君さえ


それじゃあ


 朝目覚めた時にはもう既に、レインドットの姿は仮宿から忽然と消えていた。仮宿のリビングの机の上に残されていたのは1枚のメモと、推薦状と、1冊の書物だけ。アルベドに与えられたのは「白亜の申し子」という称号と、到底解けそうにもないレインドットからの最後の課題だけ。
 それらの全てを前に、アルベドは言葉もなく佇むばかり。机を挟んで向かい側に座っているニグレドを見つめることも、今は出来なかった。
 アルベドをモンドへ向かわせると記された、レインドットからの置手紙。その国名をアルベドは確かに知っていた。以前アリスが言っていた、彼女が今家族と共に暮らしているという、地上にある自由の国だ。
 そこへ向かうようにと指示されたことには、まだ辛うじて頷くことが出来た。訳有って姿を消したのだろうレインドットの代わりに、旧友のアリスの下で最後の課題の取り組ませるということにも、まだ。

 ──けれど、ただひとつだけ。

「……ニグレドは、これから一体どうするんだい?」

 その手紙には、ニグレドの名が記されていなかった。
 彼女はレインドットの優秀な1番弟子であり、レインドットと共に「ナベリスの心」を見つけた存在でもある。あの自分にも他人にも厳格なレインドットでさえ、彼女にはかなりの信頼を置いていたことをアルベドは知っている。そんな彼女を、レインドットはアルベドと共にこの場所へ残していった。そこに意味や理由がひとかけらもない訳が無いのだ。だからこそ、アルベドは彼女にそう問うた。
 もしかすると彼女には、これとは別に彼女宛の手紙が用意されているのかもしれない。そこには、アルベドに着いてニグレドもモンドへ向かうようにと記されているのかもしれない。そう思った。そうであって欲しかった。
 その理由から、その意味から、必死に目を逸らし続けながら。切に切にそう願った。

「……私は、ここに残るよ」

 どうして。いやだ。
 ふたつの思いが突発的に心の奥底から湧きあがり、その勢いのまま言葉が喉から飛び出していきそうになる。けれども何とかそれを飲み込んで、アルベドはようやく顔を持ち上げニグレドの姿を視界に映した。網膜に彼女の輪郭が像を結んだ瞬間、じわりと微かに世界が滲んでいく。
 そんなアルベドの視線を受けて、ニグレドは小さくちいさく微笑んだ。少し眉を下げて、困ったなとでも言いたげに。

「モンドへは、君ひとりで行くんだ」
「……ニグレドは、ここに残ってどうするんだい?」

 声の震えを抑えきることも出来ぬまま、言葉を紡ぐ。それはきっと、彼女に対してあまりにも残酷な問い掛けだった。
 答えに迷うように、ニグレドの瞳が揺れる。ゆらゆらゆらゆらと波立つその姿はきっと、本の中にしか見たことのない海の水面に酷く似ているのだろう。そんな現実逃避じみたことが頭の中に浮かんでは弾けて消えていった。

「……そう、だね。少し、眠たいから。しばらくはゆっくり眠ることにしようかな」

 確かにこの2週間で、ニグレドが必要とする睡眠時間は急速に長くなっていた。いつもどこか眠たげで、気を抜くとリビングでも眠り込んでしまっている彼女の姿を、アルベドは今日まで何度も何度も目にしている。そして今の彼女もまた、まだ微睡みが抜けきらないのかどこかおぼつかない雰囲気を纏っていて。

「……一緒には、行けないのかい?」

 放されようとする手に縋りつくようにそう言った。そうすると、彼女はより一層困り顔を深くしてこちらを見やる。
 彼女を困らせたくないと思う。悲しませたくないと思う。その気持ちは今までと欠片も変わらない。だからこそ、素直に「分かったよ」と頷いてあげられたらならどれほど良かったことだろうと思った。
 けれど、それでも。
 アルベド自身が彼女と離れたくないというのももちろんある。けれどそれ以上に、アルベドは彼女をここにひとり残していくことが嫌で嫌で仕方がなかった。
 だってアルベドがいなくなれば、レインドットまでもいなくなってしまった今、彼女は「ひとり」だ。ここでひとりぼっちだ。目覚めた時も眠る時も、ずっとひとり。いつかのその時にさえ。

 たとえ彼女がそれを望んでいたとしても、そんなのはあまりにも悲しすぎる。

 もしもレインドットが彼女を連れて姿を消してくれていたのなら、アルベドはその別れを深く悲しみながらも受け入れることが出来たのだろう。だってそれなら、彼女の隣りにはレインドットがいてくれるのだから。彼女は最後まで「ひとり」ではないのだから。
 彼女がいてくれたから、今日までずっと、アルベドは「ひとり」ではなかった。そして、きっとこれから先も。だからこそ、彼女がこのまま「ひとり」になってしまうのは道理に合わないことだと思った。

 さよならの日はいつか来る。

 アルベドももう、その事実だけはちゃんと、しっかりと理解していた。けれどそれは今じゃなくてもいい。そのはずだ。そう信じて、アルベドはニグレドを真っ直ぐに見据えた。
 そんなアルベドの願いを汲み取ってくれたのだろう、ニグレドの表情が微かに崩れる。ほんの一瞬だけ悲しげに揺れたその瞳は、けれども瞬きひとつの間にまた苦い笑みを浮かべていて。

「……全く、私の弟弟子は存外寂しがり屋で困るよ。……そんなに私が恋しいのなら仕方ない。本当はここで別れる予定だったけれど、君が地上に出るまでは一緒に行ってあげることにしようじゃないか」

 やれやれと肩を竦めながら、どこかおどけた口調で彼女は言う。ほとんど子供騙しでしかないその言葉に、けれどもアルベドはほっと息を吐いた。まだもう少しだけ彼女の隣に居られるのなら、その間に彼女をどうにかして説得できるかもしれないと、そんな淡い希望を抱いて。
 荷物をまとめて来なさいという彼女の言葉に従って、アルベドは自室へと戻った。地上へ出るまでの道のりはそれなりに長いらしく、彼女もまた、自らの荷物をまとめてから出発するようだ。
 旅の中で何度も何度も繰り返したその光景に、先程のことは全て夢で、まだここにレインドットがいて、これからもまだまだニグレドとの旅は続くんじゃないか、なんて。そんな馬鹿げた錯覚が込み上げてきた。
 使い慣れた大きなトランクを手に、玄関でニグレドを待つ。アルベドが出て来てからそう時間を経ずに、彼女もまた大きなトランクを手に姿を現した。

 アルベドは、知っていた。
 彼女のそのトランクの中にはもう、ほとんど何も詰め込まれてはいないのだということを。


「――それじゃあ、始めようか。私たちの最後の旅を」


  ***


 滞在していた街を後にし、森を抜け、広大な草原を進み、廃墟を辿り、山を登った。
 最早体力すらも衰え始めているニグレドに合わせて、その旅の歩みは今までに比べていくらか緩やかなものだった。ニグレドはそれを気にして「いつでも私を置いて行っていいのだからね」と事あるごとに言うけれど、そんなことが出来るのなら、そもそも最初からこうして無理を言ってまでニグレドを連れ出して来てなどいない。
 眠る彼女の頬を指先で撫でながら、アルベドは奥歯を強く噛みしめた。刻一刻と明瞭になっていく旅の終わりを嘆きながらも、こうして彼女といられる時間が少しでも伸びることを喜んでしまう自分があまりにも傲慢で、愚かしくて、酷く腹が立った。もう何度も何度も味わった自己嫌悪の痛みが胸の中にじわじわと広がっていく。自分がまさかこんなにも汚い感情を抱くことになるだなんて、思ってもいなかった。
 これが『人間』であることなのだと言うのなら、アルベドは、いっそのこと感情なんてものの全てを捨ててしまいたかった。
 けれど何度そう願っても、それを教えてくれたのが彼女だという事実ただそれだけでこの苦しみにすら愛おしさが込み上げてくるのだからどうしようもない。『人間』はどうしてこんなものを抱えたまま生きていくことが出来るのだろう。そんな疑問が胸の中にむくむくと膨らんでいくばかりだ。

 草原で可憐な花を見た。廃墟から星空を見上げた。山頂から神々しい朝陽を見た。そうして世界の美しさをひとつまたひとつと知る度に、アルベドは痛いほどに思い知らされた。
 隣に彼女がいない世界の悲しさを。

「……そうだ、アルベド」

 それはとある小さな夜のこと。森の中にわずかばかり開けたその場所でぱちぱちと時折爆ぜる焚火を見つめながら、ニグレドがふとアルベドの名を呼んだ。

「どうしたんだい?」
「そういえば、君に見習い修了のお祝いをしていなかったと思ってね。何か欲しい物はあるかい?」

 予想だにしなかったその内容に目を瞬かせる。同時に、して欲しいことはあるか、とは聞かないあたりが彼女の憎いところだなと思った。

「……何でも、いいのかな」
「私が君にあげられる範囲ならね」

 欲しい物、と頭の中に彼女の言葉を反芻して一番に思いついた物がある。けれどそれを口にするのはあまりにも傲慢な気がして、開きかけた唇をそのままに二の足を踏んだ。

「遠慮なんてしなくていいよ。とりあえず言ってごらん? 難しければちゃんと難しいと言うから」

 彼女の声がアルベドを促した。子どもを見守る親のようなその声色にこころの裏側がくすぐられていく。子ども扱いされていることには少し複雑な気持ちがあるけれど、それを嫌だとは到底思えなかった。
 ひとつ、ふたつと呼吸をする。まだ心はためらっているけれど、無理矢理に唇を震わせた。

「――アレキサンドライト」

 見開かれた彼女の瞳の奥に、焚火の炎がゆらゆらと柔く揺れている様が確かに見えた。
 ふたり、言葉もなく数秒見つめ合う。夜の静けさの中に焚火の音だけがささやかな旋律を落としていた。
 脳裏に思い描くのはいつかの夕暮れに見たあの美しい鉱石の姿。青く、赤く輝くひとかけら。アルベドの存在を世界がいのちと呼ぶのなら、あの鉱石だってひとつの「いのち」と呼ばれて然るべきだと、アルベドはずっと思っていた。
 その沈黙を破るように、ふ、と彼女の表情が綻ぶ。

「……そんなものでいいのかい?」
「そんなものなんかじゃない。キミの最高傑作だ」
「いやまあ、確かにあれはこの世界で最も美しい鉱石だと言っても過言ではないけれどね」

 ため息交じりの吐息をひとつこぼして、彼女は眉を下げた。相変わらず困りきった様子のその表情に、けれども負の感情は見受けられない。むしろどこか嬉しそうにすら見えるのは、アルベドの気のせいだろうか。
 何かを噛みしめるように目をぎゅうと閉ざした彼女は、即座にぱちりと目を開いてアルベドを見据えた。

「わかった、いいよ」
「……え、本当かい? だってアレキサンドライトは……」
「何でもいい、と言っただろう? それに……」

 そこでふと躊躇うように言葉を途切れさせた彼女は、数秒の沈黙の後に再び口を開いた。その瞳がゆらりと揺れたように見えたのは、そこに映りこんだ炎が見せた幻覚だったのだろうか。

「最初から、そのつもりだったからね」

 おもむろに自らの方へ伸ばされた彼女の手に、今度はアルベドが目を丸くする番だった。何かを握りしめているらしい彼女の拳が目の前に突きつけられ、慌ててその下に手のひらを広げる。
 ころんとアルベドの手の中に転がり落ちたのは、焚火の灯りを受けて赤く輝く宝石をトップに飾った、1本のネックレス。もともとの鉱石の形をありのままに残したそれは、装飾品としてはやや武骨なデザインをしていたけれど、アルベドにとってはどんな装飾品よりも美しい姿をしているように思えた。

「……宝石には、そのひとつひとつに『石言葉』というものが与えられているんだ」

 空と海を溶かした彼女の碧眼が、焔を映して赤く輝いている。その姿はまるで、今アルベドの手の中にあるアレキサンドライトのようで。

「アレキサンドライトにも複数の石言葉が与えられていて、その中には『誕生』や『出発』という言葉がある。――これからの未来を生きていく君に、ぴったりの石だと思ってね」

 気づけば、手のひらの中にその鉱石を握りしめていた。硬く無機質なその表面に温度など宿っていないはずだというのに、どうしてか堪らなく温かい熱が感じられて。

「それに、ネックレスなら研究の時に邪魔にはならないだろう?」

 まるで、彼女の心のひとかけらがそこに籠められているかのようだった。

「──よし、アルベド。今日は一緒に寝ようか」
「……え?」

 風船を割るような口調で唐突に投げられたその提案に、アルベドは素っ頓狂な声を上げる。

「いいからいいから、さ、おいでアルベド」

 おいで、と言いながらそちらから近寄ってくるというのは些か反則なのではないだろうか。羽織ったブランケットの端を掴んだまま両手を広げた彼女が、そのままアルベドごとブランケットに包まるように正面から抱き着いてきた。
 そうしてふたり揃って地面に倒れ込めば、硬い地面の感触が肩と側頭部にぶつかる。

「ううん……分かったから、せめて敷布と枕ぐらいは用意しないかい?」
「それもそうだね、流石にこれは寝心地が悪すぎる」

 アルベドの提案によって寝床を整え直したふたりは、気を取り直して再び横並びになって寝そべった。
 そういえば、目が覚めて本当にすぐの、人間生活にまだ慣れていなかった頃、一晩だけこうして彼女と共に眠ったことがある。あの時は確か、眠りに落ちるという行動をアルベドが上手く行えなかったから、彼女が本を読んで寝かしつけてくれたのだったか。輪郭のおぼろげになったその記憶をたどりながら、アルベドは隣に寝転ぶ彼女へ視線を向けた。
 彼女の虹彩に、自分の姿が映り込んでいた。

「……あんなに小さな子どもだったのになぁ」

 そっと伸ばされた彼女の指先がアルベドの前髪を優しく撫でていく。同時に鼓膜を叩いたのは、過去を懐かしむような声。口振りこそ落胆を滲ませていたけれど、声色はむしろどこか嬉しげなもの。もしかすると彼女も今、アルベドと同じ記憶を脳裏に蘇らせているのかもしれない。

「君は師匠や私に似て、とても聡明で優秀だ。君が成し遂げようと思えば、この世界に成し遂げられないことなんてきっとない。師匠からの最後の課題だって、君ならいつか必ず解くことが出来るはずだ」
「……キミは、ボクを買いかぶりすぎだよ」
「そんなことはないさ。だって君は、他の誰でもない『君』で、『アルベド』なのだから」
「……」
「ま、姉弟子の欲目が全くないと言えば嘘になるけどね」

 くすくすと彼女が笑う振動が、アルベドにも微かに伝わってくる。ひとり分の体温が染み込んでいくブランケットの中で、世界から逃げ出すように、運命から隠れるように、アルベドは彼女の身体をぎゅうと抱きしめた。

「明日も早いから、早く、ねよう」
「……うん、そうだね」
「おやすみ、アルベド」

 明日、アルベドは地上に行く。


「――――おやすみ、ニグレド」


 明日、ふたりの最後の旅が終わる。



2021/3/29

- 8 -

*前次#