君さえ


後編


 目が、覚めた。
 つい一瞬前まで深い眠りの中にあったはずの意識は、それでもなお、どうしてかやけに鮮明で。眠気のかけらも残ってはいない視線をゆるりと周囲へ巡らせた。
 緩慢に瞬きを繰り返す視界に映り込むのは、見覚えがあるような、ないような、そんな灰色の煉瓦に覆われた天井の姿。鼻孔をくすぐったのは、微かな消毒液と薬品の香り。どうやら、私は学園の保健室のベッドに寝かされているらしい。私の身動ぎに合わせて、清潔な真白のシーツが衣擦れの音を奏でた。空調の効いた部屋は丁度良く涼しくて、汗が滲むこともそれに煩わしさを覚えることも無い。
 首だけを動かして、ベッドサイドへと視線を向ける。
 白いパーテーションを背景に、黒を纏ったそのひとが私のことを静かに見下ろしていた。

「──おや、目が覚めましたか。おはようございます」
「……学園、長」

 彼はナイトレイブンカレッジの学園長、ディア・クロウリー。この世界における、私の保護者のような存在。そしてつい先日、私を元の世界に帰すための方法を見つけ出してくれたひとだ。

「気分はどうですか? 何か違和感などはありませんか?」

 何しろ貴方、きっかり丸3日眠っていましたからねぇ。
 学園長の言葉に答えることもせず、私はゆっくりとベッドの上に上体を起き上がらせた。少し頭がくらくらとするけれど、身体は今すぐにでも走り出すことが出来そうなぐらいに元気だ。
 真っ白なシーツに手を置いて、そこにくしゃりと皺を寄せる。そして、おもむろに視線を枕元へと向けた。
 正確に言えば、枕元の上。保健室の壁一面に広がった大きな窓の、そのカーテンレール。青く澄んだ空と、白い入道雲と、レースのカーテンが揺れる世界の中に在るそのたったひとつ。

 閉め切られた部屋の中に風は吹いていない。それでもなお、それがゆらゆらとたおやかに揺れているのは、きっと魔法か何かのおかげだろう。音の出るものを保健室に持ち込むなんて、怒られはしなかったのだろうか。そんなことを取り留めもなく考えながら、私は唇に笑みをこぼした。それと同時にじわりと視界が滲んで、思わず堪えるように目元を手のひらで覆い隠す。

 その間も、ずっと、ずっと、その音は静かな保健室の中に響き続けていた。

 りん、りんと涼しげな音。ずっと、あの夢の中で私を呼び続けていた音。
 私を導き続けてくれていた音。
 見覚えの無いそのデザインは、きっと。

「……学園長」
「はい、どうされました?」

 顔を持ち上げて、視線を学園長に向ける。真っ直ぐに。ただただ真っ直ぐに。
 そうすれば、その世界の中で学園長はにこりと穏やかに微笑んでみせた。嬉しさと切なさと、酷く温かい慈愛をそこに滲ませながら。
 風鈴の音が響く。窓の向こうに広がる


「ジェイド・リーチ先輩は、今、どこにいますか?」


  ***


「──賭け、ですか?」
「ええ。賭けです」

 このひとはまた一体何を言い出すのか。予想外で突飛なその提案に、私は首を傾げながらもひとまずその先を促した。
 机を挟んで私の向かい側に座っている彼は、そんな私の様子に小さく微笑みを浮かべて、そして続く言葉を紡ぎ始める。下げられた眉は、いつもとは違って本当に切なさを孕んでいるように見えて。聞きたくないと、我儘な私が心の片隅に泣き叫んでいた。
 それを必死に押し殺して、私はただ彼を見つめる。そうしていれば、彼はおもむろにその胸ポケットから小さな瓶を取り出し机の上に置いた。ソーダ味のアイスのような、爽やかな薄青色の液体がその中にゆらりと揺れている。もちろん、私にはその中身が何かなんて分からない。

「……これは、『夢を見る魔法薬』です」

 彼曰く、何かひとつの事柄について強く思い考えながらその魔法薬を飲めば、その人は『その何かを忘れる夢』を見ることが出来るのだという。その夢の中に『その何か』は存在せず、夢の中に在るその人の記憶の中からも『その何か』は消えてしまう。
 魔法薬の効果時間は、現実の時間で3日間。夢の中で何が巻き起こされていようとも、現実で3日が過ぎれば、その時点で夢は強制的に終了させられる。
 その間に夢の中で『その何か』を思い出すことが出来れば、目覚めた後のその人は、眠る前と何も変わらぬまま元の生活へと戻ることが出来る。『その何か』についての記憶を持ったまま、全てを覚えたまま。
 ──しかし、もしも思い出せなければ。『その何か』を忘れたままで夢から覚めてしまえば。

 その時は、現実でも『その何か』のことを全て忘れてしまうことになる。
 夢の中に、『その何か』に関する記憶の全てを溺れさせてしまうことになる。

 言ってしまえばそれは、『想いの強さ』を量るための魔法薬ということだ。

「……つまり私に、ジェイド先輩のいない世界の夢を見ろと言いたいんですか?」
「……はい、そうです。この魔法薬を飲んで、僕のことを忘れて、僕への感情を全て忘れて、僕のいない世界の夢を見て、そして今一度考え直して欲しいのです。貴方が選ぶべき未来について」

 その言葉を聞いた瞬間、心臓のあたりが燃えるような、そんな激情に駆られた。じくりと痛みにも似た感覚が血流にまで及んで、身体全体が震えあがる。

「っ、ジェイド先輩、私は……!」

 勢いのままに声を荒げた私だったけれど、その言葉を言い切ることも許されなかった。風船が弾けるように感情と言葉が崩れて、どうすればいいのかも分からなくなってしまう。声にならない声が、喉元で燻るようにとぐろを巻いた。

 なぜなら彼が。
 視線の先で、彼が、酷く悲しげに微笑んでいたから。

「貴方が僕との未来を選ぼうとしてくださっていることは、僕も本当に、心から嬉しく思っています。それ以上の幸せなんて無いと、柄にもなく大声で言い張れるほどに」

 7月を迎えて十数日が経つ世界は、もう既に真夏の様相を呈していた。
 しばらく前に学年末試験の最終日を終えた学園は、あとたった数日でサマーホリデーに突入する。私の1年生と彼の2年生が終わって、長い長い休暇が始まる。
 窓の外から、ミンミンと煩いぐらいに蝉の鳴き声が聞こえていた。

 ──それは、私を元の世界へと戻す方法を学園長が見つけ出してくれた日の、翌日のことだった。

「……けれど、貴方が世界ごと貴方のご家族やご友人、そして思い出までもを手放そうとしている事実を、僕はただ黙って許容できません。何故なら貴方はまだ16歳。陸の人間では、まだ家族からの庇護を必要とする年齢です。僕も貴方とひとつしか年齢は変わりませんが、それでも僕は、親からの庇護を受けられない海の中を生きてきました」

 彼の言葉に、私は反論をすることも出来ないまま口を噤む。
 だって、彼の言う通りだったから。
 少しは世界を俯瞰して見られるようになったとはいえ、私はまだ16歳の子ども。精神的な自立心は芽生えていても、実質的な自立なんてものにはまだまだ遠い存在。

「貴方には未来があります。貴方の生きてきた元の世界に、沢山の未来が待っているはずです。そしてその中にはきっと、『この世界を選んだ先にある未来』よりもずっと、貴方にとって幸福で満ち足りた未来も存在している」

 貴方がいない世界に意味なんてない。貴方が傍に居てくれるなら、そこが地獄だろうとなんだろうと構わない。ただただそう喚き散らして、自己中心的で利己的な子どものように彼に縋り付くことが出来ていれば、何かが変わってくれたのだろうか。
 けれど、私はもう、そんなことが出来るほど子どもでもなかった。
 大人にもまだ遠く、けれど子どもにもなりきれない。ああ、私はなんて中途半端な人間なのだろうか。もう薄れ始めた家族の姿が脳裏に過って、私がいなくなった世界に嘆く彼らの姿を思い描いて、そのあまりの苦しさに呼吸もままならなくなってしまった。

「僕の感情の全てを無視して理性による事実だけを述べれば、……貴方は元の世界に帰るべきだと、僕はそう思います。貴方とは生きる世界どころか生まれてきた種族までもが違う僕のような男の隣ではなく、貴方は貴方の在るべき場所に」

 僕たちがお互いへの想いだけで結ばれるには、僕たちの間に存在する溝が、あまりにも大き過ぎたのです。静かな彼の声が、ふたりきりの部屋に降り注ぐ。

 先輩、そんな殊勝なことを言うタイプでしたっけ?
 そんな軽口を叩くことも、もちろんできはしない。

 種族と世界。たったそれだけ。
 たったふたつの、あまりにも大きなすれ違い。
 それが今、どうしようもないほどに私たちふたりの目の前に横たわっていた。

 ……私は、彼が好きだ。
 世界を越えた先で出会ったジェイド・リーチというひとに、恋をした。心の全てを捧げてもいいと思える程に、彼を深く愛した。彼と生きる未来以上の幸せなんてないと、思っていた。

 けれど世界は、その感情だけで全てを捨て去ろうとすることを、そう簡単には許してくれない。

 どちらかを選ぶためには、どちらかを切り捨てなければいけない。それは考えるまでもなくあたり前のこと。だって私は、決して交わることのないふたつの世界のどちらかにしか存在できないのだから。
 この世界にこぼれ落ちて、もう10ヶ月あまり。まだ、10ヶ月余り。
 その中に芽生えた『恋情』と、それまでの16年間をかけて培われた『私の全て』。どちらの天秤が重くあるべきなのかも、本当は私だって理解していた。けれど、でも、それを許容したくは無かった。

「……けれどやはり、本音を言ってしまえば、僕も貴方とさようならなんてしたくはない」

 だって私は、本当に彼のことが好きなのだ。
 たった10ヶ月でと世間は笑うだろう。恋に恋をした子どもの戯言だと馬鹿にするだろう。愚か者だと私を非難するだろう。
 紡がれた時間が短いからいけないのだろうか。それとも、私がまだ子どもだからいけないのだろうか。世界に対する悪態ばかりがこぼれ落ちるけれど、私の主張だけでその在り方を変えてくれるほど世界は優しくない。


「──だから、僕と賭けをしましょう」


 この魔法薬を飲んで、私は夢を見る。
 彼のいない世界で、彼を忘れて生きる夢を。

 もしも私が夢の中で彼を思い出すことが出来れば、私の勝ち。
 私はこの世界に残って、元の世界を捨てて、そして彼の隣で生きていく。

 もしも私が夢の中で彼を思い出すことが出来なければ、彼の勝ち。
 私はそのまま彼を忘れて、この世界を捨てて、そして彼のいない元の世界で生きていく。

 世界と世界が繋がるのは、学年が終わる終業式の日の夜22時。そのたった一度を逃せばもう、私は二度と元の世界へは帰れない。そして一度戻れば、再びこちらへ足を踏み入れることも叶わない。そう言った学園長の静かな声が、ふと脳裏に蘇った。

「……もしも、私が思い出せなかった時。貴方を忘れて私が元の世界へと戻ってしまった時、」

 視界が滲んだ。ふたつの世界の中で一番に愛おしい彼の色彩が、彼の輪郭が、じわりと歪んでしまう。それでも、彼が酷く優しい表情で微笑んでいることだけは確かに分かった。

「──先輩は、どうするんですか?」

 私の言葉を聞いてわずかに揺れた彼の瞳が酷く悲しくて、切なくて、耐えきれず涙がひと粒こぼれ落ちていった。
 蝉時雨の中に風鈴の音はない。彼のために作った不格好なキノコ柄の風鈴は、今もまだ、私の部屋で曖昧に佇んでいるばかり。

 この夏の暑さに世界の全部が溶け落ちて、そしてたったひとつになってしまえばいいのに。そんな愚かな考えを、彼に「相変わらず馬鹿ですね、貴方は」と、ただ優しく笑い飛ばして欲しかった。

 ただ、それだけだった。


  ***


 廊下を走った。行く宛も分らぬまま、ただ一心に。
 今日は終業式の日。丁度今頃式が行われているのか、それとも既に終わって、皆帰省してしまったのか、それは分からないけれど、どうしてか学校内には誰の姿も見当たらなかった。
 おかげで先生に見咎められることもなく、誰かにぶつかってしまうこともなく、私は走り続けることが出来た。ローファーが床を叩く不規則なリズムが、静まり返った廊下の中に響き渡る。
 3日間も寝ていたと言うのに、身体は酷く軽かった。けれどもやはり元々の体力のなさが祟って、息はとっくのとうに情けなく荒れてしまっている。それでも立ち止まることはない。

 ──それは、私よりも貴方の方がよくご存知だと思いますよ?

 私の問いかけに対する学園長の返答に、そうなのだろうかと私は首を傾げた。
 だって私は今、どこに行けばいいのかも本当に分かっていないのだから。
 縦横無尽に、ひたすらに、私は走る。
 廊下の窓の向こうに青い空が広がっていて、やけに鮮明な入道雲の輪郭に呼吸が止まってしまいそうになった。彼は今、一体どこにいるのだろう。分からないけれど、身体が勝手に前へ前へと突き進んでいく。

 ──そうして辿り着いたのは、校舎の3階の片隅。302教室の前だった。

 はあ、はあ、と荒れた呼吸を宥めて、落ち着かせて、私は目の前の扉を見据える。どくどくと煩い心臓の音が鼓膜の近くに響いて、今にも鼓膜を突き破って出てきてしまいそうだった。
 扉に手をかける。やっぱり鍵はかけられていなかった。
 抵抗もなく開いていく扉に、息を呑む。
 からからと乾いた音が世界に転がり落ちた。

 風が吹く。開け放された窓の向こうから、ふわりと世界に満ちては消えていく。
 空調の切られた部屋はやっぱり暑くて、じとりとした空気に喉が詰まった。


「ジェイド先輩」


 けれどそれも全てを飲み込んで、私は彼の名前を呼ぶのだ。
 青い空を背景にして窓辺に佇む、私の最愛の名前を。


「──……僕の負け、ですね」


 こちらに背を向けていた彼がゆっくりと振り返る。吹き込んできた風に深海のひと房が揺れ踊って、からからとピアスが音を奏でた。
 私の姿を映し取った双眸が、困り果てたようにゆるりと細められる。

「……ずっと、聞こえていたんです」
「聞こえていた?」
「風鈴の音が」

 ぱちり。突き抜けるような青の中に、ふたつの色彩が瞬いた。それは予想外だとでも言いたげに。
 その反応に私はくすりと笑って、そして言葉を繋ぐ。

「ジェイド先輩が私のために作ってくれた風鈴が、ずっと、私のことを呼んでくれていたんです」

 だから、思い出すことができました。
 植物園で私が特に気に入っていた花をそこに描いた、シンプルながらも可愛らしい風鈴の姿が瞼の裏に蘇る。りんりんと、涼しげな音を健気に生み出し続けていたあの風鈴の姿が。
 数度の瞬きを繰り返した彼は、私の言葉が途切れてから数秒を置いて、じわじわと何かが込み上げてきたかのように笑い始めた。くすくすと抑え気味だった笑い声は、やがて耐えきれないとでも言いたげに盛大なものへと進化していく。
 ついに床にしゃがみこんでしまった彼に、私は一体何がそんなにもツボに入ってしまったのだろうと困惑してしまう。彼が楽しいのなら構わないのだけれど。

「そう、ですか。風鈴の音が……」

 ひいひいと苦しげな呼吸の中に、彼の言葉が紡がれる。そこに詰め込まれているのは、何とも複雑な感情の破片たち。はあ、とため息混じりの吐息をこぼして、彼は床にしゃがみこんだまま自らの腕に顔を埋めてしまった。
 私はそっとそんな彼の傍に歩み寄り、少しの隙間を開けて、正面から向かい合うように同じくしゃがみこむ。
 普段は滅多に見られない彼の旋毛が目の前に存在していることが何だか面白くて、嬉しくて、口元がだらしなく歪んでしまった。

「……貴方が眠ってしまった後、ふと貴方に渡せていなかったなと思い出して、先生に無理を言って枕元に飾らせて頂いたんです。約束を果たせはしませんが、それでも、元の世界へと帰っていく貴方へのほんの少しの餞になればいいと、そう思って。……それがまさか、逆に貴方へのヒントになってしまうだなんて。皮肉なことですね」

 私の方を見ないまま、ぽつりぽつりと彼は言葉をこぼしていく。少しくぐもった声が、それでもちゃんと私へ運んでくれるその全てを、ひとつずつ丁寧にかき集めて、大切に大切に抱きしめた。

「ジェイド先輩、私が先輩のことを思い出さないって最初から決めつけていたんですね」

 その声が少し不貞腐れたものになってしまったのも仕方のないことだろう。
 彼の頭がわずかに身じろいで、バツの悪そうな声が返される。

「……だって、信じられないでしょう。そんなにも僕に都合のいいことが起きるだなんて。僕はこれでも臆病な質なので」
「んん、ううーん……まあいいです、続けてください」
「その反応は少し傷つきますね……シクシク……」

 彼を臆病と呼んでしまえば、私はきっと箸が転がるだけで心臓を止めることになるだろう。分かりやすく棒読みなその言葉を適当にあしらって、私は彼に続きを促した。貴方、随分僕に対する扱いが雑になりましたよね、なんて。だって、そうでもしないと貴方、全部を上手くはぐらかして、私に見つからないようにと隠してしまうじゃないですか。
 嘘が上手い彼に隠されてしまえば、きっともう私はその全部を知ることなんて出来なくなる。それは、なんだか嫌だと思った。こんな時ぐらいちゃんと彼の言葉の全部を、想いの全てを知り尽くしたいと思った。

「……思い出して欲しくはなかったんです。本当に。貴方の幸せは僕の隣ではなく、元の世界にあると信じていましたから」

 僕のことなんて忘れて、振り返ることもなく帰って欲しかった。
 僕はそれを、貴方に気付かれることのない場所で静かに見送るつもりだった。
 開け放たれた窓の向こうから、夏の暑さと蝉時雨が降り注ぐ。


「──けれど、そこに『思い出して欲しいと願う僕』がひとかけらもいなかったと言えば、……それは、全くの嘘になってしまう」


 私の胸をじわりじわりと満たしていくその感情に名前を付けるのならば、きっとそれは『歓喜』と『愛おしさ』なのだろう。だって、こんなの嬉しくないわけがないだろう。
 彼もまた、私と生きる未来を確かに願ってくれていたのだから。

「本当に、情けないですね。年上面をして貴方に色々と説いておきながら、結局は僕も自分の感情を捨てきれなかった。貴方の幸せだけをただ一心に願うことができなかった。……僕も、まだまだ子どもでしかなかったようだ」

 ……でも、それも仕方ないと思いませんか?
 ゆっくりと、彼の顔が持ち上げられる。伏せられ隠されていた彼の瞳が、私の世界に彩りを加える。ほとんど同じ高さに交わった視線に、思わず息を呑んだ。どうしようもなさげに下げられた眉が、苦しげに揺れている瞳が、それでもただただ真っ直ぐに、私へ彼の感情を訴えかけてくる。


「だって僕は、こんなにも貴方のことを愛してやまないのですから」


 伸ばされた彼の指先があんまりにも優しい温度で私の頬を撫でていくものだから、瞳を覆い尽くした涙の膜に視界がじわりと滲んでしまった。彼の輪郭がぼやけて、世界の色が溶けていく。
 雫がこぼれ落ちるまで、そう時間はかからなかった。

「……今回の先輩の敗因はひとつです」
「おや。と言いますと?」

 ほろほろと止めどなくあふれる涙が、頬を伝って彼の指先を濡らしていく。
 私を覗き込んだ彼の瞳が、酷くいとおしげに弧を描く。

 蝉の鳴き声が、青い空に響き渡る。
 世界を満たす夏は、まだ始まったばかり。


「──ジェイド先輩への私の愛を甘く見たことですよ」


 きっと貴方のそれよりも、私の愛は大きくて重たかった。
 それを貴方は厭うだろうか。なんてそんなかすかな心配も、貴方の腕に抱きしめられたことで呆気なく吹き飛ばされてしまうのだ。

「……夢の中に、グリムたちだけじゃなくて、フロイド先輩とアズール先輩もいたんです」
「……そう、ですか」
「みんなが私の背中を押してくれました。今思えば、先輩たちは私にヒントをくれていたんだと思います。……まあ、それも全部、私が生み出した“夢”の中の話なので、」

 きっと私、最初からずっと、思い出したくて仕方がなかったんです。
 きっと最初から、私が貴方を思い出すことは決まっていたんです。

「だって、私、ジェイド先輩のことがこんなにも大好きですから」

 あの愛しい世界の夢を見てもなお、ただ貴方を望んでしまうぐらいに。

 拝啓お父さん、お母さん、そしてみんな。
 貴方たちと生きる未来を手放す不幸をお許しください。
 私はもう、彼のいない世界でなど生きてはいけない。
 彼へのこの想いを捨ててなど、生きてはいけない。

 これを恋と呼ばずして、愛と名付けずして、世界は一体何とするのだろう。

「……貴方の未来を、僕の全てを懸けて、必ずや幸せなものにしてみせると誓います。絶対に、たとえこの先に何があろうとも、何が待ち構えていようとも」

 ああ、でも、僕の傍から逃げたいという願いには、頷いて差し上げられないと思います。冗談混じりを装ってそんなことを言ってのける彼に、私は彼の背を抱きしめる腕にありったけの力を加えた。もちろん、そんなものが彼への戒めになるわけがないのだけれど。

 これは他でもない私が選び取った未来。
 だから、彼が責任を感じる必要なんてありはしない。
 それでも、その言葉が嬉しくて、嬉しくて。
 縋り付くように彼の胸へ額をすり寄せた。


「僕を愛してくれた人。僕の愛した貴方。──僕と共に、未来を生きて頂けますか?」


 答えなんて、たったひとつしか有りはしない。世界を捨てて彼の愛だけを抱きしめて生きる覚悟など、とっくのとうに出来ていた。
 ぼろぼろと涙をこぼしながら何度も何度も頷けば、私を抱きしめていた彼の腕が解かれて、滲んだ視界が彼の色彩に埋め尽くされる。唇に触れた柔らかな温度があんまりにも熱くて、優しくて、今にも全てが溶け落ちてしまいそうだと思った。

 たとえこの先にどんな未来が待ち受けていようとも、その始まりにこの夏があるならば、私は全て全てを『幸せ』だと名付けよう。

 世界は今日も、ハッピーエンドに満ちている。
 それは、私と彼の過ごした、初めての夏のお話。



2020/8/14

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