君さえ


先生、あのね、(juju/五条/死ネタ)


※捏造ご都合主義/ネームレス生徒夢主
※死ネタ悲恋


 私の名前を呼ぶ声に、意識が急速に呼び覚まされた。聞き覚えのあるその音を辿って視線を彷徨わせれば、まだぼやけた視界の中にその人の姿が映り込む。地面に座り込んで膝を抱えていた私を覗き込むように屈んだその人は、私と視線が合うや否や、その唇でゆるりと弧を描いて私に言葉を落としてくる。

「や。久しぶりだね」

 軽快な口調と僅かな木漏れ日にもきらきらと輝く白銀の髪、顔の半分を隠す特徴的な目隠し。私の知る“その人”を構成する全てがそこにはあった。ひらりと揺れた彼の手のひらを視界の隅に見つめながら、私はぽつりと呟くように彼の名を呼ぶ。

「……ごじょう、せんせ、」

 がさがさに掠れた声は喉に張り付いてまともな音にはならなかったけれど、それでも彼はちゃんとそれを拾い上げて応えてくれる。

「うん、皆大好き五条悟先生だよ」

 だって彼は私の、私たちの、先生だから。

「なんで、ここに……?」
「君を迎えに来たんだ。……何があったか、覚えてる?」

 彼の声に、私はまだ覚束ない思考を過去の記憶へと巡らせる。真っ先に指先に触れたのは、彼が声をかけてくれる直前までの暗さと冷たさの記憶。ここで、深く暗い森の奥で、膝を抱えて座り込んだまま、ただぼんやりと息をしていた時の記憶だった。
 自分がいつからここにいるのかも、それまで何をしていたのかも分からず。何かを忘れてしまった喪失感と、何かをしなければいけないという焦燥感だけをがらんどうな心の中に燻らせながら、私はずっとここにいた。
 けれど、今。彼に名前を呼んでもらって、問いかけられて、私はようやく思い出した。

「……じゅ、れい。この森で確認された四級呪霊を、祓いに、来て、」

 ぱちん、ぱちんとコマ送りの映像が脳内に浮かび上がっては記憶を呼び覚ます。学校を通して依頼を受けたとある四級呪霊の討伐任務。森や山にありがちな精霊信仰の名残により生まれたその呪霊は、まだ自我もほとんど持たない小さなもので、二級呪術師として認められた私なら単独でも簡単に処理できるだろうと指名されたのだ。単独での仕事は初めてではないし、それなりに場数も踏んできた私は、それでも油断はせずに任務に望んだ。──けれど。

「そう、だ、報告に無かった呪霊がいて。それも、一級並みに大きな呪いが、この森に」

 その四級呪霊を祓った直後、森の中に鳴り響いた笑い声。頭を叩きつける耳障りなそれに平衡感覚も奪われた私は、たたらを踏んで。何とか意識を保つことは出来たけれど、死角から攻撃を受けてしまって。……ああ、そうだ。そして、気付いたら、ここに。

「祓わないと。あの呪いは危険です。野放しにしていたら沢山殺される」
「うん、そうだね」

 彼の言葉に背中を押されて、私は立ち上がる。地面が私をその場所に引き留めようとしているかのように身体は重かったけれど、それも何とか振り切って、私は彼と真っ直ぐに向かい合った。

「……ごめんなさい、先生。私一人じゃあいつを祓うことは出来ません。だから、……力を、貸してください」

 背の高い彼を見上げて、私は悔しさと不甲斐なさに唇を噛みながらも言葉を紡ぐ。無表情にそんな私を見下ろしていた彼は、数秒の沈黙の後、ふ、と口元を綻ばせた。

「もちろん。それが、僕がここに来た二つ目の理由だからね」


  ***


 獣道ですらない道なき道を、彼とふたり並んで森の奥へと歩く。日の光も届かない地面はどろどろとぬかるみ、足を取られないようにと注意を払うことにまで神経を削らされてしまう。

「大丈夫?」

 歩くことと周囲への警戒で必死になる私とは対照的に、彼はいつもの飄々とした様子を崩すことなくひょいひょいと軽い足取りで先へと進んでいく。この人が何でも出来てしまうチート人間であることは前からよく知ってはいるが、それをこうも目の当たりにさせられてしまうと、不甲斐なさと同時に苛立ちまで感じてしまう。このやろう、と分不相応な対抗心をこっそりと燃やして、私は「大丈夫です!」と叫ぶように答えた。

 森の奥へと進むにつれて。闇が深まるにつれて。次第に冷たさは増し、空気が重くなっていく。ああ、あいつが近くにいるのだと、私は固く手のひらを握りしめた。恐怖と緊張を感じていることなど、彼に悟られたくはない。だから、彼に気づかれないようにと平静を装った、はず、なのに。
 私の数歩先でぴたりと足を止めてこちらを振り返った彼がその整った顔に浮かべていたのは、私に対する心配の色。やっぱり彼に隠しことなどできやしないのだなと、私は心の中で苦く笑った。

「……本当に、大丈夫?」

 少し前のそれと同じ言葉であるはずなのに、纏う声の音は、それとは全く違っていた。

「大丈夫です。……私は、呪いを祓って、呪いに苦しめられる人を少しでも減らすために高専に来て、ここにいるんですから」

 呪いのせいで泣く人なんて、いない方がいいに決まっている。私みたいに、呪いに全てを奪われてしまう人なんて、いてはいけない。呪術高専の門を叩いたあの日にもう、『この未来』だって覚悟していた。

「……ああ、でも」

 ふ、と視線を落として考える。頭に浮かんだこの言葉を口にしていいものかと。この我儘を彼に打ち明けていいものかと。躊躇する私を、彼は静かに待っていてくれる。きっと彼は私のこんな小さな願いさえ、馬鹿にすることなく受け止めて叶えてくれるのだろう。
 きゅ、と一度握りしめた右手を、おもむろに彼の方へと差し出す。

「……手を、繋いでもらってもいいですか」

 真っ直ぐに彼の目元を見つめながら、なけなしの勇気を振り絞って。
 紡いだ願いは、すぐさま彼が叶えてくれる。

「もちろん」

 私の右手を包み込んだのは、優しい彼の左手。柔く握り込まれた手のひらに思わず泣いてしまいそうになったのを何とか堪えた。

「……行こうか」

 優しい彼の声と手のひらに誘われて、私は歩く。
 あの呪いを祓うために。



「……先生」
「なぁに?」
「面倒ごとに巻き込んじゃってすみませんでした」

 肌にまとわりつく空気の重さに、足が止まりそうになる。

「生徒に面倒をかけられるのも先生の仕事だよ」
「その面倒の処理をするのも、ですか?」
「はは、その通り」

 それでも歩き続けられるのは、きっと隣に彼がいるから。

「……呪い、ちゃんと祓ってくださいね」
「……もちろん」

 彼が私の手を握って、導いてくれるから。


「呪いに取り込まれちゃった私の身体、多分見れたものじゃないと思うので、あんまり見ないでくださいね」


 その手のひらの温もりを感じることはもう出来ないけれど。


「……ちゃんと連れて帰るよ。言ったでしょ、迎えに来たんだって」
「それは嬉しいんですけど……乙女心は複雑なんですよ」
「今更先生に何を恥ずかしがってるのさ」

 呪いに敗れた挙句身体を取られてしまった魂だけの私を、彼が見つけてくれた。
 彼が、私を迎えに来てくれた。手を握ってくれた。
 それだけで、私は嬉しかった。幸せだった。

 だから私は戦える。

 止めは彼に任せることになってしまうけれど、それでも、私に出来ることを成し遂げて終わることが出来る。


「……先生、ありがとうございます」
「……お礼を言われるようなこと、してないよ」
「迎えにきてくれたじゃないですか」
「間に合わなかった。……守れなかった。君を」
「それは仕方ないですよ。私が弱いのがいけなかったんです」
「それでも、」
「先生が気に病むことはひとつもありませんよ。だから、いいんです」

 どろり。視界の先で、闇が蠢いた。

「……真希たちに、ごめんねって伝えてください。今までありがとう、って」
「うん。……なんだか僕が殴られちゃいそうだなぁ」
「あはは、私の分も殴られておいてください」
「はいはい。承りました」

 その向こうに、見えた。私の身体。

「先生。先生が強いのは十分知ってますけど、無理はしないでくださいね」
「うん」
「体には気をつけてくださいね」
「うん」
「長生き、してくださいね」
「……うん」

 私にできることは、せいぜい私の全てを使ってこの呪いを一か所に集め、彼が一瞬で祓えるようにすることぐらい。でもそれぐらいしないと、笑っていくことさえ出来やしないから。 

 繋いだ手のひらを解いて、やけに軽い足取りで私は一歩前に出る。

 くるりと彼の方に振り返って、彼を見上げた。いつの間にか目隠しが下げられていて、ぱちりときれいな空色の瞳と視線が交わる。ゆらりと揺れた空色は、それでもゆっくりと笑みを浮かべてくれた。うん、私はあなたの笑顔が好きだから、それでいい。最高の餞だ。


「先生、あのね、」


 最期ぐらい、素直にもなっていいかな。ずっと言いたかったことを、言葉にしても、いいかな。じわじわと溶けていく意識に、私はゆるりと心を解いた。


「私、先生のことが好きです」


 紡いだ声が空気に溶けきるよりも早く、視界が真っ黒に染められた。頬に触れる銀色と背中に回された腕の感覚に、抱きしめらているのだと理解するまでそう時間はかからない。


「うん、知ってる」


 ──やっぱり、彼に隠し事はできなかった。

 掠れていく仮初の身体を精一杯に動かして、私も彼の背中に腕を伸ばす。彼の体温を感じられないことだけが、唯一の心残りだった。


「僕も、好きだよ。君のことが、好き」


 それが生徒としてなのか、ひとりの女性としてなのかは分からなかったけれど、それでも良かった。その言葉が、ただひたすら、心が泣き叫ぶほどに嬉しかったから。
 碌な人生じゃなかったけれど、碌な死に方でもなかったけれど、それでも、私は今この瞬間、確かに世界で一番の幸せ者だった。

 思わず零れた笑みも、もう形にはならない。
 ふわりと雪が溶けるように体が消えて行く。

 最後の力を振り絞って呪いを全部かき集めれば、もうそれだけで全部空っぽ。
 それでも大丈夫。だって、先生がいるから。


「──ばいばい、先生」


 どうか、あなたの行く末に幸多からんことを。



 【記録──未報告の一級呪霊を確認。特急呪術師により除霊。高専三年生一名が死亡】



2019/11/18

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