆらと揺れる波が水中に奏でるあのさざめきのような、優しくて穏やかな声だった。
表情をぴくりとも動かさずに、ただ首だけを小さく傾げて、少女はじっとジェイドの方を真っ直ぐに見つめている。その視線に、問いかけに、ジェイドもまた唇を開いた。
「……随分と古い海の魔法に、海の歌を使っていましたね」
「あら、本当に自力であの魔法を解いたのね。……貴方、もしかして海の出身?」
意外そうな口調でそうこぼした彼女は、少し興味ありげにジェイドへとさらにそう問いかけた。けれどもその表情や声色に一切の感情的変化が見えないことに、ジェイドは胸の中で少しずつ疑問を膨らませていく。一見普通の少女の姿をしているが、彼女は一体何者なのだろう。この学園の中にあって、あんなにも厳重な守りのかけられた部屋の中にいたのだから、きっとそこには何か大きな理由があるはずだ。満ち満ちていく好奇心の波を今は抑え付けながら、ジェイドは微笑みを作ってそんな彼女に答えを返す。
「ええ、はい。ここに入学する前は珊瑚の海という場所で人魚として生活していました」
すると、ジェイドの言葉を聞いた少女が、突然弾かれるように立ち上がった。ぱたぱたと小さな足音を鳴らしながらジェイドの下へ駆け寄ってくる姿に、彼女もちゃんと自分の足で立って動くことが出来たのだなと、そんな事実がすとんとジェイドの中へと落ちてくる。
ジェイドの目の前に立った彼女の身体は、思っていたよりもさらに幾分か小さく、本当に人形か何かのよう。その背丈はもしかすると150、いや、140センチにも満たないのではないかと思えるほどのもの。本当にただ幼い子供なのかという考えが一瞬脳裏を過ったけれど、それはきっと違うだろうと、すぐさま否定の言葉が頭に響いた。
彼女はその細い首をめいいっぱいに傾けて、ジェイドを真っ直ぐに見つめる。
「貴方、本当に海から来たの? 人魚なの?」
変わらぬ無表情の中に、それでも好奇心からか、興味からか、きらきらと輝いて見えるその翡翠色は、本当に宝石か何かのようだった。その輝きに柔く目を細めながら、ジェイドはその膝を折って床に跪く。この身長差で両方が立ったまま会話をするのは、彼女にかなりの負担をかけてしまうと思ったから。
「ええ、そうですよ。人魚とは初めて会うのですか?」
今度はジェイドの方が幾らか低い視線になって、ふたり言葉を交わす。興味津々とばかりにジェイドを見つめる彼女の様子は、その瞳は、どこか幼さを纏っていて。本当に不思議なひとだと、ジェイドは心の内に彼女への好奇心を深めていった。
「話の中や本の中では何度も目にしたわ。でも、実際に会うのは貴方が初めて。……ああ、いけない、お客様を床に座らせるなんて。奥へどうぞ。もしよければ少しお話しましょう」
授業が終わるまで、後30分程の時間がある。少しの間ならば問題ないだろうと、ジェイドは彼女に手招かれるまま部屋の中央へと足を進めた。
床に置かれたひとつのランタンが、橙のベールでジェイドと少女のふたりを包み込んだ。
少女が置いてくれた柔らかいクッションの上に腰を下ろして、再び二対の瞳が交わり合う。
「……そういえば、自己紹介がまだだったわね」
ふと、本題に入る前に彼女からそんな言葉がこぼされた。その内容に、ジェイドもそういえばと自分の失念に気付く。
「私の名前はシェリー。貴方は?」
そう名乗った彼女の言葉に、ジェイドもすぐさま胸に手を当てて慇懃に答えを返した。
「僕はジェイドと言います」
「そう、ジェイド……なんだか親近感が湧くわね」
翡翠の瞳がゆるりと細められて、そこへ橙の色と一緒にジェイドの姿を映し込む。様々な色彩がその丸い宝石の中に揺れているけれど、やはり一番に網膜を焼くのは鮮やかな緑。
「親近感、と言いますと?」
彼女の言葉の真意を知りたいと、ジェイドは素直に問いかける。すると彼女は、勿体ぶるでもなくその答えを開示してくれるのだ。
「ジェイド≠ヘ翡翠。──私の瞳と同じ宝石だもの」
その言葉が、その言い回しが、ジェイドの思考回路の中に僅かな引っかかりを与える。気にさえしなければ一瞬にして消えてしまったのだろうその違和感は、どうしてかジェイドの頭の中に立ち止まってしまって、そしてどうしようもないほどにジェイドを急き立てた。
言葉の綾と言われてしまえばそれまでだが、それでも、その口ぶりはまるで。
ぱちりと彼女の瞳に色彩が瞬く。きらきらとランタンから与えられる光を反射させるそれは、確かにジェイドの瞳にも『正しい瞳』の形に見えた。
「……いくつか、お聞きしても?」
「何かしら。私に答えられることならば」
小首を傾げた彼女の姿も、やはりどこをどう見ても『人間』そのものにしか見えなくて。
けれど、けれど、ジェイドの胸の中には確証もない確信が確かにあったのだ。
「……貴女は、どうしてこんなところに閉じ込められているのですか?」
ジェイドの問いかけに少女はぱちりと瞬きをしただけで、その表情に驚きを滲ませることも、怪訝をこぼすこともない。ただただ静かに、少女はジェイドの言葉を聞いていた。
「どうして私が『閉じ込められている』と思ったの?」
どこまでも静かで穏やかな声だ。それに薄ら寒さを感じながら、ジェイドはここに辿り着くまでに自身が組み立てた説をひとつひとつ、確かめるように口にしていく。
「そう、ですね……見たところ、この部屋と外の世界を繋ぐ扉は僕が通ってきたあのひとつだけ。そしてあの扉は、オートロック式でありながらも『開錠は外側からしか出来ない』仕様になっていました。先程僕が施錠の前に少し魔法をかけましたから、今はその限りではありませんが、──あの扉は、外からの侵入を許さないというよりは、内側にあるものを外に出さないようにしているように見受けられた」
外側から魔法で鍵のかけられた、内側からは脱出不可能なこの空間。そこに存在したのは、今ジェイドの目の前に佇むひとりの少女。一見したところ、か弱く人畜無害なただの少女にしか見えないが、本当に彼女がただそれだけの存在だったなら、誰もこんな場所に彼女を閉じ込めたりはしないだろう。
「他に出入口があるというのなら話は別ですが、一見したこの状況からですと、貴女がここに閉じ込められているのだと推測してしまっても無理はないと思います」
「……そうね。確かに貴方の言う通り、あの扉は外側からしか開かない。それに、あれ以外に外へ繋がる道もここにはないわ」
ジェイドの言葉に頷いた彼女は、それを肯定して唇を震わせる。
翡翠の瞳は、ずっと真っ直ぐにジェイドを見つめ続けていた。
「でも、少し違うわ」
静かでいて、それでもそこに芯を孕んだ強い声色。
「──私は閉じ込められているんじゃなくて、自らここに閉じ籠もっているのよ」
ぱちりと、ジェイドの瞳が瞬いた。彼女の様子から、少なくともこの幽閉は彼女の同意に基づいて行われているのだろうとは思っていたが、まさか発案者が彼女自身だったとは。感情が表情にあふれ出てしまいそうになるのを必死に抑え込みながら、少しの逡巡を引き摺りジェイドは再び彼女に問いかける。
「……差し支えなければ、その理由をお聞きしても?」
「ええ、もちろん。好奇心と知識欲が手に負えない怪物だというのは、私にも分かるから」
気を悪くした様子もなく、彼女はジェイドの言葉を受け入れてくれた。そうして一度口を閉ざし、何かを考えるように沈黙する。瞬きも疎かになったその姿は、より一層人形のように見えて、ジェイドは自分が何と会話をしているのかもよく分からない心地になってしまう。
数秒の間をおいて、彼女は再びその小さな唇を震わせ声を紡ぎ始めた。
「もう貴方も気づいているだろうけれど、私は人間じゃないの」
何の躊躇もなく放たれたその言葉のあまりの鋭さに、その内容を予想していたはずのジェイドでさえも、思わず微かにひるんでしまった。変に軋んだ心臓の音に奥歯を噛みしめながら、ジェイドは彼女に先を促す。
「因みに、貴方のような存在でもないわ。魔法生物でも、モンスターでもない」
「……と、言うと?」
ゆるりと彼女の瞳が細くなる。それは眩しさに耐えているようにも、微笑んでいるようにも、見方によっては悲しんでいるようにも見えた。けれど相変わらずその顔に明確な表情は宿ってなどいないため、ジェイドには彼女が抱いている感情を推測できないまま。
橙に揺れる緑が、酷く世界の色彩を焼いていた。
「私、そもそも『生きていない』のよ」
今度こそ、確かにジェイドの呼吸が浅く止まった。それは純粋な驚きと困惑から。
数秒の時間をかけて彼女の言葉の意味を噛み砕きながら、ジェイドはじっとその姿を見つめ続けた。目の前の彼女は、何度見ても、何度瞬きを繰り返しても変わらぬ姿でそこに佇んでいる。まだ年若い、いや、いっそ幼いと称しても良いだろう少女の形をとって、ジェイドの前で言葉を吐いている。瞬きをして、動いている。思考をしている。
その姿は、どこまでも『生きている人間』そのものだった。
けれど、ジェイドはふとあることに気が付いてしまう。
「──私のことを、確か人間は『人造人間(ホムンクルス)』と呼んでいたかしら」
その肩が、その身体が、ほんの僅かにも揺れていないことに。
生きている存在にはあるはずの呼吸が、そこには本当にないことに。
そしてようやく理解した。あまりにも感情の欠落した彼女の表情と、声の理由を。
「……人造、人間?」
言葉を確かめるように反芻した声の最後が僅かに震えていたことに、ジェイド自身も気が付くことが出来なかった。
「ええ、聞いたことぐらいはあるでしょう? きっと見たことも」
「そう、ですね。けれどこんなに人間らしい人造人間とお会いしたのは、貴女が初めてです」
「それはそうよ。だって、この世界でこんな風に完全な人間の形をとって、そして高い言語能力と学習能力を備えて生み出された人造人間なんて、私ひとりだけだもの」
ジェイドが今までに読んできた教科書やその他文献などにも、人造人間についての様々な知識は数多く記されていた。けれど、そこに示された人造人間というのは、頭部に胴体、そして四肢こそあれど、その見た目は人間には程遠く、そして基本的には言語を解する知能も学習能力ももたないものばかり。ジェイドが授業の中で見たことがあるそれも、その程度の枠のなかに収まる、言葉は悪いが玩具のようなものでしかなかった。
そして、さらには人造人間に関するどんな文章も、最後は『人造人間の研究はまだ発展途上である』という言葉で締めくくられており、彼女のような、言ってみれば『完璧な人造人間』が造られたという話などジェイドついぞ聞いたことがなかった。
彼女の言う通り──最早疑う理由もありはしないのだが──彼女が人造人間だった場合、きっと彼女の存在は世界中からの注目の的に、……ああ、そうか。
目まぐるしく揺れ続けていた思考回路が、ぱたりと突然足を止めた。
ジェイドはついに、ある推測に至ってしまったのだ。彼女がこの場所に自らを閉じ込めている理由に対する、とある仮説に。その、あまりにも悲しい事実に。
「……自分のような『人造人間』を、もう二度と生み出さないために……?」
その最終的な理由に至るまでの原因に対しての推測は、まだ頭の中で複雑に入り組んでいて、ジェイドはそう簡単に口にすることも出来なかった。けれど、それだけは。その結末だけは、どうしてか確信出来てしまったのだ。
人間と言われても頷けてしまうほどの容姿に、流暢な発話と高い言語能力、そして人間にも劣らない学習能力。先程彼女は『好奇心と知識欲は手に負えない怪物』だと言った。そして、それに対して『分かる』、とも。つまりそれは、彼女にもそれらが存在するということ。
好奇心と知識欲を持つ、人間の手により造り出された『造花』のかたち。それは裏を返せば、知識と材料さえあればその『造花』を増産することだって容易いということだ。
それを見た人間が何を考えるのかなんて、一体それをどう使おうとするのかなんて、瞬きの間に百通りは予想がついてしまう。人間の欲とは計り知れないものだから。
「……貴方は聡い子ね」
ジェイドの言葉に、彼女はそっと瞳を伏せた。相変わらずその表情にも声色にも、感情と呼べる感情の温度は灯っていない。それでも、そこに宿る鮮やかな緑がゆらゆらと水面のように揺れている気が、した。
刹那、遠い世界に授業終了を知らせる鐘の音が響き渡る。
次の授業のために、早くここを辞さなければいけない。そう理解していながらも、ジェイドはどうしてか立ち上がることも出来ずにいた。
──白昼夢を見ているかのようだった。曖昧で、不安定で、覚束なくて、現実味のない、そんな夢。ああ、けれど。今この網膜を焼いているこの情景は、この色彩は、どうしようもなくただひとつの現実でしかなくて。
じわりと焼けた喉に唾液を押しこんで、ジェイドは目の前の翡翠をただ見つめる。
「鐘が鳴ったわね。ほら、そろそろ行かないと先生に怒られてしまうわよ?」
静かな声が、ジェイドの背中を優しく押した。
……まだ、彼女に聞きたいことが山ほどあった。彼女について、彼女の生きてきた時間について、そして、これから彼女が過ごしていく時間について。
彼女に、まだ話していないことが山ほどあった。彼女が強く興味を示していた、海の世界について。自分が生きてきた、あの蒼い世界について。
自分が今、どうしてこんなにも執着に似た感情を彼女に対して抱いているのかさえ、ジェイドには分からない。けれど、このまま彼女と別れてしまうことに、酷く胸が痛んだのだ。
そんなジェイドの胸中を察したのか、ただの社交辞令なのか、──それとも、それを彼女が本当に望んでくれているのか。再びその落ち着いた声がジェイドの鼓膜をノックした。
「私はずっとここにいるから、聞きたいことがあるのならまたいつでも来ればいいわ。私も貴方には聞きたいことがまだまだ沢山あることだし。大したおもてなしは出来ないけれどね」
その日、世界の片隅で不思議な出会いが生まれ落ちた。
魔法で人間になった人魚と、世界で一番人間に近い人造人間。
その出会いの結末を、未だ世界は知らない。
2020/5/5
- 2 -