幸せはこの手の中に(juju/五条)
※いい夫婦の日ネタ
一対の空色が、黒い濃褐色を通して真っ直ぐに私を見つめていた。しかも無言と無表情、微動だにせずという三拍子を添えて。文字通り穴が空いてしまいそうな程に注がれるその視線を、最初の数秒ほどは辛うじて無視できた。何か考え事でもしてるのかな、とか、そんな風に考えて。
けれど、それが数十秒を超えて数分間に及び始めれば、流石の私もその視線に耐えきれない。眉を下げて怪訝な表情を浮かべ、私は彼に問いかける。
「……何?」
「んー……? いや、」
顔に何かついてるならついているで、何か言いたいことがあるならあるで、ちゃんとはっきりと言ってほしい。煮え切らないのはあまり得意ではないのだ。
言葉を探す彼の様子を見るに、彼自身も自分が抱えているそれが一体何であるか理解しきれていないらしい。珍しいこともあるものだ、と私は手に持っていたマグカップをテーブルに戻した。つい先程までふわふわと空気に漂っていた湯気は、中のココアが冷めると同時にその姿を消している。かちん、と左手薬指の金属が、マグカップにぶつかって乾いた音を響かせた。
「何か顔についてる?」
「いや、そういうのじゃない……」
悩むように顎に手を当て視線を右へ左へと彷徨わせた彼は、ふとその瞳を瞬かせて、そして意を決したように再び私を視界に捕らえた。形の良い、少し薄い唇がふるりと声に震える。
「君の呪力が、……変? な、気がする……」
今度は私が瞳を瞬かせる番だった。それの意味合いは多少異なってはいたけれど。
「呪力?」
「うーん、僕にもいまいちよく分からないんだよね。なんというか……わずかにだけど君の呪力がブレてる。……ぼやけてる? 上手く言葉が出てこないな。……とにかく、僕の知ってる君の呪力とは何かが違う。それだけは確かだ」
呪力の変化。簡単な言葉ではあるが、それの意味を私が上手く噛み砕いて飲み下すことはできなかった。
「最近体調に変化は?」
「…………いや、特に……」
「だよね。君に何かあれば僕が気づかないはずがない」
とんでもない言葉をさらりと吐かれた気がするが、今の私にその言葉へ意識を割く余裕はなかった。呪力が変化するなどという例は、それなりに長い呪術師人生の中でも聞いたことがない。何か大きな病気の症状によるものなのか、それとも、──私がもう呪術師として生きることが出来なくなるという未来の、前兆だろうか。
考えついた最悪に、ぶわりと背筋が凍りつく。呪術師という職自体に思い入れは特にない。呪術師として積み重ねてきた全てが、出会えた人が、目の前の彼が、私をこの世界に留めて離さない。いや、私が手放せない、ただそれだけだった。
「……こんなこと、確か前にも……」
ぐるぐると思考を自分にとっての最悪な未来へと導いている私をよそに、彼はこんこんと何かを考え続けていた。遠くを見つめるように細められた瞳は、どうやら彼の持つ過去の記憶を思い出そうとしているらしい。
私の指先が小さく震えるのと、ほぼ同時。ぱ、と唐突に彼が顔を上げた。少しずれたサングラスの向こうから、空の瞳が私を見る。真っ直ぐ、真っ直ぐ。まるで、私のなかにある『何か』を確かめるかのように。じっと。
「──……なるほど」
ふ、と和らげられた表情と、何かが腑に落ちたらしい穏やかな口調。相変わらずこの人は、人を置いて自分だけ先へと進んでいくのがうまい。
「……何がなるほど、なの?」
「そんなに不安がらなくて大丈夫だよ。君にとって悪いことじゃない。むしろいいことだ」
不安なんて情けない感情を表に晒した自覚はないのだが、彼には私のことなど全部お見通しのようだ。まあ、それも今に始まったことではないけれど。
「──俺にとっても、ね」
彼が私に何を見て何を理解し何を考えているのかなんて、凡人な私にはきっと理解できないのだろう。彼が教えてくれる、その日まで。
今は、何故かやけに嬉しそうで幸せそうな彼の表情に免じて言及はしないでおくことにする。彼がそう言うのなら、きっとそうなのだろう。私に害が及ぶことを彼が見過ごすはずもない。
「明日休みだったよね。僕も明日休みとるから、久しぶりにデートしよっか」
私の答えなんて分かっている彼は、最初から選択肢なんて用意していない。せめてもの抵抗ばかりに顔を顰めて無愛想に頷いた私はまだ知らない。
明日のデートの行き先も。
自らの身体に宿った『幸せ』のことも。
その時は、まだ。
***
「こういう大事なことは、ちゃんと気づいたその時に説明してくれていいと思うんだよね」
手の中の小さな冊子をまるで神聖な聖書かのように開きながら、私は自分の隣に腰かけた彼にそうぼやいてみせる。非難の視線も合わせて送ってみたが、彼には案の定そんな攻撃など効きやしない。むしろそれまで以上にその顔をだらしなく綻ばせる始末だ。全く手に負えない。その表情に、それまでの不機嫌さを消し去ってしまう私自身も。
「いやー、さすがの僕も確信までは持てなかったからさ。やっぱりこういうのは専門家の診断がないとね。君をぬか喜びさせる訳にもいかないでしょ?」
確かに彼の言葉も道理だ。はあ、と形だけため息を零してみるが、手の中のその冊子を視界に映せば口端は自然に緩む。
冊子の表紙には、ふたつの名前が並んでいる。苗字は同じ、ふたつの名前。ひとつは私のもので、もうひとつは隣に座る彼のもの。
そして、いつかここにもうひとつ名前が並ぶ。
無意識に手のひらが自分の腹部へと伸びていた。まだ膨らんでもいないお腹。妊娠にありがちな兆候さえ自覚できてはいないから、実感なんてものは一切ない。それでも、確かにここにいる。
病院ではまだ2ヶ月弱と言われた。まだ心音も確認できないぐらいに小さな命。普通はもう少し先になるはずの母子手帳がなぜすでに私の手にあるのか。その理由のひとつにはこの子の父親が五条悟だからというものがあるのだが、その詳細については面倒くさいから割愛しよう。
そろそろ体調が不安定になるし悪阻も始まるだろうと、主治医の先生はこれからのことを多く話してくれた。何も知らない私にとっては、とてもありがたいことだった。
不安はある。けれど、それ以上に幸せだった。
「……性別、どっちだろうね」
「うーん、……君との子どもなら性別なんて関係なくかわいいに決まってるからなぁ」
「すぐそういうこと言う」
「はは、本音本音。……そうだな、君に似た女の子がいいな。それと、ありがちだけど、僕に似た男の子」
「……もう2人目の話する?」
「いいじゃない。嫌?」
「嫌、では、ないけど……」
「だよね」
「……私に似たら、娘が怒りそうだなぁ。『なんで私はパパに似なかったの? パパみたいな美人に生まれたかった!』って」
「その時はちゃんと僕が『お前は世界で二番目にかわいいから大丈夫だ』って言うよ」
「……2番目?」
「1番目はここにいるからね」
「……うわ……」
「顔真っ赤ー」
「うるさい」
「それで、息子は絶対君のこと大好きだろうから、そんな息子と君を取り合って喧嘩したいなぁ」
「大人気なさすぎない?」
「いくら愛息子でも譲れないものはあるからね」
「馬鹿じゃないの……」
「聞こえなーい」
突然、視界がくらりと揺れて身体が何かに引き寄せられる。肌に響いた自分以外の鼓動と温かな体温に、彼に抱きしめられたのだと理解する。
「――息子と娘と、君と僕。4人で生きるんだ。……それ以上の幸せは、今の僕には思い浮かばない」
いっそ無機質にも聞こえるその声色には、一体どれだけの感情が込められているのだろうか。さざめくそれが体温を通して私にまで届き、心臓をどうしようもないほどに揺らしていく。
「……この子にも、呪力があるんだよね」
彼の背に伸ばした私の指先がわずかに震えたことにも、きっと彼は気づいている。
まだ鼓動も確認できない、こんなにも小さな命で、それでもこの子は、母親である私の呪力を揺らがせるほどの存在感を持っているのだ。その異質さなんて、考えなくてもわかる。
「うん。だって僕らの子だ。そんな子が、強くない訳がないだろ?」
全くだ。でも、胸に燻る不安はもっと別の場所にある。
強いということは、イコール、この子が普通の幸せを得られる可能性が低くなるということ。その過程に現れる障害が多いということ。
「……大丈夫。この子の未来も幸せも、誰にも邪魔させない。僕がこの子に押し付けるのは、最低限身を守るための術だけ。それ以降の人生はこの子だけのものだ」
守りたい。護らなければいけない。
彼の腕の中で私も頷く。愛するこの子のためならば、私は世界の全てを敵に回そう。
「だから、泣かないで。君が笑っていてくれないと、僕もこの子も困っちゃうでしょ?」
大丈夫。私の隣には、世界で一番頼りになる彼がいるのだから。
「悟とこの子がそばにいてくれるなら、私はいつでも笑っていられるよ」
にやりと笑いながらそう言ってみせれば、彼は瞳を丸くして、次の瞬間、私をその腕に抱きしめたまま酷く楽しそうに笑ってくれる。彼の幸せそうなその笑顔が、私はこの世界で何よりも大好きなのだ。
癪だから、彼には最後まで教えてやらないけれど。
2019/11/22
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