おやすみ、白亜の子
自分のいのちに意味がなかったとは思わない。
けれど、自分に宿ってしまったこの「こころ」には、意味などありはしなかった。それが揺るぎのない事実であることをニグレドは明確に理解し、そして冷静に自覚していた。
ニグレドは、レインドットとその仲間である錬金術師たちの手によって生み出された
人造人間である。けれどもその錬成は彼女らにとってただの実験段階に過ぎず、彼女らの知識と技術とが人造人間の器を正しく造り出せるものであるかどうかを確認するというただそれだけのために、「ニグレド」の身体は錬成されたのだという。
すなわちその身体はただの試作品であったために、その設計において「魂」の存在は完全に無視されていた。それもそうだ、破棄することを前提として生み出すものに「魂」を籠めるなんて行いは、あまりにも人の道を外れている。
――だからこそ、その身体に「ニグレド」という「魂」が宿ってしまったことは、彼らにとっての大誤算だった。
人間としてどころか人造人間としても「生きる」という行為に備えられてはいない身体に宿ってしまった魂、こころ、それがニグレドという存在だ。
造られたその時のまま成長することのない身体は、エネルギーを外部から取り入れることも叶わない欠陥品。食事や睡眠を摂ることは出来ても、そこからエネルギーを得ることはできない。錬成時に詰め込まれたエネルギーを費やしていくことでしか生きてはいけない。つまり、この「いのち」には最初から時間制限がかけられていたのだ。
こころを持ってしまった欠陥品の人造人間をどう扱うべきか。錬金術師たちは3日3晩頭を抱え続けた。生まれたばかりの無垢な瞳で自分たちを見上げてくるニグレドといういのちを恣意的に狩り取ることなど、まだ人の心を持つ彼らには、もちろん出来はしなかった。
「――君のいのちには限りがある。それでも君は、生きたいと思うかい?」
ひとりの錬金術師からそう伝えられたのは、ニグレドが目覚めてから5日が過ぎた日のこと。その時にはもう既に、生まれつき聡明であったニグレドは、周囲の錬金術師たちの言動から何とはなく「自分という存在」について様々なことを察していた。それゆえに、錬金術師から言い渡されたその事実を動揺も怒りも悲しみも少なく受け止めることができてしまった。
自らを生み出した彼らのことを思えば、その時に全てを終わらせてしまっていた方が親切だったのかもしれないと、今もなおそう思う。それでもニグレドがその道を選ばなかったのは、――魅せられてしまっていたから。錬金術という学問に、もう既に心を奪われてしまっていたから。
「私、錬金術師になりたい」
ニグレドのその願いに多くの人が嘆き、そして考え直せと説得した。何故なら錬金術を行うには多大なるエネルギーが必要とされるからだ。今ある有限のエネルギーだけで生きていかなければならない彼女にとって、それは言ってしまえば自らの寿命を縮めるも同義の願い。けれどもちろん、彼らもニグレドと同じく錬金術に心を奪われた者。ニグレドが錬金術の勉強に必死に打ち込む姿を見てしまえば、もう、誰もその夢を否定することなど出来はしなかった。
しかし、やはり元々残り少なかったいのちを削ってまで錬金術を学ぶニグレドの姿は、多くの人の目には痛々しいものとして映ったらしい。鉱石の錬成に成功した時すらも悲しげな表情で自らを見てくる彼らにとって、きっと自分は「錬金術師」たり得ない存在なのだろう。そんな理解ばかりがニグレドの心に降り積もり続けていた。
錬金術師になりたい。
ニグレドのその願いを素直に認めてくれたのは、レインドットともう1人、年老いた錬金術師だけだった。
彼らはニグレドの事情を知りながらもニグレドをひとりの錬金術師見習いとして扱い、他の見習いと同様に厳しくニグレドへと錬金術を教え込んでくれた。たったそれだけのことが、ニグレドにとっては何よりも嬉しいことだった。
だから、年老いた錬金術がその生を終え、レインドットが1人独立して研究を続けると言った時に、ニグレドはレインドットに着いていくことを即断即決したのだ。彼女の下でなら、自分は錬金術師として生きて、そして終わることが出来る。そんな確信があったから。
「私は、これから新たな人造人間を生み出す。残酷なことを言うが、この人造人間は貴女とは違う完全な成功体だ。私に着いてくるということは、つまりその人造人間のそばに居なければならないということ。その人造人間を、自分の弟弟子として扱わなければならないということ。貴女は、それに耐えられるのかい?」
もちろん、その成功体となる人造人間に対して嫉妬や羨望の想いが欠片も無かったと言えば嘘になる。しかし、自らが欠陥品であるという事実を突きつけられることよりも、錬金術師として生きられないことの方が、ニグレドにとっては辛く苦しいことだった。
だから、ニグレドはレインドットの手を取った。
そうして始まったレインドットの下で錬金術を学び続ける日々はとても充実していて。自らに残された時間も自らの身体に残された欠陥も忘れてしまうほどに幸せで。
だから、――だから、思慮が及んでいなかったのだ。
欠陥まみれのこの身体で、数多のエネルギーに満ちた地上の世界をまともに生きていくことなんて出来るはずがないというのに。
思いあがって空を望んだ鳥は太陽に焼かれて地に落ちる。それが世界の摂理。ならばこの身体が『空』に拒絶されてしまったことだって、全く可笑しなことではない。
地上の世界に繋がる洞窟を抜けた途端、身体に力が入らなくなった。太陽に焼かれた右肩には真っ黒な痣が刻まれた。その痣はどうやらニグレドのいのちを蝕んでいるようで、時間を経るごとに、錬金術を行う度に、少しずつ少しずつニグレドの肌を侵していった。
この痣が身体全体を食い尽くした時が、自分の最期なのだろう。そう理解した時にはじめて、ニグレドは眠ることが怖いと思った。
「……ねえ、弟弟子くん。君は本物の空の下でも元気に生きられるんだよね」
大きな水槽の中に眠る新たないのちを覗き込みながら、ニグレドはそう語りかけた。胎児のかたちをしたその人造人間は、このまましばらくは水槽の中で育てられ、ある程度の身体年齢まで無事に成長すればようやく目覚めさせられるのだという。
この子が君の弟弟子になるんだ。レインドットに連れられて初めて彼に対面した時、彼はまだ、肉眼では目をこらしても見えないぐらいに小さな小さないのちだった。それがたった数週間でこんなにも成長するのだから、いのちというものは本当に不思議だと思う。
「人間みたいに背が伸びて、ずっとずっと錬金術を学んでいられるんだよね」
弟弟子の面倒を見るのが、姉弟子の義務であり権利。だからこそ、ニグレドはこうして毎日のように彼の下へと足を運んだ。それこそレインドットに呆れられるぐらいに。
「いいなあ、羨ましいよ」
大きな水槽の分厚い硝子に手のひらを押し付ける。体温の通わない肌ではその冷たさも感じることは出来なかった。それが何だか悲しくて悔しくて、唇を噛みしめた。
ニグレドが地上で生きられないと知ったレインドットは、その研究拠点をカーンルイアに残すこととした。彼女はまだこの国で調べなければならないことがあるからと言ってはいたけれど、きっと多分、その理由の大部分はニグレドの存在にあるに違いない。自分は敬愛する彼女の道を狭めてしまった。それを理解してしまったこともあって、その日のニグレドの気分は深く深く落ち込んでしまっていたのだ。
結局、自分は師匠の重荷にしかなれない。
結局、自分はただの欠陥品だ。
結局、自分はこの子とは根本から全てが違う存在でしかない。
――成功体が、最高傑作がいなくなってしまえば、自分のような欠陥品でも相対的に成功体となれるのだろうか。そんな馬鹿げた考えが何度も何度も頭を過った。この水槽を叩き割ってしまえたなら、自分は楽になれるのだろうか。そんな愚かしい思いを何度も何度も抱いてしまった。
けれど、それでも。
「……君は、どんな声で私を呼んでくれるんだろう。どの分野の錬金術が得意なんだろう。私は鉱物錬金が1番好きだから、君にも好きになってもらいたいなぁ」
このいのちを憎むことは、どうしたってできなかった。
「アルベド、白亜の子、レインドットの最高傑作、――私のたったひとりの弟弟子」
きっと、師匠に似て聡明な子なのだろう。姉弟子らしくこの子に沢山のことを教えられるように、沢山沢山学ばなければ。威厳もあった方がいいだろうから、口調や言動にも目一杯気を使おう。でもそれで嫌われたくはないから、厳しくなり過ぎないよう気をつけないと。
美味しいものを沢山食べさせて、美しいものを沢山見させて、楽しいことを沢山沢山体験させてあげよう。その人生が色鮮やかで幸せに満ちたものとなるように自分の全力を尽くしてみせよう。
だって、私はこの子のたったひとりの姉弟子なのだから。
***
「――、──っ、ニグレド!」
誰かに名前を呼ばれている。ああもう、このまま温かい記憶に包まれて心地よく眠ってしまいたかったのに。そう思いはするものの、その声があんまりにも悲痛さに満ち溢れていたものだから、その声が他でもない自らの愛する弟弟子のものだったから、過去の記憶に溺れていた意識が急速に現実へと引き戻されていった。
重たい瞼をそっと持ち上げる。1番に網膜を焼いたのは、眩しいほどに星の煌めく美しい夜空の姿。その次に視界を色づけたのは、星明かりに煌めく柔らかな象牙の色と、こちらを見下ろす瞳の中に閉じ込められたパライバトルマリンの輝き。世界はこんなにも美しい姿をしていただろうか。そんな思いが、どこかふわふわとした思考回路の中にこぼれ落ちては消えていった。
「ニグレド、ねえ、ニグレド!」
「……そんなに、呼ばなくても、聞こえているよ」
「どうして……っ」
いのちの終わりを迎ようとするこの身体で、もう一度でも本物の空の下に立てばどうなるか。それぐらいのことは分かっていた。分かっていたからこそ、この行動を選んだのだ。
彼がちゃんとニグレドの最期を目の当たりにできるように、これが本当の別離なのだと理解し、学ぶことができるように。
さよならだけが人生だ。
いつか何かの本で、そんな言葉を読んだことがある。
これから先、この世界で誰かと共に生きていく彼の時間の中には、沢山の出会いがあり、そしてそれと同じだけの別れがある。別れの悲しみは、どんな悲しみよりも強く、そして深いものだ。それを受け止めきれずに壊れてしまうことだって珍しくはないほど。
だからこそ、学ばせなければと思った。人間とは違ういのちの在り方をし、生命とは何かを考え続けなければならない使命を生まれながらに与えられた彼へ。「別れ」とは何かを、「最期」とは何かを、そこに伴う「悲しみ」がどんなものであるのかを。そして彼はそれらの全てを受け入れ、乗り越え、未来を生きていかなければならないのだということを。彼に教えてやらなくてはいけない。そう、思っていた。分かっていた。……けれど、自分にはそのための覚悟が足りていなかった。
口先だけの「さようなら」に意味はない。自らのいのちをもって、慈悲も容赦もなく「最期」を彼の目の前に突きつけ教えてやることが、自らに与えられた最後の使命だったのだ。そんなことにも気づけないまま今日を迎えてしまうだなんて。
……ああ、やっぱり自分は姉弟子失格だ。
肌にあの痣が広がっていくのを感じる。それを隠すために巻いていた真白い包帯も、今となってはなんの意味も成してはいない。凄まじい勢いでこの身体に残された「いのち」が食い尽くされていく。
こんな姿はあまりにも情けないから、姉弟子としての矜持を守るためにも彼には見せたくなかった。このいのちが終わる時に、彼はきっとこの世界の誰よりも悲しみ、苦しみ、そして泣いてくれるのだろうと分かっていたから、彼の前で死にたくはなかった。
自らの最後の使命も分からぬまま、ずっとずっと、愚かにもそんな意地ばかりを張り続けていたのだ。
「空とは、ちょっと、相性が悪くてね……」
彼を悲しませたくはなかった。
苦しませたくはなかった。
いいや、違う。結局はただ、自分が彼の悲しむ姿を、彼の苦しむ姿を見たくはなかっただけだ。彼の目に映る自らの姿の全てが、「天才錬金術師であるニグレド」のものであってほしかっただけだ。
結果としてそのエゴで彼を必要以上に悲しませることとなってしまったのだから、本末転倒も甚だしい。自分可愛さに彼をちゃんと手放してやれなかったどころか、こんなにも振り回してしまうとは。最後まで不甲斐のない姉弟子で、彼には本当に申し訳ない。
「ボクのせいで、」
「違うよ、アルベド。これは私が決めたことだ。君が背負うことじゃない」
「ニグレド……」
「ごめんね。もっと上手に、さようならをしてあげたかったのだけれど」
ぼろぼろと空からこぼれ落ちてきた雫が頬を濡らした。温かいその感触がくすぐったくて思わず目を細めてしまう。ああほら、やっぱり泣かせてしまった。その事実に胸を痛めると同時に途方もない喜びを感じてしまったことは、このまま胸の内に秘めておこうと思う。だってそんなの、あまりにも不謹慎すぎるだろうから。
「今日は、きみの珍しい姿が、たくさんみられるなぁ」
けれども多分、その言葉を紡いだ表情はだらしなく緩んでいたに違いないから、それにも意味なんてあまりなかったような気がするけれど。まあ良しとしようじゃないか。
愛しい愛しい弟弟子が、自分との別れを心から惜しんでくれている。それに喜びを覚えずにいられる姉弟子なんて、きっとこの世界のどこにもいやしない。そう結論付けて、ニグレドはもう我慢することなく笑ってみせた。
「少し、あんしん、したよ。だって君、師匠に似たのか、表情にとぼしいところがあるから」
「……でも、ニグレドは、いつもボクの感情を読み取ってくれていたよね。心を読んでいるのかと思うぐらい」
「あはは、それはそうだ。だって私は、君の姉弟子、だよ? 可愛い可愛い弟弟子のことぐらい、なんだってお見通しさ。……はぁあ、私ってば、ほんとうに、君のことを甘やかしすぎていたんだね」
ああ、酷く眠たい。今にも瞼が落ちて来そうだ。
でも、あともう少しだけ、こうして彼と言葉を交わしていたい。あともう少しだけ、このまま彼の腕の中でまどろんでいたい。あともう少しだけ、この美しい世界の中で生きていたい。
「ねえ、アルベド……花を、咲かせておくれよ」
それは、我ながらあまりにも突飛な願いだった。けれどもアルベドは、わずかばかり驚きながらもその願いを真摯に受け止め、すぐに自分の荷物の中から灰の詰められた小瓶を取り出してきてくれる。
アルベドの腕に抱き上げられたまま、ニグレドはそっと彼の手の中を覗き込んだ。
灰の中から、一瞬にして可憐な真白い花が咲く。新たな生命の誕生の瞬間には、いつだって世界が輝いて見えた。だからこそ、ニグレドは「錬金術」に魅せられ、「錬金術」に自らの時間を捧げたのだ。
「……うん、やっぱり、君の咲かせる花が、世界で1番、きれいだ」
お世辞でもなんでもなく、ただひたすら純粋にそう思った。彼の錬金術はレインドットのそれのように流麗で、どこまでも洗練されている。きっとニグレドでは、どれだけ努力を重ねたところでその域にはたどり着けなかったに違いない。
やはり自分と彼とは全く異なる存在だ。彼のような存在こそを、世界は「本当の天才」と呼ぶのだろう。
その事実が、ニグレドは堪らなく誇らしかった。
「ねえ、アルベド。錬金術は、好きかい?」
「……ああ、好きだよ。鉱物錬金はまだキミのようには出来ないけれど」
「ふふ、そう。そうか。なら、私を見習って、これからも精進したまえよ」
きっと、もしもこの世界にニグレドという存在がいなかったとしても、アルベドはちゃんと「白亜の申し子」となっていたに違いない。レインドットの下で錬金術を学び、そして天才的な技術と知識量で世界に名を轟かせる錬金術師となっていたに違いない。
けれど、そう、ほんの少しだけ。ニグレドがいない世界の彼よりほんの少しだけ、錬金術をもっともっと好きになってくれていたら。ニグレドはもう、それだけで十分だった。
ただそれだけで、自分の生にも確かに意味があったのだと笑うことが出来た。
「君のことだから、心配は、いらないだろうけど……アリスさんに、あまり迷惑をかけないようにね」
「……うん」
「研究が楽しいのはわかるけど、食事と睡眠はちゃんと、とるんだよ」
「うん、分かっているよ」
「これから先、錬金術を学ぶ中で、悩むことも、迷うことも、きっとたくさんあるだろう。でも、忘れないで、なにがあっても、君は私の大切な、たいせつな、たったひとりの弟弟子だ」
重たい身体に無理を言って、手のひらをそっとアルベドの頬へと伸ばす。涙に濡れた白磁の肌を指先で優しく撫でていく。手首にまで及んだ黒い痣に嘲笑われているような気がしたけれど、今はそれも気になりはしなかった。
パライバトルマリンの瞳の中に、自らの姿がかすかに映り込んでいる。ぎゅう、とひとつ何かを堪えるように細められたその瞳は、1拍をおいてゆるりと柔らかな弧を描いた。きっと笑みを浮かべようとしているのだろうけれど、涙のせいかやはりその姿はどこかぎこちない。そんな姿も愛おしさにあふれて仕方がなくて、彼には悪いと思いながらも笑みがこぼれた。
「……ねえ、ニグレド。我儘を言ってもいいかい?」
「ふふ、今日のきみ、ずっとわがままばっかりじゃないか。まあいいよ、言ってごらん?」
甘やかしてばかりではいけないと学んだばかりだというのに、やっぱり弟弟子が可愛いものだからついつい甘やかしてしまう。まあでも、これが最後なのだから、この甘やかしもどうか許してもらいたい。
深まっていく微睡みに身を委ねながら、ニグレドはアルベドの言葉を促す。もうそろそろ、言葉を紡ぐことも難しくなってきた。終わりの時間が、もうすぐそこまで近づいてきている。
……ああ、眠りたくないなぁ。
もうずっと前に受け入れたはずの最期への恐怖が、今この瞬間どうしてかまた蘇ってきた。やっぱり、彼という存在に近づきすぎたのはアルベドにとってもニグレドにとっても悪手だったらしい。情けなく生に追い縋ってまで彼の隣にいたいと思ってしまうほど、ニグレドはアルベドという存在を心から深く愛してしまっていた。
アルベドの瞳が、ニグレドを見つめている。
その眼差しがあんまりにも優しくて、あたたかくて、思わず涙がこぼれおちそうになった。
「いつかまた、キミへ『おはよう』と言わせて欲しいんだ」
優しい声が鼓膜を叩く。息を呑む。彼の向こうに広がる夜空を、数多の星が華麗なステップで駆け抜けていく。まるで星屑の雨が降り注いできているかのようだ。
そのあまりの美しさに、思わず声が喉元で躓いてしまう。まさかこんな日に、こんなタイミングで流星群が始まるだなんて。世界は意地悪なのかロマンチストなのかいまいちよく分からない。
彼の言葉の意味を咄嗟に理解することができず、ニグレドはぱちぱちと目を瞬かせた。けれど彼の表情を、瞳を真っ直ぐに見据えているうちに、少しずつその意図を読み取れてしまう。何かを決意した芯の強さがそこにはあったから。
「そんな、こと……」
「それがいつになるかは分からない。でも、ボクに『成し遂げようと思えば成し遂げられないことなんてない』んだろう?」
「……っ、」
そんなことは不可能だから諦めろと言いたかったのに、痛いところを突かれてしまった。それを言われてはもう何も言えなくなってしまう。まさか他でもない自分の言葉で首を絞められることになるなんて、昨夜の自分は考えもしていなかった。
「キミは死ぬんじゃない。ただ眠るんだ。生きるためのエネルギーを失った身体が動かなくなるだけで、キミの魂が、キミのこころが消えてしまうわけじゃない。壊れてしまうわけじゃない。……それなら、きっと、」
……馬鹿だなぁと、思った。魂のかたちを保ったまま身体だけを作り替えることなんて、あのレインドットですら『不可能ではないがあまりにも現実的でない』と言って諦めてしまったというのに。
そんなことに彼の時間を費やすべきではないと思った。だってそんな途方もない研究、彼の足枷になってしまうだけなのだから。ニグレドはもうこれ以上、大切なひとの重石になんてなりたくはなかった。
けれど、けれど。彼の瞳が酷く真っ直ぐにニグレドを見つめていたから。本音を言ってしまえば、彼のその言葉が堪らなく嬉しかったから。
そうか、────そうか。
君は、私をそんなにも愛してくれていたのか。
そんな理解が、すとんと心の中に落ちてきた。
「……はぁ……君、ほんとうに頑固だなぁ」
「キミに似たんだよ」
「おや、言うようになったじゃ、ないか。……わかった、わかった、好きにすればいいさ。ただし、そのために師匠からの課題をすこしでも疎かにしていたら、本気で怒るからね」
「ああ、心しておくよ」
まあ、それこそ君のことだから心配する必要なんてないのだろうけど。そう言葉を紡げば、アルベドの表情がくしゃりと歪んだ。
「……いつでも諦めてくれていいんだからね?」
「馬鹿を言わないでくれないかい? 白亜の申し子の名に懸けて、必ずキミを目覚めさせてみせるよ」
「……ふふ、そう。それじゃあ、その日を楽しみに眠るとしようかな」
これはさようならじゃない。
ただ眠るだけ。いつも通りの夜のように「おやすみ」と笑って、いつもよりも少し長く眠るだけ。
自分の身体を抱きしめる彼の腕に身を寄せて、ニグレドはそっと瞼を閉ざした。脳裏にはちゃんと、この美しい星空と彼の姿が焼き付いている。これならきっと、どれだけ長く眠っても彼のことを忘れないでいられそうだ。
「……昨日も思ったけど、君、本当にあたたかいなぁ」
自分にはない温もりに包まれながら、未来を夢見て眠りにつく。こんなにも穏やかで幸せな最期が存在していいのだろうか。
ニグレドのいない世界に幸せはないと、彼はそう言ってくれた。けれどそれは、ニグレドにとっても同じこと。
彼が名前を呼んでくれたから、ここに居てもいいのだと思えた。彼が隣にいてくれたから、迫り来る最期に怯え震えることもなく居られた。彼がくれたあの鉱石があったから、何度も何度も自分を奮い立たせることが出来た。
彼が「おやすみ」と言ってくれたから、明日にはもう目覚められなくなっているかもしれないという恐怖が和らいだ。
彼が「おはよう」と言ってくれたから、明日の朝が待ち遠しくなって、夜眠りに就くことが怖くはなくなった。
アルベドがいてくれたから、ニグレドは、この世界の誰よりも、何よりも幸せな「いのち」だった。
──アルベド。声もなく彼の名前を呼ぶ。
アルベド、アルベド。その音は、そのたった4文字は、この世界でいっとう愛おしい響きをしていた。
意識が真っ暗な世界の奥底へと落ちていく。冷たくがらんどうなその場所に広がるのは、どこまでも遠く深い、停滞した「無」の世界だけ。
けれど、でも、悲しくはなかった。苦しくはなかった。寂しくはなかった。
だってこの世界は、いつか再び彼の声で始まるのだから。
「いつかの未来でまた会おう。おやすみ、ニグレド」
ああ、おやすみ、白亜の子。
私の大切な弟弟子。
どうか、どうか、君の未来に幸の多からんことを。
──空に星が流れる。
世界の片隅でひとつのいのちが眠りに就く。
その頬に、ひと粒の雫がこぼれ落ちていく。
眠りについたそのひとを抱きしめながら、たったひとりで見上げる星空は、それでもなお息を呑むほどに堪らなく美しかった。けれど、やはりその輝きはどこか鈍くて、何かがどうしようもなく物足りない。
吸い込んだ空気が肺に満ちていく。少しの冷たさが血潮を揺らして、震えていた指先に力が篭もる。
それは、白亜の申し子と称される天才錬金術師がモンドという国に足を踏み入れる、つい数日前のことだった。
2021/3/30
- 10 -