君さえ


世界を知って


 世界はまだ、深い夜の中にあった。

 不意に覚醒した意識をどこへやることもせず、ただただぼんやりと天井を眺めながら、アルベドはゆったりと瞬きを繰り返す。恐らくいくらも眠っていないはずだというのにやけに頭は冴えていて、このまま再び目を閉ざしたとしても微睡みは訪れないのだろうということが痛いほどに察せられた。
 ひとつ深く息を吸って、そして吐く。しんと静まり返った夜の中に、その呼吸の音と自らの身動ぎから生まれた衣擦れの音とがこぼれ落ちていく。いっそ騒々しさすら覚えるほどの世界の静けさに、あの雪山のことがふと思い出された。
 おもむろに視線を窓の方へと向ける。透明な硝子の向こうに広がる空はもちろん夜の群青色に染まっていて。そこから降り注いでくる月の光がないことに、今夜が新月であるということを思い出した。

 ――この国、カーンルイアは、はるか昔に滅び、地底奥深くに隠された国である。

 それは、アルベドが自我を得てすぐにニグレドから与えられた情報のうちのひとつ。
 国が滅びた今もなおまだ人の住むこの地底世界に、何故『空』が存在しているのか。アルベドのその問いに、彼女は笑みを崩すこともなく応えた。

「空を失ってもなお、人々はこの地を捨てられなかった。――だから、空を『造った』のさ」

 あの雪空も、あの青空も、この夜空も、ニグレド曰く、全て全てがひとの手によって作り出されたまがい物なのだという。自らの生まれ育った地を捨てられなかった人々が生み出した、地上への郷愁なのだという。
 それを聞いたアルベドはただ頷いた。そうなのか、と。感動も何もなく、言ってしまえばその事実への本質的な理解もできぬまま。
 何故なら、アルベドは知らないから。
 本物の『空』を、一度も目にしたことがないから。

「……ニグレドは、見たことがある? 『空』を」

 そんな素朴なアルベドの問いに、ただ静かに微笑みだけを落とした彼女の姿が、表情が、どうしてか今もなおアルベドの脳裏にこびりついていた。


 再び瞬きを落として思考をふつりと途切れさせたアルベドは、視線を窓から引き剥がし、その勢いのままに身体を起き上がらせた。年季の入っているベッドがきしきしと衝撃に悲鳴を上げる。
 このままぼんやりとしていても仕方がない。ひとまず何か温かいものでも飲んで、それでも眠気が来なければ、本を読むなり研究の続きをするなりして夜を明かそう。そう考えたアルベドは、手近にあったカーディガンを羽織って寝室から抜け出した。

 あの雪山ほどではなくとも、やはり夜の世界というのは昼と比べれば幾分か寒いもの。靴底から、指先から、肩口からじわじわとにじり寄ってくる空気の冷たさを感じながら、アルベドは足早にキッチンへと向かう。
 今彼らが道中の拠点としているのは、恐らくカーンルイア滅亡の際にこの地から逃げ出したのだろう人が残して行ったとある家屋。そういった場所はこうして旅人らの仮宿とされることが多いため、手放されてからの年月にも関わらず存外手入れが行き届いているのだ。
 闇に溶け落ちた廊下を、手探りと直感だけで歩く最中。アルベドはふと、自分の目的地の方から光がこぼれてきていることに気付く。扉の隙間から細く線を描いているその橙の光を見るに、どうやら誰かがキッチンにいるようだ。そしてもちろん、その誰かが誰であるかなんて考える必要もない。

「ニグレド?」

 自らの姉弟子の名を呼びながら、アルベドはキッチンの扉を開いた。するとランプによる橙の光がよりいっそう濃度を増して、闇に慣れ始めていた瞳が眩しさにひるんでしまう。
 目をぱちぱちとさせて明るさに順応しようとするアルベドの視線の先には、やはり思った通りのひとの姿があった。

「おや、アルベド。どうしたんだいこんな時間に」
「目が覚めてしまってね。どうにも眠れそうにないから、温かいものでも飲もうかと思ったんだ。……ニグレドも同じ、かな?」

 こちらを振り返って微かに目を丸くした彼女へ、アルベドはそう答えを返す。そのまま彼女へ同じ質問を投げようとしたのだけれど、彼女の手元で片手鍋がくつくつと湯気を立てていることに気づいてしまえば話は早かった。

「ああ、まあね」
「……確かにキミ、今日の昼間にぐっすりと寝入っていたようだしね。あれだけ寝ていれば、それは夜眠れなくもなりそうだ」

 牛乳を温めているのだろうか。ふわふわとキッチンに漂い鼻孔をくすぐる優しい香りに、アルベドは小さく笑みを落とす。

「えっ、ちょっと君、何でそれを知っているのさ」
「昼間、キミの部屋に少しお邪魔させてもらっていたんだ。研究のことで少し聞きたいことがあって」
「……起きた時、記憶にないブランケットがかけられていたのも君の仕業か……それならその時に起こしてくれたらよかったのに」
「キミがあんまりにも心地よさそうに眠っていたから、起こすのもなんだか忍びなくてね」

 拗ねたような、どこか気恥ずかしそうな表情の垣間見えるニグレドの声に、アルベドは今日の昼間のことを思い出してまたくすくすと笑った。普段ニグレドが眠っている姿を目にすることなど滅多にないため、珍しいその姿を思わずしばらく観察してしまったということは、ニグレドの矜持のためにも自分の胸の内だけにしまっておこう。そんなことを考えながら。
 アルベドのその言葉に顔をわずかに顰めた彼女は、ふん、と鼻を鳴らして手元の片手鍋へと視線を戻した。どうやら彼女の飲み物づくりはもうすぐ終わるらしい。それなら次は自分が場所を借りよう――と、アルベドが1歩踏み出した時だった。

「君も、ホットミルクでいい?」

 どうやら、彼女はアルベドの分も飲み物を用意してくれるらしい。何の他意も衒いもなくあっさりと問われたその言葉に、アルベドは咄嗟に言葉を返すことが出来ず口を噤んだ。
 その沈黙を彼女は肯定と捉えたようだ。いや、もしかするとこちらの答えなど求めてはおらず、彼女の中ではアルベドがここに顔を覗かせたあの瞬間から、アルベドにもそのホットミルクを与える心づもりだったのかもしれない。アルベドの目の前に並べられたふたつのマグカップに、湯気をくゆらせるホットミルクが手際よく注がれていった。

「蜂蜜は? 入れる?」
「……もらおう、かな」
「はいはい。……って、何だいその変な顔」

 心臓の裏側がくすぐられているかのような、そんな心地に襲われる。なんだか沢山言いたいことがある気がするのに、不思議とそのひとつだって明確な言葉になってはくれない。そんなもどかしさを燻らせながらも、胸中には嬉しさやら喜びやら、そういったくすぐったい感情が満ち満ちていて。まだホットミルクに口を付けてすらいないというのに、どうしようもなく身体に温かさが染みわたっていく。
 ――彼女がこうして当たり前のように自分に心を砕いてくれることの嬉しさが、尊さが、愛おしさが、どうしてか今この瞬間、堪らないほどにアルベドの胸を食んでいったのだ。

「ううん、何でもないよ。ありがとうニグレド」

 その感情を噛みしめるように感謝の言葉を紡げば、ニグレドからはどこか訝しげな視線が送られてくる。別にこれぐらいいつものことだろう、と言外に言われているかのようだ。まあ確かに、彼女がこうしてアルベドの世話を焼いてくれるのはいつものことなのだけれど。
 弟弟子の面倒を見るのは姉弟子の権利で義務だ。いつか彼女が言っていた言葉が脳裏に蘇る。
 彼女にとっては当たり前のことに過ぎないのだろうその行動に、その言葉に、その思いに、どれだけ自分が喜びを覚えているのか。どれだけ自分の心が優しさに包まれているのか。
 いつかそれを、ちゃんと彼女に伝えたいと思った。伝えなければいけないと思った。

「――……ああそうだ、アルベド」

 優しい温かさを纏ったホットミルクをふたりで静かに味わっている最中、ふとキッチンに響いたのはそんな彼女の声。名を呼ばれたアルベドは、マグカップに落としていた視線を目の前の彼女へと向ける。

「どうしたんだい、ニグレド」
「眠気は訪れそうかな?」
「……まだ、だね。残念ながら」
「そうか。なら、少し散歩に行こうじゃないか」

 空になったのだろう彼女のマグカップが、机上にかたんと軽い音を立てた。突飛な彼女の提案に目を丸くしたアルベドの視線の先で、ニグレドは軽やかに椅子から立ち上がる。思い立ったが吉日、善は急げ、とでも言わんばかりの表情がこちらを見つめ返してきた。

「今日は快晴、さらには新月。天体観測にはもってこいの空模様だ」


  ***


 瞬きひとつの間にも空が落ちてきそうだ。と、そんな馬鹿げた錯覚すら覚えてしまうほどに、その星空は美しく雄大なものだった。
 夜の内に数えきることなど到底出来はしないだろうというほど空一杯にちりばめられた星たちは、そのひとつひとつが月に代わろうと言わんばかりにきらきらと明るく輝いていて。アルベドは、自分の呼吸や鼓動すら忘れるほどにその星空へ見惚れていた。

「美しいだろう?」

 場所は家屋の屋根の上。ここへアルベドを導いたニグレドが、アルベドと同じく屋根上に寝転んで空を仰ぎながら、そんな言葉を飛ばしてくる。それに対するアルベドの答えなんてただひとつしかありはしない。

「ああ、とても」

 自分の声が随分と弾んだものになっているということにすら気付かぬまま、アルベドはおもむろに星空へと手を伸ばした。こうしていれば本当にあの星々が手に入りそうな気がして。……まあもちろん、そんなことは起こり得ないと知ってはいるのだけれど。
 星に魅せられきったアルベドの様子に、ニグレドの満足げな笑い声が隣から聞こえてくる。未知に触れる度、世界を知る度に彼が見せる無邪気な姿を、この姉弟子はいたく好んでいるようだ。

「……これが造られたものだなんて、信じられないな」

 ぽつり、とアルベドの口から言葉がこぼれる。
 本物の星空をアルベドは知らないけれど、それでも、この星空を心から美しいと感じた。それなら、本物の星空は? 本物は、これ以上に美しいのだろうか。

 そんなにも美しいものが、本当にこの世界に存在するのだろうか。


「――人間の『空』への焦がれは、これほどまでに強かったということさ」


 静かな、静かな声だった。
 多大なる時間と労力と技術をかけて、地底にまで空を造り上げた人間の想い。その一端を、アルベドはこの時初めて肌に感じた。

「……いつか、見られるのだろうか」

 本物の空を、この目で。

「ああ、きっと見られるさ。そう遠くはない未来に」

 視線はずっと、星空を見つめていた。
 彼女の方へと傾きそうになるそれを必死に抑え付けながら、アルベドは言葉を紡ぐ。何とはなく、本当にただただ直感的に、今彼女の方を見てはいけないと、そう思ったから。
 吸い込んだ夜の空気はどこか冷たくて、吐いた息はかすかに震えていて。思わず声が掠れた。

「――ニグレドも、一緒に?」

 答えは無かった。

 だから理解した。
 自らが『間違えてしまった』のだと、理解した。

 呼吸が詰まる。遠ざかっていたはずの鼓動の音が鼓膜のすぐ傍に響いている。視線は未だ星空に縫い留められたまま。彼女の隣で、彼女と同じ空を見上げたまま。

「……そう、いえば、」

 沈黙を打ち砕くように、返されるのかもしれなかった彼女の言葉を遮るように、アルベドは再び口を開いた。全てを無かったことにしてくれと、そんな懇願の想いを込めて。

「星の明るさについて、なのだけれど」
「……うん」

 彼女からの相槌があったことに、アルベドは内心でほっと息を吐く。このまま話題を根底から全て変えてしまおう。そうすれば、彼女がこれ以上困ることもないはずだから。

「……いつか読んだ本で、星が恒星と惑星、そして衛星の3つに大きく分けられるというのを知ったんだ」

 恒星は自ら光を発している星。そして、惑星と衛星は恒星──ここでは特に太陽が挙げられるだろう──からの光を反射して輝いている星。天体にそう詳しくないアルベドは、この空に輝く星のどれが恒星で惑星なのかも分かりはしない。

「恒星の明るさがそれ自身の放つ光量によって変わるというのは分かるのだけれど、それ以外の惑星と衛星の明るさは、一体どんな要因によって左右されるのだろう」

 星はその明るさによって1等星から6等星までに分類されている。確かにこの空にも、目を惹くほどに眩い星から、目をこらさなければ存在にも気づけないほどに暗く輝いている星まで様々な明るさの星が存在していた。

「……そうだね。単純に地上からの距離だったり、その星の大きさであったり、特に月であれば満ち欠けによる輝面比であったり、あとは、――反射能であったり、かな」
「反射能?」

 聞き慣れないその文字列に、アルベドは彼女の言葉を反芻して問いかけた。

「ああ。惑星や衛星が、太陽から受けた光のうちのどれだけの光を反射できるのかという比率のことだ」
「それはつまり……反射能が高ければ高いほど、太陽から受けた光の多くを反射するから明るくなる、ということかな?」
「その通り。例えば……雪山で見たあの雪原は、太陽の光を反射してとても眩しかっただろう? あんな風に雪で表面を覆われた星は、反射能が高いために地上から見える明るさが強くなると考えられる」
「なるほど……」
「……ああ、そうそう。確かこの反射能のことを『アルベド』とも言うらしいよ」

 思わず、視線を彼女の方へと向けた。まさか今このタイミングでその文字列が紡がれるとは思ってもいなかったから。
 アルベドの視線に応えるように、彼女の視線も星空からアルベドの方へと移される。夜闇と星明かりの中に浮かぶ青い双眸は、どうしてか昼間に見るそれよりもきらきらと輝いているように見えた。

「君と同じ名だ」

 ゆるりと柔らかく、彼女の瞳が、唇が、優しい弧を描いた。彼女のその微笑みは、いつもアルベドの心を酷く穏やかにする。
 はじめからそうだった。いつだってそうだった。彼女はアルベドの全てを許し、そしてアルベドの存在自体を心から慈しんでくれる。

 それが嬉しかった。本当に、本当に。

 ──けれど今はそれが、今までの何よりも、この世界の何よりも、悲しくて切なくて堪らなかった。

「……ニグレド、ボクは、」
「ほら、アルベド。そろそろ眠気も訪れた頃だろう? そのまま眠ってしまいなさい。ちゃんと私がベッドまで運んであげるから」

 アルベドの隣でおもむろに起き上がった彼女が、その手のひらでアルベドの視界を覆い隠す。星空も、夜闇も、彼女の姿も、全てがアルベドの世界からかき消えた。背中に屋根の無機質な冷たさを感じながら、鼓膜に彼女の声を聴きながら、アルベドは闇の中に落ちていく。その闇は、あのがらんどうな世界とは全く違う温かさに満たされていて。意志とは裏腹に意識がだんだんと掠れていった。
 言いたいことがあるのに、伝えたいことがあるのに、確かめたいことがあるのに。唇はただ呼吸を繰り返すだけで声を紡ごうとはしない。こうして言葉を飲み込むことを、自分は一体いつの間に覚えてしまったのだろうか。

「――アルベド。白亜の子。私の弟弟子」

 瞼に触れた彼女の指先が、わずかに震えているような気がした。手袋に覆われていないその肌は相変わらず滑らかで、そして――――とても、冷たくて。

「レインドットの生み出した、最高傑作」

 今までに何度も何度も繰り返し聞かされたその言葉が、眠りゆく意識の爪先に触れた。
 まるで、誰かに言い聞かせるかのような声色。


「大丈夫、大丈夫。君の未来は、本物の星空のように明るく、そして美しいものなのだから」


 ……でも。でもね、ニグレド。

 この星空を、美しいと思った。
 きれいだと思った。
 ずっとずっと眺め続けていたいと、そう思った。

 彼女が隣にいたから。
 彼女と同じ星空を見上げていたから。


 ――隣にキミがいないなら、本物の星空にも意味なんてないんだよ。


 彼女の首元に白い包帯が覗いていた。
 本当はもう、ずっと前から気づいていた。

 その時がゆっくりと、けれども確実に、自分たちの目の前へ迫ってきているのだということに。



2021/3/22
※反射能(アルベド)についてはネットからの知識で記載させていただいております、何か間違えていましたらすみません

2021/3/23
加筆修正

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