そのコーヒーはキスの味がした(juju/五条)
※捏造ご都合主義/ネームレス
「ねえ、これあげる」
職場である高専の事務室で机に向かい、かたかたとパソコンのキーボードを叩いていた昼下がり。突然その場所に姿を現した自分の元同級生であり現在の同僚でもある五条悟が、ふと何かを私に差し出してきた。その言葉と動作にぱっと視線をそちらへ向ければ、彼の手の中には缶コーヒーの姿。パッケージに書かれた文字は『無糖』。先程の言葉と彼の動きや表情を見るに、どうやら彼はこれを私にくれるらしい。……だがしかし。
「いや、ありがたいけど、私コーヒー飲めないからいいよ。伊地知くんにでもあげたら?」
恐らく、甘党である彼も無糖コーヒーは飲めないため、その処分に困り私に渡してきたのだろうが、残念ながら私もコーヒーが飲めない。彼には負けるが私もかなりの子供舌なのだ。せめてカフェオレにしてもらわないと、一口飲んだだけでギブアップになってしまう。
学生の時に何度かそんなことを彼に言ったことがあるような気もするのだが、彼が他人の嗜好を覚えているとは思っていないため特に気にしない。
今現在、事務室にいるのは私と彼だけ。
確か今頃補助監督の役目についているはずの伊地知くんなら、無糖コーヒーも飲めるはず。そのうち彼も帰ってくるだろうから、ひとまずは私が預かろうと、彼にそう提案するために唇を開いた。
けれど、その唇が言葉を紡ぐ前に再び彼の言葉が続く。
「知ってるよそんなこと。いいから飲んで」
「……はあ?」
人が苦手なものを無理やり飲ませようとしてくるこの男、今に始まったことではないが相変わらずの唯我独尊っぷりである。思わずガラの悪い声が出てしまったのは仕方のないことだと思って欲しい。
「訳が分からないから拒否」
「お前に拒否権あると思うの?」
ぷしゅ、と缶コーヒーのプルダブが彼の手で引き開けられる。途端、ふわりと鼻腔をくすぐったのは香ばしいコーヒーの香り。香りこそ嫌いではないが、それが舌に届ける苦味だけはどうしても苦手だった。
「いや、いやいやいや。待って。ほんと。ほんとに訳が分からないんだけど。何がしたいのあんた」
「んー? 強いて言うなら嫌がらせ?」
「そろそろその気まぐれジャイアニズム思考やめなよ、もうアラサーだよ私たち。年相応に落ち着いて?」
「僕ほど落ち着いたグッドルッキングガイなアラサー、世界中のどこをどう探してもいないでしょ」
「自分の今とってる言動見直してから言ってくれる?」
そんなことをやいやいと言い合っている間にも、缶コーヒーを掴んだ五条の手は私の方へと近づいてくる。それを拒否しようと私も手のひらを彼の方へ向けるが、そんなものはただの悪あがきに過ぎない。
「このまま僕に手ずから飲まされるのと、自分で飲むの、どっちがいい? それぐらいは選ばせてあげるよ」
彼の考えが一から百まで分かったことなど今までに一度もありはしなかったけれど、今回は今まででの中でも最高に意味がわからない。けれど要求が簡単なうちに言うことを聞いておかなければ、後々さらに面倒くさくなるのも事実。私は恨みがましくじろりと彼を睨みつけてから、缶コーヒーを彼の手から奪い取った。
別に飲んだところで死ぬ訳ではないし、体調が悪く訳でもない。ただし恐らくとても苦い。昔から苦いのは嫌いだ。けれど、五条にまたさらなる面倒を持ってこられるのも嫌だ。
意を決して、缶コーヒーの飲み口に唇を寄せ、一口分を勢いよく口に含んだ。
瞬間口の中に広がったのは、舌先をびりびりと刺激する強烈な苦味。その刺激は脳にまで届いて、思わず私はぎゅっと顔を顰めた。相手は五条だとはいえ人前であるため、嘔吐くのだけは何とか堪えたけれど。
無理やり飲み下したコーヒーの苦味は、それでもまだ口内に残ったまま。まだ一口でこれだというのに、この缶コーヒー全てを飲み干せと言われたら自分はどうすればいいのだろう。
そんなことをぐるぐると考えながら、コーヒーの風味も味わえないまま苦味に耐えていた、その時だった。
ちゅ、と響いたのは軽いリップ音。その直前に私の唇を襲った、柔らかな体温。
何が起こったのか分からず、先程まで脳内を埋めつくしていた苦味への嫌悪感も、あっという間に霧散していく。
ぱちりと見開いた瞳に映るのは、間近に迫った五条の顔。なんで彼はこんなにまつ毛が長くて多いのだろうか、なんて場違いなことを考えたのは、ショートしてしまった私の思考回路。
衝撃に固まった私は、再び近寄ってきた彼の顔から逃げることも出来ず、ただ彼の行動を受け入れる。再び唇に柔い感触。しかし、それは今度は直ぐには離れていかず、じわじわと私に体温を移してくるのだ。
──キス、されているのだと頭がはっきりと認識した時にはもう、既に私の呼吸は彼に食い尽くされていた。
相変わらずの自分勝手さで私の口の中を犯していく彼のせいで、コーヒーの苦味は瞬く間に私の味覚から消え去っていく。本当に、こいつは一体何を考えているのか。
は、という吐息と同時に解放された唇と、残されたのは上がった呼吸と荒ぶる鼓動。 息も絶え絶えに欠けた酸素を必死に取り込む私を前に、彼はそんなことを気にも留めず宣うのだ。
「うわ、にっが」
それならなんでこんなことをした。という呪詛の声も、私の唇からは零れない。真っ赤に染まっているだろう頬と、涙に濡れた瞳できっと彼を睨みつけることしか、今の私には出来なかった。
「はは、真っ赤じゃん。タコみたい」
けれど私の睨みなど彼には何の影響も及ぼさず、あっけらかんと笑った彼はその指先を私の頬に滑らせる。上昇した体温のせいで、彼の指先が酷く冷たいものに感じられた。
「なんでこんなことしたんだ、って顔だね」
視線の先で、彼は笑っている。その整った顔が愉悦と何かへの期待に歪む様は、へたをすれば世界すら傾けてしまいそうな程に妖艶だ。
「嫌がらせは本当。でもそれだけじゃない」
どう足掻いても美しいものに弱い人間でしかない私は、結局彼のその顔に、表情に、声に動作に全てを許してしまうのだ。
「──ちょっとした実験だよ」
それは別名、惚れた弱みとも言うのだけれど。
「ほら、まだ残ってるよ、コーヒー」
鼻腔をくすぐる香ばしい香りと、舌に蘇る苦い味。それに伴って脳を痺れさせたのは、あの熱い熱い温度の記憶。びりびりと、身体だけではなく思考回路までが麻痺していく。
──酷く楽しげに唇で弧を描く彼には残念なお知らせだが、どうやらもう既に、彼の言う実験とやらは成功してしまったらしい。……何となく癪だから、今はまだ、その事実を彼には教えてやらないけれど。
そんなことをぼんやりと考えながら、私はまた、彼に促されるまま苦い液体で口内を満たすのだ。
2020/2/24
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