君さえ


「ずっと貴方が欲しかった」(twst/アズール/BLD)


※固有名有りnot監督生男夢主(色々重め)によるアズール夢
※n番煎じと捏造とご都合主義と妄想と幻覚
※設定がGABA
※なんでも許せる人向け



 頭の隅に辛うじて残る幸せな記憶を頼りに、この10年余りの時を生きてきた。

 呼吸をして、与えられる簡素な食事を摂って、サイズの合わない粗末な服を引き摺って、小さな窓の向こうに辛うじて見える青い空だけを眺めてこの世界に存在していた。「長生きするんだぞ」、「幸せになるのよ」、そんな両親の口癖を頭の中に繰り返して。もう忘れてしまった彼らの声に必死に縋り付いて。そうしてセビア・クリナムは生きてきた。

 決して裕福ではない暮らしの中で、それでも両親から深く愛され過ごした5年間。それが壊れる瞬間は、酷く呆気ないものだった。
 魔導車同士の不幸な事故。世間ではそんな酷く簡単な言葉で呼び表されるその事故の中にこぼれ落ちた命が、他でもない彼の両親のふたつ分。真っ白な部屋に眠る2人の姿に、幼いながらも全てを理解せざるを得なかった。もう両親が自分の名前を呼んで頭を撫でてくれることも、手を引いてくれることも、抱きしめてくれることも、二度とありはしないのだと。

 そうして残されたのは、両親を失ったひとりの子ども。もちろん大人の庇護がなく生きていくことなどできないその存在が一番に向わされた場所は、父方の遠い親戚の家だった。
 それなりに由緒の正しい歴史を持つ裕福なその家は、表向きはセビアのことを厚意的に受け入れた。けれどそれはあくまで世間体を気にしただけのものであって。
 家について直ぐに放り込まれた場所は、まるで独房のような暗く冷たい石の部屋。質素なベッドと古びた机と椅子だけが存在するその場所に、高い位置にある小さな窓から微かな外界の光だけがはらはらと差し込んでいた。

「最低限の衣食住だけは与えてやる」
「貴方は要らない子なのよ」
「汚らしい奴。邪魔だからさっさと消えてくれ」

 叔父と、叔母と、偶然にもセビアと同じ年齢であるその一人息子。彼らから口々に与えられるのは、温かさの欠片も存在しない罵詈雑言ばかり。セビアのまだ柔らかい心がぐちゃぐちゃに壊れてしまうまで、そう時間はかからなかった。
 使用人によって日に2度もたらされる食事と、3日に一度許される入浴と着替え。それ以外の時間はただ虚空を眺めぼんやりとするだけの日々の中、それでもなお死を望むことが出来なかったのは、ひとえに両親から注がれた愛がセビアの中に生きていたから。

 死にたくない。生きたい。両親の分も。僕は。

 両親の不幸に心を病み、衰弱し、遠い病院に移され、そしてその先で儚くも息を引き取ったのだと偽って、叔父や叔母からその存在を世界から消されてしまっても、それでも。

 セビアは、ただただ生きていたかった。

 そんなセビアに訪れた次なる転機は、彼が12歳になる年のこと。自らの誕生日を忘れても、月日の流れに追いつけなくなっても、それでも使用人の話からこの屋敷の一人息子の誕生日の話題を盗み聞いて何とか自らの年齢を辿っていた、そんな折。ある日突然、ひとりの老人がセビアの押し込まれた牢獄と名高い部屋へと訪れるようになったのだ。
 その老人曰く、彼はセビアが何か問題を起こさないようにと遣わされたいわゆる『監視役』のような存在であった。今更にも程がある気がしたが、恐らく成長して身体の大きくなり始めたセビアを懸念しての対策だったのだろう。実際、ここに来た当初はあれだけ高い場所にあったはずの小さな窓に、12歳のセビアは少し背伸びをすれば手が届くほどの背丈に成長していた。
 かつては隣国の近衛兵をしていたという老人は、その名残か年老いてもなお凛と背を伸ばし、洗練された佇まいで静かにセビアの部屋の片隅に佇んでいた。初めは知らない姿に緊張を覚えていたセビアも、彼のその、言ってしまえば存在感の希薄な在り方にすぐさま順応してしまう。
 そうして3か月ほどが過ぎ去った頃。いつのまにか時折言葉を交わすようになっていたふたりの距離感は、まるでセビアの知らない祖父と孫のそれのようであって。あまりにも穏やかな日々の中で老人がセビアに与えたのは、ただただ機械的な監視の目でも、侮蔑の感情でもなく、彼がそれまでの人生で蓄えてきた『知識』の全てだった。
 言語、歴史、数学、科学、地理。そう言った学問から、通貨や家事についてなど、生活に直結する知恵までを広く、深く。それに加えて、魔法の使い方の基礎まで。まるで自らの全てをセビアに明け渡すかのように、懇々と彼は語り続けた。

「僕は、いつかここから出て自由に生きられるようになるのかな」
「……さてなぁ。未来は誰にも分からぬものじゃから、わしには何も言えやせんよ」

 きっと彼の存在がなければ、今の自分はなかった。セビアは強い確信をもってそう言える。それほどに、その老人がセビアの人生に与えたものは大きかった。
 けれど、疑問だけは今もなおセビアの胸に蟠ったまま。彼は一体、何を思ってセビアにそれを教えたのだろう。知識を、知恵を与えたのだろう。このままこの小さな牢獄の中に消えていくはずであった小さな命に、どうして。
 セビアが15歳になる年の冬の中、静かにその生を終えた老人の冷たい指先を握りしめて、セビアは考えた。考えて、考え続けた。両親から与えられたこの命を、老人から受け継いだこの英知を、自分はこの牢獄の中でどう活かしていけばいいのかと。

 ──その答えを知るのは、それから季節が半周した夏の終わりのこと。

 屋敷に黒い馬車がやって来た。
 それは、かの由緒正しき魔法士養成学校ナイトレイブンカレッジからの入学案内を意味する迎え。そして、社会的に見てこの家に存在する「入学に値する年齢である少年」は、この家の一人息子であるティム・ステイヤーズただひとりだけ。つまり、これらの情報からはじき出される答えはひとつ。ステイヤーズ家の嫡男、ティム・ステイヤーズの下に、ナイトレイブンカレッジへの入学という栄光が届いたということ。
 叔父も、叔母も、使用人も、それ以外も、そう信じて疑わなかった。もちろん、3日に一度の入浴から部屋へと戻る途中にその騒ぎを聞いたセビアも。
 玄関先に満ち満ちた歓喜の群れに、2頭立て馬車を引く黒馬の1頭がひとつ嘶きを落とした。それを準備への追い立てだと解釈したのだろう。自分が選ばれたのだという事実ににこにこと笑みを溢れさせるティムが、馬を宥めようと手を伸ばした。

 ──けれど、

 まるでその指先から逃れるように、黒馬はその身体を捩らせる。1頭の動きに合わせて、もう1頭も。そして蹄を地面に叩きつけながらティムや叔父叔母たちに背を向け──真っ直ぐ、セビアの方へと。
 2階の廊下の窓辺から玄関先を見下ろしていたセビアの眼前に、漆黒が揺らめいた。それは、紛うことなく先程まで玄関先で歓声の中にあった馬車の姿で。予想外の出来事に、セビアを含む全てのひとが言葉を失った。

 結論から言ってしまえば、ナイトレイブンカレッジへの入学者を選定する『闇の鏡』に選ばれ迎えの馬車を寄越されたのは、ティムではなくセビアの方であった。
 確かにセビアはティムと同じ年齢であり、魔法を使う素質も持っていた。けれど、『セビア・クリナム』は、戸籍上はもう既に『死んでいる』存在であって。

 怒り狂った叔父が、ナイトレイブンカレッジへと直接連絡を飛ばした。半狂乱に陥った叔母がセビアの頬を何度もその手で打ち付けた。未だに状況を理解しきれていないティムが、茫然自失のままそれでもセビアを憎しみの籠もった視線で睨みつけた。

 セビアはそれらの全てを自分の遠くに感じながら、思った。

 あの老人は、この未来を見越して自分に知恵と知識を与えてくれたのだと。

 結局学園側の意向は変わらず、入学資格が与えられたのはセビアただひとりだけ。叔父と叔母は必死に考えた。いないものとして扱ってきたセビアに、栄光とも呼べるナイトレイブンカレッジへの入学案内が届いてしまった。もちろん彼らが一番に望むのは、一人息子であるティムにその栄光を与え、この家系に箔をつけること。けれど、扉となる棺桶を乗せた黒い馬車は頑なにセビア以外の存在を受け付けない。

 ──そうして彼らは、思いついた。
 セビアを『ティム・ステイヤーズ』としてナイトレイブンカレッジに通わせればいいのだと。

 なんて馬鹿げたことを。セビアはそう考えたけれど、ティム・ステイヤーズを知る人の中にナイトレイブンカレッジの関係者やそこに通う者は存在しない。そしてさらに、セビア・クリナムは世間的にはもう既に死んでしまったはずの人であって。
 つまり、セビア・クリナムがティム・ステイヤーズとしてナイトレイブンカレッジに通ったとして、それを見咎める者は誰もいないということ。

 そうなれば話は早かった。
 すぐさま学園に多額の金を積んで手を回した叔父と、それでもなお心の傷が癒えないティムを必死に慰める叔母。セビアただひとりを置いて、世界は勝手に回っていく。
 セビアにとっては、別にどうでもよかった。ティム・ステイヤーズとしてナイトレイブンカレッジに通うことになったとしても。人生の地獄はもう痛いほどに味わってきたのだから、心がこれ以上に壊れることはない。むしろ、老人が与えてくれた知識を無駄にすることがないという点では非常に喜ばしいことでもあった。

 ──けれど、その言葉だけはどうしたって許せやしなかった。

 セビアがティムとしてナイトレイブンカレッジに旅立つ前日の夜。偶然にも立ち聞いてしまったその言葉。

「大丈夫よティム。大丈夫。人の記憶なんてどうとでもなるんだから。あれが無事にナイトレイブンカレッジを卒業して帰ってきた時には、あれを殺してしまえばいいの。今までは惰性で生かしてきたけれど、そもそもあれは要らない子。貴方の礎となって死ぬことができるなんて、分不相応なぐらいの幸せよ」

 その瞬間、セビアは決意した。
 必ず、ナイトレイブンカレッジを卒業するまでに自らの逃げ場を探さなければいけないと。自分たちにとって何よりも不都合な事実を知るセビアを殺すためならば、彼らはきっとありとあらゆる手段を講じるだろう。ならば、その手が届かぬどこか遠くへと卒業と同時に姿をくらませなければならない。
 そうしなければ、セビアが今までの人生を生きてきた意味が、両親が与えてくれたこの命の意味が、全て壊されてしまうことになる。

 こんな奴らに、殺されたくはない。

 表面上は大人しく彼らに従っていれば、少なくともナイトレイブンカレッジを卒業するまでは命の危険に晒されることはないだろう。何故なら彼らが欲しいのは、ナイトレイブンカレッジを卒業した嫡男、ティム・ステイヤーズという肩書なのだから。
 いいさ、それぐらいはいくらでもくれてやる。
 過去も、時間も、名声も、肩書も、全部。

 でも、これだけは絶対に許さない。
 この命だけは、渡さない。

 タイムリミットは、四年後。ナイトレイブンカレッジの卒業式まで。
 それが、セビア・クリナムの孤独な戦いの始まりだった。


  ***


 ティム自身から言いつけられたように、あまり周囲に対して『ティム・ステイヤーズ』としての印象を残さぬように目立たず、けれども問題は起こさず、成績もある程度は優秀に。そんな随分と勝手な注文を、それでもセビアは出来る限り守ってやっていた。在学中に変ないちゃもんを付けられてわずかな自由を制限されたくはなかったから。
 老人が教えてくれた知識や魔法の扱い方のおかげで、何とか名門学校であるナイトレイブンカレッジでの授業にもそれなりについていくことができていた。
 配属されたイグニハイド寮の寮生たちの気質のおかげで、人との関わりを絶って日陰で過ごしていても、周囲から特別目くじらを立てられたりはしなかった。誰の目にもとまらぬ地味な生徒として過ごす日々は、これまで人と接する機会のなかったセビアにとってはそれほど悪いものではなく。むしろ過ごしやすささえ覚えていた。
 そんな中で、セビアが一番に力を傾けたのはもちろん、卒業後の身の隠し方について調べることだった。
 地理学から世界史、民俗学、宗教学。ありとあらゆる情報を集めて、外部からの人間族の移民を受け入れてもらいやすく、戸籍の有無を重視されず、あの一家の手が届かず、叶うことなら平和に、平穏に生きていくことのできる場所。豊かでなくてもいい、いっそスラム街だろうと、山奥だろうと、どこでもよかった。ただ、ただ、自由に生きていくことができれば、それで。

「──おや、ティムさん。今日も調べものですか?」

 日課のごとく図書館に籠もってありとあらゆる文献を読み漁っていたとある放課後。図書館の隅で本の山に囲まれて座り込んでいたセビアに、誰かの声が飛ばされてきた。
 驚きに肩を震わせて、恐る恐るその声のした方へと視線を向ける。刹那視界に瞬いたのは、薄暗い図書館内に、それでもなぜか淡く輝く薄銀藍の色。眼鏡のレンズ越しにこちらを見つめる理知的な瞳が、セビアの姿を真っ直ぐに見据えていた。

 彼は、無事に2年生となった『ティム・ステイヤーズ』のクラスメイト。そしてオクタヴィネル寮の寮長でもあるアズール・アーシェングロットであった。

 きっちりとお手本のように着こなした制服姿で、彼は靴底を鳴らしながらセビアの方へと歩み寄ってくる。彼と言葉を交わした記憶など、数日前にペアを組まされた錬金術の授業以外に在りはしない。存在を認識されていたことについてはまあ驚かずとも、こうして授業外かつ何の理由もない場面で声をかけられたことについては心臓がひっくり返るほどに驚き困惑せざるを得なかった。

「……何かな、アーシェングロットくん」
「ああ、すみません、読書の邪魔をしてしまいましたね。特別用事は無いんです。ただ、随分と一生懸命本に噛り付いているなと思いまして」

 ゆるり、と彼の瞳が柔らかな弧を描く。完璧なまでに穏やかなその笑みを向けられて心を和らげられるほど、セビアは彼について無知ではなかった。
 悪徳オクタヴィネル。その噂はどこまでが真実でどこまでが尾鰭なのかも分からぬほど学園中に蔓延している。けれどもまあ、どの噂を聞いてもいい印象は抱けないのだからつまり真実はそういうことなのだろう。世間知らずの自覚はあるセビアであっても、流石にそんな噂ばかりを耳にしていればそう易々と彼のことを信用できはしない。
 何かを企んでいそうな笑みが自分に向けられてしまえば、なおさら。

「何かお困りごとがあればいつでも僕に相談してください。きっと、力になれると思います」

 うっそりと微笑んだ彼に、背筋がぞわりと粟立った。
 彼は一体どんな対価をセビアに求めようというのだろう。『ティム・ステイヤーズ』という名前についてくるそれなりの富だろうか。それにしても彼というひとにとっては魅力度はかなり低い気がするのだけれど。そう思いはするが、それ以外に彼が求めるようなものを、『ティム・ステイヤーズ』として生きるセビアは持っていない。
 顔の印象を隠すためにと長く伸ばした前髪越しに、セビアはじっとアズールを見つめた。

「……必要ないよ。これは、自分の力だけでなんとかしなくちゃいけないことだから」

 きっぱりとそう言い切って、セビアは再び手に持った本へと視線を落とす。

 博識で聡明で賢い彼ならば、きっとセビアが探し求める『場所』をいとも容易く見つけ出してくれるのだろう。けれど、それでは意味がないと思った。それはいけないことだと思った。だって、これはセビアによるセビアのためだけの生存戦略。たとえ対価を介した利害関係によるものだとしても、決してクラスメイトを巻き込んでいいものではない。それに、第三者を巻き込むことは、情報の漏れやすさにも繋がってしまうのだから。
 アズール・アーシェングロットの秘密保持能力を侮っているわけではない。彼は優秀な商売人であるから、きっとセビアの情報を誰かに明かしたりしないだろう。そう理解していても、打ち明ける訳にはいかなかった。

 セルビア・クリナムの消息は、誰にも知られてはいけないのだ。

 本へと意識を落とし込んだ自分を見下ろすアズールの視線に宿った光に、セビアは未だ気づかない。世界の歯車は、もう既に回り始めていた。


  ***


 ──ぐらりと大きく揺れた視界に「まずい」と思った時にはもう既に、身体から自立能力の全てが奪い去られていた。
 調べ物と両立させながら試験勉強に打ち込むあまり、ここ数日の睡眠時間が足りていなかったことが祟ったのだろう。そういえば、今日は朝から身体が怠くて重かった気がする。今更気づいたところで後の祭りなのだけれど。
 自分の体調管理も出来ないなんて、この先どうやって生きていくつもりなのか。自分への悪態を心中にこぼしながら、セビアは掠れていく視界の中に意識を手放した。

 その直前、誰かの声が自分の名前を呼んでいたような、気がした。


 ──ふ、と身体に宿った意識に、セビアはゆっくりとその瞼を持ち上げた。寝起きのぼやけた視界に映り込むのは、全く見覚えのない天井の姿。オフホワイトのそれをぼんやりと見上げながら、瞬きを繰り返すこと数秒。寝起きのゆったりと思考回路の中に思い出したのは、自らの意識が落ちる直前のこと。

 ……そうだ。自分は睡眠不足のせいで体調を崩し、教室で倒れて。

 がばりと勢いよく状態を起き上がらせて、素早く周囲へと視線を巡らせた。額から膝へと何かが滑り落ちていったことにも、今は意識を回せない。突然動いたことで頭ががんがんと痛みを訴えたけれど、それも無視して現状把握に勤しんだ。
 そこは、天井と同じオフホワイトが四方を取り囲んだ何の変哲もない一室だった。窓はなく、外の世界に繋がるのは静かに佇む扉だけ。寝かされていた天蓋付きのシングルベッドは、洗いぬかれた真っ白なシーツに覆われている。
 目に映り込むそれらの全ては、セビアの知る保健室のそれとも全く違っていて。より一層分からなくなったこの現状に思考回路はどうしたって追い付けず、セビアはただ目を白黒とさせるばかり。

 と、その時、セビアをその困惑から救い出すかのように部屋の扉が開かれた。

「──おや、目が覚めましたか」

 その向こうから現れた姿と鼓膜を叩く声。見知らぬ部屋に疲弊していた頭が、見慣れたその姿に思わず安堵の息をこぼす。けれど、やはりそれでも困惑は未だ消えはしない。
 丁寧に扉を閉めてベッドサイドへと歩み寄ってくるアズールの姿に、セビアは止めどなくあふれてくる疑問の言葉を投げかけた。

「……アーシェングロットくん、ここは一体どこ? 僕が倒れてから何があったの?」
「ああ、ご自身が体調不良で倒れたことは覚えていらっしゃるんですね。ここはオクタヴィネル寮の空き部屋です。丁度貴方が倒れるところに出くわした僕が貴方をここまで運びました。それで、体調の方はどうですか? 貴方、39度近い熱があったんですよ」
「……まだ頭がぐらぐらするけど、いくらかはマシ、かな……迷惑かけてごめん」
「いえいえ、お気になさらず。困っているクラスメイトに手を差し伸べるのは当たり前のことでしょう? 何と言ってもここはオクタヴィネル寮。慈悲の精神は他に負けませんからね」

 起き上がった時に額から膝に落ちた手拭いを見て、彼が看病をしてくれたのだという事実を理解した。どうやら随分と迷惑をかけてしまったようだ。申し訳なさと居た堪れなさに蝕まれながら、熱にぐらぐらとする頭で彼に言葉を紡ぐ。39度近い熱があったという彼からの報告と、現状をある程度理解できた安堵から気が抜けたらしい。
 そんなセビアの様子に気が付いたのか、アズールが「まだ辛いでしょう。横になっていてください」といってセビアをベッドへと横たわらせる。その優しい表情と穏やかな声色に、熱で意識が朦朧としているセビアは普段の警戒心もすっかり忘れて絆されてしまう。何故保健室ではなくわざわざオクタヴィネル寮にまでセビアを運び込んだのかという疑問さえ、忘れてしまうほどに。

 言われるがまま素直に横になったセビアに布団をかけて、額に濡れたタオルを置いてくれるアズールの姿に、ふと思い出したのはもう随分と色あせてしまった幼い日の記憶。こうして体調を崩した時に誰かが傍に居てくれるなんて、一体いつ以来のことだろう。じわりと世界に滲んだ今はもういない母親の面影に、思わず涙がひと粒こぼれ落ちた。五歳のあの時に枯れてしまったはずの涙が、ほろりほろりと頬を濡らしていく。

 言ってしまえば、それらの全ては高熱のせい。
 思考回路が馬鹿になってしまっていることも、警戒心が解れてしまっていることも、心がもろくなってしまっていることも、全部、全部。

 十数年をかけて壊されてきたセビアの心は、もう限界など通り過ぎた場所にいた。
 生きたいという思いだけを頼りに、ぎりぎりを辿って今日までを生きてきた。
 たったひとり、孤独な世界を歩んできたのだ。

「……大丈夫。大丈夫ですよ。ここに貴方を傷つけるものはありません」

 そして、今日。今。アズールの指先が優しく涙を拭ってくれた瞬間。手のひらが優しく頭を撫でてくれたその瞬間。セビアの中で何かの糸がぷつりと切れる音がした。
 はらはらと、心に張り付いていた何かが剥がれ落ちていくような感覚。

「もうひとりで抱え込まなくてもいいんです。我慢しなくていいんです」

 頭を撫でてくれる優しい指先に、降り注ぐ温かな声に、全てが呆気なく溶かされてしまう。
 涙と一緒に溢れ出したのは、心に蟠っていた何かと一緒に剥がれ落ちてきたのは、ずっとずっと心の中に隠していた思いの飛礫。

 優しくされたかった。愛されたかった。
 抱きしめて、自分の名前を呼んで欲しかった。
 父と母と、幸せな日々を生きたかった。
 セビア・クリナムとして、ただ生きていたかった。

 嗚咽を漏らしながら子どものように泣きじゃくるセビアを、アズールは慈しむような瞳で静かに見つめている。その温度にどうしようもなく胸が締め付けられて、呼吸もままならなくなってしまった。
 感情のままに彼の方へと縋るように手を伸ばす。これでは本当に子どものようだ。けれど、そんな情けないセビアの姿を、拙い望みを、彼は優しく笑って受け止めてくれる。セビアの身体を抱きしめて、その背中をあやすように撫でて、そしてまた言葉を紡いでくれる。

「……よく頑張りましたね、“セビア”さん」
 
 ふと落とされたその文字列に、ぱちりと瞳を瞬かせた。音として聞くのはもう随分と久しぶりなその名前。誰も知らないはずのその名前。それをどうして彼が知っているのだろうか。
 セビアの驚きが彼にも伝わったのだろう。「どうして」の疑問を紡ぐよりも早く、彼からその答えがもたらされた。

「ふふ、僕はアズール・アーシェングロットですから。貴方が『ティム・ステイヤーズ』ではなく『セビア・クリナム』であることも知っていますよ」

 答えになっているのかいないのか。分からないけれど、確かにそこには説得力があったから。セビアはそれ以上言い募ることも出来ず、自分の意志では止められない涙をこぼし続けながら彼の言葉をただ聞いた。

「安心してください。この事実で貴方を脅そうとは考えていませんから。むしろ逆です。僕は貴方をその苦しみから救いたい」

 抱きしめられていた腕が解けて、彼との間に空白が生まれる。再び交わった視線の先で、海を溶かした瞳が真っ直ぐにセビアを見つめていた。
 全てを見透かすような視線。もう、セビアが彼から逃げることは叶わない。

「……ねえ、セビアさん。貴方の願いは何ですか?」

 僕がそれを叶えてみせましょう。アズール・アーシェングロットの名に懸けて。

 ゆっくりとした口調で、言い聞かせるように紡がれたその言葉。
 ぼろぼろの心と、熱に侵された思考回路と、そして優しさに溶かされた『セビア・クリナム』では、差し伸べられたその手を振り払うという選択肢など選べない。

「……生きたい、」

 ひと粒がこぼれ落ちてしまえばもう、雨はただ降り続けるだけ。

「死にたくない。あの家に帰りたくない。ティムじゃない僕は、殺されるから、……だから、僕は逃げなくちゃいけない。あの家の手が届かない場所に、誰も僕を知らない場所に、逃げなきゃ。生きるために、僕は、」

 でも、どこに逃げればいいんだろう。
 無知で何の取り柄もない僕が、後ろ盾もなく一体どこで生きていけるというのだろう。
 分からなかった。けれどもただ生きたかった。

 海の色が、視界に瞬く。
 彼はアズール・アーシェングロット。
 慈悲深い、海の人魚。

「──たすけて、」

 その4音を紡いだ瞬間、凪いでいた海がゆるりと三日月のように弧を描いた。
 まるで、その言葉を待っていたとでも言いたげに。

「ええ、ええ! もちろんですよ、セビアさん。僕が貴方をその地獄のような世界から救い出し、誰に脅かされることもない生を貴方にご用意しましょう」

 高らかに彼は言葉を紡ぐ。セビアをその腕に抱きしめたまま。
 たった2本しかないはずのその腕が何本にも増えて見えたのは、ただの錯覚だろうか。
 ぞわりと背筋が震えるけれど、セビアはもう引き返せない。許されているのは、ただその手を掴むことだけ。彼に全てを委ねることだけ。

「ほんと、に?」
「はい。お約束しましょう」

 涙と熱にぼんやりと滲んだ思考で、セビアは彼に縋り付く。
 アズールはそんなセビアに優しく語り掛けるのだ。

「……ただし、貴方から相応の対価を頂くことになります。心苦しいですが、これでも僕は商人なので」
「……その対価は、何?」

 セビアの問いかけに、アズールは一度その口を閉ざした。
 そっと伏せられた瞳が、数度の瞬きを落として再びセビアへと向けられる。それは、まるで何かの決意を固めたような、そんな動作にも見えて。

 レンズ越しにセビアを射抜いた海の色。そこに宿った感情は、セビアの知らない温度を孕んでいた。そして、普段は満ち溢れる自信を示すようにきりりとしている眉が、今はほんの少し下げられていて。
 その表情は先ほどまでの慈愛に満ちたものと似ていたけれど、それとは決定的に何かが違っていた。
 優しくて、温かくて、けれどもどこか恐ろしくて、胸がざわざわと騒ぐようなもの。
 じくりと心臓を蝕んだその感覚につけるべき名前を、セビアは知らない。
 形の良い彼の唇が、言葉を紡ぐためにゆっくりと開かれた。

「──セビアさん、僕は貴方のことが好きです」

 もう聞き慣れてしまった声が、聞き慣れない響きを伴って、聞き慣れない言葉をセビアに向けて解き放った。鼓膜だけでなく心臓までもを震わせ脳髄を痺れさせるその音に、セビアは声どころか呼吸までもを奪われてしまう。
 好き。その言葉の意味ぐらいは、セビアも知っていた。
 けれど、それが今、どうして彼の口からセビアにむけて紡がれたのかが分からない。

 驚きと困惑に目を白黒とさせるセビアに、アズールはくすりと微笑みをこぼした。

「まあ突然こんなことを言われても驚きますよね。僕と貴方の接点なんてほとんどありませんでしたし。……けれど、この想いは本物です。信じてはもらえないかもしれませんが、一年前からずっと、僕は貴方に惹かれていました」

 今年になって幸運にも同じクラスになれたので少しでも親しくなりたいと思っていたのですが、なかなかうまく距離を縮められなくて。
 照れくさそうにそう続ける彼に、セビアはただ茫然と話を聴くことしかできない。そんな、まさか、あり得ない。そう頭ごなしに否定するには、セビアを見つめるアズールの瞳に宿された温度があんまりにも温かすぎていて。
 どくり。心臓が奇妙な疼きと共に飛び跳ねる。

「貴方の秘密を暴いた後でこんなことを言うのは卑怯かもしれませんが、僕も僕で必死ですから手段を選んではいられないんです。愛する人を、貴方を自分のものにするためならば、どんな手段でも使ってみせる。それが僕に出来る最上級の求愛行動だ」

 どうしてかその瞳を見つめていられなくなって、セビアは視線を彼から逃がす。それと一緒に身体も後ずさろうとするけれど、腰と背中に回された彼の腕がそれを許してはくれない。落とした視線を諫めるように、顎に伸ばされた彼の手がセビアの顔を上へと攫って行く。

 ああ、また、視線が交わった。

「……僕の生まれ育った珊瑚の海ならば、貴方を殺そうとする奴らの手は決して届きません。決して届かせはしません。海は良くも悪くも陸以上に弱肉強食の世界のうえ、陸よりもずっと広い。見知らぬ人魚のひとりやふたりが増えたところで誰も気には留めません。人魚になるための魔法薬は僕が用意しましょう。海で生きる上での全てを、僕が保証します。僕が貴方の全てを守ります」

 眼鏡のフレームがぶつかるどころか鼻先まで触れ合ってしまいそうなほどの近距離に、彼の言葉が紡がれる。あんまりにも深い海の色に、今にも溺れてしまいそうだった。
 くらくらとする頭と、どくどくと煩い心臓。
 許容範囲を優に超えた愛を注がれ続けた身体は、今にも爆発してしまいそうなぐらいに熱く火照って。じわりと滲んだ視界は、その熱から生み出された涙によるもの。


「だから、どうか僕と契約してください。貴方の『未来』を対価に」


 ああ、僕はどうすればいいのだろう。
 選択肢なんてあってないようなもの。逃げ道なんて、きっと最初から用意されてはいなかった。全部、全部彼の手のひらの上。それをはっきりと理解していながらも、「逃げたい」と願う自分はどうしてか存在しなかった。それが、結局はただひとつの答えだった。


「──僕と一緒に生きてください、セビアさん」


 ……そんなの、まるでプロポーズみたいじゃないか。

 数年後にその時の思いを彼に伝えれば、「ええ、間違いなくプロポーズでしたから間違っていませんよ」なんてけろりとした顔で言われてしまうのだけれど。
 それはまだ、誰も知らない未来のお話。
 陸から一人の人間が消えて、海にひとりの人魚が現れた、そんないつかのお話。






  ***


「……彼が契約に頷かなければどうしたか、ですって?」
「ふふ。そんなこと、全てが丸く収まった今となってはどうでもいいことでしょう?」

「それに、言ったじゃないですか」


「──『貴方を手に入れるためならばどんな手段も使ってみせる』と」


 そう言って、人魚はうっそりと笑ってみせた。

 世界が迎えたのはハッピーエンド。
 答えはもう、海の底。


2020/7/12

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