前編
※物語の特質上あまり多くを注意書きに記載できません、何が来ても大丈夫だという方のみの閲覧をお願いいたします
※全ストーリーの内容やホームボイスについてのネタバレ有
※NRCは9月に年度が始まり7月に年度が終わる設定
※監督生夢主以外のオリキャラの存在(薄め)有
※色々捏造とご都合主義と妄想幻覚
目が、覚めた。
つい一瞬前まで深い眠りの中にあったはずの意識は、それでもなお、どうしてかやけに鮮明で。眠気のかけらも残ってはいない視線を、ゆるりと周囲へ巡らせた。
緩慢に瞬きを繰り返す視界に映り込むのは、もう随分と見慣れてしまったオンボロ寮の自室の天井の姿。雨漏りを直した一部分に、周囲よりも色の薄い板材が曖昧に佇んでいる姿がやけに目に付いた。薄いレースカーテンの向こうから、大きな窓が朝陽をたっぷりと部屋の中へ導き入れている。まだ朝は早いはずだというのに、寝起きの鼓膜を叩くのは、軽やかな小鳥の囀りではなくけたたましいほどの蝉の声。
今日も暑い一日になりそうだ。
ベッドの上に上体を起こして、私はぼんやりと考える。空調の効いた室内はそれなりに涼しく保たれているはずだというのに、窓から差し込む光があんまりにも強いせいか、それとも鳴りやまぬ蝉の声のせいか、首筋にじわりと汗が滲んだ。
学年末の試験も終わり、あとは目前のサマーホリデーを待つだけとなった7月の某日。残された1年生としての登校日も、今日を入れてあと3日となってしまった。机に置いている月捲りのカレンダーを見て、ふと、この世界に来てからもうじき1年になるのだと理解する。短いようで長くて、長いようで短かったこの10ヶ月余り。その日々の記憶をざっくばらんに思い返して、本当に様々なことがあったものだと小さく笑みをこぼす。
さあ、早く相棒であるグリムを起こして学校へ行かなくては。
布団から這い出して、白いシーツの上を滑る。衣擦れの音と同時に、少し古びたベッドがぎしりと軋むような音を立てた。使い始めた日からずっとこんな様子であるから、特別気にすることはない。
ベッドから両足を下ろして床につけた、……その瞬間。
ちりんちりんと、どこからか風鈴の涼しげな音が聞こえた。
咄嗟に視線を窓辺へと向ける。けれど、もちろんそこに風鈴らしき姿は無いし、そもそも窓はぴったりと閉め切られているため風の通りもない。聴神経を通って脳へと届くのは、炎節からこぼれ落ちてくる蝉の声と、自らの繰り返す微かな呼吸の音だけ。
だからつい一瞬前のそれは、きっとただの幻聴か気のせいに過ぎないはず。
そう理解したというのに、どうしてか鼓動が鼓膜の近くに聞こえて。
浅く呼吸を繰り返す。夏の朝が、大きく口を開けて私を待ち構えている。
ミンミン、ジャワジャワ。蝉の声が鳴りやまない。
──何か大切なことを忘れてしまっているような、そんな空虚感に心臓が蝕まれた。
***
返却された答案用紙に並ぶ赤いインクの跡を眺めて、小さく息を吐く。右下に記された数字は89。目標の90点には残念ながら届かなかったけれど、入学してすぐの頃は魔法薬学が何よりも苦手だった私にしては随分と頑張った方だろう。
グリムもなんとか赤点を回避したらしい。ふなぁ、と安堵に力の抜けた声で鳴く彼へ「お疲れ様」と声をかけていれば、私を挟んで両脇に座っていたエースとデュースがデリカシーもなく私の答案用紙を覗き込んでくる。
「89点!? お前魔法薬学苦手だって言ってなかったけ?」
「今回の魔法薬学のテスト、かなり難しくなかったか?」
「あはは、応用問題多かったしね」
クルーウェル先生に怒られてしまわないよう、出来るだけ小声でひそひそと私たちは言葉を交わす。こんなやり取りが日常と化してから、もうどれだけの時間が経つのだろうか。笑みと明るい声色の奥にふとそんなことを考えていれば、どうしてか肺のあたりがじくりと微かな痛みを訴えた。
それに首を傾げながらも深く気には留めず、私は逆にエースやデュースの答案用紙へ視線を向けた。エースも何だかんだと言ってクラスの平均点以上は取っているし、デュースもなんとか赤点からは逃げおおせることが出来ている。
これならば何とか全員夏休みの補習は受けずに済みそうだなと考えながら、「どうやって勉強したんだよ」というエースの問いかけに答えを返した。
「先輩にちょっと勉強を見てもらっただけだよ。そのうちに何となくハマってきちゃって、今までより勉強量は増やしたかな。なんか、見方を変えれば案外楽しかったんだよね、魔法薬学」
「ふ〜ん」
自分で聞いておきながら興味の無さそうな返事をするエースに、けれども苛立ちは特別募らなかった。私の胸を埋めるのは、努力が形になり始めている現実への喜びと、次はもっともっとがんばろうなんていう未来へのやる気ばかり。
答案用紙を持って報告しに行けば褒めてもらえるだろうか。そんなことを頭の隅にぼんやりと考えた瞬間、クラス全員に答案用紙を返し終えたクルーウェル先生の声が鼓膜に響いた。
「──さて、仔犬ども。知っての通り、明後日の終業式を終えれば、お前たちもお待ちかねのサマーホリデーが始まる」
サマーホリデー。私たち学生に何よりも甘美な響きをもたらすその単語に、教室が一瞬にしてざわめき立った。もちろん私の心も。けれど、それもクルーウェル先生の鋭い眼光によって即座に鎮圧される。
静けさを取り戻した生徒たちに、先生はひとつ咳払いをこぼして言葉を続けた。
「学年末試験も終わって後はテスト返却だけとなり、何かとはしゃぎまわる仔犬が増える時期だ。しかし、今日明日は変わらず普段通りに授業が行われる。手酷い躾をされたくなければ、終業式が終わるまでちゃんといい子にしているように。いいな?」
その言葉に視線を彷徨わせる生徒、数名。ハメを外してはしゃぎたくなる気持ちも痛いほどに分かるため、乾いた苦笑しか生まれない。
サマーホリデーに際しての諸注意は終業式の日の最後のホームルームで改めて行う。そう言って、クルーウェル先生は最後の魔法薬学の授業を始めた。とは言っても、今日の内容は2年生の内容へのつなぎ程度に終わるそうだけれど。
ぱら、ぱら。冷房の効いた教室の中に教科書の捲られる音が満ちる。
チョークが黒板を叩いて、ノートの上をペンが走る。
先生の声だけがはっきりとした輪郭を保ち続ける教室の中、これまでは教室の喧騒にかき消されていたせいで気づくことのできなかった微かな音が聞こえた。それはきっと、この学園中の空調管理を任されている妖精たちの羽が震える音。
閉め切られた窓の向こうに、突き抜けるような青い空が広がっている。
光の筋が見えそうなほどに強い日差しの中には、きっと、今もなお鳴りやまぬ蝉時雨が降り注いでいることだろう。閉め切られた教室の中にその雨音は届かないけれど、鼓膜の奥に焼きついたあの喧騒が、脳にどうしようもない幻聴を与えていった。
……暑い、なぁ。
どれだけ涼しい部屋の中にいようとも、確かに夏はそこにいる。
今日も世界を焼いている。
乾いた喉に唾を飲み込んで、私はペンを握り直した。
あのひとに逢いたいと思った。
……。
…………あれ?
──あのひとって、誰だろう。
***
「あ゛ーっ!! やーっと昼休み!! 学年末試験も終わったってーのに、何でぎりぎりまで授業詰め込むんだか。テスト返却だけまとめてやって、さっさと夏休みにしてくんねーかな」
りんごんと鳴り響いた授業終わりの鐘の残響が消えたとほぼ同時に、私たちは並んで教室を後にする。向かう先はもちろん昼食を摂るための食堂だ。
廊下にも教室同様妖精たちによる空調管理が施されているのだが、やはり空間が広いこともあって隠し切れない暑さが滲んでいる。
大きく伸びをしながらそんなことを嘆き半分に口にしたエースへ、私は何も言えずただ苦笑いだけを返した。気持ちはとても分かるけれど、学園側にも授業時数だとかシラバスだとかそういう面倒ごとがあるのだろうから私には何も言えない。まあ確かに、授業内容は終わったからと言って先生のどうでもいい長話に付き合わされるのには辟易としてしまうけれど。
今日の昼食は何にしようか、だとか、次に返ってくる魔法解析学のテスト結果はどうだろうか、だとか、明日の水泳の授業が億劫だ、だとか、そんな他愛のない言葉を交わしながら、私たちは廊下を歩く。他の生徒たちのざわめきに満ちるその中でも、優秀な聴覚はちゃんとエースたちの声を取りこぼすことなく脳へと伝えてくれる。確かそんな現象のことを、カクテルパーティー効果と呼ぶのだったか。
いつか誰かとの会話でそんなことを話したなと思い出したのだけれど、それが誰との会話だったかまでは思い出せなかった。それがいつのことだったかも。
「──あ、小エビちゃんたちだぁ〜」
そんな私の思考は、どこからか飛ばされてきたその声によって呆気なくかき消されてしまう。ぱっと視線をそちらへ向ければ、世界に鮮やかな浅瀬の色がきらきらと輝いた。その眩しさに何だか目がくらむような感覚に襲われて、思わず身体を固く強張らせてしまう。
たたらを踏むことも、転ぶこともなくただ地面に立ち続ける私の身体。そこにあるはずの感覚の全てが遠く感じられたのは、一体何故だろう。まるで魂が抜けてしまったかのようだ。
「フロイド先輩」
その不思議なあだ名で私のことを呼ぶひとは、ふたつの世界の中でもたったひとりしかいない。廊下の向こう側からこちらを見据えてひらひらと手を振る彼の名前を呼べば、やっほぉ、と間延びした声が返ってきた。
相変わらず背の高い彼の隣には、アズール先輩の姿もある。彼らと私たちの丁度中間地点に食堂へ至る曲がり角があるため、きっと彼らも食堂へ向かうところなのだろう。
クリスマス休暇前に巻き起こされたひと悶着もあり、グリムたちはしばらく彼らに対してかなりの警戒心を抱いていたのだけれど、今となってはそれも随分と和らいだ。特にエースは、バスケットボール部を通じてフロイド先輩とそれなりに交流があるためか、かなり気さくな様子でフロイド先輩に挨拶を返している。
「先輩たちも今から昼飯ですか?」
「うん、そぉ」
「この後少し用事があるので、手早く済ませる予定ですけれどね」
やはり、オクタヴィネル寮の寮長を務めるアズール先輩は、学年末ということもあって毎日忙しい日々を過ごしているようだ。暑さによる疲れもあるのか、その顔色は普段よりもさらに悪いように見える。
カロリー制限はいいですけど、身体を壊さないぐらいにちゃんと食べてくださいね。そんなことをこっそり伝えてみれば、一瞬目を瞬かせた彼に、「ご心配どうも。自己管理ぐらいちゃんと出来ますのでご安心ください」と不敵な笑みも添えて返されてしまった。
それでもまだ不安は拭い切れないのだけれど、まあ、最悪の場合は彼の右腕でもあるフロイド先輩が何とか彼を療養に叩き込んでくれるだろう。副寮長のいない、、、、、、、オクタヴィネル寮で実質的な副寮長として働いている彼は、気分にムラが強いところはあるけれど、それでも確かに優秀な人材なのだ。と、いつかアズール先輩が自慢げに笑っていたことを思い出して、唇が微かに綻んだ。
──……あれ?
その時、不意に自らの思考回路に躓きを覚えて、私は歩みをぴたりと止めた。
腕の中でグリムが不思議そうに私を見上げている。2歩先でエースとデュースも足を止めてこちらを振り返っている。食堂が近づいたことで人の増えた廊下に私たちの少し前を歩いていたアズール先輩とフロイド先輩のふたりも、私の名前を呼んだグリムたちの声にこちらを振り返って。
頭の奥で、蝉の鳴き声がけたたましいほどに響き渡っていた。
視界に映る世界は、確かに私の知る世界の姿をしていた。
191センチと、176センチ。
浅瀬を溶かした金春色と、絹糸のような月白色。
深い海の底から陸の上へとやって来た、ふたりの人魚。
私の知る、彼らというひとたち。
それなのに、どうしてだろう。
「……小エビちゃん?」
「……監督生さん?」
立ち止まったまま動かない私を、彼らが呼ぶ。それによってはっと我に返った私は、慌てて唇を震わせた。何でもないのだと伝えるために、何とか笑みを顔に浮かべて。すみませんと、ただそれだけを言うために。
「──先輩たち、今日はふたりだけなんですね」
だというのに、何故か私の喉からこぼれ落ちたのはそんな言葉で。
どうして自分がそんな問いかけを彼らに紡いだのかも分からないまま、私はただただ世界を見据え続けた。どくどくと心臓がやけに煩くて、ほんの一瞬だけ、真剣にそれの静め方を考えてしまった。
フロイド先輩が私を見る。左右で色の違う不思議な双眸が私を射抜く。向かって右側には深い柳茶の色、左側には玲瓏な黄金の色。(……違う)黄金に影を落とすひと房の深海色がどうしようもなく網膜を焼いて。浅い呼吸を必死に繰り返すのだけれど、酸素の欠乏はどんどんその深刻さを増していくばかり。(違う、違う)ゆるりと彼の瞳が細められて弧を描く様が、世界の反対側で巻き起こされている出来事のように感じられた。
(──何が、違う?)
からり。彼の右耳に、片方だけのピアスが揺れている。海を閉じ込めたひし形が3つ連なるそれは、まるで魚の鱗をアクセサリーにしているかのようにも見えて。片割れを持たないというアンバランスに対する違和感も、どうしてか私には芽生えないまま。
からから。彼の動きに合わせて奏でられる微かなその音は、まるで笑っているようにも、泣いているようにも聞こえる。開かれた彼の唇の向こうに、鋭く尖った歯が煌めいた。
「なぁに言ってんの、小エビちゃん」
頭の奥に音が響く。
まるで私の意識の全てを奪おうとでもするかのように、高く、遠く。
窓の向こうから降り注ぐ真夏の日差しを受けて、彼の浅瀬色が揺らめいた。それは、突き抜けるような空の青と同様に、網膜を焼く尽くすほど眩しい色彩。やけに彩度の高い夏の世界は、今日も隙間なく色鮮やかに私を包み込んでいる。
それでもなお、私の心が叫んでいた。
“色”が足りないと、泣いていた。
「──オレたちはぁ、ずっと“ふたりだけ”じゃん?」
ちりん、ちりん。
風鈴の音が、静かに鳴り響いていた。
***
校舎の3階。その一番奥に存在する魔法史資料室の隣にある、ひとつの空き教室。
主に3年生以降の選択授業で使われるらしいその教室は、立地の悪さと使用頻度の低さから、誰の足も滅多に伸びてこないとても静かな場所となっている。まあつまり、誰とも会いたくない時や、誰にも姿を見られたくない時に、そこはうってつけの隠れ家になるということだ。この学園に入学してすぐの頃に見つけたこの場所へ、私は何かにつけてよく足を運んでいた。その理由は様々あるのだが、今は割愛させてもらおう。きっと、聞いていて面白いものでは無いと思うから。
教室の出入口にあるプレートには、もちろんクラス名も教室名も書かれてはいない。名目上は『302教室』と呼ばれていることだけは私も知っている。そう教えてもらったから。
からり。何の抵抗もなく開いた扉の隙間に、相変わらず戸締りが疎かなのだなとこの学園のセキュリティに苦笑をこぼしてしまった。
上述の理由に加えてサマーホリデー前であることも重なってか、他の教室に比べて空調管理があまり徹底されていないその教室の中には、じとりと蒸すような暑さが深く染み込んでいた。
閉め切られた教室内に停滞した空気が、重さをもって私の喉にまとわりついてくる。それに煩わしさを感じないと言えば嘘になるけれど、私の故郷の夏はもっと湿度と気温の高いものだったから、これぐらいはまだかわいいものだ。
扉を後ろ手に閉めて、教室の中に爪先を滑らせる。
私のよく知る『教室』の姿とは少し様相の異なる、まるで大学の講義室のような机の形と配置にも、もう随分と見慣れてしまった。私にとっての常識のほとんどが、どうしたってこの世界の常識の枠の中には収まらない。それもそうだ。だって、私はこの世界とは違う他の世界からやって来た人間なのだから。
周囲の床よりも少し高く作られた教壇の段差に腰かけて、私はそっと膝を抱えた。
授業の終わった放課後に、窓の向こうの青い空も少しずつそこに夕を孕み始めている。視線を向けた先に浮かぶ白い雲の輪郭がやけにはっきりとしていて、まるで、青い空をハサミで思うままに切り取っているかのようだった。
もうそろそろ、ひぐらしも鳴き始める頃だろうか。
明かりを灯していない教室の中は、太陽の傾きに合わせて薄暗さを増していく。それを気にも留めず、私はぼんやりと自らの爪先を見下ろすばかり。
視界に映り込んだローファーに汚れが目立ち始めていて、そろそろ手入れをして磨いてやらなければいけないなとふと考える。このひとつ前のローファーはたった数ヶ月でだめにしてしまったのだけれど、教えてもらった通りに手入れをするようになったこの2代目のローファーは、もうじき履き始めて半年になろうかというのに、まだまだ現役だと言いたげな様子で私を支えてくれている。物は大切に使いましょう。幼い頃に大人から口酸っぱく言い聞かされてきた言葉の意味を、まさかこの年になってようやく理解できるとは。
靴の手入れの仕方を通して間接的にそれを教えてくれたあのひとに、もっとちゃんと感謝しなくてはいけないな。そんな言葉を胸中に転がして、口元を柔く綻ばせる。
──刹那、つきん、と小さくも鋭い痛みが頭に走った。
糸を引くこともなく一瞬にしてそのなりを潜めた頭痛に、それでもやはり、胸に残された違和感は消えてくれない。早鐘を打つ心臓のあたりに手のひらを押し付けて、私は必死に呼吸を繰り返す。浅い呼吸の音が自分の世界にも煩く響いて、また蝉時雨の音を思い出した。
「──……こんなところで、何をなさっているんですか?」
声。
私ひとりしか存在していなかったはずの世界に突然こぼされた、誰かの声。
ほとんど反射的に視線を持ち上げて、その声が聞こえた方へと顔を向ける。それはこの教室にあるたったひとつの出入口の方向。無意識が私の唇を震わせて、そこに何かの音を紡ごうとしていた。けれど、その音はどうしてか喉につっかえてしまって、どこにも羽ばたけないまま泡となって消えていく。
「……アズール、先輩?」
意表を突かれた、という表現が正しいだろうか。少なくとも、視界に映り込んだ淡い銀藍色に驚かされたことは事実だ。けれど、驚き以外の感情も私の中にはとぐろを巻いていて。それを上手く理解することが出来ないまま、私はただ情けなく唇を開閉させるばかり。
扉の向こうから私を見つめているアズール先輩は、そんな私の姿に何を考えているのだろう。空と海とを足して2で割ったような色彩を孕む怜悧な瞳を眼鏡の向こうに瞬かせて、彼は数秒の沈黙をそこに落とした。
「先輩、こそ、どうされたんですか? こんなところで」
その沈黙に耐えきれなくなった私は、問いかけに問いかけを返すことで何とか会話を繋げようとした。湿度の高い空気に侵された喉のせいで少し声がたどたどしくなってしまったけれど、きっと彼に言葉は届いたはず。
薄暗い教室に落ちるのは、ふたり分の呼吸の音と窓の向こうに響くひぐらしの声だけ。
「……こんな辺鄙なところにある教室に、用事なんてありませんよ。僕には、、、」
彼の言葉に妙なひっかかりを覚えるけれど、それを問いただそうとすることも私には出来ない。視界の向こうに、彼の瞳が細められていく光景が揺れた。
「あえて言うとしたら、『ここに貴方がいるから』、でしょうか」
その表情に滲む彼の感情をたったひとことで言い表すことが出来たなら、胸に蟠るこの『何か』にも名前を付けることが許されたのだろうか。
微笑みをかたちどった彼の瞳に揺れる温度は、まるで麗らかな春の空のように温かで、けれども同時に流氷の如く冷たくもあって。慈しみと憐みを混ぜて溶かして注ぎ込んだ彼の虹彩に、私の間抜けな姿が映り込む。
「──貴方は、本当に馬鹿な人ですね」
その言葉に、また頭に痛みが走った。今度はじくじくと続く鈍痛に、思わず彼から視線を外して頭を抱える。耳元を手のひらで覆い隠して、米神のあたりに指を這わせる。くしゃりと髪の毛が軋む音も無視して、私はただ、ただ。
頭の奥底に響くその声を追いかけて。けれど、どうしてか追い付けなくて。掴み取れなくて。喘鳴を伴った呼吸が喉からこぼれ落ちていく。
暑い。夏は暑い。
全てが始まった秋を次に控えた季節。冬の反対側にある時節。
私を『貴方』と呼んで、私を『馬鹿だ』と笑うあの声をかき消してしまう、静かなぐらいに煩い“あお”の世界。空も、木々も、海も、全部全部があおく染まる世界。
私が──を置き去りにした炎節。
「……アズール先輩、私は、」
ほろりと紡いだ私の言葉を窘めるように、彼の言葉が世界に響く。
静かでたおやかなその微笑みが、私の視界をじわりと滲ませていった。
「その答えは、貴方自身の力で掴み取ってください」
ああ、この世界は今日も、こんなにも“夏”の中にある。
***
祝日法の改正とやらで8月に『山の日』という祝日が追加された時、当時小学生か中学生かだった私は、「どうしてわざわざ夏休みの中に祝日を作るんだろう」なんて、そんな言葉を吐いたことがある。もちろん今となっては、そんな稚拙で我儘な言葉なんて口が裂けても紡げないけれど、当時の私、『夏休みによって8月の全てが休みになることが当たり前な私』にとって、その改正は随分と意味のないものに思えたのだ。
どうせなら他の月に祝日を増やしてくれればいいのに。
あれからまだ数年しか経っていないけれど、それでも、当時の私は何と自己中心的で利己的な考え方をしていたものだと酷く恥ずかしくなる。15歳を超えて少しずつ俯瞰した世界の見方が出来るようになってきてようやく、“子ども”であり続けることの難しさにも理解が及び始めてしまった。
ただ自分本位に生きていくことは、簡単なように思えて、その実酷く難しい。
様々なことに考えが及ぶようになっていくにつれて、どんどん呼吸が煩わしくなっていく。人生という日々を積み重ねていくにつれて、様々なものがまとわりついた身体がどんどん重くなっていく。
全てを捨てて、ただ自らの望むたったひとつだけを握りしめる未来を、何の躊躇もなく一心に願うことが出来れば。
あの頃のように、私がまだまだ“子ども”であったなら。
この“夏”を迎えることも、無かったのだろうか。
「──小エビちゃん、階段」
ぐい、と左肘のあたりを掴まれて強く後ろに引っ張られる。同時に目の前へと引き戻された意識が知覚したのは、空を掻きそうになっていた私の足裏がしっかりと地面を踏んでいること。そして私を引き留めてくれた誰かの声。
驚きにぎゅうと力を込めた右腕の中で、胸に抱えていた白衣がくしゃりと歪んだ。
引き攣るような呼吸が喉元を過ぎ去って、残されたのはどくどくと煩い鼓動の音。慌てて視線を持ち上げて、肩越しにその誰かの姿を視界に映す。それが一体誰であるのかは、もう既に無意識のうちに理解していた。
「ぼーっとして歩いてっと、危ないよぉ? 小エビちゃん弱っちいんだから、ちゃぁんと気をつけねーと」
フロイド先輩。彼の名前を紡げば、彼はにこりと笑って私の肘からぱっと手を離した。その姿に瞬く浅瀬の色がやっぱりどうしようもなく眩しくて、網膜に映しているのが酷く苦しくて、思わず視線が床へと落ちてしまう。
両腕で縋り付くように白衣を抱きしめて、何とか呼吸を落ち着かせた私は、なるだけ明るい声色を作って彼に言葉を返した。
「……すみません、助けてくださってありがとうございました。また階段から落ちちゃうところでしたね」
「い〜え。もうすぐ授業始まっけど、小エビちゃんどこ行くの?」
それを言えば何でフロイド先輩もここにいるのかという話になるけれど、気分屋な彼のことだからきっとそういうことなのだろう。眉を下げた私は、出来るだけ彼の色彩を視界に収めないように気を付けながら視線を持ち上げる。
「先生の都合で次が自習になったので、魔法薬学室と植物園に行こうかなと思って」
試験期間は勿論、試験が終わった後もなんだかんだと足を運べていなかったため、今このタイミングならばと思ったのだ。グリムたちはこの後の水泳の授業に備えて仮眠を取るのだと言っていた。だから今はひとり。これまでも魔法薬学室や植物園に向かう時はひとりだったため、特別変わったことはない。
「魔法薬学室、ねぇ」
私の言葉を咀嚼するように、フロイド先輩はその単語を反芻する。トーンのわずかに落とされた声が、ふたりきりの廊下に反響しては消えていく。眇められた彼の瞳が私の頭頂部を見下ろしているのを感覚的に理解して、どうしてか背筋が微かに震えた。
恐怖ではない、と思う。恐ろしいわけではないはずだ。
だって、私が彼に怯える理由なんて何ひとつとして無いのだから。
夏の暑さが微かに滲む廊下は、それでもちゃんと空調管理が為されていて。けれどもどうしてか汗が伝い落ちていく。
「……ねぇ、そこに何があんの?」
そこには。──そこに、は?
弾かれるように視線が持ち上がって、視界に浅瀬の色が踊る。色違いの双眸が私を真っ直ぐに見据えていて。見上げた首の角度にどうしてか覚えた違和感は、飲み込んだ空気と一緒に臓腑の奥底へと落ちていく。紡がれた声色は柔らかいものであったはずなのに、どうしてか、その瞳に宿る温度は酷く静かで硬いものだった。
思い出したのは、あの302教室で私を見つめていたアズール先輩の瞳。
慈しみと哀れみを混ぜ込んだ視線が、今もまた私を焼き尽くす。どうして彼らは、そんな瞳で私のことを見るのだろう。どうしてそんなにも悲しそうで、切なくて、それでいて酷く優しい表情で私のことを見つめているのだろう。
がんがんと頭が痛みを訴える。呼吸を繰り返すことも苦しくなって、彼のその瞳に見つめられていることが辛くなって、私は彼に背を向けて逃げるように駆け出した。
背中に彼の声を聞きながら、私はひた走る。
廊下を走っていることを先生に叱られることも気にせず、ただひたすらに床を蹴り上げて、あの場所へ。窓の外に青い空が広がっている。燃える太陽がずっと私の後をついてくる。まるで私の一挙手一投足の全てを監視しているかのように。
走る、走る、走る。そうしてようやくたどり着く。
魔法薬学室。扉に記されたその文字列を見た瞬間、どうしてかその場に崩れ落ちてしまいそうになった。
震える足を叱咤して、私は扉に手をかける。鍵は閉められていなかった。私を中へと誘うかのように、扉はゆっくりと開いていく。
壁一面に嵌め込まれたガラス窓と、その上を斜めに駆け巡る鉄格子。未だに見慣れない植物が数多く息づくその部屋の中、私の爪先はふらふらとしながらも真っ直ぐにどこかへと向かう。魔法薬学室にも、植物園にも、私はもう何度も足を運んでいるから、行かなければいけない場所への行き方は身体がすっかり覚え尽くしていた。
その感覚が私を導いた場所。魔法薬学室のとある一角。他の場所と何ら変わらない、植物と、土と、薬品の臭いが充満した空間。その光景があんまりにも『正しく』そこにあるものだから、ついに私は耐えきれず床に崩れ落ちた。糸の切れた操り人形のよう、なんて詩的な表現も頭には浮かばない。
私は一体、何を求めてこの場所に足を運ぼうとしたのだろう。
どろりどろりと床が泥のように溶けて、身体が沈み込んでいくような感覚が私を襲う。底なしの沼の中に沈んで、“夏”に溺れて、そうしてもう戻っては来られなくなるような。
胸を覆い尽くした感情は、焦燥と、恐怖と、悲哀と、そして渇望。
明日で終わってしまう。サマーホリデーがもう目の前に待っている。だから私は。
私は。
「──小エビちゃん、本当に全部忘れたまま帰っちゃうの?」
りん、りん。
風鈴の音と同時に脳内に響いたのは、私の背中にフロイド先輩が投げたそのひと言。
呼吸と鼓動が身体に宿る。ふらつく足で、私はそれでも何とか立ち上がった。
蝉噪が頭を揺らし続けている。風鈴の音が聞こえる。
……ああ、そうだ、私は風鈴を。
“夏”が、少しずつ暮れ始めていた。
***
塗り板のプールサイドは、つい先ほどまではあんなにも濡れそぼっていたと言うのに、照り付ける太陽の日差しのせいかあっという間に乾ききってしまっていた。熱された地面と塩素混じりの水が生み出す夏の匂いが鼻につく。授業中の喧騒も時間と共に過ぎ去って、残されたのは時折風に揺れる水面の音ばかり。
カアカアとどこかで烏が鳴いている。日の長い夏の空は夕立ちの様子も見せぬほどにまだまだ青く遠く澄み渡っているけれど、時間としてはもう夕方と言っても過言ではない頃合いだ。
プールサイドに座って水に浸けた足を、ゆらりと揺らす。さざ波だった水がざわざわと伝播していくけれど、それほどの距離も走らぬうちに周囲の水の塊の中に溶けて消えてしまった。
「この時間になっても、やっぱりまだ暑いな」
デュースの声に視線を持ち上げれば、髪の毛をまだ湿らせたまま、無造作に肩にタオルをひっかけた彼の姿が視界に映る。そうだね、と頷きを返せば、彼はその手に持っていたアイスの袋の片方を私に差し出してきた。
それを有難く受け取って、ぺりぺりとビニールの包装を剥がす。夏場の学生御用達の、安価な棒付き氷菓子だ。それなり大きさもあって、味もなかなかに美味しいそれは、やっぱり世界が違っても学生たちから深く愛されているらしい。
涼しげなソーダ味の薄青をしばらく眺め見て、私の左隣に腰かけたデュースへ言葉を投げかける。
「エースとグリムはどうしたの?」
「ん? ああ、どのアイスにするかでこれでもかというほど頭を抱えていたから置いてきた。多分そのうち来るはずだ」
「そっか」
アイスひとつでそんなにも真剣になれるなんて、と思うけれど、どうせお金を払って食べるのならばより美味しいものを食べたいと思う気持ちも確かに分かる。はてさてあのふたりはどのアイスを選んでくるのやら。なんだかんだ、結局は私とデュースの食べているものと同じものを手にしていそうだけれど。
そんなことを考えてくすりと笑って、早くも溶け始めているアイスを慌てて口に放り込む。しゃく、と固められた氷が歯に砕ける音が、聴覚からも涼しさを訴えてかけてきた。
サマーホリデー前最後の授業であった水泳を終えた放課後に、プールサイドでアイスを食べるというのは、なんとも夏らしいイベントなのではないだろうか。青い春を真夏の中に感じながら、私は人工的なソーダの味を噛みしめた。この手のアイスはあまり急いで食べると米神のあたりがキーンとしてしまうのがネックだと思う。
「……明日で終わりか」
カナカナと鳴き始めたひぐらしの声に合わせて、デュースの声が私の鼓膜を叩いた。
明日の終業式を終えれば、ナイトレイブンカレッジはサマーホリデーに入る。生徒たちはほとんど全員各々の家へと帰省して、賑やかな学園内もしばしの静寂に包まれることだろう。暑い夏と、けたたましい蝉時雨だけをそこに残して。
「監督生、明日帰っちまうんだもんなぁ」
デュースとは反対側、私の右隣りから聞こえたエースの声に、はっと視線をそちらへ向ける。どうやら先ほどの私の勘は当たっていたようだ。私とデュースの食べているアイスと同じ種類の、味だけが違う棒付きアイスを食べながら、エースが私の隣に座っていた。
プールの水に、3人分の爪先が揺れる。
私の膝の上に座っているグリムもまた、私たちと同じアイスを夢中で頬張っている。
デュースのアイスはもう棒だけになっていて、エースのアイスも残り3分の1程度。それなのに私のアイスはまだ半分以上残されていて。早く食べなければ甘い砂糖水になってしまうと慌てるのだけれど、私を見据えるエースの視線に思わず息が詰まって、指先が思うようには動かなくなってしまった。
「……そう、だね」
「辛気臭ぇ面するんじゃねーんだゾ。明日で終わるんだって、最初から分かってたことじゃねーか」
「……うん」
アイスを持っていない左手でグリムを抱き寄せて、私は揺れる水面に視線を落とす。
そこに映り込んだ青空の色があんまりにも煩くて思わず瞼を閉ざしてしまいそうになるけれど、必死にそれを耐え忍んだ。
明日が最後。明日で終わり。
決まっていたことだ。分かっていたことだ。けれど、それでもなお胸が騒ぐのは。
「安心しろって、監督生。俺たちがちゃんと傍にいてやるから」
「ああ。監督生がたとえどんな未来を選んだとしても、僕たちだけは絶対にそれを非難しない」
「オレ様たちは、ずっーとお前の味方だからな!」
エース、デュース、グリム。
彼らの名前を口にする。瞬きを落とす。
見上げた空の一面に広がる星空があんまりにも美しくて、涙が溢れそうになった。
「──泣いてんのぉ? 小エビちゃん」
「……泣いてないですよ」
ぱしゃん、と夜のプールに水音が跳ねる。
プールサイドにひとり座り込む私の目の前で、ひとりの人魚がたおやかに水中を駆けていく。深い花緑青の色が、星明りにちかちかと輝いていた。やっぱりその姿はとてもきれいだと心から思う。でも、そこには何かがどうしようもないほどに足りなくて。きゅう、と喉が縮まっていった。
厳しい日差しが西の向こうに沈んだお陰で焼けつくような暑さはないけれど、それでもやはり、世界が纏う気温はまだ高い。重たい湿度を孕んだ空気が頬を撫でていく感覚に目を細めて、私は夏の夜に呼吸を繰り返す。
「貴方は、まだ諦めないんですね」
プールサイドに立っているアズール先輩は、フロイド先輩のように人魚の姿に戻ってプールで泳いだりはしないのだろうか。きっとしないのだろうな。
残された時間はあとわずか。
ここで夏に溺れてしまった方が、もしかすると楽なのかもしれない。全てがあっという間に終わって、丸く収まって、そして大団円のハッピーエンド。そんな未来が、待っているのかもしれない。
けれど、それでも、私は。
「……呼ばれている気が、するんです」
遠のいた蝉時雨の喧騒に、未だ染みついたその音色。
りん、りりん。
ずっとずっと私の鼓膜のすぐ近くに鳴り続けている風鈴の音。
「だから、私はまだ、もう少しだけ“夏”に居座ろうと思います」
馬鹿ですね。馬鹿だね。彼らがくすくすと笑っている。
残された時間はあとわずか。
未来が、もうすぐそこに迫っていた。
***
「──ぃ、……おーい!」
目が、覚めた。
がくん、と身体が大きく揺れ動くような感覚と同時に意識が鮮明になって、伏せていた頭を勢いよく持ち上げた。それなりの時間ずっと枕になり続けていたのだろう、腕が痺れる感覚が意識の片隅に転がり落ちていく。
ぱち、ぱち、と瞬きを繰り返しているうちに、ようやく自らを取り巻く世界の有り様にも知覚が及んでいった。視界に映るのは、突然起き上がった私に驚いた様子の友人の姿と、もう見慣れたはずなのにどうしてか酷く懐かしさを覚える教室の内装、そして窓の向こうに広がる深い夜の闇。
「うわぁもー、勢い良すぎてびっくりしたんだけど」
「……あれ、私、……?」
「日直お疲れ様だけど、流石に寝すぎじゃない? もうそろそろ戸締りされちゃうよ〜?」
揶揄い半分の友人の言葉に慌てて視線を壁に掛けられた時計へと向ければ、その針が差示しているのは、もう部活動の時間もとうに終わった20時過ぎ。放課後、日直の仕事である日誌を書いていた最中に寝落ちてしまっていたらしい。
悲鳴混じりの声を上げて立ち上がった私に、友人がからからと笑う。
「部活の居残り練習終わって帰ろうとしたら教室の電気が点いてて、まさかと思って身に来たら本当にまだ残ってたとはね〜。しかも爆睡してるし」
慌てて帰り支度をする私を横目に、友人がてきぱきと教室内の戸締りをしてくれる。本当に感謝の念しか湧かないけれど、そんなに笑ってやらないで欲しい。ピ、と冷房の切られる音の直後、天井の機械から唸るような音が聞こえた。やがて静まり返っていく教室の中に気付いたことと言えば、案外冷房のモーター音が煩く響いていたのだなということ。
本当に取るに足りない、そんなこと。
なんだかとても長い夢を見ていた気がするのだけれど、寝起きの衝撃が大きすぎたせいか、その内容はひとかけらも頭の中に残っていない。友人の姿にどうしてか懐かしさを覚えてしまったのも、きっと夢が長すぎたせいだろう。
虚ろで朧げな記憶へほとんど無意識に指先を伸ばして、その輪郭をどうにか掴み取ろうとする。しかし、やはりそこに残るものなんてひとかけらも──ああ、いや。違う。そうだ。そこには夏の暑さと蝉時雨が。そして、確か、
「先生に目付けられる前にさっさと帰ろ! ほらほら駆け足駆け足!」
繋がりそうだった思考の糸が、友人の溌溂とした声にぷつりと呆気なく断ち切られてしまう。それでもなお追い縋ろうとする私もいたけれど、そんな存在もまた、あっという間に意識の外へと追いやられて消えていった。
日誌を職員室に提出して、暗い学校の中を歩いて、正門を潜る。もう日が沈んでしばらく経つと言うのに、世界はまだじとりと蒸し暑い。冷房の効いた教室がどれだけ寝心地のいい空間だったのかがよく分かる。
自転車通学の友人がもう遅いから家まで送ろうかと言ってくれたけれど、流石に部活終わりで疲れているだろう彼女にそれを頼むのは申し訳なくて、大丈夫だよと笑ってみせた。
確かに夜の一人歩きはあまりよろしくないけれど、私の家は学校から歩いてたったの5分という好立地の場所にある。だから今日も、少しの不安を抱えながら早足に夜道を歩けば、あっという間に家へと辿り着くことが出来た。
「ただいま」
玄関のドアを開けてその言葉を飛ばせば、すぐに明るいリビングの方から「おかえり」と声が返される。特別裕福でも秀でているわけでもないけれど、とても温かくて優しい私の家と家族だ。とても大切な存在だ。
幸せかと問われれば、きっと私はこの毎日を「幸せ」だと答えるのだろう。
家族と友人に恵まれて、授業は少し退屈だけれど学校に通って、適度に努力しながら最大限遊んで、そうして年を重ねていく人生。小説の主人公にはきっとひっくり返ってもなれはしない、ごくごく普通の一般人として生きる未来。
幸せだと思う。幸せだと思っている。
──けれど、どうしてだろう。
そこには“何か”がどうしようもなく欠けている気がした。
忘れてはいけない“何か”を忘れてしまっているような気がした。
その瞬間、脳内にけたたましいほどの蝉の声が鳴り響く。
ミンミン、ジャワジャワ。暑い夏を想起させる喧騒。
肩口から滑り落ちたスクールバッグが床に倒れる音が、鈍く廊下に反響する。何かに急き立てられるように、私は自室へと駆け出した。
廊下を抜けて階段を上る。私の家はこんな構造をしていたのか。ふと脳裏を過った不思議な感覚に首を傾げる暇もない。生まれてからこれまでの16年間をずっとこの家で生きてきたはずだというのに、どうしてかその光景が酷く懐かしいもののように感じられて。
それはまるで、何日も、何ヶ月も『私』はそこにいなかったかのような。
確かに存在している記憶を頼りに、私は自室の扉の前へ辿り着く。この先に広がる光景は、一体どんなものだっただろう。どくどくと早鐘を打つ鼓動が、鼓膜の間近に聞こえた。浅く乱れた呼吸を意識して窘め、私は意を決して扉に手をかける。
鍵のかけられていない扉は、いとも容易く開かれた。
ざあ、と風が吹く。
扉の向こう側に開け放たれた窓の向こうから。カーテンを揺らして、部屋の中にステップを踏んで、そして私の頬をくすぐっていく。
何かを忘れているような気がしていた。
私は何かを忘れていた。
──りん、りーん。
風鈴の音色が高く、高く鳴り響いた。
立ち止っていた爪先がゆっくりと前へ押し出されて、そして風鈴が鳴り続ける窓辺へと歩み寄る。薄いレースのカーテンが、突き抜けるような青い空の向こうから訪れる風にはらはらと舞い踊っている姿がやけに印象的で。
それ以上に、涼やかな音を奏で続けるその風鈴の姿が、私の心臓を容赦なく貫いて。どうしようもない感情に満ちた胸から、何かがじわりじわりと込み上げてくる。
窓辺に飾られたその風鈴へ、たどたどしく指先を伸ばした。
風鈴。夏の風物詩のひとつ。
蝉時雨の中に涼やかな音色を転がしてくれるそれを自らの手で作り上げることが、私の毎年の恒例行事となっていた。
ペットボトルで作ってみたり、ショップに売っているキットを利用してみたり、既製品のガラス細工で華やかにしてみたり。形や絵付けなどを様々に変えて見た目からも楽しむことができるそれが、私は幼い頃からずっとずっと好きだったのだ。
だから、今年も作った。
何とかそれらしい形のガラス細工をふたつ、、、見繕ってきて、作った。
──どこか不格好なキノコのイラストが並んだその姿。
もう少し可愛らしく描けたらよかったのだけれど、生憎キノコなんて今まで風鈴の絵付けのデザインに使ったことがなかったのだ。私なりに一生懸命描いたものだから、きっと“彼”も笑って許してくれるだろうと、そう思いながら完成させた今年の風鈴。
指先が外身のガラスに触れると、その振動で舌と呼ばれる部分とガラスとがぶつかり合って、またあの音が世界に響き渡る。ああ、今年もきれいな音色になってくれた。
──そうだ、私は、この風鈴を彼に渡さなければいけないのだ。
ぱきり。世界が割れて、ほころびて、そして砕け散る音。
私の部屋が、家が、学校が、私の生きてきた世界が、はらはらと崩れ落ちていく。
そうして私の視界に残されたのは、遠く、遠く、突き抜けるように澄み渡った青い空。
夏が私を待っていた。
手の中にキノコ柄の風鈴を抱きしめて、私は駆け出した。青い空の中を、ただただ一心に、真っ直ぐに。この腕の中から取りこぼしてきた全て全てを必死にかき集めて、繋ぎ合わせて、なぞって、思い出して、──蝉時雨と風鈴の音が鳴り響く、夏の中を。
魔法薬学が苦手だと嘆く私の勉強を、厳しくも優しく見守ってくれた。対価は今度の山登りに付き合って頂ければそれで充分です、なんて笑いながら。
靴はちゃんと手入れした方がいいと、靴の磨き方を教えてくれた。ずっと陸に生きてきた人間である私が、海に生きてきた人魚である彼に靴の管理の仕方を教わるなんて、何ともおかしな話だと思う。
他愛のない話を何度も何度も繰り返した。カクテルパーティー効果だとか、山の日だとか、そんなどうでもいい内容を、それでも彼は楽しげに聞いてくれていた。深い海を溶かし込んだような優しい声がくすくすと笑う響きが、私は世界でいっとう大好きで。
私を馬鹿にする人たちの言動に傷ついたり、元の世界が恋しくなったりした時に302教室でひとりこっそり泣いていた私を見つけて、そして傍に寄り添ってくれた。悲しい時は泣くものですよと優しく笑った彼の笑顔が、まるで古いフィルム写真を現像液に浸して現像していく時のように、じわりじわりと脳裏に蘇っていく。彼に弱音を吐く度に、私を馬鹿にする人の数が減っていっていたことについては敢えて何も知らないふりをした。
彼がキノコの実験を行っていた魔法薬学室の一角や植物園を案内してくれた。彼の話を聴いているうちに魔法薬学に対する考え方が変わって、気付けば魔法薬学に楽しさを見出し始めていた。魔力がないうえに魔法薬学が苦手な貴方でも、この調合ならきっと成功させられます。そう言って、沢山の実験を一緒に行ってくれた。魔法薬学室の一角に染みついたキノコの香りにさえ、気付けば愛着がわいてしまっていて。どうしようもないなと苦笑をこぼしたあの日が懐かしい。
不注意で足を滑らせて階段から落ちた私を助けてくれた。幸いにも彼は肩を少し打撲した程度に終わったけれど、申し訳なさからしばらくは彼の傍に付きまとってしまった。もちろん、特に何の役にも立てずに終わった。それでも彼は、貴方の脆い身体が壊れてしまわなくてよかったと、酷く優しく笑ってくれた。
寒さの厳しい北の海に生まれたから、陸の夏の暑さは苦手なのだと笑っていた。寮や学園内には空調が効いているからいいけれど、鏡舎から校舎までの道のりや屋外での授業の時間が本当に億劫なのだとぼやく姿に、先輩にも苦手なものがあるんですねと笑った。当たり前ですよと苦笑混じりに返されてしまった。
毎年この時期になったら風鈴を作るのだと言った私の言葉に、興味を傾けてくれた。どうやら風鈴を作ることに好奇心が惹かれたようで、是非自分も作ってみたいと名乗りを上げた彼。折角だからと、それぞれにひとつずつ作って、出来上がったものをお互いに贈り合うことに決めた。彼が一体どんな風鈴を私に作ってくれるのか、とても楽しみだった。
ぱちん、ぱちんと、空に放たれたシャボン玉が連続的に弾けるように、次々と脳内に彼との思い出が蘇っていく。
浅瀬色の短髪とそこに一筋流れる深海色が印象的な、うつくしいひと。
片割れであるフロイド先輩のそれと鏡写しに嵌め込まれた2色の宝石は、いつも静かな温度を孕んで凪いでいる。それに呼応するように、形の良い唇にも常にたおやかな微笑みが浮かべられていて、そこから紡がれる言葉は酷く丁寧なもの。物腰も言動も穏やかで、一見すればとても優しいひとのようにも思える。
けれどまあ、曲者ぞろいのあの学園にいるだけあって、やはり彼も、ただ見た目通りのひとではない。
困りましたね、なんて言いながら、全然困った様子を見せずに笑う姿。穏やかな笑みから一変したあくどい表情に愉快を滲ませ、その唇の向こうに鋭く尖った歯列を覗かせる姿。
にこにこと笑いながらいとも容易く辛辣な言葉を吐いたり、ユニーク魔法やその巧言令色を使って契約違反者の精神をどん底まで追い詰めたり、自分の愉悦を求めて物騒なことをしてみたり、周囲を巻き込んで予想外を楽しんでみたりと、それはもう、本当に本当の意味で『やばいひと』だ。もしかすると、あの学園の中でもかなりの上位に食い込むやばさ加減かもしれない。片割れであるフロイド先輩が言っていた、「ガチギレしたときのジェイドの方がオレよりぜってー数千倍やべーから」という言葉も、きっとあながち嘘でも誇張表現でもないのだろう。そんなことを、感覚的に私も理解した。
しかし、かと思えば、陸の植物、特にキノコに目がなくて、山上りが好きで、『山を愛する会』なんていう、名前だけを聞けば新興宗教かと勘違いしてしまいそうなぐらい不思議で謎の多い部活動に所属していている彼。キノコを前にした時のその瞳の輝きように、彼も本当に17歳の少年なのだなと感慨深くなったことは、もう片手では数えきれないほどに経験している。
テラリウムが趣味で、紅茶を淹れることが特技で、確か星を見ることも面白いと言っていただろうか。自分の育てたキノコを美味しいと褒められるととても喜んで、靴が好きで、箱までちゃんと保管していて、服にはまだ慣れないという割にはしっかりと服を着込んでいて。飛行術が苦手で、焦った時や驚いた時にはちゃんとその感情を分かりやすく覗かせて、他人からの評価は気にしないと笑いながらも、アズール先輩を引き合いに出しては「自分はまだマシです」なんて言ってみたりする、ちょっと意地っ張りで頑固なところがあって。わざとらしいウソ泣きが得意で。嘘を吐くのが上手なのに、時々丸分かりな嘘を吐くところがあって。けれど、それを見抜かれても特に気にした様子もなく笑っている姿が印象的で。自己中心的な考え方をするくせに、他人の感情や欲求には酷く敏感で、人の心を掴むのが本当に上手で。屈託なく笑う表情が、本当に愛らしくて。
全部を挙げようと思えばキリがないぐらいに、彼というひとはこんなにも愛おしい。
少しつりあがった切れ長な瞳が、私を見つめてゆるりと綻ぶ瞬間が好きだ。
浅瀬と深海を閉じ込めた艶やかな髪が、風に柔く揺れる様が好きだ。
私のことを「馬鹿ですね、貴方は」と笑う、温かくて慈しみに満ちた声が好きだ。
彼が笑い声に合わせて、左耳にピアスがからからと揺れる姿が好きだ。
私の手のひらをすっぽりと覆い隠してくれる大きな手のひらが好きだ。
壊れかけのガラス細工を扱うみたいに、恐る恐る私を抱きしめてくれる腕が好きだ。
人間のそれよりは幾らか低いけれど、それでも確かに温かい体温が好きだ。
土やキノコや薬品の臭いを纏った彼の香りが好きだ。
厳しい海の世界を生き抜いてきたあの4mの姿があまりにも尊くて、好きだ。
人ごみの中にも私の姿を見つけて、手を振って、声をかけてくれるところが好きだ。
190センチの高い背丈を屈めて、少しでも私に視線を合わせようとしてくれるところが好きだ。
自分は遠慮なく私をじっと見つめてくるくせに、私が彼を見つめ返せば「観察されるのは苦手なので」なんて言って私の視界を塞ごうとしてくるところが好きだ。
意地悪で性悪だけれど、私が本気で泣きそうになると普段の冷静さも忘れて必死に機嫌を取ってくれるところが好きだ。
なんだかんだと理由をつけて、私の傍にいようとしてくれるところが好きだ。
私のことを想って、私の未来を案じて、自らの想いを断ち切ってでもこうして私を突き離そうとしてくれるその不器用な優しさが、好きだ。
──ああほら、やっぱり忘れられなかった。
やっぱり私は、貴方がどうしようもなく好きで、好きで、大好きなのだ。
この“夏”を経てもなお、私は。
生きる世界の違いも、生まれてきた種族の違いも、全てを忘れてしまうぐらいに。
これまでの16年間を捨ててしまえるぐらいに。世界を殺してしまえるぐらいに。
貴方と生きる未来、ただそれだけを選び取ってしまえるぐらいに。
青い空に一筋の閃光が走った。
真白のそれは、まるで世界を切り裂く霹靂のようで。
はらはらと“夏”がほころびていく。風鈴の音が、私を呼び続けている。
「……先輩、」
──ようやく、思い出すことができた。
「っ、ジェイド先輩……!!」
私は、貴方のことを愛しています。
そうして、私の“夏”は終わりを告げた。
***
「──賭けを、しましょうか」
2020/8/14
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