考え、学び
「──ニグレド、ニグレド!」
あの雪山を後にしてからさらに数ヶ月。レインドットに師事しながら秘境を探索し続ける旅は、今も変わらず淡々と続いていた。
容赦という2文字を辞書に持たないレインドットからの課題に、けれどもアルベドは、これまでひとつ残らず答え続けていた。それはもちろん『容易く』とまでは言えずとも、それなりの余裕を持って。
言ってしまえばたいへん優秀であるアルベドが、こうして課題の進捗を姉弟子であるニグレドに見せに来ること自体はそう珍しいことでもなかった。師匠であるレインドットは多忙な人であり、常に拠点や仮住まいにいるとは限らないためだ。そしてそんな時にアルベドの指導にあたるのが、ニグレドに与えられた役目のひとつでもあったから。
「おや、君がそんなに慌てるなんて珍しいこともあるものだね。一体どうしたんだい?」
しかし、レインドットに似たのか常に冷静沈着で少々表情に乏しいところのある彼が、こうしてばたばたと慌てた足取りでニグレドの下へやって来るというのはこれが初めてのことだった。
表向きはからかい混じりの言葉を吐きながらも、ニグレドの内心にはその実驚きが芽生えている。もしや何か良くないことでも? という懸念が一瞬脳裏を掠めるけれど、駆け込んできたアルベドの表情を見て、どうやらそういうわけではないらしいと即座に理解した。
「これを見て」
椅子に腰かけたままのニグレドの前へ、アルベドが足早に歩み寄ってくる。走ってきたからかそれとも興奮からか、彼の白磁のような頬は微かに赤く染まっていて、さらにはその瞳まできらきらと輝いているものだから。こんなにも年相応な様子を見せるなんて彼にしては随分珍しいなと、ニグレドはぱちりと目を瞬かせた。
けれどそう驚いてばかりもいられない。彼がニグレドの方へ差し出してきた手のひらの上をおもむろに覗き込む。そうしてニグレドはまたしても、その瞳を丸くすることになった。
「……ようやく成功したんだ」
喜びを噛み締めるようなアルベドのその声の向こうで、ニグレドはアルベドの手の中に視線を落としたまま口を噤んでいた。
淡い煌めきをこぼしながらそこに佇んでいるのは、鉱物錬金によって生み出された鉱石。空と海とを半分ずつ溶かし込んだような色をしたその宝玉は、どこかニグレドの瞳にも似ている。それは、アルベドが生まれて初めて自分の手で錬金した鉱石だった。
アルベドは、しばらく前に灰から花を咲かせることに成功している。そしてそれ以外の錬金についても、特に問題なく全てをクリアしていた。しかしただひとつ、相性的な問題からか、これまでずっと鉱物錬金だけは上手くいかないままだったのだ。
鉱物錬金はニグレドの得意分野であり、彼女が様々な鉱石を錬金によって生み出していく姿をアルベドもすぐ隣で見ていた。しかしそれでも、いざ自分が錬金しようとするとどうにも上手くいかなくて。ニグレドに教えを請いながら、レインドットからの課題にも取り組みながら、アルベドはただひたすらに鉱物錬金を学び続けていた。
鉱物錬金はレインドットからの課題で一度も触れられておらず、それが出来なかったからといってきっとレインドットもニグレドもアルベドを見捨てることはしないのだろう。
それでもなおアルベドが鉱物錬金に取り組み続けたのは、
「──うん、よく出来てるじゃないか。流石は私の弟弟子だ」
彼女のその言葉を聞きたかったから。
彼女のその表情を見たかったから。
もちろん自己研鑽や知識欲の追求という理由もそこにはあったけれど、きっとそれが、アルベドにとっての1番の行動原理だった。
アルベドの手から鉱石をつまみ上げ、ニグレドはそれを天井にぶら下がったランプの光にかざしてみせる。橙の光が青い鉱石の中に乱反射し、彼女の瞳の奥に淡い色彩を溶かした。その姿がどうにも眩しく感じられて、アルベドはそっと目を細める。
「……ま、私が直々に教えてあげたのだからこれぐらいは当然だけどね。天才の私にはまだまだ程遠いのだから、これからも精々精進しなさい」
先程までの優しげな声色と言葉はどこへやら、いつも通りに戻った彼女のその口ぶりに、思わず笑みがこぼれた。それでもなお鉱石を見つめる彼女の視線は相変わらず酷く優しいもので、より一層たまらない気持ちになる。
ニグレドはアルベドにとって大切なひと。
彼女へ向ける自分の想いが、レインドットへのそれと同じようで少し違っていることを、アルベドは薄々と自覚し始めていた。けれどもまだ、その感情へ確かな名前は付けられぬまま。
「良ければ、なのだけど……その鉱石はニグレドが持っていてくれないかな」
不意に飛ばされたアルベドからのその言葉に、ニグレドが目を微かに丸くする。
ずっと前から決めていたのだ。初めて鉱物錬金に成功した時は、その鉱石を彼女に贈ろうと。そしてその考えは、今日出来上がった鉱石の色彩を見た瞬間により一層強いものへと変化した。
「いいのかい?」
「うん。キミに持っていて欲しい」
ニグレドの視線がアルベドと鉱石との間を何度か往復する。彼女は鉱物錬金の天才だから、こんな中途半端な鉱石など要らないと言って突き返されてしまっても何らおかしくはない。けれど、そんなことを彼女は絶対にしないと、アルベドは確信していた。
だって彼女は、ニグレドは、誰よりも優しいひとだから。誰よりもアルベドを愛してくれているひとだから。
「──ふふ、それじゃあありがたく頂くとしようかな」
ほら、やっぱり。
彼女はきっと必死に表情を抑え込もうとしているのだろうけれど、その口元が緩く綻んでいることにアルベドはしっかりと気づいてしまう。彼女の瞳が一際柔らかく弧を描いたことにも。
きゅう、と心臓のあたりがしみるような苦しさに襲われる。けれどそこに不快感はひとかけらだってありはしなかった。
「それじゃあ、ボクは課題に戻るよ」
「ああ、頑張りたまえ」
満ち足りた心を抱きしめながら、ニグレドの研究部屋を後にしようとしたその瞬間。視界の隅に彼女の姿を掠めた刹那。
──アルベドの生み出した鉱石を見つめる彼女の瞳が、微かに揺れていたような。そんな気が、した。
***
「……君、それは一体何をしているんだい?」
その日は空がよく晴れていて、空気を肺いっぱいに吸い込むとなんだか心が清々しくなるような、そんな麗らかな気候が世界を包み込んでいた。
ずっと屋内に閉じこもっていては健康に悪いからとニグレドによって外へ放り出されたアルベドは、今の仮住まいのすぐそばで、片隅に咲いた1輪の花を前に座り込んでいた。そんなアルベドの姿を不思議に思ったのだろう、衣類の洗濯を終わらせたらしいニグレドの声が頭上からアルベドへ落とされる。
「スケッチをしているんだ」
「スケッチ?」
「ああ。物体の構造を知るために、こうして絵に描き表してみるのもいいかもしれないと思って」
アルベドの隣へ腰を下ろした彼女に、アルベドは自分の手の中のスケッチブックを見せた。白く四角いその紙の上には、彼らの目の前で可憐に咲き誇った1輪の花の姿が描かれている。
凛とした茎の輪郭や、花びらの柔らかな形、淡い色彩、それら全てが正確に切り取られたアルベドの絵を見て、ニグレドは感心したような声をこぼした。
「ふうん、なるほど。上手いものだね。君には絵の才能もあったのか」
「ありがとう。良ければニグレドも一緒にどうだい?」
自分の持っていた絵筆をニグレドの方へ差し出しながら、アルベドはそう問いかける。それはただ彼女とこの穏やかな時間を共有したいという想いからの言葉で、そこに一切の他意や悪意はもちろんなかった、のだけれど。
途端に複雑げでどこか嫌そうな面持ちに変わった彼女の表情を見て、アルベドは一体どうしたのかと首を傾げることになる。いつもの彼女ならば、「私にかかればこれぐらい容易いことさ」と言って意気揚々と絵筆を握りそうなものだというのに。
「……遠慮しておくよ」
「……ボクはニグレドの描く絵を見てみたいな」
絞り出したような声で紡がれたその言葉に、思わず食い下がってしまったのも仕方の無いことだろう。だって彼女のこんな姿を見たのは、アルベドにとって生まれて初めてのことだったのだから。
アルベドのその言葉にニグレドは一層顔を顰めて見せるのだけれど、何を隠そうこの姉弟子、普段あまり我儘を言うことのない弟弟子からの頼みに滅法弱いのだ。もちろん、アルベドはそのことをよくよく理解している。
「……絶対に笑わないと誓えるかい」
彼女らしくない酷く小さなその声。いっそ弱々しくもあるその響きに、言い出した側であるアルベドも思わず困惑してしまった。
無言で差し出された彼女の手に、こちらもまた無言でスケッチブックと絵筆を渡す。
それらを受け取ったニグレドは、変わらず一言も言葉を発さないまま絵筆をスケッチブックの上に走らせ始めた。恐らく、今しがたまでアルベドの描いていた目の前の花をスケッチしているのだろう。なんとも言えない沈黙に、なんだか居た堪れない気持ちが芽生えた。
数分後、はたりと手を止めたニグレドが静かにスケッチブックをアルベドへと返してくる。そうして何も言わぬまま、アルベドの反応や視線から逃げるようにニグレドは視線を明後日の方へと向けた。
その様子にやっぱり困惑を抱かされながら、アルベドは恐る恐るそのスケッチブックへと視線を落とす。──そして、息を呑んだ。
「…………とても、前衛的だね」
「だから遠慮しておくと言ったんだ!!」
適切な言葉を探し続けた末にようやくアルベドが紡いだその声へ、噛み付くようなニグレドの叫びが返された。いっそ悲痛さすら滲む彼女の声色に、アルベドは思わず哀れみの視線を向けてしまう。まあもちろん、それすら今の彼女にとっては屈辱にしかならないのだろうけれど。
わっと手のひらで顔を覆い隠した彼女の傍らで、アルベドは再びスケッチブックへ視線を落とす。そこに描かれているのは……辛うじて花なのだろうと分かる歪な塊。いや、正直ここまでの流れを知らなければそれが花とは決して思えなかっただろう。
つまりは、そう。端的に言って、彼女は絵がたいへんに下手だったのだ。
「キミにも苦手なことがあったんだね」
「……苦手じゃない、ちょっと相性が悪いだけだ」
そっぽを向いたままのニグレドの顔をそっと覗き込んでみれば、普段の余裕綽々といった様子はどこへやら、バツが悪そうに唇を尖らせた彼女がそこにいて。どんなことでも出来るようになるまで努力を重ねる彼女ではあるけれど、この『絵を描く』ということだけはどうしようも出来なかったのだろう。
まさか、こんなところで彼女の弱みを知ることになってしまうとは。
申し訳なさやら嬉しさやら微笑ましさやらが一気に胸の中に込み上げてきてしまって、アルベドはそっと唇を噛み締めた。そうしていないと今にも口元が綻んで、「笑わないと誓っただろう!?」と彼女に激昂されてしまいそうだったから。
「確かに独特ではあるけれど、ボクは好きだよ、ニグレドの絵」
「…………下手な慰めはやめてくれないか」
決して嘘ではないのだけれど、きっと今の彼女に何を言ったところで聞き入れてはくれないのだろう。
お詫びに、今日の夕食には彼女の好物でもあるバター魚焼きを作ってあげようと、アルベドは心の中で密かにそう考えた。
「──ところでニグレド」
「……何かな」
「その腕、怪我でもしたのかい?」
ふとそんな言葉を飛ばしたアルベドは、視線を彼女の腕へと向ける。今は服の下にきっちりと隠されてしまっているが、先程絵を描いていた時に、袖口からちらちらと包帯の姿が覗いていたのだ。
確か昨日まではそんな包帯など巻いていなかった気がするのだけれど……。アルベドの知らないところで怪我をしてしまったのだろうか。努力や弱みを人に見られることを嫌う彼女のことだから、聞いたところで深くは教えてはくれないのかもしれない。けれど、気づいてしまったからにはそれを問わずにはいられなかった。
「ああ、これかい? 大した怪我じゃないからそう気にしないでくれ」
「……」
ああ、やはり。
はぐらかすようなその言葉は、やんわりとアルベドを突き放す。彼女へ伸ばした指先が透明な壁に阻まれたかのような、そんな錯覚に襲われた。
彼女はいつも、どうしてかこうしてアルベドとの関係に一線を引いている。一定距離以上に近づくことを、彼女はアルベドに許してくれない。それがどうしてかも、アルベドには教えてくれない。かけらだって、覗かせてはくれない。
それを不満に思わないといえば嘘になる。けれど、それでも、彼女を問い詰めることはどうしたって出来なかった。
「さて、そろそろ師匠が帰ってくる頃だ。……言っておくけど、そのスケッチブック、絶対に師匠には見せないでくれよ」
触れないでくれ、聞かないでくれ、と。彼女の表情が、瞳が、声色が、そう囁いているように聞こえたから。
それを聞いてしまえばきっと彼女は哀しむのだろうと、どうしてかそんな気がしたから。
彼女の哀しむ顔だけは、見たくない。
それがアルベドの願いだった。
2021/3/16
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