異世界トリップした先に前世の恋人がいた(twst/ジェイド)
※n番煎じな前世ネタゆえに死ネタ表現有
※not監督生かつ固有名有り女夢主(アオイ)
※女監督生(ユウ)もいます
※色々捏造とご都合主義が酷いです、お覚悟
※妄想と幻覚が150%ぐらい
こぽり、こぽり。水中に泡沫の揺れる音の幻聴。
その瞬間、まるで海に沈んでいくような、そんな感覚に襲われた。
見上げた視線の先でゆるりと穏やかな笑みを浮かべたふたつの色彩に、意識の全てが一瞬にして奪い去られて行く。きっと、その時に呼吸まで持って行かれてしまったのだろう。急激な酸素の欠乏に肺が軋んで、苦しくて、喉がじわりと焼かれていく。
やっぱり肺呼吸というのは酷く不便だ。今となってはもう肺呼吸しか出来ない身体で、私はそんなことをぼんやりと考えた。
視線は相変わらず私の目の前に立つひとりの男性へと注がれていて、情けない唇はただ戦慄くばかりで言葉を紡ぐことなど出来そうにもない。
石像のように固まり黙りこくった私に、男性も怪訝に感じ始めたらしい。小さく首を傾げた彼が、再び私に言葉をかける。こちらを安心させるように、ゆっくりとした穏やかな口調と声色で。左右に異なる宝石を嵌め込んだ不思議な双眸を優しく緩めながら。
「そう怖がらずとも大丈夫ですよ。ここはナイトレイブンカレッジ。貴方も闇の鏡に導かれてここへいらした新入生の方でしょう? 僕は2年生のジェイド・リーチと申します」
低く落ち着いた声は、どうしてか深い海のさざめきを連想させる。その響きが紡いだたったひとつの文字列に、私はようやく『その事実』を理解した。同時に胸を埋め尽くしたのは、言葉になど到底変換できはしない、どうしようもないほどの感情の渦。
思わずこぼれてしまいそうになった嗚咽を必死に飲み込んで、上がりそうになった声を必死に抑え込んで、私はただただ彼を見つめるばかり。からからと彼の左耳に魚の鱗のようなあおいピアスが笑っていた。
「他の方々より先に目覚めてしまい、少し混乱してしまったようですね。ひとまず鏡の間に戻りましょう。そこで入学式が行われます」
私が身に纏っているものと同じ、黒地に装飾の施された厳かな衣装の裾が揺れている。
外されたフードの向こうから覗いた鮮やかな浅瀬の色に、ひと房の深海の色に、また息を呑んだ。その色彩があんまりにも美しくて、輝かしくて、そして──酷く懐かしくて。愛おしくて。
「貴方は一体どの寮に選ばれるのでしょうね」
何故ならその色彩は、その姿は、その声は、
「──ナイトレイブンカレッジへのご入学、おめでとうございます」
私の『前世の恋人』が持っていたそれらと、全く同じものだったから。
***
地球という惑星に浮かぶ、日本と呼ばれる島国の中でこれまでの17年を生きてきた。
特別裕福でも秀でてもいなかったけれど、家族と友人に恵まれながら、平凡で幸せな時間を過ごしてきた。1人の『人間』として2本の脚を持って生まれ、地面を踏みしめて歩いてきた。
そんな私の中には、17年以上の時間を閉じ込めた記憶が残されていた。
ありていに言えば『前世の記憶』と呼ばれるその光景の中で、『前世の私』が生まれ育った場所はどういうわけか海の中。2本の脚ではなく1本の尾びれで海水を掻き、自由自在にあちらへこちらへと泳ぎ回るひとりの人魚、それが『私』だった。
魔法の存在する世界の中で、ひとりの人魚として平々凡々に生きる日々。今の人生から考えれば何ともファンタジーが過ぎているが、そもそもで前世の記憶なんてものが宿っている時点で私の人生そのものがファンタジーなのだ。その辺りに対する思考回路は早々に放棄した。
人魚として生まれ、人魚として生きていた『私』は、ある日運命的な恋をした。
何を隠そうそのお相手は、あろうことか陸に生きる人間の男性であって。
まるでおとぎ話のような、種族を越えた儚い恋。けれどもちろん、当事者であった『私』にとってその恋は自分の全てで、生きる意味ですらあって。だからこそ、そう簡単に捨てることなんて、諦めることなんて、出来るわけがなかったのだ。
『私』が選んだ未来は、代償を払って人間の姿を手に入れ、海を捨てて陸で彼と共に生きることだった。
辛いことも苦しいことも沢山あったけれど、彼の隣に生きる日々はとても穏やかで、満たされていて、最期のその瞬間まで、私は確かに幸せだった。幸せだと笑って、私はその最期を受け入れた。
魂を持たないと言われる人魚であった自分だけれど、もしも生まれ変わることができるなら、もう一度彼の傍に。そう願った。
そうして手に入れた二度目の生。それは確かに奇跡と呼べるものだった。
けれど、私が生を受けたその世界に、彼の姿はひとかけらも在りはしなくて。
結局、現実なんてそんなものなのだ。
そんな諦めの言葉を、私はもう何度自分自身に言い聞かせただろう。
彼のことなど忘れて、私は私の人生を生きなければ。
そう理解していながらも彼の記憶を辿る夢に縋って、何度涙を流しただろう。
──そうして17年を生きて、前世で彼と出会った年齢に辿り着いて、ようやく踏ん切りがつき始めた頃だったというのに。神様とは本当に残酷だ。世界も、運命も、偶然も、必然も、奇跡も、全部、全部。こんなにも意地が悪くて、あんまりにも酷薄だ。
異世界トリップした先で前世の恋人と再会させるなんて。
しかも、その恋人からはきれいさっぱり前世の記憶を消し去ってしまっているなんて。
ああ、本当に嫌になる。
世界を詰って、神を罵倒して、そして私は決意した。
──また彼を好きになってしまう前に、早く元の世界に戻ってしまわなければいけないと。
***
何をどう考えても自室のベッドの上ではない暗く狭い場所で目覚めたのが、ほんのつい数十分前のこと。半ばパニックになりながら必死にその空間から這い出てみれば、そこは棺がずらりと並んだ何とも不気味な部屋の中で。さらにはよくよく見てみれば、自分が眠らされていた暗く狭い場所というのもそれらと同じ造りをした棺の中であったようで。そんな訳も分からない状況におかれて、メンタルがやられるなという方がどうかしているだろう。
棺の中で眠らされているなんて、自分はまさか死んでしまったのか? そう考えて記憶を辿るけれど、どうしたって記憶の最後に残っているのは、自室で布団に潜り込むという平和でありきたりなワンシーンだけ。自分が死んだという記憶なんてひとかけらもありはしなかった。
だからこれはきっと夢なのだと、私は自らを宥めるようにそう言い聞かせた。
けれど私を包み込む世界はあんまりにも現実らしくそこに在り続けていて。恐ろしくなった私は、棺の部屋から外へと逃げ出した。──そしてその先で彼と出会って、どうしようもない現実というものの全てを理解することになる。
「つまり、貴方たちは異世界からここへやって来たということでしょうか」
カラスのくちばしのような不思議な形の仮面を被った男性の言葉を、どうやら私と同じく異世界からやって来たらしいもうひとりの少女と共に聞く。
彼に入学式会場である鏡の間へと案内された私は、ほとんど茫然自失の状態のまま、自らの目の前で様々に巻き起こされる出来事を眺め続けていた。鏡の向こうに浮かんでいた誰かから「魔力がない」だの「あるべき場所はこの世界のどこにもない」だの言われたり、青い炎を纏った猫のようなモンスターが暴れまわったりしていたような気がする。
そんな周囲の喧騒すらも意識からこぼれおちた私の頭をずっとずっと埋め尽くしているのは、他でもない彼のことばかり。
私の前世の恋人と同じ姿、同じ色彩、同じ声、同じ名前を持ったひと。私の知っている、私の知らないあのひと。私を知らない、『彼』というひと。
魔力も、魔法も、モンスターも、前世の私が生きていた世界の在り方とよく似ている。もしかすると、この世界こそが前世の私の生きた世界なのかもしれない。その答えはまだ分からないけれど。
ひと目見た瞬間に私は気付いた。彼は『彼』であるのだと。
けれど、彼の様子を見るに彼の方はそうではなかったようだ。
まあそれも仕方ないのかもしれない。前世の姿をそのままに在る彼とは違い、私は『日本人』として生まれたせいか、前世と比べていくらか姿かたちが変わってしまっているから。
──たとえ外見が変わっていても、彼ならすぐに気づいてくれるはず。そんな淡い期待を抱いていたことを否定はしない。その期待が裏切られたことを悲観するつもりも、ない。
だって、『おかしい』のは彼ではなく私の方なのだから。
けれど、それでも、自分勝手で我儘な悲しみが胸に降り積もって仕方なかった。
「貴方たちが元いた場所に帰れる方法を探るのです」
カラスの男性、学園長の言葉に、私はゆらりと視線を持ち上げた。
……そうだ、私は元の世界に。
彼は彼として、今世を新たに生きている。ジェイド・リーチというたったひとりとして。
そしてその人生に『私』という異分子は必要ない。
前世で結ばれたからなんだ、今世でも出会えたからなんだ。それは決して彼が今世でも私を愛してくれる理由にはならない。そんなことぐらい、考えなくたって分かることじゃないか。
じくじくと痛みを訴え始める心臓を抑え付けて、私は決意した。
きっと私は、何度生まれ変わっても彼のことを愛してしまう。それは前世からずっとずっと抱き続けていた私の想い。嘘も偽りもない、ただひとつの真実。
だから今世でも、私は運命のごとく出会ってしまった彼を、いつかは本当に心から愛してしまうのだろう。彼というひとつの存在を、慈しんでしまうのだろう。
ならば、その前に。また彼のことを好きになってしまう前に。私は彼の前から消えなくてはならない。今世を生きる彼を、私の持つ過去の遺物で縛り付けてはならない。
彼への愛を殺すために、私は一刻も早く元の世界に帰らなくてはいけない。
「──そういえば、貴方のお名前は?」
こぼれそうになった涙をのみ込んで、私は彼に、彼女に、応えてみせる。
「……アオイ、です」
初めまして。久しぶり。私の最愛。そしてさようなら、私の惜愛。
貴方は何も知らなくていい。気づかなくていい。
こんな愚かな女の、馬鹿みたいな愛執なんて。
大丈夫、私もきっと、貴方を忘れてみせるから。
胸の中に転がした強がりの言葉が、またひとつ心臓に傷をつけていった。
***
私と一緒にこの世界へとやって来た少女、ユウちゃんは、どうやら私と同じく地球にある日本という国を故郷としているらしい。16歳の彼女と、17歳の私、そして謎のモンスターであるグリムくんの2人と1匹は、なんやかんやとトラブルが起こり続けた結果、3人で一人前の生徒としてこのナイトレイブンカレッジに通うことを許された。授業を受けるよりも元の世界へ帰る方法を探すことに専念したいため、私は別にいいと言ったのだけれど、学園長曰く「こうなっては2人も3人も変わりませんから。それに、元の世界へ戻る方法を探すにしてもそのための基礎となる知識がなければどうしようもないでしょう?」と言いくるめられてしまった。
実際、この世界のおおまかな部分は私の前世の記憶の中に在るものとほとんど一緒だから、基礎的な知識はある程度持っているのだけれど。その点については誰にも言えないことであるためそっと口を閉ざした。
そうして始まった学園生活。私は本来ならば2年生となる年齢なのだけれど、学園長の配慮によって、特例の特例として1年生のクラスでユウちゃんやグリムくん、加えてエースくんやデュースくんたちと一緒に授業を受けられるようになった。誰も知らない男子校のクラスにひとり放り込まれるよりはそちらの方が断然嬉しいので、そこは素直に喜んだ。
支給された一番サイズの小さい男子用の制服を身に纏って、日夜この世界のことについて学び続ける日々。
魔法史などの授業内容から推測するに、やはりこの世界は前世の私が生きていた世界と判断してよさそうだった。前世の私が生きていたのは、恐らく今から数百年、もしかすると千年をも越えて昔のこと。今よりも人間とそれ以外の種族との溝が深く、魔法という存在も曖昧なものであった頃のことだ。
朝起きて、ユウちゃんとグリムくんと一緒に登校して、授業を受けて、放課後には図書室へ通って文献を読み漁る。そんな日々の中で私が一番に心掛けていたことといえば、やはり『彼と接触しないようにすること』だった。
けれどまあ、どうやら彼というひとは、この学園において中々の有名人であるらしく。聞こうとせずともどこからともなくその噂が聞こえてくるほどだった。双子の兄弟がいるところも、秀才な幼馴染がいるところも、穏やかな口調や物腰に反して中身はかなりえげつないところも、前世と全く変わっていない。思わずこぼれ落ちた笑みに気付いた瞬間、どうしようもない感情に胸が蝕まれてしまって仕方がなかった。
そして、ある日ユウちゃんから聞いたその話。
何かにつけてトラブルに巻き込まれるユウちゃんとグリムくんは、私の知らぬ間に、今回は彼の所属するオクタヴィネル寮との対決に臨んでいるらしい。しかもそこで成された契約の担保としてオンボロ寮を差し押さえられ、寮を追い出されてしまったと。
本当に、彼女は肝が据わっているというかなんというか。その真っ直ぐさと懐の深さはただ純粋に尊敬するし、とても好ましいと思う。そんな彼女だから、きっと今回のことも何とか解決してオンボロ寮を取り返してくるのだろうと、そんな楽観的な態度で私は今回も全てを傍観していた。
疲れ切った様子で今だけお世話になっているサバナクロー寮と帰ってきた彼女は、その日にあった出来事を事細かく私に教えてくれた。珊瑚の海に行って、アトランティカ博物館へ向かった。海の中を歩いた。実は人魚であったリーチ兄弟に邪魔された。何とか命からがら帰ってきた。と。
──……何、それ。
込み上げてきた感情に、私は一体どんな名前を付ければよかったのだろう。
こぼれそうになったのは笑みだったのだろうか、それとも嗚咽だったのだろうか。
咄嗟に噛みしめた奥歯に砕けてしまったその激情に、私はただ言葉を失うばかり。
人魚だった『私』は、人間である『彼』に恋をした。
そして人間になることを望んで陸に上がった。
来世では最初から『彼』と同じ人間として生まれることができればと、そう願って最期を迎えた。そうすれば、今度は『ちゃんと最期まで』彼と一緒に居られるはずだからと。
その願いが通じたのかは分からないが、今世の私は前世の『彼』と同じ『人間』としてこの身に命を受けた。たったひとつの尾びれではなく、2本の脚を持って、肺で呼吸し、地面を踏みしめて空を仰ぐことの出来る身体で生まれてくることができた。
それなのに、今度は貴方の方が『人魚』に生まれてくるなんて。
前世からすれ違うことは多かったけれど、まさかこんなところでまですれ違うなんて。
今世を前世と比べるのは止めなければと理解していても、やっぱりどうしたって心は愛しいあの日々に追い縋る。愛したあの人の面影を追いかける。
私と同じように『彼』も、『私』と同じ存在として生まれ、そして共に生きる未来を望んでくれていたのだろうか。答えを知る術なんて私には無いけれど、それでも、どうかそうであってくれたならと心が必死に泣き喚く。
入学式以来一度も顔を合わせていないはずのあの人の姿を脳裏に追い駆けて、私は今日もまたひとつ、心の深くに感情を落としていく。早く元の世界へ帰らなければという焦燥と、彼へのどうしようもない想いばかりが胸に降り積もり続けていた。
***
「──アオイさん」
ああ、ついにこの日がやって来てしまった。
寒さも厳しさを極め始めた1月の某日。なんてことはない学園の廊下の一角で、世界を鮮やかに彩る浅瀬の色に網膜を焼き尽くされながら、私はぼんやりとそんなことを考えた。
私の目の前でたおやかに微笑む浅瀬色の麗人は、相変わらずの高い背丈から静かに私を見下ろしている。その姿は、他でもない、私が今日この日までずっと避け続けていた『ジェイド・リーチ』という男のものであって。背筋が震える感覚と同時に胸を焼いた感情を押し殺して、私は何でもないように笑みを浮かべてみせた。
「……はい。何でしょうか、リーチ先輩」
「こちらのペン、貴方のものですよね? 落とされていましたので、お届けに」
彼の手の中に掲げられている何の変哲もないそのペンは、確かに私のもので。どうやら教科書たちと一緒に腕に抱えていたペンケースのファスナーが開いてしまっていたらしい。
「あ、……はい。そうです。お手数おかけしてすみません、ありがとうございます」
そんな常套句だけを吐いて、ペンを受け取って、何事もなかったかのようにここから立ち去ってしまおう。そうすればきっと、皮膚の下にどくどくと煩く鳴き喚いている心臓もすぐに収まってくれるはずだから。
そう信じて彼からペンを受け取るために手を伸ばす。私の目の前に差し出されていたそれは、もちろん私の手の届く場所に存在していて。──それなのに。
「……どういうおつもりでしょうか」
「ふふ、いえ。貴方とは入学式以来今日まで何故かお会いすることがなかったので、これを機会に少しお話をさせて頂ければと思いまして。どうでしょう?」
背の高い彼の顔の横あたりにまで攫われてしまったペンを無理矢理取り返す術など、私には無い。ひらひらと揺れるペンの頭に、私は声を固くした。
にこりとわざとらしく微笑んでいる彼は、もう既に私が意図して彼を避け続けていることに気づいているのだろう。まあ彼ならそれぐらいは直ぐに気づいてしまうだろうと私も予測はしていた。けれど、まさかそれを、わざわざこうして直接問い詰められてしまうとは思ってもいなかった。
引き攣った笑みにもう意味は無いだろうと表情を消し、私は彼に淡々と言葉を紡いでみせる。身体の奥底に騒ぎ続ける感情の全てを、彼に気付かれてしまわぬようにと隠し通して。
「……私なんかと話しても、リーチ先輩に利益はひとつもありませんよ」
「おや、僕は損得の話なんてしていませんよ。『貴方に興味がある』、それだけでは足りませんか?」
……本当に、相変わらず口が達者で食えない男だ。
またひとつ彼の愛おしさを噛みしめて、私は滲みそうになった視界を必死に押し止めた。噛みしめすぎた奥歯は、もしかするとそのうち擦り切れて欠けてしまうのかもしれない。
「……」
「それと、『リーチ先輩』ではフロイド、僕の兄弟との区別がつきませんし、是非僕のことはジェイドとお呼びください。学年は違いますが年齢は同じようですし、敬語も要りません」
私には貴方と言葉を交わす理由がない。
ただそう言い捨ててその場を離れることが出来たなら、未来は変わってくれたのだろうか。そんなことをどれだけ考えたとしても、現実に残されているのは『それが出来なかった私』という愚かな存在と、それによって導き出された結果であって。にこやかに微笑む彼の表情があまりにも憎らしくて、心臓がまた馬鹿みたいに飛び跳ねた。
せめて彼の名前を呼ぶなりしなければ、きっと彼はペンを私に返してはくれないのだろう。ペンぐらい買い直してしまえばいいじゃないかと思うけれど、今彼に奪われてしまっているペンは、先日奮発して購入した少しお高めの4色ペンであって、書き味も使い勝手もとても気に入っているものなのだ。
それに、ここで逃げ出すのは彼に負けてしまうようでなんだか癪に障る。
子どもじみた対抗心を密かに燃やして、私は彼を真っ直ぐに見据えた。黄金と柳茶のコントラストがゆっくりと瞬きを繰り返し、酷く愉快そうに弧を描いているのが視線の先に浮かび上がる。まるで月の満ち欠けを見ているようだと、前世にも考えたことがあるようなそんな言葉を胸の内にほろりと転がした。
「……ジェイド、さん」
──ジェイド。私の愛した彼の音。記憶の中では17年、現実の時間としては数百年ぶりに口にするその響きが、やっぱりどうしようもないほどに愛おしくて、愛おしくて、声が微かに震えてしまった。
その震えに気付いてしまったのだろうか。視線の先で彼の瞳がほんの少しだけ瞬いて、不思議な色彩を孕んだまま私を見下ろしていた。
けれどそれも一瞬にしてかき消されてしまって、残されるのは、底の知れない穏やかな微笑みただそれだけとなる。
「さん付けなんて、なんだか他人行儀過ぎませんか?」
「……貴方も私のことをさん付けで呼んでるじゃない」
「僕のこれは癖のようなものですのでお気になさらず」
思わず飛び出しそうになった「は?」という重低音を何とか飲み込んで、いやらしい彼の微笑みを静かに睨みつける。まあ、私の威嚇なんて、彼には小魚にじゃれつかれている程度の可愛らしいものでしかないのだろうけれど。
彼に気付かれないように、小さく呼吸を繰り返す。鼓動と感情を宥めるために、彼の名前を呼ぶ声が涙に濡れてしまないように。
「──……ジェイドくん、ペンを返して」
刹那、視界に映した彼の瞳の奥底に、何かの光が揺らめいたような気がした。
それは彼の抱いた感情の破片だったのだろうか。それとも、ただの光の乱反射だったのだろうか。その答えを知る術も私には与えられないまま、その光は彼の微笑みの向こうに隠されてしまう。隠しごとが得意な彼の隠しごとを見抜けた試しなんて、私には数えられるほどしかない。
「はい、どうぞ。……ふふ、意地悪をしてしまってすみません。怒りましたか?」
「……怒ってはない。けど、正直面倒くさいとは思ったし何だこいつって思った」
「おやおや、そうでしたか。貴方、僕が思っていたよりもはっきりと物を言うタイプだったんですね。勉強になります」
「何の勉強なのそれ……まあいいわ。ペン、拾ってくれてありがとう。それじゃ」
はい。それではまた。
柔らかな彼の言葉を背中に聞きながら、私はいつもよりも半歩分大股で廊下を歩いた。落ち着いた歩調を必死に意識して、ただ前だけを見据えて歩いていく。下を向いたら、今にも涙がこぼれ落ちてしまいそうだった。
やっぱり、彼は『彼』だった。けれど、やっぱり彼は『彼』ではなくて。
分かっていた、理解していた。それでも、私の言うことなんて全く聞かない私の心は、その事実に歓喜と悲哀の感情を入り乱れさせてしまう。
諦めるって決めたじゃない。捨てるって、殺してしまうんだって、決めたじゃない。彼のことを好きになっちゃいけないんだって、何度も何度も言い聞かせたじゃない。彼のことを忘れて、元の世界で私は私として生きていかなきゃいけないんだって、誓ったじゃない。
今世での彼と言葉を交わしたのはこれでたったの二度目。
初対面と言っても過言ではないぐらいの関係性しか、現実の私たちの間には存在していない。
──それなのに、どうして。
どうして私の心臓は、もう既に彼に恋をしてしまっているの?
人気の無い校舎の隅に駆け込んで、地面に崩れ落ちた私は自らの心臓を必死に押さえつける。どくどく、どくどく、彼への愛を健気に愚かに叫び続けるちっぽけな2心房と2心室。そこから吐き出された血液が、今にも火傷をしてしまいそうなほどに熱くて、あつくて、堪えきれなかった涙がひと粒こぼれ落ちた。
前世の記憶に引きずられた脳細胞だけではなく、身体機能から生じる生体反応までもが、私に現実なんて呼ばれるものを痛いほどに突きつける。
ああ、作戦は失敗してしまった。
彼を好きになってしまう前に、元の世界に帰ってしまう予定だったのに。
この世界にこぼれ落ちてたったの5カ月。
彼と出会って、『彼』と再会して、たったの5カ月。
私は、また彼に恋をしてしまった。
***
前世の記憶の影響というのはやはりとてつもなく強力なものだ。何故ならそこには、私が生きてきた年数を越えた時間が収められているのだから。
さらには、その年数に込められた思い出も、感情も、愛おしさも、全部全部があんまりにも鮮明に残されているのだから、平々凡々な日々しか過ごしてきてはいない私なんて存在がそんなものに勝てるはずもない。
……この記憶さえなければ、私は彼を好きになることもなく元の世界へと帰ることを許されたのだろうか。
ふとした時にそんなことを考えて、そんな世界線を思い浮かべて、けれども結局は答えなんて分からないまま思考は途切れて終わってしまう。
だってもう既に、私の視線はずっと彼を追いかけて、私の心臓は彼と言葉を交わすだけで歓喜に打ち震えて、私の意識の全部は彼に奪い去られてしまっているのだから。
恋を知ってしまったひとはもう、恋を知らない頃には戻れない。それが世界の真理で、決して変えることのできない現実だ。だから私に出来るのは、前世の記憶を抱えたまま、私というたったひとりとして彼というたったひとりを愛すること、ただそれだけ。
彼に想いを伝えようとは思わなかった。
だって、前世の記憶を持たない彼が私なんかに恋をしてくれるはずがないのだから。
彼は自由が似合うひとだ。前世からずっと、海の似合うひとだった。だからこそ、もう陸にしか生きられない私の存在になんて気づかぬまま、海の世界に生きて欲しい。ユウちゃんから聞いた4メートルにも及ぶ全長とウツボの尾びれを、私は一度も目にしたことがないけれど、それはきっと酷く優雅で美しい姿をしているのだろう。
そんなことばかりを考えながら、彼への想いを募らせながら、元の世界へと帰る方法を探し続けながら、冬を終えて、春を過ごし、いつしか世界は暑くうだるような夏を迎えていた。
じりじりと照り付ける太陽の光に辟易としながら、私は薄いサンダル越しに焼けた地面の温度を浴び続ける。プールサイドの塗り床はアスファルトに比べれば照り返しも少ないけれど、それでもやはり暑いものは暑い。右手に持ったホースで周囲に水をまき散らしながら、首筋に伝った汗をタオルで大雑把に拭い取った。
日差しの最も強くなる時間帯に設けられた4限目。私の所属するクラスの時間割では、今日この時間の授業はグラウンドでの飛行術。それなのに何故私はプールサイドでモップを片手に立っているのか。答えは簡単。飛行が出来ない私に飛行術の単位をやろうとしてくれた先生の恩情があってのことだ。因みにユウちゃんはグリムのお目付け役としてグラウンドの方に残されている。前世のこともあって私はあまり高いところが得意ではないので、その割り振りに対して異論はない。ない、のだけれど。
モップで床を磨いていた手を止めた私の鼓膜に、ぱしゃんと涼しげな水音が届いた。
随分と近くに聞こえたその音に反射的に視線を向ければ、そこに輝いたのは陽光をたっぷりと浴びながら水滴を滴らせる浅瀬の色。他でもない、私の愛したひとつの色彩だ。
「お疲れ様です。こんなに暑いのに、貴方も真面目ですね」
人間のそれとは一変したその姿は、やはり私の予想の通り世界で一番に美しいと言っても過言ではないぐらいにきれいで。揺れるプールの水面の向こうに伸ばされた長い尾びれが、彼のくすくすとした笑みに合わせて華やかに踊っている。
ヒレのようになった耳と、白に深い海の緑を混ぜた肌。手のひらを飾る鋭い爪も、水かきも、全部全部が私の前世との記憶を思い起こさせる。ああ、貴方は本当に人魚になってしまったのね。ぽつりと胸中に言葉をこぼしたと同時、じりじりと熱に焼かれるこの両の脚が、焼けて溶けてひとつの尾びれに変わってくれはしないだろうか、なんて、そんな馬鹿みたいなことを考えてしまった。
「単位のためだから。ジェイドくんはこんなところで油を売っていていいの?」
「ふふ、ご心配ありがとうございます。今は休憩時間なので大丈夫ですよ」
彼の方へ歩み寄ることはしないまま、私は彼と他愛のない言葉を交わす。あの廊下での二度目の邂逅以来、こうして彼と言葉を交わすことも珍しくはなくなった。きっと彼の暇つぶし程度に扱われているのだろう。
水に濡れた塗り床も、強い日差しによってあっという間に乾かされていく。ウツボの人魚だという彼は多少の皮膚呼吸も出来るらしいが、あまりこの日差しの中に顔を出していては辛いのではないだろうか。
「貴方は好きですか? 水泳」
「……好きな方、かな。でもプールよりは海で泳ぐ方が好き」
彼の問いかけにほろりとこぼれたのは、私の心からの本音。海は故郷と呼んでも過言ではない場所だから、やっぱり恋しいし好き。そして泳ぐことも、今でも好きだ。
私の問いかけにゆるりと微笑んだ彼は、一体その表情の向こうで何を考えているのだろうか。その答えなんて、私には知る由もない。
プールを挟んで向こう側から、先生が私を呼ぶ声が聞こえた。
それに返事を飛ばして、モップとホースを手に彼へ暇を告げる。
「転ばないようにお気をつけて」
──もしかしたら、彼にはこの未来が見えていたのかもしれない。
つい数分前に彼が私の背中へと飛ばした声を思い出しながら、私は視界いっぱいに広がった、突き抜けるような青へと手を伸ばした。けれどやっぱり空も太陽もこの指先には掴まってくれなくて、宙に浮いた身体はただただ重力に従って背中から落ちていくばかり。折角の立派な両の脚も、地面についていなくては何の役にも立ちはしない。
私の背後に大きく口を開けて待っているのは、そこにたっぷりの水を孕んだプール槽。今しがた私にぶつかって私の身体を弾き飛ばした屈強なサバナクロー生の慌てふためく声が、大きな水音の向こうに聞こえたような気がした。
どぷん。鈍い音が世界の遠くに響く。
やっぱり肺呼吸は不便だ。酸素を求めるあまり咄嗟に開いてしまった口の中に、冷たい水の塊がなだれ込んでくる。ごぽごぽと泡沫が空を望んで駆けあがっていく音が、水を伝って私の鼓膜を震わせた。
4mの人魚が悠々と泳げるだけあって、この学園のプールはかなり底が深く作られている。すなわち、人間の女性の平均身長にやや届かない私がその水底に足を付けることでこの窮地から脱すること等叶う訳がなく。
泳ぐことは得意だが、突然のことに水を飲んでしまった上に今は着衣の状態。いくら薄着であったとはいえ、やはり水を吸ってしまった布は重く、まるで碇のように私を水底へと誘っていく。ああ、これはまずいかもしれない。酸素欠乏に薄れていく視界を閉ざそうとした、その刹那。
水が揺れる振動が、確かに私の肌を貫いた。
静かに、けれど素早く、その『何か』は私のすぐ傍へ。
視界に揺れたのは、浅い海の、鮮やかな、色。
水音が響いた。開いた唇の隙間から気道へと転がってきた空気に、身体が必死に酸素を求めて動き出す。げほ、げほ、と大げさなぐらいに咳を繰り返している間に、私はようやく、誰かが私の身体を水中から引き揚げてくれたのだということを理解する。
まだ水に浸かったままの下半身と、腰のあたりに回された誰かの腕。苦しさに閉ざしていた瞼を持ち上げれば、水と涙に滲んだ視界が一瞬にして眩しいぐらいに彩られる。
ぽた、ぽたり。私の髪先から雫が重力に従ってこぼれ落ちていく。
その雫が濡らすのは、きらきらと輝く浅瀬色。水滴が乱反射させる光も相まって、網膜がじわりじわりと焼かれていく。何て美しいのだろう。私を救いあげてくれた人魚の彼に、私はまた、何度目かになる恋をした。
「──っ大丈夫ですか!?」
鼓膜を叩くのは、焦燥を帯びた彼の声。いつもの静けさなどそこにはない、感情に満ち満ちたその響き。視界の中に揺れるふたつの色彩も、ゆらゆらと水面のように揺れていて。その姿に思わず私まで目を丸く見開いてしまった。
は、は、とまだ荒い呼吸を繰り返しながら、私はただただ彼と見つめ合う。
「……だい、じょうぶ、……ありがと、ジェイド、」
何とか紡ぎあげたその声と一緒に、彼を安心させるための小さな笑みをこぼしてみせる。きっとそれは随分とへたくそな笑みだっただろうけれど、それは今の私の精一杯。
視線の先で彼の瞳がぱちりと大きく瞬いたことと、プールサイドから先生や他の生徒たちの声が聞こえたこと、そして空が眩しいぐらい青くて、水が透き通るようにあおかったこと。
やっぱり私は、何度生まれ変わっても、たとえその最中に彼と過ごした日々の記憶を失っても、彼のことを何度だって好きになってしまうのだろうということ。
そんなことを世界の遠くに理解しながら、私はそっと意識を手放した。
***
夏が終わって、秋が来た。
この世界に来てからもう1年。様々なことが巻き起こされる慌ただしい日々は、駆け抜けるように私たちの隣を過ぎて行く。無事に進級を果たした私とユウちゃん、そしてグリムくんにエースくんたちは2年生となり、先輩を見送り後輩を迎え入れて今日もナイトレイブンカレッジに在学し続けていた。
始まりが突然だったのだから、終わりが突然であるのも決しておかしくはないことだ。
──貴方たちを元の世界へと帰す方法が見つかりました。
そんな言葉を学園長から告げられたのが、つい昨夜のこと。思いもよらなかったその内容に、私とユウちゃんは顔を見合わせて、そして同時に酷く複雑な表情を浮かべた。
喜ばしいことだ。嬉しいことだ。だって私も、彼女も、元の世界に帰る日を夢見て今日までを生きてきたのだから。
けれど、でも。
ただ喜びだけを胸にその未来を選ぶには、この1年という時間は、私たちにとってあまりにも長すぎたのだ。
震えるユウちゃんへ手を伸ばし、同じく震える指先でその手のひらを包み込む。そうすれば、彼女も縋り付くように私の手のひらを握りしめ返してくれて。
まるでお互いの感情を慰め合うように、私たちは夜が明けるまでずっと手を繋ぎ続けていた。
あんなに元の世界へ帰らなければと思っていたのに、考えていたのに、決意していたのに、いざその現実が目の前に現れた瞬間尻込みしてしまう。それはなんてわがままなことだろうか。そう自らを詰ってみるけれど、やっぱりそのわがままを叫んでいるのも私自身に他ならなくて。
いつも通りの平日、いつも通りの授業、いつも通りの学園。
それら全てがどうしてかあんまりにも儚いものに見えてしまうのは、きっとユウちゃんも同じなのだろう。どこか力なく笑う彼女に、思わず私の胸まで痛みを訴えた。
世界と世界が繋がるのは、今晩の1回きり。次に繋がるのはいつになるか分からないと、私とユウちゃんの2人だけに向けて学園長は真剣な声色で訴えた。私たちが生きている間にまた繋がるかもしれない。もしかしたら繋がらないかもしれない。
すなわちそれは、今日を逃せばもう二度と元の世界は帰ることが出来ないという現実に他ならなくて。
そして、元の世界に帰ることを選んでしまえば、もう二度と彼には会えないという現実に他ならなくて。
どこかぼんやりとした思考回路と、心はここに在らずというのにどうしてか重たい身体を引き摺って、それでも私たちは普段通りの今日を生きていた。
他の皆にはこのことを伝えないと決めたのは、私とユウちゃんの総意。お互いそれぞれに帰るか否かを考え、帰るのならばその間際にグリムにだけはさようならを告げて帰ろうと、そう言葉を交わした。
昼を過ぎた世界に、残された時間はじわりじわりと蝕まれていく。
帰るべきだと理性の声が叫んでいた。同時に、帰りたくはないと感情の声が喚いていた。
私をこの世界に引き留めるのは、ただひとり、ただひとつの存在。
「──……アオイさん?」
ジェイド・リーチという、私の愛した唯一無二。
「……ジェイド、くん。どうしたの?」
「いえ。なんだか貴方が……元気がない、ように見えまして」
どうして貴方は気づいてしまうの。どうして貴方は、私に言葉をかけてしまうの。
一瞬にして私の胸を埋め尽くしたその感情は、憤りすら孕んだ彼への愛おしさ。眉を下げた彼の瞳が真っ直ぐに私を見つめている。私の大好きな彼の虹彩と、今はやっぱり視線を合わせることが苦しくて。私はなるたけ自然な素振りを装って彼から視線を逸らした。
「昨日、ちょっと夜遅くまで本を読んでたから、寝不足気味で」
「……本当に、それだけですか?」
彼の視線が私を焼いている。見なくてもどうしてか分かってしまうその事実が、私の呼吸をまた奪い去っていく。[V:8212][V:8212]ああ、もう、どうして。
どうして貴方は貴方で、私は私なのだろう。
やりきれない感情が募って、視界がじわじわと滲んでいく。けれど一度落とした視線を持ち上げることも出来なくて。瞳にまとわりついた涙の膜が、酷く煩わしかった。
「それだけ、だよ。本当に」
震えそうになる声を叱咤して、私は何でもない口調で彼に答える。
どうかこの返答に納得して、ここから立ち去ってくれ。心の中で必死にそう願い続けるのは、もうこれ以上彼に恋をしたくはなかったから。これ以上なんて与えられてしまえばもう、きっと、私は前に踏み出せなくなる。
「──……嘘、ですよね」
私は、貴方のことを忘れられなくなってしまう。
「……どうして、そう言い切れるの? ユニーク魔法も使ってないのに」
言葉に棘が混じってしまうのも、今は仕方のないことだろう。
だって、私に許されている未来はたったひとつ。元の世界へと戻って、彼への想いを断ち切って、そして彼を忘れて未来を生きていくこと。ただそれだけなのだから。
──それなのに、どうして。
「……だって、貴方、嘘を吐くのが下手ですから」
その言葉に、寸でのところで耐え忍んでいた涙が、堪らず世界へとこぼれ落ちてしまった。
──貴方、本当に嘘を吐くのが下手ですね。
それは、何度も、何度も『彼』に言われた言葉だったから。
くすくすと笑う表情。眉を下げて、困ったように、それでいて酷く愛おしげに。双眸をゆるりと優しく細めて、私の嘘を愛してくれた『彼』。
嫌だ、いやだ。
頭の中にフラッシュバックしていく『彼』の姿が彼に重なって、重なって。けれど結局、最後に残された世界は、私の目の前にいる彼という存在ただひとつだけ。ああ、そうか。やっぱり私は、前世なんて無くたって、結局最後にはどうしようもなく貴方を愛してしまうんだ。
「──っ!? どうして泣いて、……体調が優れませんか? どこか痛いところが? 保健室までお送りします。だから、どうか泣かないで」
……ねえ。ねえ、ジェイド。ジェイドくん。
私、貴方のことが大好きだよ。
「貴方の涙を見ると、どうしてか胸がざわついて仕方がないんです」
だから、──私、やっぱり元の世界に帰らなくちゃ。
君が、前世のことを思い出してしまう前に。
***
夜の最中、私とユウちゃんはふたり、誰にも気づかれぬようオンボロ寮から鏡の間へと移動した。
ユウちゃんはこの世界に残ることにしたのだという。私はそれもいいと思う。人生とは他でもない自分だけのものなのだから、自分のためだけに生きなくては。
グリムには伝えようと言っていたのだけれど、やっぱりあの小さな愛しいモンスターが寂しさに泣いてしまう姿をどうしても見たくはなくて。ユウちゃんにグリムのことをよろしくねと笑えば、ユウちゃんの大きな瞳に涙が揺れた。
この世界にやって来た時に何故か身に纏っていた式典服を着込んで、学園長の待つその部屋に辿り着いた。あの日とは違い、そこに数多の棺の姿は無い。だって今日は入学式ではなく、たった1人の異世界人がいなくなるだけの離別式なのだから。
見送りは、今日を知る2人だけで十分だ。
学園長に言われるまま、闇の鏡の前に足を踏み出した。
ずっと我慢していたのに結局はぼろぼろに泣き出してしまったユウちゃんを抱きしめて、微笑んで、そうして元の世界へと。
『──汝の、在るべき場所へ、』
闇の鏡が紡ぎ始めた詠唱を聞きながら、私はそっと瞼を閉ざす。
脳裏に蘇るのは、ユウちゃんやグリムくんたちと過ごしたこの1年間の記憶。沢山のことがあって、沢山の出会いがあった。1年なんて枠組みに収めていいものではないその思い出の中に、いっとう輝く世界の姿。
──ジェイド。
その世界の中に煌めくひとの名前を、胸の中に呼んだ。
一度呼んでしまえばもう、堰は呆気なく壊れてしまって。水が溢れ出すように、感情が私の心を蝕んでいく。記憶の中に残る彼の姿をなぞって、追いかけて、そうして大切に大切に抱きしめる。
出会いたくはなかった。けれど、出会うことが出来て良かった。
どれだけ辛くても、苦しくても、やっぱり私は、彼と過ごす日々の中に『幸せ』以上のものを見つけられない。それは私の魂に刻み込まれた、死んでも生まれ変わっても治りはしない部分なのだろう。私が何度も彼を好きになってしまうのと同じこと。
もしもこの人生をやり直せるとしたら、私は、
……きっと、もう一度、貴方に逢いにこの世界へとこぼれ落ちてしまうのだろう。
そんな自分に笑みをこぼして、淡い光に瞬き始めた闇の鏡を真っ直ぐに見据えた。
さようなら世界。さようなら、ユウちゃん。さようなら、グリムくん。さようなら、皆。
──さようなら、私の最愛。
瞳からあふれたひとしずくが頬を伝う。それを拭うことはしなかった。
前世なんて、自由を生きる貴方には要らない。もしも私が傍にいることで貴方がそれを思い出してしまうのならば。あの愛おしい日々を、私のわがままな最期を、そのせいで貴方が嘆き悲しんでしまった過去を思い出してしまうぐらいならば。私は、貴方にさようならの愛情表現を捧げよう。
貴方は貴方として生き続けて。
人魚として、おおらかな海を揺蕩い波に歌い続けて。
そしてどうか、どうか世界で一番幸せに。
この恋心がその対価となるのならば、私は喜んで自らにナイフを突き立てよう。
人魚はもう、泡沫になんて消えなくていい。
ばいばい、ジェイド。
もしもまた生まれ変われるなら、今度は世界の壁も、種族の垣根もない場所で、出来れば前世の記憶なんて存在しない本当の『初めまして』の2人として出会えたらいいな。
こうして私の二度目の初恋は、終わりを告げる。
「──……リラ!!」
はず、だったのに。
世界を切り裂くように誰かの声が響き渡った。
この世界でその音を知っているのは、その音が私という存在を指し示すと知っているのは、……『彼』以外、いない。
理性が身体を諫めたけれど、感情に突き動かされた身体は勢いよく背後を振り返る。声が響いた先を、私の名前を呼んだ誰かの姿を、この視界に映し取るために。
薄暗い鏡の間に、ひとつの色彩が輝いた。
浅い海を閉じ込めた鮮やかな色。
「……ジェイド、」
私がいっとう愛した、彼という存在。
ほとんど無意識のうちに口端からこぼれ落ちたその音が、私の心に大きな波紋を作り上げていく。私を真っ直ぐに見据える彼の双眸は、いつかのプールで見たような焦燥の色を孕んでいて。上下する肩と乱れた髪に、随分と急いでここまで来てくれたのだなということを理解する。
闇の鏡の詠唱が止まった。それを気に留めることも出来ぬまま、私は彼を見つめる。
静まり返った部屋の中に、こちらへと真っ直ぐに向かってくる彼の足音だけが響いた。
ラベンダー色のシャツは、確かオクタヴィネル寮の寮服のそれ。ジャケットやストール、ボウタイの姿もないそのラフな姿は、彼にしては少し珍しいもので。
それに見入る暇もなく、私の目の前に立った彼の腕が私へと伸ばされた。
「……リラ、……リラ、お願いします。もう、何も言わずに僕の前から消えないでください」
抱きしめられた身体に伝わるのは、やや低い彼の体温と、どくどくと少し駆け足になった鼓動の音と、そして微かな身体の震え。
それらと耳元に囁かれた言葉の全てを噛み砕いて、飲み下して、そうして私は理解する。
──……ああ、また作戦失敗だ。
どうして今更。どうしてこんなタイミングで。そんな言葉が溢れそうになるけれど、そういえば世界とはそういうものだったと思い出し唇を噛みしめる。彼の腕の中から逃げたいと願う思考回路も、もう彼への愛しさによって壊されてしまっていた。
「……思い出しちゃったんだね」
前世の『彼』と『私』のことを。
「ええ、ようやく思い出すことが出来ました。随分と長くお待たせしてしまってすみません。……けれど、また何も言わずに僕の前からいなくなろうとするなんて、あまりにも酷すぎはしませんか?」
──前世の私は、人魚であるにも関わらず人間の彼に恋をした。
彼と生きるためには、人間にならなくてはいけない。けれど、その願いを叶えるための魔法なんてあの時代には存在しないと言っても過言ではないもので。
それでも私は、彼への愛と執念でそれを叶えてくれるひとを探し続けた。そして見つけだして、そのひとへ必死に頼み込んだ。自分に出来ることならする、捧げられるものなら捧げるから、どうか私を彼と共に歩むことのできる人間に。
そして私は対価を払い、人間の姿を手に入れた。
陸での生活に慣れるまで随分と時間がかかったけれど、彼と生きる日々は狂おしいほどに愛おしい時間で。払った対価も、それに十分似合っていたのだと私は納得していた。
彼には、私が何を対価として支払ったのかを決して教えなかった。
当時の彼が今の彼の持つユニーク魔法を持っていなくてよかったと、今となっては本当にそう思う。そんなものがあれば、私はあっという間に全てを彼に知られて、心の内に考えていた作戦に失敗の烙印を押さなければならなかったに違いないのだから。
──彼と過ごした『5年間』は、私にとって本当に、本当に幸せな日々だった。
その先にも続くはずだった私の命の全てを、対価として支払っても。
それが期限付きの幸せでしかなかったとしても。私は。
彼のことが大好きだった。彼のことを愛していた。
彼が笑えば私も嬉しくて、彼が泣けば私も悲しかった。
だから、彼を悲しませたくはないと思った。そう願った。
陸に上がって5年目のある日、私は彼の前から姿を消した。
それは偏に、私の最期を彼に見せたくはなかったから。彼が私の最期に涙をこぼす姿を見ることが、どうしてもいやだったから。そんな私の最期にして最大の我がままがどれだけ彼を苦しめるのかも、悲しませるのかも、分かっていた。
でも、彼の記憶に残る最期の姿は、儚い泡沫ではなくて普段通りの私であってほしかった。死を迎える私ではなく、ただただ一心に彼を見つめ、彼に恋をして、彼を愛する私の姿だけを彼の記憶に残したかった。
ごめんなさい。何度その言葉を紡いだだろう。
大好きだよ。何度その言葉をこぼしただろう。
愛してるよ、ジェイド。
それが、彼と私の一度目の『さようなら』だった。
「……ジェイドに思い出してほしくなかったの。あんな私のわがままでしかないお別れなんて。だって、ジェイド、沢山泣いてくれたでしょう? 悲しみなんて、貴方には似合わないから」
「ええ、そうですね。確かに僕は枯れるほどに泣き、地面を這いながら苦しみ、そして何度も何度も世界を呪って、自らを憎んで、全てを後悔し続けました」
でも。彼は静かに言葉を続けた。
解かれた腕に、彼との距離が生まれる。人魚の彼と人間の私が、人間の2本の脚で向かい合い、抱きしめ合う。前世と同じで、少し違うその在り方。ふたりはどうしたってひとつにはなれなくて、けれど、だからこそふたりはふたりとして出会い、恋をし、愛を抱いた。
世界はあまりにも残酷で、意地悪で、それでもなお酷く愛おしい。
だってその世界の中に、彼と私の運命が結ばれたのだから。
「──貴方と生きたあの5年間は、僕にとっても本当に幸せな時間だったんです。貴方のいない世界を生きて、生を終えて、生まれ変わって、全てを忘れて生きてきたこの18年という時を経てもなお、僕の心にどうしようもない温もりをもたらすほどに」
ほろりほろりと溢れ出した涙は、枯れることもなくただ流れ続ける。
滲んだ世界に、それでもなお彼の色彩があんまりにも鮮やかで。だから私は。私は、
「……ねえ、ジェイド」
「……はい、どうしました?」
優しい声が私を包み込む。愛おしい、愛おしいと心臓がずっと叫び続けていた。その感情に、その愛に、最早前世も今世も関係ない。
「私、また貴方のことを好きになっちゃった」
彼の瞳がぱちりと瞬いて、そしてゆるりと弧を描いた。
それは、まるで月の満ち欠けを見ているかのようで。
「それは奇遇ですね。……僕もまた、貴方のことを好きになってしまいました」
きっと来世でも、私はまた貴方に恋をする。
2020/8/4
- 4 -