君さえ


精一杯生きなさい


 目が覚めて一番に知覚したのは、カーテンの隙間からこぼれ落ちてくる優しい朝陽の眩しさだった。
 ベッドに横たわったまま数度瞬きを落とす。微睡も少なくはっきりと目覚めた意識は抵抗もなく朝を受容し、今日という1日を始めようとしていた。
 昨夕にニグレドから伝えられた今日の予定を頭の中に反芻しながら、ベッドから起き上がったアルベドはてきぱきと身支度を整える。最後に手袋を身に着けようとして、自らの私物一式を納めた大きなトランクに手を伸ばした。

「……まだ癖が抜けないみたいだ」

 思わず自嘲を孕んだ声が喉からこぼれ落ちていったのは、自らの指先が無意識のうちに『それ』に触れていたから。まるでそれがいいのだと言わんばかりに、『それ』を望んでいたから。
 何とはなく、感傷に浸るかのようにその使い古した皮の手袋を取り上げた。サイズが合わなくなってしまったのはもう随分前のことだというのに、どうしてかその手袋を処分することは未だに出来ないまま。
 あの雪山でのことを思い出す。まだニグレドよりずっと背が低くて、手のひらもこの手袋がぴったりなぐらいに小さかった頃のこと。確かその時は自分を子ども扱いする彼女に不満を抱き、早く成長したいと願っていたはずだというのに。

 ――今は堪らなく、あの幼い日々がもっと長く続けばよかったのにと思ってしまうのだ。

 それはなんて傲慢で自分勝手な願いなのだろう。なんて切なく儚い願いなのだろう。もう二度と叶いはしないことが定められた自らの想いに郷愁をくすぐられながら、アルベドはまた自嘲の滲む笑みをこぼした。
 いつかニグレドがアルベドのためにと作ってくれたその手袋をそっとトランクの中にしまい、アルベドは自らの手にぴったりと合う使い慣れた手袋を身に着けた。

 立ち上がってひとつ伸びをし、部屋を出てキッチンの方へと向かう。その道中でふと鼻孔をくすぐった食欲をそそる香りに、アルベドはぱちりと目を瞬かせた。
 意図せず幾らか早くなった足音が廊下に軽やかなリズムを刻む。キッチンに続く扉の前に辿り着けば、その香りはより一層深みを増してアルベドを包み込んできて。
 扉を開ける。網膜に柔らかな朝の陽ざしが飛び込んで来る。くつくつとスープが沸騰する音が聞こえる。
 そこには「朝」が佇んでいた。

「ん? ……ああ。おはよう、アルベド」

 アルベドは知っている。

「――おはよう、ニグレド」

 この光景を、この感情を、この暖かさを、
 世界は「幸せ」と呼ぶのだと。


  ***


「うーん、それじゃあこっちはどうかな? お姉さんの黒髪に、きっとこの赤は映えると思うよ」

 沢山のきらめきを中心に村人たちと言葉を交わす彼女の姿を少し離れたとろで眺めながら、アルベドはここまでに手に入れた荷物の整理を黙々と行っていた。食品に日用品、衣料品、薬品とかなりの量の買い物をしたけれど、恐らくそれにかかった費用のほとんどは彼女の手腕によって戻ってくるのだろう。商才すらも身に着けている自らの姉弟子に、アルベドは胸中で感嘆の息を吐く。
 もちろん、こんなことをしなくたって生活のための費用はレインドットから十分すぎるほどに与えられているのだけれど。やはりそれにただ甘えることを善しとしないのがニグレドというひとであって。
 彼女は自らが錬金術によって錬成した鉱石を加工して様々な装飾品にし、それらを旅の中で訪れた町や村の特に女性たちへ向けて物々交換の対価として提示しているのだ。
 彼女の生み出す鉱石はどれも発色が良く輝きも美しいため、そういった装飾品を好む女性は誰しもがひと目で心を射抜かれる。今日のこの村でもそうだ、気付けばひとりまたひとりとニグレドの回りに女性たちが集まって来ていた。

「ねえ錬金術師さん、わたし、自分に似合うネックレスを探しているのだけれど……」
「うんうん、ネックレスもこっちに用意しているよ。貴女に一番似合うものを一緒に探そうか」
「俺は家内にプレゼントをしたくて……」
「おお、いいじゃないか。奥さんはどんな色が好きなのかな?」

 装飾品を手にした村人たちが、喜色満面の表情を携えてひとりまたひとりと去っていく。それを見送る彼女のかんばせも、堪らなく柔らかな笑みを湛えていて。彼らのその幸せそうな表情を見ることが好きなのだと、いつかニグレドが話していたことをふと思い出した。アルベドは、本当は彼女の錬成した鉱石たちをそんなことに使うのは少し勿体ないと思っているのだけれど、彼女のそんな姿を見せられてしまってはもう何も言えやしなかった。
 そうして最後の客が帰っていく背中を見届け、本日のニグレド装飾品店が閉店したことを確認したアルベドはようやく荷物を抱え直して彼女の傍へと歩み寄る。どうやら今日用意して来ていた装飾品は全て無事に貰い手が見つかったらしい。つい先ほどまではありったけのきらめきが詰め込まれていたはずの空のケースを片付けるニグレドは、鼻歌混じりで大層ご機嫌な様子だ。

「今日も完売かい?」
「ああ、有難いことにね。自分の作品を必要としてもらえるというのは、やはりとても嬉しいことだよ」

 元々少し大きな敷布だけで作られていた簡素なその屋台の片付けはもちろんあっという間に終わり、後はもう荷物を全て抱えて今の拠点へ帰るだけとなる。

「……ニグレド? どうしたんだい?」

 しかしどうしてかその場から動こうとしないニグレドに、アルベドは首を傾げながら問いかけた。確か今日は昼から来客があると言っていたはずだというのに。まだ時刻こそ昼に差し掛かった程度ではあるけれど、彼女の性格を思えば早く帰って来客に備えようとしそうなものだというのに。

「もう少しだけ待ってくれないかい? ちょっと約束があってね」

 約束、とは一体何だろう。アルベドが首をさらに深く傾げると同時、どこからか聞き慣れない女性の声が聞こえてきた。

「錬金術師さん、お待たせしてすみません」
「いやいや、先に無理を言ったのはこちらなのだからそう気にしないで。手間をかけてしまってすまないね」
「ふふ、素敵なイヤリングを格安で譲って頂いたのですから、これぐらいお安い御用です。こちらのスケッチブックで大丈夫でしょうか?」
「ああ、助かるよ」

 自分を置き去りにして目の前で繰り広げられるその会話に、アルベドはぱちぱちと目を瞬かせることしか出来ない。どうやらニグレドは、いつの間にやらこの女性にスケッチブックを譲ってくれないかと頼んでいたらしい。
 きっと、多分、今使っているスケッチブックがもうすぐ終わってしまうアルベドのために。
 去って行く女性にひらひらと手を振るニグレドの横顔を見やる。彼女の視線がアルベドの方へと向けられたのは、その3秒後のこと。

「……ニグレド、それは……」
「ん? だってもうすぐ終わってしまうだろう、今君が使っているスケッチブック。さっきの店でも次の入荷はかなり先だと言っていたことだし、今度手に入るのがいつになるか分からなかったからね」

 アルベドが研究のためだけではなく趣味の一環としてもスケッチを楽しんでいることを、ニグレドは知っていた。だからこそ、弟弟子の楽しみが途切れてしまわぬようにと配慮してくれたのだろう。
 酷く丁寧な手つきでそのスケッチブックを荷物の中へしまう彼女の姿に、アルベドはそっと唇を噛みしめる。
 嬉しい、と、心が泣き叫んでいた。

「――ありがとう、ニグレド」

 その悲鳴の上澄みだけをかき集めて口にする。そうすれば彼女は満足げに笑って、どういたしましてと答えてくれるのだ。その言葉にさえ、その表情にさえ、胸がひりひりと焼きつくような痛みを訴えて仕方がない。

「……ニグレドは、何か欲しいものはないのかい?」

 くわりとひとつ欠伸を落とす彼女へ、アルベドはそんな問いかけを投げる。唐突なそれに目を丸くした彼女は少し考えるような素振りを見せて、そうしてすぐに唇を震わせた。

「いいや、特にないね。強いて言うなら…………師匠と君が、これからもずっとずっと健やかで幸せに生きてくれたなら。私はもうそれだけで十分だ」

 酷く穏やかなその表情に言葉が詰まる。咄嗟に開いた唇からは声のひとかけらも生み出されぬまま、ただただ浅い呼吸だけが繰り返された。
 彼女を悲しませずに、傷つけずに自らのこの想いの丈の全てを打ち明ける方法を、言葉を、アルベドはまだ知らなかった。分からなかった。ああ本当に、どうしてこの感情というものはこんなにもままならないのだろう。
 けれども、それでもただひとつだけ、伝えなければならない言の葉がこの手の中にあった。

「――ボクも、……ボクだって、キミに幸せでいて欲しいと、……そう、願っているよ」

 本当に、心から。
 弱々しく尻すぼみになっていく声は、けれどもこの距離にいる彼女へだけは確かに届いていることだろう。ふたりの間を通り抜けていく風だって、今ここには存在しないのだから。

「……ふふ、ありがとうアルベド。でも私はね、もう十分に幸せ者だよ」

 満ち足りたその微笑みには、ひとかけらの嘘も混じってはいなかった。それを理解してもなお、アルベドの心の中にはずっと、「違う」、「違う」と、何かを否定する声が響き続けている。いいや、否定しているのではない。その声はきっと、拒絶しているのだ。

 たとえば今、「幸せ」とは何か問われたならば。アルベドは、一番に彼女と過ごしてきたこれまでの記憶の全てを思い出す。あの雪山を、あの鉱石を、あの絵を、あの星空を、あの夕暮れを、あの朝を。彼女と共に生きてきた時間を。
 アルベドの「幸せ」に、ニグレドという存在は必要不可欠なのだ。それこそ、その存在こそが「幸せ」の1画目なのだと言っても過言ではないほどに。

「さ、そろそろ帰ろうか。早くしないとアリスさんが来てしまう」

 だからこそ彼女が「幸せ」と定義づける「それ」を、アルベドは「幸せ」だなんて呼びたくはなかった。
 だって彼女はこの先に起こる全てを理解し、受容し、包み込んだうえでその「幸せ」を謳っているのだから。「幸せ」だと笑っているのだから。

「そっちの荷物、私が持つよ。重いだろう」
「――大丈夫。これぐらいは軽いものさ」
「おや、君も随分と力持ちになったねぇ。……ま、それもそうか。昔はこーんなに小さかったのに、今じゃ身長もほとんど私と同じだものね」
「……手も大きくなったよ。ほら」
「本当だ。そういえば、前にあげた手袋、もうサイズが合わなくなってしまっていたしね。全く、子どもの成長は早いものだ。来週には身長も越されてしまっているかもしれない」
「……まだまだ先のことだよ、そんなの」
「いやいや、そうも言っていられないんだよ、これが。あと数年すれば君の身体の成長も人間よりいくらか緩やかになるだろうけれど、今はれっきとした成長期の只中なのだから」
「……」
「私の背はもう伸びないからねぇ。背を抜かれてしまうのは少し悔しいけれど、それもまあ仕方のないことだ」

 アルベドが目覚めたあの日から、もう5年余りの月日が流れていた。
 背が伸び、顔つきが変わり、声が変わった。アルベドはこの5年間で成長してきたのだ、ゆっくりと、けれども確実に。
 あの日から何も変わらない、彼女の隣で。

 ――残念ながら、私と君は全く違う存在だ。

 あの日聞いた彼女の言葉が脳裏に蘇る。同時に込み上げてきた悲しさがあまりにも深くて、思わず足が止まりそうになった。足を止めて、しゃがみ込んで、そのまま泣いてしまいたかった。
 でも、彼女は望んでいない。アルベドが泣くことを、悲しむことを、ひとかけらだって。

 だからこそ、アルベドは涙を堪えて前を向いた。

 いつだって自分よりも誰かのことを大切にしようとする彼女のことを、アルベドは誰よりも大切にしたかったから。


  ***


 その日彼らの仮宿へと訪れたアリスという女性は、レインドットの旧友であり、ニグレドとも昔から交流のある人なのだという。ニグレドとも、もちろんレインドットとも全く気質の異なる彼女は、まるで嵐のような人だった。
 最初はそれにたじろいだアルベドではあったが、それも夕食を過ぎる頃には落ち着き、世界各地を冒険しているのだという彼女の話へニグレドと共に懸命に耳を傾けるほどとなっていた。
 特に用があるわけではなくただ旧友とその弟子たちの様子を見に来ただけだという彼女は、今日明日と滞在し、明後日には帰宅する予定らしい。

「そういえば、娘さんはお元気ですか?」
「うん、と〜っても元気よ。この間なんてあの子、うちの作業小屋を爆発させてねぇ」
「……ニグレド、それは『元気』で済ませていい話なのかな」
「……うん、まあ、そうだね。ちょっとお転婆なようだけど……元気がないよりはいいと思うよ、うん」

 ちょっと、なのだろうか……。
 娘の成長を懇々と語るアリスの話を聞きながら、アルベドはニグレドの隣でこてりと首を傾げた。やはり世界というのはアルベドが思っていた以上に広いらしい。そんな結論で何とか全ての疑問を飲み下し、それ以上深く追及はしないことにした。多分、恐らく、賢明な判断だったのではないかと思う。

「――ニグレドは、今も錬金術の研究をしているのかな?」

 突然静けさを帯びたアリスの声に、思わず背筋が震えた。空気が張り詰めたような心地を覚えて呼吸が詰まる。それが恐怖感や切迫感によるものではないことは分かっていた。何故なら言葉を紡いだアリスの表情は、それまでと変わらずどこまでも穏やかなものだったから。
 呼吸をすることすら憚られるその空気に、アルベドは息をひそめたまま恐る恐る視線をニグレドの方へと向けた。真っ直ぐにアリスを見つめる彼女の横顔もまた、変わらず穏やかで。いっそ凪いでいると表現してもおかしくないぐらいに静かだった。

「はい。だって私は、『錬金術師』ですから」

 その言葉が指し示す内容は、アルベドにとって常識とも呼べるほど当たり前の事実で、疑うべくもない真理だった。
 どうしてアリスはそんなことを聞いたのだろう。疑問がごうごうと胸の内に吹き荒れるけれど、アルベドは、本当はその答えすらももう既に自らの中に持っていた。

「……そうか。貴女は、その道を選んだのか」

 そっと目を伏せたアリスの声が、掠れた響きでアルベドの鼓膜を震わせる。まるで独り言じみたその言葉には、あまりにも複雑に彼女の感情が入り乱れていた。ぐちゃぐちゃと、からまりきった毛糸玉のように。

 けれどアルベドは、今アリスが抱いているその思いの全てを理解できるような気がした。

 きっとアリスもニグレドのことを錬金術師として認め、そのあり方を喜び慈しみ望んでいるのだ。錬金術師であることを誇りとする彼女を理解し、尊重しているのだ。けれどその果てに何が待っているのかも彼女は知っているから、だからこそどうしても悲しくて、切なくて、苦しくて、遣る瀬無い。
 本当は、錬金術なんて今すぐにやめてしまえと言いたいのだろう。だってそれを手放せば、彼女は。
 けれどそれは、ニグレドにとってこの世界で何よりも残酷な言葉。彼女の存在を、在り方を、誇りを、全てを否定する冷酷な言葉。

 だからこそ、言えない。
 ――アルベドも同じだった。


「……もう夜も遅くなりましたし、そろそろ寝ましょうか。アルベドも、部屋に戻りなさい」


 沈黙の落ちたリビングを解きほぐすために、ニグレドは穏やかな声でそう言った。アルベドもアリスもまだその表情は硬いけれど、これ以上彼女に気を遣わせるわけにはいかないと彼女の言葉へ素直にうなずく。
 寝る支度を整えて自室へ戻ろうとする途中、アルベドはふと、まだリビングにアリスとニグレドが残っていることに気づいて足を止めた。静かな彼女たちの声が、扉越しに微かに聞こえてくる。


「――……もう、時間はあまり残されていない」


 頭の天辺から冷水を浴びせかけられるような錯覚を覚えた。凍り付いた爪先が廊下に貼りついて、身体から意識の全てが遠ざかっていく。けれども唯一残された聴覚だけは、あまりにも鮮明に全てを聞き遂げていて。
 どくどくと、自らの心臓の音が鼓膜のすぐ傍に聞こえていた。


「だからどうか、……どうか、アルベドのことをよろしくお願いします」


 涙を滲ませた懇願の声。彼女のそんな声を聞いたのは、それが初めてのことだった。
 だからこそ、ようやくアルベドは理解した。いいや、違う。理解はしていたのだ、それを許容していなかっただけで。見て見ぬふりをし続けていただけで。拒絶し続けていただけで。

 その日がもう、手を伸ばせば触れられる場所まで迫っているということを。



 ――世界の奥底で「ナベリスの心」と呼ばれる聖遺物が見つかったのは、それから丁度2週間後のことだった。


2021/3/26

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