君さえ


君が君らしくあるために


 部屋の扉をノックしても返事がなかった。その時点で部屋の主がどんな状況かについてある程度の想像がついてしまったアルベドは、簡単な軽食を並べたトレーを片手に、やはり出直すべきなのだろうかと数秒ばかり逡巡する。
 アルベドがこの部屋の主であるニグレドの姿を最後に見たのは、昨夜のまだ早い時間のこと。それから今日のこの夕暮れの迫りくる時間までずっと、彼女はこの部屋に閉じこもって寝食も疎かに研究を続けているらしいのだ。
 今朝も今のように食事を片手に部屋の扉を叩いたのだけれど、その時は扉越しに「後で食べるよ」とだけ言われてにべもなく追い返されてしまった。アルベドとて彼女の研究の邪魔をするのは本意ではないため、渋々ながらもそれ以上食い下がることはしなかった。しかし、流石にこの時間まで何も食べずにいるとなればそうも言ってはいられない。
 錬金術の研究には多大なるエネルギーを使うため、合間に軽食だけでも口にしておいて欲しかった。自分はそう言った点で幾らか無理の効く身体をしているけれど、彼女はそうではないのだから。
 ノックに返事がなかったことから推測すると、彼女はもしかすると疲れて眠ってしまっているのかもしれない。けれど、だとしても、せめて姿だけでも見ておきたかった。
 こんなにも長い時間彼女の姿を見ないことなど、今までにアルベドは経験したことがなかったから。

「……ニグレド、入るよ?」

 形だけのその断りへの応えも、もちろん返っては来ない。扉に手をかけ、出来る限り音を立てないようにと気を付けながら押し開けた。
 扉から入ってすぐ正面の壁に設けられた大きな窓の向こうから注ぎ込む夕暮れの始まりの色彩が、柔くアルベドの網膜を焼く。それに思わず瞳を細めながら、アルベドは部屋の中にぐるりと視線を巡らせた。鼻孔をくすぐる薬品たちの香りは、アルベドが普段使用しているそれらのものとはやはりどこか違っていて。ああ、彼女の香りだ。と、自然に心が落ち着いた。
 窓辺に置かれた机を中心に広げられた、研究器具や書籍、資料の数々。山となったそれから視線を逸らして部屋の隅に置かれた簡素なベッドを視界に切り取る。アルベドの探していたこの部屋の主は、やはりそこにいた。
 ブランケットに包まる余裕もなく、スイッチが切れたようにベッドへ倒れ込んだのだろう。ブランケットすらもシーツのように身体の下へ敷いたまま丸くなってすやすやと眠る彼女の姿は、いつか図鑑で目にした小動物に似ていた。
 手に持っていたトレーをベッドサイドの小さなテーブルに置いたアルベドは、彼女を起こしてしまわないよう細心の注意を払いながら、彼女の身体の下に辛うじて敷かれていないブランケットの一部分を引っ張り彼女の身体の上にかけた。気休め程度にしかならないだろうけれど、何もないよりはいくらかましだろう。女性は特に身体を冷やしてはならないのだと、何かの本にそう書いてあったことであるし。
 ベッドのかたわらにそっとしゃがみ込み、眠るニグレドの顔をそっと覗き込む。目の下に濃い隈が描かれ顔色も悪いその姿は決して「健康」とは言えないものだが、寝顔自体はとても健やかなもので。すやすやと穏やかな寝息に、アルベドは無意識のうちにほっと安堵の息を吐いていた。

 ――最近、こうしてニグレドが眠っているところを目にすることが少しずつ増えてきているような気がするのは、ただのアルベドの気のせい、だろうか。そんなことをふと考えてしまったのは、それを気のせいだと結論付けてしまいたいからなのか。それとも、必要とする睡眠時間が増えているということの理由を、理解したくないからなのか。

 アルベドはそこで意図的に思考回路の糸を切った。腹の奥底が酷くざわざわとして堪らなくなってしまったから。これ以上考えたくはないと、そう願ったから。
 窓の向こうに広がる空は少しずつ橙に染まり始め、1日の終わりがもうじき訪れるのだということをこれでもかというほどに知らしめる。眠るニグレドの顔にかかったひと房の髪をそっと避けてやり、アルベドはおもむろに立ち上がった。そうして視線をぐるりと巡らせ、ニグレドが実験台として使用している窓際の机へと向ける。
 三角フラスコにビーカー、シャーレに試験管と様々な実験器具が並んだその机の真ん中に、見慣れない色彩が佇んでいた。まだランプの灯されていないやや薄暗い部屋の中に、けれどもその鉱石はわずかな光をかき集めてきらきらと輝いている。
 ふらふらと吸い寄せられるように机へと近寄った。
 ガラス製のビーカーの中で花開くように輪郭を描くそれは、深海の色を閉じ込めた美しい鉱石。きっとこの鉱石こそが、彼女が夜通し錬金していたものなのだろう。
 今まで見てきた彼女の作品たちは、全てが全て非の打ち所もないほどに美しいものだった。けれどこれは、それらのどれをも超越して美しく完成され切っていて。
 この宝石こそが、彼女の、ニグレドという天才錬金術師の最高傑作に違いない。そんな思いが理由もなくアルベドの胸の内に込み上げてきた。
 じわりと窓の向こうで世界が滲む。夕焼けの橙を孕み始めた太陽光がさらさらとアルベドの手元へ差し込んできた。つい一瞬前まではまだ「昼」であった世界が、途端に「夕暮れ」へと変わっていく。
 反射的に窓の外へと向けた視線を、再び手元に佇むその鉱石へと戻した。そして鉱石の輪郭を、色彩を視界に映し取ったその瞬間、アルベドは咄嗟に息を呑む。

「……っ、色が、」

 それは、ビーカーの中に息づくその鉱石の色が、瞬きの間に赤い色へと変化していたから。つい先ほどまでは確かに深海の青色をしていたはずだというのに。
 驚くべきその変化に興味を惹かれたアルベドは、ビーカーに顔を近づけて中の鉱石をじっと観察する。見る角度が原因だろうかと様々な方向から鉱石を眺めてみるけれど、夕暮れの中に輝くその色は赤色からぴくりとも変わらないまま。
 ……となれば、原因として考えられるのはただひとつ。

「――光の色の違いで色が変わる、のか」

 先ほどまでこの鉱石を照らしていたのは、昼下がりのまだ白い太陽光だった。けれども今は、夕暮れに染まった橙の太陽光によって照らされていて。
 試しにとばかりに、アルベドは手近にあったランプへ火を灯した。空に浮かぶ太陽の光よりさらに暖色の強い燃焼光が机上を照らす。その下に輝く鉱石の色は、先程よりもさらに鮮やかな赤い色。ああやはり。ほとんど確信めいた考えがアルベドの脳裏に浮かび上がる。
 ニグレドが目を覚まして食事を摂ったら、この鉱石について聞いてみよう。ワインをこぼしたかのようなその鮮やかな色彩に視線を惹き付けられながら、アルベドはそんなことを考えた。

「――……そのとおり、ごめいとう、だよ」

 眠気にふわふわと覚束ない声が聞こえたのは、その直後のこと。
 慌てて視線をベッドの方へと向ける。すると、そこで眠っていたはずの彼女が大きな欠伸をこぼしながらものそのそと身体を起き上がらせている姿が視界に映り込んで。

「すまない、起こしてしまったかな」
「いや、元々短い仮眠の予定だったから気にしなくて構わないよ。それよりも、それ。美しいだろう?」

 眠たげに瞼を擦った彼女は、ゆったりと視線をアルベドの手元へと向けた。その表情がまだ微睡みを残しながらもどこか誇らしげなものだったから、アルベドもまた、ビーカーの中に息づく鉱石へと視線を落とした。

「……ああ、とても美しいよ。思わず魅入ってしまうほどに」
「ふふふ。そうだろう、そうだろう。その鉱石は他でもない誰でもないこの私の最高傑作なのだからね」

 ベッドの上に座り込んだ体勢のまま、ニグレドはいつもの調子でそう胸を張る。彼女らしいその言葉にああやはりと思うと同時、言葉にし難い感情がアルベドの胸を食んだ。切なさにも似たその複雑な感情につけるべき名前とは、一体何なのだろう。
 考えることは好きだ。好きなはず、だというのに。どうしてこうも彼女のことを考えようとする時ばかりは思考を回すことから逃げ出したくなってしまうのだろう。
 分からない。分からないままでいたい。
 どうしてそんなことを思ってしまうのかさえも知らないままでいたいと思った。それを知ってしまうぐらいなら、分かってしまうぐらいなら、理解してしまうぐらいなら、このままここで足を止めてしまいたい。そんなことを、思ってしまった。
 そんなことを口にすれば、きっと彼女は自分に失望してしまうのだろう。だからこそ、アルベドはまた全てを胸の奥底に押し込めて蓋をした。

「その鉱石――アレキサンドライトの色が変わって見えるのは、君の言った通り光源の違いによるものだ。アレキサンドライトの中にはクロムという不純物がごくわずかに含まれていてね。このクロムというのがなかなか厄介で、私も随分と手を焼かされたんだよ」

 錬金成功の興奮が眠ってもまだ冷めやらないのだろう。瞳を輝かせながらすらすらと饒舌に話し続けるニグレドの言葉に、アルベドは静かに耳を傾ける。
 ふとした言葉の切れ間に、ニグレドがアルベドを手招いた。それと同時にビーカーが指差されたということは、つまりビーカーを持ってこちらに来いということだろう。
 それに従うまま机からビーカーをそっと持ち上げ、アルベドは彼女の佇むベッドへと歩み寄った。彼女の最高傑作である鉱石が今自分の手の中にあるのかと思うと何だか緊張が込み上げてきて、床を踏む爪先に力を籠めざるを得なかった。
 何とか無事にベッドのそばへとたどり着いたアルベドは、そのままニグレドに促されるままベッドに腰を下ろす。暮れ始めた空から降り注ぐ太陽光と机の上に残してきたランプの燃焼光とを横顔に受けながら、上半身だけで彼女と向かい合った。

「結晶構造自体はそれほど複雑ではないのだけど、ここまでの明瞭な変色効果を持たせるのがどうしても難しくてね。どの程度の量のクロムを、結晶構造のどこに組み込むのか。最後は最早芸術の領域だったよ」

 アルベドの手からビーカーを受け取り、それをランプの光に翳しながら、ニグレドはぽつりぽつりと語っていく。彼女の肌に、瞳に、鉱石越しにこぼれ落ちてくる赤い光が不思議な模様を描いていた。
 黄色系の光を吸収し、青緑系と赤紫系の光を反射するという特質を持ったクロムは、昼間の太陽光など青緑系の光を多く含む光源の下では青緑系の光を反射するために青や緑を、夕暮れの太陽光や蝋燭の燃焼光など赤紫系の光を多く含む光源の下では、赤紫系の光を反射するために赤や紫を宝石の色として示す。酷く繊細な技術と膨大な知識、そして積み重ねられた経験を必要とする錬金術の下にこの鉱石は生まれたのだなと、アルベドは再びの理解を深く胸に落とした。
 それは確かに、『最高傑作』の4文字を冠するに相応しい存在だった。

「ずっとずっと、この鉱石だけは絶対に、何としてでも作り上げたいと思っていたんだ。…………ようやく、叶った」

 噛みしめるようなその声に、胸のあたりがぎゅうと締め付けられる。苦しい、とはまた何かが少しだけ違うもどかしさ。満足げに微笑む彼女の横顔があまりにも穏やかで美しくて、どうしてか今すぐに大声を上げて泣き叫びたくなる衝動に襲われた。
 ニグレド。声もなく彼女の名を呼ぶ。そうすると聞こえるはずもないのに、届いているわけもないのに、彼女はその呼び掛けに応えるかのように視線をこちらへと向けてくるのだ。

「――アルベド」

 なんだい。いつものように答える言葉が喉につっかえてしまって、ただただ視線だけを彼女に注いだ。
 そんなアルベドの姿をどう見たのか、何を思ったのか、彼女はくすりと笑みをこぼして手の中のビーカーをベッドの上に置いた。そしてそのまま空いた両手をアルベドの方へ。伸ばして。

「ありがとう、アルベド」

 彼女の鼓動の音が微かに聞こえた。とくとく、とくとく、彼女のいのちが規則的なリズムを刻んでいる。

「……それは、ボクの台詞だよ」
「ふふ。そうだね、君は私にありったけの感謝をしないとね。……でも、私だって君に感謝しないといけないことが沢山あるんだ。君が『君』でいてくれたからこそ、私は──」

 そこではたりと彼女は言葉を途切れさせた。続く言葉を見失ったのではなく、きっと呑み込んだのだろう。それが躊躇によるものなのか、それとも何らかの意図を持ってのものなのかは分からない。不自然に落ちた曖昧な沈黙を紛らわせるように彼女の手が優しくアルベドの頭を撫でていく。相変わらずその指先は冷たいけれど、触れられた部分は堪らなく温かかった。涙があふれてしまいそうになるほどに。

「……明日の朝は久しぶりに買い物に行こう。昼には来客がある予定だから、そのつもりでいるんだよ」
「……うん、わかった」

 ニグレドは聡明なひとだ。だからきっと、アルベドが気づいていることさえも、彼女はもう既に知っているのだろう。それでも彼女が何も言わないのは、何も問わないのは。

「よし。それじゃあ君が用意してくれたご飯を食べて、今日はもうゆっくり休むことにしようかな」

 アルベドは沢山のことを彼女から教わってきた。錬金術のことだけではなく、生活における知識も、自らの身の守り方も、人との関わり方も、感情も。

 そして彼女が最後に教えてくれるのは、きっと、


「……アルベド?」


 彼女の背に手を回し、縋りつくように抱きしめる。華奢なこの身体はこんなにも小さかっただろうか。籠める力を少しでも間違えてしまえば今にも儚く壊れてしまいそうな気がして、堪らない恐怖が脳裏を過った。


「……もう少しだけ、このままでいさせてくれないかな」


 拒否や拒絶の言葉はない。鼓膜のすぐ近くに聞こえる彼女の鼓動の音の心地よさに酔いしれるがごとく、アルベドはそっと目を閉じた。


2021/3/24

- 6 -

*前次#