君さえ


第1話


 2週間ぶりに訪れる紅蓮の森は、その青々とした見た目こそ以前とほとんど変わらないものの、そこに纏った冬の匂いをより一層深くしてジェイドを待ち構えていた。
 まだ二度目ながらも慣れたように森を歩き、ジェイドは目的地である緑の三角屋根を目指す。11月の寒さに枯れ始めた草が、足元にかさかさと乾いた音を立てた。
 穏やかに晴れた空を枝葉の向こうに時折見上げながら、ある一定の距離を越えた瞬間に突然視界に映り込んでくるその家屋の姿にまた歩調を速くする。肩に下げていたトートバッグを掛け直して、枕木のアプローチへと軽い足取りで踏み込んだ。
 からんからん。呼び鈴代わりの鐘を鳴らせば、きっと前回と同様にどこからともなく聞こえる彼女の声がジェイドを迎えてくれるのだろう。そんなジェイドの予想外に反して声が聞こえることはなく、その代わりとばかりに目の前で扉が勢いよく開かれた。

「──……君か」

 その向こうから姿を現した翡翠の色と、直接鼓膜を叩いた彼女の声。
 2週間前と同じ、いや、2週間前よりもさらに濃くなっているような気がする隈を携え、さらには額に冷却シートという何とも『限界』を感じさせる出で立ちで、開かれた扉の向こうに佇む彼女はジェイドの姿を半ば睨みつけるようにして見据えていた。
 リゼットがこうしてわざわざ玄関先まで足を運んでくれたという事実とその有様に、ジェイドは二重の意味で驚いてしまう。その感情のままに思わず目を丸くしてしまったが、それもすぐさま彼お得意の柔和な笑みの形に塗り替えられた。

「はい、ジェイド・リーチです。こんにちは、ヘリオトロープ先生」
「今日が約束の日だったか……まあいい、入れ」

 寝不足に思考回路が上手く働いていないのだろう。額に手を当てて軽く頭を左右に振った彼女は、扉を開け放してジェイドを中へと誘った。
 その言葉に従って屋内へ足を踏み入れると、やはり前回と同様、玄関横の棚に並んだテラリウムたちの姿が一番にジェイドの視線を奪っていく。実は、この2週間の間にジェイドも個人的にテラリウムを行い始めたのだ。とはいえ、まだそれは初心者も初心者によるものであって。後で彼女にテラリウムのコツについても尋ねてみようと考えながら、先を歩くリゼットの背中を追いかけた。

 ──そして、廊下の先に大きく空間の取られている応接室兼作業部屋のなんとも凄まじい有様に、ジェイドは再び目を見開くこととなる。

 部屋の最奥にある作業机を中心として、テーブルもソファも床も関係なくまき散らされた紙と書籍の姿。風によって紙が飛び散ってしまわないようにと窓は閉め切られており、それも相まってか部屋の中には紙とインクの匂いが深く染みついていた。
 なるほど。彼女のやつれ具合と部屋の有様の関係性を一瞬にして理解し、ジェイドは内心に小さく頷きを落とす。この様子では睡眠どころか食事すら怪しいところであるが、彼女は果たしてちゃんと最低限の食生活は行っているのだろうか。いや、きっと行っていないのだろうなと、部屋の有様に反してやけにきれいなままのキッチンスペースの姿を視界の隅に見て推測する。

「あーーー、……スペースを空けるから少し待て」
「……僕も手伝います。内容は出来るだけ見ないようにしますので」

 足の踏み場もない部屋の状況に唸るような声を上げて動き出した彼女へ、ジェイドは慌ててそう提案する。これは二手に分かれた方が絶対に効率がいいと考えられるから。
 彼女の研究における重要な内容がどこかに記されているかもしれないと思うと幾ばくかの躊躇は芽生えるが、たとえ紙面を多少見てしまったところで、細かい文字が隙間なくびっしりと書かれたそれをたった一瞬で読解することは流石のジェイドでも不可能だろう。
 それを理解しているからか、それともジェイドに見られて困ることは特別ないのか。それは分からないけれど、彼女がジェイドの提案を跳ね付けることはなかった。

「すまんな。論文のまとめ作業が思った以上に捗ってしまったんだ」
「いえいえ、むしろそんなお忙しいところにお邪魔してしまってすみません」

 手始めに一番手前に落ちていた紙を一枚拾い上げる。少し癖のある文字で書かれた内容は、無意識に掠め見てしまった範囲だけでも今のジェイドには理解が追い付かないものであると直感させられるほどに複雑なもので。これは、たとえじっくり読み込んだとしてもクエスチョンマークが頭上に飛び交って終わってしまうだろう。リゼットがジェイドの手助けの提案に対して何も言わなかったのは、それを分かっていたからなのかもしれない。

「まあ、君に今日来いと言ったのは私だからな。それに、実験も終わってあとは論文を書くだけの段階だからまだましだ」

 恐らく、これがもし実験の最中であろうものなら以前の約束など関係なくジェイドは追い返されていたのだろう。彼女の口振りからそれを察して苦笑いをこぼしながら、ジェイドは床から拾い集めた紙の束をリゼットへと手渡した。

「順番等は揃えられていませんが」
「ああ、ありがとう」

 それを受け取り自分の手持ちと重ねたリゼットは、かなりの分厚さになったそれを作業机の上へと寝かせる。床やソファに散らばっていた紙が無くなっただけでも、部屋の中は随分と片付いて見えた。後は床に転がっている本を拾い集めようと、ジェイドは再び手を伸ばす。
 そういえば。ふとジェイドが考えたのは、部屋の反対側で同じく床に散らばった本をかき集めているリゼットのこと。彼女は常に不愛想な表情を浮かべ、ぶっきらぼうで硬い喋り方をしているけれど、「すまない」や「ありがとう」と言った言葉は割と素直に紡いでくれる。
 偏屈で、変人で、好奇心の惹かれるもの以外への興味が薄く、極度の研究中毒者。正直に言ってしまえば親しみやすさなどほとんど皆無な彼女であるが、そういったところにふと覗くわずかな人間味にはついつい意識が引かれてしまう。彼女自身を観察することも案外楽しそうだ、なんて、そんなことを考えながらジェイドは最後の一冊を手に立ち上がった。

「……やっと落ち着いたか」
「そうですね。お疲れ様でした」

 前回と同じようにローテーブルを挟んでソファに座り、向き合ったふたりはようやくひと息をつく。額から冷却シートを取り外しながら「手間をかけたな」と言葉を紡ぐリゼットに、ジェイドは再び気にしないでくれと返した。

「とりあえず、前回出したレポートを確認するから出せ」
「はい」

 差し伸べられた手にジェイドが素早くレポートを渡せば、ホッチキスで左上を留めた二枚綴りのそれにリゼットはすぐさま目を通し始める。
 深い隈を携えた瞳が存外真剣な光を宿して文字を追っているものだから、きっと内容をざっくりと確認されるだけなのだろうと思っていたジェイドはほんの少しだけ予想外を胸に孕んだ。彼女は自分のことを「教える立場ではない」と言い張っていたけれど、その姿にはどうしてもカレッジの教師たちの姿が重なって見えてしまう。
 ぱらりと紙が捲られる音。2枚目の内容もしっかりと読み込んでくれたらしい彼女は、全てを読み終えたと同時に、その口元にくすりと小さな笑みを浮かべた。

「……ヤヅミバナの『種』についてもちゃんと調べてきたか」
「はい。図書室のどの文献を呼んでも基本的に『ヤヅミバナに種は出来ない』としか書かれていませんでしたが、たった1冊だけにはしっかりと記されていました」

 ヤヅミバナは染色体組が基本数の3倍の染色体数を持つ、いわゆる『三倍体』の植物であり、正常な減数分裂が行えないために不稔性、つまり種を作ることが出来ない生態となっている。そしてその事実はヤヅミバナについて解説している書籍の全てに記されており、実際、先日ジェイドが受けた魔法薬学の授業でもそう説明された。

 ──しかし、たった1冊の書籍だけは違っていたのだ。

「実際の所、三倍体の植物でも結実し種を作ること自体は低確率であるもののままあるんだ。三倍体のヒガンバナの実がよく挙げられる例だな。だが、ヤヅミバナの結実例は長い植物研究史においてもほとんどゼロ。だから、教科書や一般的な書籍には基本的にその情報は書かれないんだ」

 その種が何か特別な薬効を持っている訳でもないからな。
 結実する可能性が限りなくゼロで、さらには有効活用できる余地も特にない。そういったものに対して向けられる社会の視線というのは、大抵が冷たく無関心なものばかり。そんなものがあっても、そんな知識を持っていても、生きていく上で役になど立たないから。
 けれど、そうして誰もが素通りするような場所で足を止めるのが、研究者という生き物なのだ。

「……ヤヅミバナの種から花が咲くことは、やはりないのでしょうか」

 ゼロの可能性から生まれた奇跡の種から芽吹く花は、どんな姿をしているのだろう。
 ジェイドの問いかけにリゼットは瞬きを数度繰り返して、そうして笑ってみせる。

「三倍体から作られた種子に発芽能力はないと言われているからな。その可能性もやはり限りなくゼロに近いだろう。……だが、」

 眼鏡の向こうに、きらりと翡翠の瞳が眩しく輝いた。不敵なまでに生き生きとしたその笑みは、まるで新たな遊びを見出した幼い子どものようにも見えて。寝不足にやつれきった深い隈の姿とその表情の対比に、ジェイドはまた不思議な感覚を覚えてしまう。

「ヒガンバナの種子が一定の条件下では発芽したと示す研究もある。だからヤヅミバナの種子の発芽も、きっと『不可能』ではないはずなんだ。何年後か、何十年後か、何百年後かは分からないが、いつかはヤヅミバナの種子から花が咲くかもしれない」

 未知に対する好奇心と、不可能を可能にしようとする探求心。その根底にあるのは、誰かのためにという奉仕の心でも、世界のためにという献身の心でもない。他でもない自分自身のためにと振りかざされる、天井も床もない欲求、ただそれだけ。

 ──その生き方は、在り方は、酷くジェイドの心を惹き付けた。

「そう考えると、なんだか胸が弾みますね」
「だろう? ヤヅミバナの研究を中心的に行っている奴らも、そう信じて日々研究に勤しんでいるんだ。あの熱量だと、私が生きている間に花が咲いてもおかしくないな」

 くすくすと冗談めかしたことを言いながら、リゼットはローテーブルの上にジェイドの書いたレポートを寝かせた。

「まあもちろん、現状は咲かない可能性の方が格段に高い。だが、咲かないなら咲かないで、『咲かない』という事実が明らかになるならそれもまた一興。それが研究というものだ」

 ぱさりと白衣の裾をはためかせながら立ち上がり、彼女は眠気などとうに消え去ったと言わんばかりのはきはきとした口調でジェイドに言う。彼女の腰近くにまで伸びる長いひとつの三つ編みが、彼女の動きに合わせてまるで生き物のように揺れていた。

「ひとまず課題は合格だ。というわけで、早速取引に移るとしようじゃないか」

 楽しげに輝くその瞳が望むのは、彼女にとっての未知の世界。ジェイドの『本当の姿』である、『人魚』と呼ばれる存在ただそれだけ。ジェイドに向けられたその視線が、真に『ジェイド・リーチ』という存在を見ることはない。
 それでもよかった。出会いが学園長の手紙ありきのものだったとしても、ジェイドが『人魚』であったからこそ彼女の興味を惹くことが出来たに過ぎないとしても。

「……一応言っておくが、人魚の姿が見たくて甘い採点をしたわけではないからな。ヤヅミバナの種についての内容が記載されていなければその時点で容赦なく切り捨てていた」
「ええ、はい。もちろん理解しています。及第点を頂くことができて安心しました」

 リゼット・ヘリオトロープとジェイド・リーチの縁は、今、確かに結ばれたのだから。


  ***


「よし、それじゃあ海まで出るぞ」

 きびきびとした動作で外出準備を済ませた──とは言ってもただ腰にウエストポーチを巻き付けただけであるが──リゼットの言葉に、ジェイドはぱちりと瞳を瞬かせた。というのも、以前彼女から「場所を用意する」とは確かに言われていたけれど、まさかわざわざ海辺を探してくれているとは思っていなかったためだ。
 きっと浴室やビニールプールなどで済まされるのだろうと考えていたために、ついつい答えに詰まってしまう。そんなジェイドの様子に、リゼットは怪訝そうに首を小さく傾げた。

「……場所があればとは申しましたが、浴室のバスタブなどでも大丈夫ですよ?」
「君、珊瑚の海出身ということは海水魚だろう? 淡水に浸かるとまずいんじゃないのか?」

 リゼットの言葉に、ジェイドはああ、とひとつ頷きを落とす。
 なるほど、彼女は一般的な魚に言われる浸透圧の心配をしてくれているらしい。気遣いともとれるその発言にくすりと笑みをこぼせば、リゼットは傾けた首の角度をさらに大きくした。

「確かに海水魚を淡水の中に入れるのは危険ですが、僕はあくまで人魚ですから。確かに人魚の姿で長時間淡水の中にいると身体に不調が出ますけれど、短時間でしたら何も問題はありません」

 人魚とは、確かに人間から見れば魚に近い存在である。
 だからこそ、人魚を知らない人間が『人魚』という生き物を魚の生態から理解しようとするのもそう可笑しくはない話である。けれど、人魚は人魚であって、決して魚ではない。もちろん人間でも。人魚とはそういう酷く曖昧な存在なのだ。
 陸の人間が人魚の生態にまで及ぶ知識を得るなどということは、本人が人魚に対する熱い探求心を持っていなければほとんどないと称しても過言ではないだろう。陸での生活様式の大枠を義務教育段階で学ぶ海とは違い、陸の義務教育や一般的な学校の教育課程に、海での生活様式や海に生きる人魚についての詳細など一切含まれていないのだから。
 それゆえ、リゼットの持つ人魚についての知識がゼロであってもジェイドは驚かない。
 そもそも、彼女は学生の頃からずっと植物にご執心であると聞いている。その視界の中に、人魚の存在が全く映らなかったというのも仕方のないことだろう。そして、知らないからこそ彼女は今人魚という未知を求めてくれているのだから、ジェイドが言うことなどありはしない。
 魚よりは環境の変化に対して強い身体をしているので、そんなに気を遣って頂く必要はありません。左手を胸に当てて、慇懃にジェイドはそう微笑んで見せた。
 そんなジェイドの言葉にふむ、と彼女は興味深そうにひとつ頷く。その指先が素早くウエストポーチへと伸ばされたのは、その内容をメモに取ろうとしたからだろうか。何が入っているのかを伺い知ることは出来ない小さなウエストポーチの上で、リゼットの指先がゆらりと揺れた。
 それでもやはり海に行こう。メモを取ることよりもジェイドとのやり取りを優先したらしい彼女が、きっぱりとそう言い切ってみせる。

「私も気をつけるつもりだが、人魚の姿になった君を前にどれだけの時間を観察に費やしてしまうか分からんのでな。ここは安全に海水にしておこう。それに、生き物とは本来あるべき場所にあってこそ観察のしがいがあるというものだ」

 ゆるりと吊り上げられた口端に、なるほど彼女らしい考えだとジェイドもまた笑みをこぼした。

「そういうことでしたら」

 ソファから立ち上がり、リゼットの隣に並び立つ。こうして彼女の隣に立つのも今日が初めてだと思い出し、自分よりも随分と低い位置に存在している彼女の視線に不思議な感覚を覚えた。
 真っ直ぐに自分を見上げてくる翡翠の瞳と視線が交わる。

「……君、随分と背が高いんだな。視線を合わせようとすると首がもげそうだ」
「それは、……ご迷惑をおかけしてしまってすみません。これでも人魚の姿と比べると随分体長は縮んだのですが……」
「それよりも大きいのか人魚の姿は。やはり海に行くと決めて正解だな。そんな大きさの人魚、うちのバスタブでは収まりきらん」

 リゼットの家を後にし、先を行く彼女の背を追って森の中を歩く。辿る道筋はジェイドもよく知るもの。ジェイドが学園の闇の鏡を通って一番に辿り着く、あのギャップの場所に続く道だった。
 転移魔法を使って海まで行くのだろうか。ジェイドのその予測は正しく、丸く切り取られた青い空の下、ギャップの丁度中央付近でリゼットはぴたりと足を止めた。そしてジェイドがちゃんとついて来ていることをちらりと確認し、唇を震わせる。

「──『南の海岸』」

 ぐらり、と視界が揺れる。身体を包み込んだのは、闇の鏡を使った時と同じ転移魔法による浮遊感。しかしそれも瞬きの間に終わりを告げて、次にジェイドが知覚したのは肌をくすぐる濡れた潮風の柔らかさ。ざざ、と波の音が鼓膜を震わせる。踏みしめる地面はつい一瞬前までの濡れた土ではなく、ごつごつとした固い石に覆い尽くされていた。
 瞬かせた視界に映るのは、ジェイドにとって酷く馴染み深い海の姿。遠く見える水平線を見つめて、視線をゆらりと周囲へ巡らせる。背後には木々が鬱蒼と茂った森の入り口があり、そして左隣りにはリゼットの姿があった。

「紅蓮の森の最南端、南の海岸だ。ここは岩場だが、少し歩けば砂浜もある。君のやりやすい場所を選んでくれ」

 彼女のその言葉に、そう言えば地図で見た紅蓮の森の南の方には確かに海に面した一角があったなと思い出す。けれどそれは、リゼットの家がある区域からはかなり離れた位置にある場所であって。それを示すように、ジェイドたちを包み込む空気は11月のそれにしては随分と暖かく、先程までいた場所と違い、冬の足音が随分と遠い場所に聞こえていた。
 彼女は以前からこの場所を知っていたのだろうか、それとも今日のためにわざわざ探し出してくれたのだろうか。その真実は、ジェイドには分からない。
 視線を正面へと向ける。穏やかに波が打ち寄せるその岩場は、砂浜によく見られるようななだらかな浅瀬を作ってはいないようで。近づいて覗き込んだ水面には、底の知れない深い海の色がゆらゆらとジェイドを待っていた。

「ここで大丈夫そうです。十分な深さがあるようですし」
「そうか、分かった」

 ジェイドの言葉に頷いたリゼットはおもむろにウエストポーチへと手を伸ばし、その中をごそごそと漁り始めた。そしてそこから何かを取り出し、ジェイドの目の前に広げてみせる。
 それは、3メートル四方はあろうかというほどに大きな藍色の布であって。それを一体どうするのだろうかとジェイドが眺めていれば、リゼットは人差し指を軽く振って、その布に何かの魔法をかけた。彼女の耳元で魔法石がちかちかと瞬いている姿が、ジェイドの視界に映り込む。
 そして次の瞬間、その布がまるで意思を持ったかのように動き始め、ジェイドの前へと躍り出た。

「君が望んだように動いて形を変えるようにした。簡単ではあるが、着替える時の目隠しにでも、荷物置き場にでも、好きに使ってくれ」

 重力に逆らって立ち上がっている布が、ゆらゆらとジェイドの指示を待つように揺れている。瞳をぱちぱちとさせながら、ジェイドは何も言えぬままその布を数秒ばかり見つめてしまった。
 ……何と言うか、本当に。

「ありがとう、ございます。まさかこんなに気を遣って頂けるとは……」
「? これぐらいは当然だろう。ほら、いいから早く人魚になれ」

 私は少し離れているから、準備が出来たら声をかけろ。そう言い残して森の方へと歩いて行く彼女の背中を見送って、ジェイドは魔法をかけられた布と向かい合う。

「……随分と不思議な方ですが、何だかんだと優しいですよね。彼女」

 まるでジェイドの言葉に同意するかのように、布の端がひらりとはためいた。


  ***


 久しぶりに沈む海水の中は、やはり酷く居心地がいいものだった。
 とぷん、と自らの身体が水に沈んだ音を遠くに聞きながら、ジェイドは本来の姿で海の中を軽く泳ぎ回る。珊瑚の海の中でも特に寒さの厳しい北の海を故郷とするジェイドにとって、その海の温度は少し温かすぎるほどのものであった。
 身体を包むくすぐったいぐらいの海水の柔らかさに、肌を刺すほどに凍てついたあの世界がほんの少しだけ恋しくなってしまう。けれどまあ、海が海であることに違いはない。
 まるで人間が伸びをするように尾びれを大きく揺らして、ジェイドは水面を目指す。
 ぱしゃん。水上へと顔を出せば、濡れた髪先からぱたぱたと海水が滑り落ちていった。それを気にも留めず、ジェイドはその辺りで待っているだろうリゼットへと声をかける。

「お待たせしました、もう大丈夫ですよ」

 その言葉から数秒も置かず、森の方から足音がこちらへと向かってくる。小枝が踏み折られる微かな音が聞こえた直後、太い木の幹の影から鮮やかな緑色が覗いた。
 それが彼女の髪色だと理解するとほぼ同時、ぱちりと視線が交わったのは、さらに数段明度の高い緑の色。瞬いた彼女の瞳は、ただただ真っ直ぐにジェイドの姿を見据えている。ぴたりと足を、動きを止めたまま、静かに。まるで言葉を、呼吸を忘れてしまったのだとでも言うように。
 固まってしまった彼女を見つめながら、ジェイドはゆっくりと岩場の方へ近づいて行く。
 そして岩場の縁へと手をかけた、その瞬間。彼女の身体が突然動き始めた。
 何も言わぬままに足を動かす彼女の身体は、数メートル離れた場所にあった木陰からあっという間にジェイドの目の前へとたどり着いた。つい一瞬前までの様子から一転したその動きの素早さに、ジェイドはただ瞳を瞬かせることしかできない。
 岩場の縁近くにしゃがみこんだ彼女と再び視線が交わった。彼女が見下ろし、ジェイドが見上げる、先ほどとは真逆の位置関係。きらきらと、翡翠の色がジェイドの世界に輝いた。

「──っ美しいな!!」

 手のひらを握りしめて、瞳に歓喜と好奇の色を鮮やかにちらつかせながら、彼女はその唇を震わせた。そこから紡がれるのは、十にも満たない数の音。けれどもそこには彼女の本心が、思いが、あふれてしまうほどに詰め込まれていて。
 自らを見下ろす彼女の瞳のあんまりの輝かしさに、まるで空から宝石が降り注いできているかのようだと、そんな馬鹿げた錯覚を覚えてしまった。

「肌の色が随分と変わったな。それに耳もヒレのような形状に変わっている。その耳はどういう構造なんだ? ちゃんとこちらの声は聞こえているのか?」
「ちゃんと聞こえていますよ。今そちらに上がりますので、少々お待ちください」
「え、おい、陸に上がって大丈夫なのか? 呼吸は出来るのか?」
「ああ、実は僕、『ウツボ』の人魚なんです。ウツボは元々体表面が濡れていれば30分程度は皮膚呼吸が出来るようになっているので、少しぐらいは問題ありません」

 リゼットに少し離れてもらい、ジェイドは腕と腹筋の力で岩場の上に身体を持ち上げた。ざばりと水音を立てながら、まずは岩場の縁に腰かけるようにして上半身を陸へ。そうすれば後は尾を引き摺り上げればいいだけなので随分と楽になる。
 ずるりと4メートルにも至る全長を岩場に横たえて、ジェイドはリゼットの方へと視線を向けた。

「……本当に大きいな」
「ふふ、そうですね。貴女ぐらいならば簡単に締め上げてしまうことができますよ」
「随分と物騒な発言だ。海に引きずり込まれないよう十分気をつけるとしよう。このあたりの岩は少し角が鋭くなっているが、身体に傷がついたりはしないのか?」
「海の中でも岩礁などで暮らすことが多かったので、これぐらいは大丈夫です。貴女が思っている数十倍は丈夫ですよ、僕は」

 ぎゅう、と握りしめられた彼女の手のひらを見やって、ジェイドはくすりと微笑みを浮かべる。

「──なので、触りたければ触って頂いても大丈夫です。一部の魚のように人間の体温で火傷してしまったりはしませんので」

 その言葉に、リゼットの表情が微かに歪んだ。バツの悪そうなその様子に、やはりそうだったかとジェイドは眉を下げる。
 不自然だと思ったのだ。彼女の在り方を考えれば、彼女はジェイドの姿を目にした瞬間、真っ先にジェイドへとその手を伸ばし、触れて、見て、そうして全てを理解しようとするはず。それなのに、彼女はどうしてか手のひらを握りしめてただジェイドを視線で観察するのみだった。
 彼女らしからぬその行動の理由にも、ここまでにジェイドへ向けられた彼女の言動や気遣いを思い出せばすぐに察しがついてしまう。

「何度でも言いますが、僕は人魚の中でもかなり丈夫な部類に入る生き物です。なので、そんなに気を遣って頂く必要はありません。どうぞ貴女のお好きなように観察してやってください」
「……人魚に接するのはこれが初めてなんだ。慎重になっても仕方ないだろう」

 視線を斜めに落としてきまりが悪そうにぼやく姿は、噂によく聞く『偏屈で傍若無人なリゼット・ヘリオトロープ』の肩書からは随分とかけ離れた存在にも見えて。本当に不思議な人だと、ジェイドは何度目になるかも分からないその言葉を心の中に転がした。
 誰もが知る傍若無人な彼女も、今ジェイドの前に存在する彼女も、きっと両方が正しく『リゼット・ヘリオトロープ』なのだろう。その違いにジェイドが気づくことが出来たのは、偏に彼自身が彼女にとっての『観察対象』となり得たためだ。

 ジェイドはちゃんと理解している。彼女のこの慎重なまでの気遣いは、くすぐったいほどの優しさは、ジェイドが偶然にも彼女にとって『人生で初めて出会った人魚』であるが故に与えられているものなのだと。

 それでも構わない。その言葉に、まるで自らへ言い聞かせるような響きが滲み始めたこともしらないふりをした。まだ気づいてはいけないと、無意識のうちに全てを覆い隠した。

「……本当に大丈夫なのか?」
「はい。大丈夫ですよ」

 微笑んだジェイドの頷きに、ようやくリゼットは握りしめていたその手のひらを解く。そして、その指先を恐る恐るジェイドの尾へと伸ばした。
 温かな体温が肌を滑って行く感覚にこそばゆさを覚える。やはり体温差のせいで少し熱くはあるけれど、決して火傷にまでは至らない。指先でジェイドに触れたままこちらを伺い見るリゼットへ、ジェイドは大丈夫だと囁くようににこりと笑みを浮かべてみせた。
 そうすればリゼットも安心したらしい。滲んでいた不安の色が薄くなり、瞳に残されたのはただただ目の前の未知を知り尽くしたいという好奇心の表情だけ。

「……鱗がない、んだな。思ったより弾力があって、触り心地も柔らかい。体表は粘液で覆われているのか。このあたりも普通のウツボと同じか?」
「そうですね、同じだと思います。それと、鱗は皮膚に埋もれて表面に出ていないだけで実際はありますよ。普通の魚に比べると小さいですが」
「ほう、皮膚の下に鱗が……今度食用のウツボを買ってきて捌いてみるか……」

 ぽつりとこぼされた言葉についつい本能が背筋を凍らせてしまうが、その包丁の切っ先が向けられるのは決して自分ではないのだからと自らに言い聞かせる。何となく微妙な気持ちを抱えながら、ウツボを捌く時には自分も同席させてもらうべきなのだろうかと曖昧に考えた。

「図鑑の写真でしか見たことはないが、ひれの形状もウツボのものと似ているな。ただ背びれがかなり尖っている。……ここも触ってみて大丈夫か?」
「はい。ただ、もしかすると手を切ってしまうかもしれませんので十分にお気をつけて」

 ジェイド・リーチという男は、元来『観察すること』は好きであるが『観察される』ということが苦手である。そんな彼が、どうしてこんなにも大人しく彼女に観察されることを良しとしているのか。その最大の理由は、やはりこれが『取引』である故。そして同時に、彼女が観察している対象があくまでも『人魚』であって、『ジェイド・リーチ』ではないためだ。

 ……けれど、そう理解はしていてもやはり。

 リゼットの手のひらがジェイドの頬に伸ばされる。その指先から反射的に逃れようとしてしまう身体を諫めて、ジェイドは静かにその温もりを享受した。あと数度でもその温度が高ければ火傷を負ってしまいそうな、それほどの熱さ。それは先ほどまで尾や背中、腕に触れていたもの変わらぬ温度であるはずなのに、どうしてこんなにも熱いと感じてしまうのだろう。

 彼女の両手に包み込まれた顔が、ゆったりと上へ向かわせられる。
 真剣な表情で、眼鏡のレンズ越しに彼女の瞳がジェイドを観る。
 網膜にその鮮やかな緑色が焼きついてしまいそうだと感じた。
 少し前に海の中へと落とした尾びれの先が、ゆらりと浅い海を泳ぐ。渇きを覚え始めた肌が、ほんの少しだけ引き攣った。

 ゆるりと、いつも以上に緩慢な動作を心掛けて瞬きを繰り返す。途端に居心地の悪さが増したのは、きっと彼女の瞳があんまりにも真っ直ぐジェイドを見つめていたから。そしてそれを、真正面から目の当たりにしてしまったから。
 そんなはずはないと、そんなことはあり得ないと理解はしていても、自分といういきものの全てを見透かされてしまうような気がして。ジェイドはほとんど無意識に、まるで逃げるように彼女の左目からそっと視線を外してしまった。

「……この頬の模様には、何か意味があるのか?」
「……いえ、特別何もありません」

 それまで一切の澱みもなく彼女の問いかけに答えていた声が、ほんのわずかに喉元で躓いた。けれど、彼女がそれを気にした様子はない。それが全てで、それが答えだ。
 いつの間にやら取り出していた小さなノートに何かを書きつけながら、リゼットはぶつぶつと何かを呟いている。当の人魚である自分にはその楽しさなどいまいちよく分からないが、彼女にとってこの観察会は酷く楽しいものであるらしい。笑みこそ浮かんではいないものの、その瞳に浮かぶ表情は酷く豊かだ。

 ……もしも今、この尾を彼女の身体に巻き付けて海の中に引きずり込んだとしたら、彼女は一体どんな表情を自分に見せてくれるのだろうか。そんな物騒な考えを思考の片隅に転がしながら、ジェイドは彼女の様子をじっと見つめる。自分を観察している人の観察をするというのもなかなかに楽しい。きっとこの楽しさが、今彼女の感じている楽しさと同じ色をしたものなのだろう。

 それを理解してもなお、彼女から向けられる視線にどうしようもなく掻き立てられる居心地の悪さは、どうしてか消えてくれなかった。


  ***


「──なるほどな」

 身体が乾いてしまう前に海へと潜り、そして再び陸に上がって彼女の観察対象となる。そんなことを数度繰り返し、空に夕焼けの色が滲み始めた頃。ふと視線を持ち上げたリゼットが、呟くようにその言葉をこぼした。
 どうやらひとまずは好奇心の波が収まったようだ。まだわずかな物足りなさを表情に滲ませながらも、びっしりと文字の並んだノートを閉じて彼女は立ち上がる。

「ひとまずある程度は理解できた。正直まだ知りたい部分はあるが……残りは解剖学の領域に入ることばかりだからな。後は暇な時にでも文献を読み漁ることにしよう」

 固まってしまった身体を解すように伸びをしながら、リゼットはそんな言葉をこぼす。どうやら彼女は心臓や肺などといった内臓の違いについても興味が惹かれているらしい。さすがに食用のウツボのように捌かれてしまうのは困るため、ジェイドもそれに頷いて同意を示す。
 ゆっくりと瞬きをした翡翠の瞳が、岩場に横たわるジェイドの姿を静かに見下ろした。

「……やはり何度見ても美しいな、君のその姿は」

 まるで噛みしめるように紡がれたその言葉に、ジェイドの睫毛がゆらりと震えた。静かではあるけれど、初めてこの姿を目にした時と全く同じ感情を孕んだその声色。
 ジェイドは、自らのこの姿が人間にとって畏怖の対象になる得ることを正しく理解していた。だからこそ、なんの外連もなく注がれる真っ直ぐな彼女のその言葉が、その感情が、どうしてもくすぐったく感じられてしまって。
 そんなもの、ただの社交辞令だろうと一蹴できてしまえばどれほど良かっただろうか。

「……そんなことを言ってくださる人は、きっと貴女ぐらいなものですよ」
「ん? 何故だ? ずっと眺めていても飽きないほどに美しいじゃないか」
「ふふ、だって人間からすれば僕の姿は酷く異形でしょう? 爪や牙は鋭く、背びれは尖って、身体もこんなに大きい。……ああ、別に僕がそれを嫌がっているという訳ではなく、ただ客観的な事実としてそうだというだけの話です」

 ジェイドがその気になれば、彼女のことなど一瞬にして海に引きずり込んで、この尾でばらばらになるまで締め上げることが出来てしまう。いやまあ、もちろんそんなことはしないけれど。それぐらいに、人魚というものは人間にとって脅威となり得る存在だということだ。
 そんなものを、それでも貴女は「美しい」と称するのか。そう問いかけるように、ジェイドはリゼットへと微笑んで見せる。
 けれど、その視線の先に佇む翡翠の色は、酷く静かにジェイドを見据えるだけ。冬に海を覆い尽くす流氷を連想させるその眼差しが孕む冷たさは、冷酷のそれとはまた違ったもの。ただひたすらに、どこまでも真っ直ぐな温度だけがそこには在った。

「爪や牙の鋭さも、尖った背びれも、身体の大きさも、冷たく過酷な海の中で生きるために培われてきたものだろう? 生きるために環境に適応したその姿を、何故厭うことが出来ると言うんだ」

 ばっさりとジェイドの言い分の全てを切り捨てるように紡がれたシンプルな彼女の言葉に、ほろりと目から鱗が落ちるようだった。一切の躊躇も衒いもない、ただただ彼女にとっての世界の真理を音にしただけだと言わんばかりの率直なその響きが、ジェイドの心の柔い部分に降り注ぐ。

「まあ、それが私の命を脅かそうとするならまた話は変わるがな。ただそこに在るべくして在るものをいちいち恐れたりはしないさ。それに、そもそも私は植物学者だぞ? そんな甘い考え方をしていたら、研究できるものもできなくなってしまうだろう」

 生き物が生き物として生きる姿そのものを慈しむ。そしてその姿を、在り方を、ただひたすらに追求し続ける。ああ、そうだ、彼女は『植物学者』であった。

「君の姿は美しい。君さえ良ければ、是非ともまた観察させてくれ」

 堪えきれず、小さな笑みが唇にこぼれる。一度ひと粒が溢れてしまえば、あとは堰をきったかのように感情が込み上げてくるばかり。くすくすと可笑しそうに笑い始めたジェイドに、リゼットは怪訝そうな表情を浮かべて首を傾げることしか出来ないままだった。


  ***


「──すみません、お待たせいたしました」
「ん、ああ。笑いも収まったか?」
「ええ、なんとか」

 それから数分ばかり笑い続けたジェイドは、何とか笑いが収まった頃、先ほどと同じようにリゼットが離れている間に魔法薬で人間の姿を取って帰り支度を整えた。きっちりと制服を着込んで彼女に声を飛ばせば、帰ってきたのはそんな言葉。淡々としたその口ぶりには、変に笑い狂っていたジェイドに対するちょっとした揶揄いのの表情さえ含まれてはいない。
 眠気が戻って来たのか重たくなった目蓋と、先ほどまでの輝きはどこへいったのかというほどに静かな表情。生き物を慈しむ彼女ではあるけれど、やはり『植物』や『人魚』に比べると、『人間』に対する興味というものは格段に低く設定されているらしい。
 くわりとひとつ大きな欠伸をこぼしたリゼットは、今にも眠りに落ちてしまいそうな瞳をちらりとジェイドに向けた。そしてその視線でジェイドを頭の天辺からつま先まで順番に眺め、ゆったりと唇を震わせる。

「それにしても、上手く人間の姿をとっているな。魔法薬は学園から支給されているものか?」
「ああ、いえ。同じく珊瑚の海を故郷とする僕の幼馴染が特別に調合したものです」

 ジェイドの言葉に、ぱちりと彼女の瞳が瞬いた。浅い夕方の中に煌めいた緑の鮮やかさが、容赦なくジェイドの網膜を焼いていく。

「ほう。学生でありながら既にそれだけの魔法薬を調合できるとは大したものだな。どこの誰とも知らないが、将来は結構な大物になりそうだ」

 小さく唇を緩めて、リゼットはどこか愉快を孕んだ口調で軽快に言葉を紡ぎあげた。
 その姿に、どうしてかジェイドの心臓がじわりとさざめく。痛みでもない、不快というにも何かが足りない。けれど、直感的に『いい』感覚ではないと理解できる何かの疼き。それが一体何であるかを、ジェイドはまだ知らない。

「……ええ、そうですね。アズール、僕の幼馴染は本当に素晴らしい方ですよ。きっと貴女とも話が合うと思います」

 微かな喉のつっかえを覚えながら、それでもジェイドは一切の嘘を孕まない言葉を静かに紡ぐ。
 そうか。と頷くような呟きをこぼした彼女の声色には、もう既に『ジェイドの幼馴染』の話題に対する興味も随分と薄れてしまっているように聞こえた。
 布の魔法を解きウエストポーチの中へ片付けるリゼットの姿からそっと視線を外して、ジェイドは海のさざめきが穏やかに響く世界をぐるりと見渡す。随分と色の薄くなった空を見上げながらゆっくりと呼吸を繰り返せば、夕方が近づき涼しさを増した空気がじわりと肺を満たした。きらきらと光を反射する水面と遠く世界を二分する水平線の姿に、ジェイドはそっと瞳を細めた。

「──よし。それじゃあ帰るとするか」

 ふとこぼされたリゼットの声に視線を彼女へと戻す、その最中。ジェイドの世界にひとつの色彩が飛び込んで来た。
 それは岩場の中に揺れる薄青色。時折駆けていく微かな風にくすぐられながら世界を色づけるそれは、空を仰ぐように5枚の花弁を広げる可憐な花の姿であった。
 ジェイドは初めて目にするその植物の姿に、思考も曖昧にリゼットへと言葉を投げかけた。

「ヘリオトロープ先生、あの花は何という名前なのでしょうか」
「ん? ……ああ、プロティアンか」

 リゼットから返された言葉の中に聞こえた、恐らくその植物の名を指し示すのだろう文字列。その音の並びに、ふとジェイドは首を傾げた。『プロティアン』という名前を、ジェイドはどこかで聞いたことが、いや、正確には見たことがあった。カレッジの植物園の中で。けれど、ジェイドの記憶がただしければ、それを冠していた植物は確か。

「……カレッジの植物園に咲いていたプロティアンは鮮やかな赤い色の花を咲かせていたように記憶しているのですが、そのプロティアンとあの花は同じものなのですか?」

 脳裏に思い描いたジェイドの知る『プロティアン』の花も、確かに今目の前にある花と同じ5枚の花弁を持っていた。けれど、それを彩る色彩は決して今目の前に色づいているような静かな薄青色ではなく、迸るような赤色だったはず。
 ジェイドのそんな問いかけに、リゼットは面倒くさがる様子も見せず、すぐさま答えを与えてくれる。その瞳がきらりと瞬いた姿に、思わず視線が奪われた。

「ああ、同じものだぞ。プロティアンは種子が置かれた環境によって、その名の通り『変幻自在』に咲かせる花の色を変えるんだ。植物園の湿った腐葉土の下では赤、乾燥の激しい場所では黄色、山の頂上などの高地では白、寒さの厳しい地域では紫、そして海辺ではあの薄青。橙色や桃色の個体も観察されたという記録がある」
「そんなにも沢山……つまり、プロティアンの種はどんな条件下でも発芽するということですか?」
「そうだな。土と、最低限の水と光、そして空気があれば基本的にどこでも生育する。とても強かな植物だ。水の量や土壌に含まれた成分、光の照度、酸素濃度などが複合的に影響して花の色が代わるとされているが、実はまだ詳細な部分までは分かっていない」

 途端に口数の増えた彼女は、すらすらと『プロティアン』という植物についてジェイドに語っていく。本当に彼女は植物が好きなのだなと、そんな今更過ぎる認識が、ほろりとジェイドの胸の中に転がり落ちた。

「そんな風にどんな場所にも花を咲かせ、様々な色彩で人々の目を楽しませてきたことから、プロティアンには花の色ごとに様々な愛称がつけられていたりするんだ。たとえば、海辺に咲くあの薄青色の花はよく『シャロウズ』と呼ばれていて、図鑑によっては『シャロウズ・プロティアン』の名前で記載されていることもある」
「シャロウズ……浅瀬、ですか」
「ああ。地域によってはまた違う名前で呼ばれていたりするが、そう呼ばれることが多いな」

 ひらひらと花びらが微かに揺れている。夕焼けの世界に咲いたその薄青は、確かにその愛称の通り、海の浅瀬を連想させる優しい色彩をしていた。

「──とても素敵ですね。やはり陸の植物はとても興味深いです」

 ほとんど独り言のように、ジェイドの唇からそんな言葉がこぼれ落ちていく。
 好奇に弾む心臓は、もっと陸の植物について知りたいと逸るように叫んでいた。

「私もそう思う。……まあ、不本意なところも多々あるが、精々学べるだけのことを全て学んでいけばいいさ。私のところで学べることなんて多くはないとは思うがな」

 素っ気ないリゼットのそんな言葉に、ジェイドはぱちりと瞳を瞬かせた。けれどもすぐさまゆるりと目元を緩め、柔らかな笑みと一緒に答えを紡ぎあげてみせる。

「はい。何卒よろしくお願い致します、ヘリオトロープ先生」
「……ずっと思っていたが、先生はやめてくれないか。何度も言うが教師ではないんだ、私は」
「おや、ではどうお呼びすれば?」
「リゼットでいい」

 風が止んだ。橙に染まり始めた夕凪の中に、彼女の鮮やかな緑の色が輝いている。
 小さく空気を吸い込んだところで浅く止まってしまった呼吸に、思わず言葉が躓いた。瞬きを数度繰り返して、ジェイドはその唇を薄く震わせる。

「──リゼット、さん?」

 彼女という存在を指し示す音の羅列。それを口にする、声にする。ただそれだけのことだというのに、どうしてこんなにも言葉を紡ぐことが難しいと感じてしまうのだろうか。
 発する音はこれでよかったのだろうか、イントネーションは合っているのだろうか、なんて、そんな可笑しな疑問が頭の中に浮かび上がっては弾けて消えていく。それはジェイドの生きてきた16年という時間の中でも、初めてに等しい感覚だった。
 ぱち、と鮮やかな翡翠がジェイドの世界に瞬いた。
 それはジェイドを真っ直ぐに見据える彼女の瞳の姿。この世界においてそう珍しい色彩ではないはずのそれが、どうしてか世界にただひとつだけの貴重なもののように感じられて。

「……ふ、何で疑問形なんだ?」

 ──笑っ、た。

 ここまでにジェイドも何度か目にしてきた、あの不敵な笑みとはまた違う表情。
 眉を下げ、ゆるりと目元を綻ばせてくすくすと微笑む姿は、彼女を随分と幼く見せてしまうほどに無邪気なもので。見たことも無いその様子に、またジェイドは肺呼吸を忘れてしまう。
 彼女はこんな笑い方も出来たのか。
 ちかちかと、淡い光が視界の中に瞬いた。まるでダンスのステップを踏んでいるかのような軽やかさで世界の彩度と明度を上げていくそれを、ジェイドは夕焼けの世界の中にただ見つめる。

 海のさざめきが、心臓にまで伝播してしまったかのようだった。



20200726

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