どうか、「左様なら」を言わないで (bnst/織田作)
※同性愛表現有/捏造過多/恋愛要素薄め/なんでも許せる人向け/現代文/ネームレス
──パンッ
雑踏の向こうから、何かと何かが勢いよくぶつかり合うような乾いた音が聞こえた。銃声のような物騒すぎるものではないが、だからといって穏やかとも言い難い音。その音源がいるだろう方向は男のつま先の見据えている方向と同じだったため、男はそのまま雑踏の中を進んでいった。ひとり、ふたり。数人の人とすれ違ったその先で、ようやくその光景が男の視界を塗りつぶした。
「……左様ならっ」
涙混じりの怒った声でそう吐き捨てて、可愛らしいスカートの裾を翻しながら向こうへ去って行く少女の姿。かつかつと地面を叩く靴のヒールの音が世界を無差別に刺し殺していくようだ。その少女の背中を見つめる、ひとりの姿。その左頬は赤く染められていて、先程の音が何だったのか、一体この場所で何が起きたのか、男はすぐさま理解した。それと同時に、雑踏の中でぴたりと足を止めた。人々が男を避けるように、まるで石に分かたれた川の流れのように、歩き去って行く。
その人はどこか悲し気な雰囲気を纏って、しばらくの間その場に立ち尽くしていた。けれど、男の視線に気づいたのか、それとも別の理由か、ふと男の方へと視線を向けた。ぱちり、と二人の視線がぶつかり合う。
「──やあ、織田作。調子はどう?」
男、織田作之助の姿を認めたその人は、一瞬前までの哀愁はどこへやったのか、にこりと楽し気な笑みを浮かべて織田作にひらりと手を振った。いつもと変わらない、織田作の良く知るその人の姿と様子に、織田作もまた、手を軽く挙げて答える。その表情は変わらない。けれど、その人はそんなことなど気にも留めず、軽い足取りで織田作の近くへと歩み寄ってくるのだ。まだ赤みの残る左頬と、どこか真意の読めない笑みを浮かべて、まるで親に駆け寄る稚い子供のように。
「久しぶりだねぇ、この後時間はある?」
「ああ」
「其れは僥倖! 一緒にお茶でもしようじゃないか」
織田作のそれよりも十五センチと少しばかり低い視線を、下から覗き込むような体勢をとることでさらに低くして、上目遣いのその人は歌うように言葉を紡いだ。まるで舞台の上で役を演じているかのように大げさなその素振りに、織田作は動じることも首を傾げることもなく答える。くるりと踵を返したその人の、短く切り揃えられた黒髪が、織田作の視線の先でふわりと揺れた。
「この間、美味しい珈琲とカレーを出してくれる良いカフェを見つけたんだ」
案内するよ、と先を歩き始めたその人の背中を織田作は追う。整った顔と、すらりと伸びた背、そして中性的な服装。『彼女』は織田作の友人と呼べる存在だった。
「ねえ、織田作。君はどんな時に『その人とはもう一緒にいられない』と感じる?」
彼女に連れられ辿り着いたカフェは大通りからは少し離れた静かな場所にこっそりと隠れるように建っており、店内もどこかひっそりとしていた。けれどそれは居心地のいい静けさで、ゆったりと流れる音楽と店内に満ちた珈琲の香りが酷く心を落ち着かせた。案内された席は店の奥にある二人掛けの卓子席で、織田作の目の前に彼女が座っているという配置状態だ。カフェのオーナーらしき老紳士が運んできた二つの珈琲カップを受け取って、ひと息ついた時だった。彼女が織田作にそんな問いかけを飛ばしてきたのは。
質問の意味がいまいち良く分からなかった織田作は、何も云わずにただ首を傾げた。そんな様子に、目の前で机に頬杖をついている彼女はにっこりと笑みを浮かべて、織田作の答えの代わりだと言わんばかりに言葉をこぼす。
「私はね、先刻の彼女のことをちゃんと愛していたんだ」
その言葉が指す『彼女』とは、恐らく先程彼女の頬を叩いて去って行ったあの少女のことだろう。少女はやはり、彼女の恋人だったようだ。何かがあって、今はそうではないようだが。
「流石の私でも、愛の無いお付き合いなんて無粋なことはしないからね。それは君も知っているだろう。男性でも、女性でも、私はその人を愛したからお付き合いを申し込むんだ。純粋な恋愛関係さ」
織田作は静かに相槌を打つ。彼女の恋愛観については織田作も良く知っていた。彼女が両性愛者であることも、博愛主義者であることも、恋愛というものに実は酷く真面目であることも。
「……でも、どうしても長続きしないんだよねぇ」
そして、真面目だからこそ自らその関係を終わらせる悪癖があることも。
「却説、ここで先刻の問いかけに戻るんだ」
一瞬だけ浮かべた悲しみに震える表情を直ぐに消し去って、彼女はまた笑う。
「私が『その人ともう一緒にはいられない』と感じる瞬間はね、『その人に嘘を吐くことを心苦しいと思わなくなった時』なんだ」
カチャン、と軽い音を立てて受け皿から珈琲カップが離れていく。ふわり、と珈琲の香りが一層強く漂って、またカチャンと軽い音。
「ほら、私って秘密が多いだろう? だから必然的に恋人に対しても嘘を吐きがちになってしまうのだけれど、やっぱり愛する人に嘘を吐くのは心苦しくて仕方なくてね。そんな自己矛盾にいつも身を切られて大変なのさ」
もう数年の付き合いになる織田作でさえ、彼女については知らないことが多すぎる。けれど彼女の歪な誠実さは知っていたから、織田作はその言葉にまたひとつ頷きを落とす。
「……でも、しばらくするとふとした瞬間にその心苦しさが消えてしまうんだよねぇ」
横髪の毛先を指で弄びながら、独り言ちるように彼女は笑う。自嘲気味な、笑みで。
「それが、今日だった。だから『左様なら』をしたのさ」
相手がその思いに後ろ髪を引かれてしまわぬように、彼女から離れることを躊躇してしまわぬように、彼女は敢えて愛する人を傷つけるのだ。傷つけて、怒って、そして別れてしまえば、愛する人は先へ進んでいけるから。彼女を残して、先へ。……ああ、やはり彼女の愛は歪で、それでいて酷く誠実だ。
「──ねえ織田作、君は、こんな私を嗤ってくれるかい?」
答えはたったひとつ。
「それがお前の在り方だというのなら、俺は嗤わない」
くしゃりと顔を顰める様に笑うその表情が、織田作の知る唯一の彼女の『本当』だった。
「……有り難う、織田作」
ぽつりと囁かれたその呟きなど聞こえなかったふりをして、織田作は珈琲カップに口をつけた。彼女の云う通り、ここの珈琲は絶品だ。
「知ってたかい、織田作。実はね、私は君と出会ってから今日までずっと、数年もの間、君に嘘を吐くことを心苦しく感じ続けているんだよ」
別れ際、ふと彼女がそんなことを言った。一瞬何の話か分からなかった織田作だったが、すぐにカフェでの話の続きだと理解する。
「こんなにも長い時間、この自己矛盾を抱えたまま一緒にい続けられる人は、君が初めてだ」
潮風が頬を撫でて、そして二人の間を通り抜け、遠くへと消えて行く。
「──ああ、別に君と恋人になりたいって意味じゃないんだ」
もう夕暮れが近い。直に空も夕を孕みだすだろう。
「君は、恋人なんて枠に収めるにはあまりに勿体なさ過ぎる」
どうかずっと私の友人でいておくれ。
それは彼女なりの甘えで、信頼で、そして懇願だった。それが分かっていたから、織田作は何も言葉を口にすることなく、ただ頷きを返したのだ。
2019/5/14
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