君さえ


第4話


 ──石畳の道を歩いていた。ガラス張りの天井の向こうに広がる空が呼吸を奪うほどに青くて、視界に映る草木の緑は目が眩むほどに眩しくて、思わず爪先が弾むように跳ねる。
 さらさらと水が流れる音を聞きながら、色鮮やかな花々を視界の隅に愛でながら、私はあのひとを探して小さな世界の中を駆け回る。
 はてさて、今日は一体どこで何をしているのだろうか。
 橋を渡って、芝生を抜けて、そうしてようやく私はそのひとを見つけた。

「     !」

 後ろから名前を呼べば、そのひとはゆっくりとこちらを振り返って、微笑んで。
 その唇が、……私の名前を、

「──あなたは、誰なの?」

 鳴り響く電子音が、いつにもまして耳障りに聞こえる朝だった。

  ***

「珠華さん、何をなさっているんですか?」

 彼が私の職場でアルバイトを始めてからもうすぐ2週間。ついでに言えば、彼と出会ってからもうすぐひと月が経つ頃。
 もう随分と深くなった冬の中、それでも空が穏やかに晴れたその日は、カフェの定休日である火曜日で、私と彼はふたり一緒に休日を自宅で過ごしていた。
 相変わらず私と彼の曖昧な関係と、その下に紡がれる緩やかに平和な生活は続いていて、世界は何とも穏やかだ。
 そんな時間の中、私は未だに名前や年齢以外の彼のプロフィールを知らないまま。
 それでも、彼と食卓を囲む度に、同じ扉を潜って「ただいま」を言う度に、「おやすみなさい」と「おはよう」を繰り返す度に、彼という存在は私の生活の深く深くに沁み込んでいく。彼がまだここにいなかったついひと月やふた月前に、一体自分がどんな日々を送っていたのかも分からなくなった今日この頃は、もう随分と重症のようだ。つける薬も飲む薬も、受診できる病院もきっとない。
 目下の問題は、「帰るべき場所に帰ることが出来るようになったので帰ります、さようなら」と彼に言われるいつかの日に、私が彼をちゃんと手放してあげられるかどうか。
 その時ふと思い出した、私たちのこの関係にもいつかは終わりが来る、だなんて、最初から決まっていた、分かりきっていたはずの事実に、心臓がじくりと痛みを訴えた。突然始まったこの生活が突然終わったとしても、それは自然の摂理なのだろう。
 何かがなければ、誰かがいなければ生きていけない。そんな健気で弱々しい言葉を、胸の内でだけとはいえ自分が紡ぐことになるとは。本当に、人生とは分からない。

 閑話休題。

 そんな私たちふたりの休日の、何とも穏やかな昼下がり。
 昼食を終えて、まだおやつ時には少し時間がある。そんな中途半端な時間にひとりキッチンに立った私へ飛ばされてきたのが、冒頭の彼の言葉だ。

「店長から頼まれてたカフェの新メニューをね、ちょっと試作してみようかと思って」

 棚や冷蔵庫から材料を取り出しながら、私はダイニングの方に立っている彼へ背中越しに言葉を返した。最近どうやら店のメニューに対して何か思うところがあるらしい店長が、唯一の社員であり、かつ調理師免許を持っている私に相談をしてきたのが、確か3日ほど前のことだっただろうか。
 ジェイド・ショック、と私が勝手に呼んでいるあの爆発的な来客増加も一先ずの落ち着きを見せ始めた今日この頃、以前からの常連に加えて新しい常連の顔ぶれも増え始めたこのタイミングで新しいメニューに手を出すというのも、確かに有効的なのかもしれない。

「ああ、昨晩考え込んでいらっしゃったものですか?」
「そうそう。色々洒落たものとかも考えてみたんだけど、意外とシンプルなメニューの方が万人受けしていいかもな、って思って。とりあえず作れるものから実践するの」

 彼の言うように、ここ数日寝る時間も惜しんで様々なメニュー案を考えてはいたのだが、どれもいまいちしっくりこないまま、試作を計画していたはずの今日になってしまった。
 こうなっては仕方ない、まずは作れるものを作ってみてから考えよう、と私が開き直ったのが、今朝のこと。そして今に至るという訳だ。

「なるほど。それで、何を作るんです?」

 薄力粉に、卵、バター。最後に紅茶の茶葉を並べて、私はにっこりと彼に笑みをみせる。

「私の得意スイーツ、紅茶のクッキー」

 薄力粉を振るって、卵は卵黄と卵白に分けておく。バターは前もって常温に戻しておいたので、それと砂糖を早速ボウルに入れて、泡立て器で擦り混ぜ始めた。

「……紅茶の、クッキー、ですか」
「そうそう、クッキーに紅茶の茶葉が入ってるやつ」

 うちのカフェは目玉商品でもある美味しい紅茶を目当てに来店するお客さんも多いため、紅茶フレーバーのスイーツというのもなかなかに受けがいいのではなかろうか。まあ、個人の好みにもよるため一概には言えないけれど。

「高校生の頃からよく作ってて、割と自信あるんだよね。シンプルだけど美味しいし、うちのメニューにはまだないし、簡単に作れるし、いいんじゃないかな」

 ボウルの中身が飛び散ってしまわないように手元に視線を落として彼と言葉を交わしながら、私はふと、このスイーツを作り始めた数年前──もう十年近く前のことになると気付いて微妙な気分になった──を思い出す。
 何をきっかけにして作るようになったのかは覚えていないが、確か私が紅茶に目覚めたのとほとんど同じぐらいのタイミングだった気がするため、きっとその流れでレシピを見つけたのだろう。クッキー自体はその以前からよく作っていたし、好きと好きのコラボレーションというのはいつでも胸が弾むものだ。
 砂糖とバターが混ざったら、そこに溶かした卵黄を数回に分けて加え、よく混ぜる。

「ジェイドは好き? 紅茶のクッキー……」

 さて次はゴムベラに持ち替えて、薄力粉をボウルの中へ。その手順の最中に、ふと私は視線を持ち上げて、ダイニングからこちらを覗き込んでいるのだろう彼を視界に映した。
 そこに在るのは、今となってはもう随分と見慣れた色合い。浅い海に、深い黒に、黄金と黄灰のコントラスト。何度も何度も私はそれを網膜に映してきたというのに、けれどもどうしてかその色彩は未だに私の心を奪って、果ては呼吸までも攫っていってしまう。

「──はい、好きです。とても」

 たとえばもし、今この瞬間、私が彼のその表情の意味を彼に問いただすことが出来たのならば。私が、彼の全てを知ることが出来たのならば。そうすれば私は、胸をずっと蝕み続けるこの曖昧な苦しみに別れを告げることが出来たのだろうか。
 彼と私の間に満ちるこのどうしようもない空白を、ゼロにすることが出来たのだろうか。
 彼と私を繋ぐこの糸に、明確な名前を付けることが出来たのだろうか。
 けれどもそれは、結局ただのたとえ話。
 何故なら今の私に、そんな勇気はなかったから。
 それを問うてしまえば、今のこの優しい世界が壊れてしまうような、そんな朧げな恐怖感に私はただただ情けなく怯え震えていたから。

「……そっか。それじゃあ、後で試作品の味見でもしてもらおうかな」
「それは楽しみですね」

 生地をゴムベラで混ぜながら、私は胸の奥に蟠る感情を押し隠して笑ってみせた。その笑顔は、ちゃんと正しく笑えていただろうか。この作り笑いが壊れて全てを隠せなくなる日も、きっとそう遠くはない。何故か、そんな気がした。

  ***

 出来上がった生地を細長い棒状にしてラップに包み、冷蔵庫で寝かせること30分。
 オーブンレンジを予熱している間に、程よく冷えた生地をそのまま5ミリから1センチ弱ほどの厚さに切り分けていく。型抜きを使って様々な形にするのもいいが、今回は作るスピードなども加味した試作なのでこの手法を使うことにした。
 オーブンシートを敷いた天板に生地を並べ、余熱の終わったオーブンに入れれば、あとはもう焼き上がりを待つだけ。
 作業中ずっと注がれて続けていた彼の視線に気まずさを覚えるのも、これで終わりだろうか。そんなことを思いながら私がそっと視線を上げた瞬間、ぱちりと彼と目が合った。
 咄嗟のことに、視線を瞬時に外すことも出来ないまま、私は彼と見つめ合う。心臓が変に鳴る音も、今は鼓膜から酷く遠い。

「……な、なに?」

 無言で見つめ合うこと数秒。ようやく私が吐いたのは、何処か尻込み気味に震えたそんな言葉。それを受けた彼は、瞳を軽く瞬かせてゆるりと微笑んだ。

「いえ、相変わらず楽しそうに料理をされるなあと思っただけです」

 なんだそれは。彼の前で料理をしたことなど、数えられるほどしかないと言うのに、まさかその全てで今回のように観察されていたのだろうか。そう考えるとなんだか気恥ずかしさが募って、返す軽口も頭に思い浮かばなくなる。

 にこにこと酷く楽しそうな、どこか──幸せそうな彼の笑みに、どうしてかまたじわりと視界が滲んだ。

「……もうすぐ焼けるし、紅茶も私が入れるから、お茶にしよう」

 絞り出すような声で、それでも普通を装って私がそう言えば、彼はまた嬉しそうに微笑んでくれる。最近は、以前にもまして何だか変だ。彼の微笑みを見る度に、どうしてか『悲しい』と心が泣いてしまう。理由はやはり、分からない。
 オーブンレンジの焼き上がりを伝える音に、私は再び彼から視線を外した。
 扉を開けて、中を確認する。うん、いい焼き上がり。ふわりと漂った香ばしいクッキーの香りに、心がほっと落ち着くのを感じた。
 粗熱が取れるまでそのままオーブンの扉を開けて放置する。その間に私がするべきは、紅茶の準備だ。クッキーにアールグレイの茶葉を使ったので、紅茶もそれに合わせよう。
 からからと、リビングの方からベランダに繋がる窓が開かれる音が聞こえた。きっと彼が干していた布団を取り込みに向かったのだろう。今日は天気が良かったから、いい具合に布団もふかふかになっているはず。キッチンからも見えた、布団を抱えて少し笑みを深くしながら部屋へと戻ってくる彼の姿に、思わず私も笑みをこぼした。何て平和な休日だろうか。まるで幸せをかたちにしたみたいだ。
 紅茶に満ちたティーポットと、ティーカップをふたり分。それらを手にダイニングへ向かえば、布団を片付けた彼が机の上をきれいにして待っていてくれていた。コースターもばっちりだ。相変わらず仕事が早い。
 あとはクッキーの方だが、こちらも丁度良く粗熱が取れてさくさくになっていた。一枚を味見して、今回も我ながら上手く焼けたと自画自賛する。
 天板をオーブンから取り出して、クッキーを白いお皿に盛りつけた。お皿の上に白いレース風のナプキンを敷けば、見栄えもよくなっていいかもしれない。それにジャムや生クリームを添えるのも有りだろうか。検討事項に入れておこう。

「はい、お待たせしました」

 クッキーのお皿をダイニングテーブルに置いて、今日は私がサービスをするのだと彼を椅子に座らせる。いつもは彼にしてもらってばかりなので、たまにはいいだろう。紅茶をティーカップに注いで彼の前に置けば、ふたりきりのお茶会の始まりだ。

「良い香りですね」
「ふふ、ありがとう」

 彼からの誉め言葉は純粋に喜ばしい。込み上げてきた笑みを隠すこともせず、私は彼にクッキーを勧めた。
 いただきますと手を合わせて、彼の長くてしなやかな指がクッキーを摘まんでその口元へと連れて行く。誰かに自分の作ったものを食べてもらう瞬間というのは、やはりいつになってもドキドキしてしまう。

「……美味しい、──美味しいです、とても」

 咀嚼して、飲み込んで、そうしてふわりと綻んだ彼の表情に、私の心も僅かな緊張から解き放たれた。ほっと小さく息を吐いて、私もクッキーに手を伸ばす。

「今すぐにでもお店に出せそうですね」
「褒め過ぎ、褒め過ぎ。まだ店長に相談したりしないといけないし……まあ、うまくいってメニューに入れてもらえたら嬉しいよね」

 自分の好きなものや好きなことが認められる嬉しさは、きっと誰しもが理解できる感情だろう。彼からの好評も頂けたことだし、今日中にメニューを纏めて明日にでも提出しよう。静かに心を弾ませながらそう計画立てて、私は紅茶に口をつける。
 口の中に満ちた琥珀色の液体と、それが奏でる優雅な香り。自分で淹れたそれは、やはり自分好みで確かに美味しい、のだけれど。

「……やっぱり、紅茶はジェイドが淹れた方が美味しいんだよぁ」

 何か物足りないと思ってしまうのは、目の前の彼が淹れたあの紅茶の美味しさを知ってしまったからだろう。胃袋だけでなく味覚まで掴まれてしまったということか。
 彼に紅茶の淹れ方を教わったこともあるのだが、どうしてか彼の淹れる紅茶以上を私の手では生み出せない。最近では、今まで美味しいと思っていたカフェの紅茶でも満足できなくなってしまっているのだから、この男の罪は重い。

「そうでしょうか。僕は貴女の淹れてくださる紅茶も好きですが」
「それはどうもありがとう。でも、ジェイドに言われるとなんかなぁ〜複雑」

 おやおや、と困ったような口振りで全く困った様子を見せない彼に、このやろうと心の中で悪態を吐く。特技は紅茶を淹れることだと面接の際にも言っていたし、やはり紅茶と彼の親和性は高すぎるようだ。彼と初めて出会った夜、彼には紅茶が似合いそうだと考えていた私には花丸満点をあげよう。
 自分で淹れた紅茶でも彼以外の誰かが淹れた紅茶でも満足できないだなんて、

「──もう一生ジェイドに紅茶を淹れてもらうしかなくなっちゃうな、これは」

 それは、ほとんど無意識に私の口からこぼれ落ちていた言葉だった。もしもそうなったらどうしよう、困るなぁ。そんな程度の意味合いで紡いだ、特に深い意味などない言葉。
 けれど、はたりと私はそれに足を躓かせた。さて、私は今何と言った? 自分自身でさえも困惑混じりの私が思わず視線を向けた先には、ぱちりと瞳を瞬かせている彼の姿。
 頭の中に、自分の先程の言を再生する。1秒、2秒。そうしてようやく、私は自分の失言に気が付くのだった。

「ま、まって、ちがう。別に深い意味はないから! 気にしないで……!」

 いや、本当にただの言葉の意味を理解するなら、別にそれは焦るような内容ではない。いや、焦るような内容なのだろうか。訳が分からなくなってしまっている私には、もう正常な思考回路も残されていない。
 一生自分に何かを作ってください。それはこの社会において、いわゆるプロポーズの常套句として使われてしまっているもので。恐らく先程の私の言葉も、そこに他意は無かったとしても、周囲からはそれになぞらえたものとして扱われてしまうのだろう。
 プロポーズの意味合いでは無かったとしても、一生自分の傍に居てくれと言わんばかりのその言葉。ああ、やはり失言だ。彼にそんなことを言ってしまうなんて。

「──ふ、ふふ、」

 恥ずかしさや何やらで頭を抱えて机に突っ伏しそうになる私に、彼から返されたのは堪えきれないと言わんばかりの笑い声。人の失言を笑いやがって、と私が睨むような視線を向ければ、くすくすと愉快そうに笑っている彼の姿が視界に映る。
 私の視線に気付いた彼は、その笑みをさらに深くして唇を震わせるのだ。

「僕は構いませんよ。……貴女に一生紅茶を淹れ続けるというのも、悪くはない」

 ──っああもう、本当に! なんなんだこの男は!
 ぶわりと熱を上げた自分の頬を隠すように、私は両手で顔を覆い隠した。冗談だろうとは私も分かっているけれど、あの顔とこの声でそんなことを言われてしまえば、こうなってしまうのも仕方がないだろう。自分の武器を知っている男はこれだから。

「……からかうの、やめてもらっていいですか」
「おや、揶揄ってなどいませんよ? 本心です」

 顔を覆っているから彼の表情は見えないけれど、きっとまだあの酷く愉快そうな笑みを浮かべて私の醜態を楽しんでいるのだろう。本当にいい性格をしている。
 ──どうせいつかは、現れた時と同様に突然いなくなるくせに。
 どろりと心に滲んだどうしようもない感情に慌てて蓋をして、私はぱっと顔を上げた。

「ほら、紅茶冷めちゃうから早く飲んで。あと今日の晩御飯は私が作るから」

 彼がカフェでのアルバイトを始めて以来、私も家事の一部を行うようになった。しかし、料理は基本的に彼に任せきりで、いつも私は彼の作ってくれるご飯に舌鼓を打つばかり。
 彼のご飯はどれも私の胃袋を掴んで離さなくなる程の美味しさなのだが、実はひとつだけ欠点がある。とはいえそれも、ほんの些細なものなのだけれど。

「おや、いいんですか?」
「今日は何となく料理したい気分なの」
「なるほど。何を作られるんですか?」

 メニューはもう、私の中で決まっている。だから彼の問いかけにも、すぐさま答えの言葉が飛び出した。

「お味噌汁!」

  ***

 私自身、以前からあまり和食に熱心なタイプではなかったので然程気になっていなかったけれど、彼の作る料理は洋食がメインで、味噌汁というメニューが食卓に並んだ記憶がない。暫く食べていないなということにふと気が付いてしまえば、何故か無性に食べたくなってしまうのがこの味噌汁という我々日本人の故郷の味だ。
 今度はキッチンまでやって来て興味深そうに私の手元を見つめている彼の前で、私は材料を並べていく。お味噌に、乾燥わかめ、お豆腐、そして長ねぎ。じゃがいもやなめこのお味噌汁も私は好きなのだが、今回はシンプルにいこう。
 豆腐と長ねぎを切って、わかめを水で戻し、水と一緒に鍋に入れて火にかける。お出汁は手軽に顆粒のものだ。最近は本当に便利な世の中になったと思う。

「もしかしてジェイド、あんまりお味噌汁とか飲んだことない?」
「はい。あまり『味噌』というものが身近にはない生活を送ってきたので……」

 確かに見た目も名前も外国のそれではあるが、日本語が流暢で生活様式にも慣れている様子だったので、何となく意外な事実だった。まあ確かに、彼には白米に味噌汁よりもパンにスープの方が似合うからなぁ、なんて、似合う似合わないの問題ではないのだけれど。

「あ、そうなの? 折角日本にいるなら、味噌の美味しさは堪能していかないと。それじゃあ今日は、そんなジェイド先輩に私が美味しいお味噌汁を振る舞うしかないですね?」

 冗談混じりの茶化すような口調でそう言って、私は味噌を手に彼へ視線を向けた。
 ──そしてその直後、私はもう何度目かになるその感覚を、また味わうことになるのだ。

「……それは、とても楽しみですね」

 ──ねえ、どうして。どうして貴方は。またそんな瞳で、そんな表情で、私を見るの?

 心臓がぎゅうと握りしめられるような感覚に、息が詰まった。
 彼の瞳に揺れるその色を、一体何と形容しよう。
 考えれば考えるほど、思考回路がどんどん泥沼に落ちていくようだ。何かがずっと蟠ったままの胸の苦しさに悲鳴を上げることも出来ぬまま、私はこのどうしようもない感情をずっと、ずっと燻らせている。

 私は一体、何にこんなにも引っかかりを覚えているのだろう。
 彼は一体、──私に何を隠しているのだろう。

 ずきりと痛みを訴えた頭に、私は手を米神へ伸ばして瞼を強く閉じた。そんな私の様子に異変を覚えたのだろう、暗い世界に心配そうな彼の声が響いては私に触れていく。

「珠華さん? どうされました、大丈夫ですか?」
「……大丈夫、ちょっと頭痛がしただけだから。寝不足、かな」

 まだ僅かな痛みを訴える頭に気付かないふりをして、私はそう言って彼に笑って見せる。新メニューを考えていたことで昨日は寝る時間が遅くなっていたので、寝不足は決して嘘ではない。だから彼も、まだ少し気遣わしげな表情を残しながらも頷いてくれた。

「さ、お味噌汁ももう出来るし、ご飯も炊けるし、メインの鯖の味噌煮とおひたしも準備出来てるから、ご飯にしよう。テーブル吹いてきてもらってもいい?」

 これ以上彼に何かを言われてしまう前にと、私は元気な声をあげて彼をダイニングの方へと送り出す。沸騰した鍋の中に味噌を溶かして、ぐるぐるとかき混ぜる。じわりじわりと茶色に染まっていくお味噌汁を見つめながら、私は小さく呟いた。

「……ジェイドにとっての私って、何なんだろう」

 疑問ばかりが降り積もるまま、答えは何ひとつとして得られないまま、今日もまた夜が更けていく。そう言えば天気予報で明日は今日の天気から一変して冷え込みが激しくなり、場所によっては雪が降るかもしれないと言っていた。
 明日は私が朝番で、彼が昼から夜にかけての勤務だ。朝家を出る前に、彼にちゃんと防寒具を持って来るよう言いつけなければ。
 出来上がった料理をダイニングへと運んで、彼とふたり手を合わせる。
 この夜は、一体いつまで続いてくれるのだろうか。

  ***

 夕食を終え、入浴も済ませ、リビングのソファでゆったりと時間を過ごす夜の21時。
 新メニュー案のレシピも纏め終わり、後は明日店長に提出して相談するだけ。その安心感と昨日の寝不足諸々から足早に訪れた眠気に目を擦りながら、ホットミルクのマグカップを手に私はぼんやりとテレビを見つめていた。ホットミルクは彼が作ってくれたもので、テレビに流れる内容は何でもないバラエティー番組だ。

「……眠いんですか?」

 隣に座っていた彼が、ふと私の姿を見てそう言った。読んでいた本にしおりを挟んで閉じ、それをローテーブルの上に寝かせているのが、少し覚束ない視界に映った。その本は私が彼に貸している、私のお気に入りのミステリー小説で、彼が読み終わった後にその内容について語り合うのを実はこっそり楽しみにしているのだ。
 こちらを覗き込んでくる彼に、ふわふわとした思考のまま私は答える。

「ううん、……いや、ねむくない」
「その割にはもう瞼が閉じてしまいそうですよ?」

 彼がくすくすと笑っているのが分かって、心がそれに子供っぽく不貞腐れる。何とも面倒くさいことだ。自分で自分に呆れながらも、実際はもう随分眠気にやられてしまっている私に自制心というものはほとんど残されていなくて。

「ねむくない……」
「はいはい、そうですね」

 最後の抵抗とばかりにそう言ってはみたけれど、彼は幼子でも相手取るかのような口調でそれを軽くあしらってくる。うとうとと頭が揺れ始めた私の手から、彼がマグカップを奪い取っていった。ああ、まだ飲み終わっていなかったのに。
 彼を睨みつけるために視線を彼へ向けて、もう随分おぼろげな視界に彼の姿を映す。

「……ピアス穴……?」

 その時ふと私が気づいたのは、彼の左耳に残されていたピアス穴の存在。出会ってから今日まで気が付かなかったそれになんだか不思議な感じがして、思わず指先で彼の左耳に触れてしまう。普段なら絶対にしないようなその行動も、寝惚けた今は簡単に出来てしまう。これはあまりにも厄介だ。
 私の言葉と行動にぱちりと目を丸くしていた彼も、すぐさまその意図に気付いてくれた。

「ピアス、つけてたんだ」
「はい。少し前まで」
「なんで外しちゃったの?」

 もっともっと聞きたいことが沢山あるというのに、言うことを聞かない身体はゆっくりと意識を手放していく。指先に触れた彼の髪先があんまりにも柔らかくて、胸のあたりが変にふわふわとした。
 私の問いかけに、彼がほんの少し困ったような顔をしたのが、ぼんやりと視界に映った。

「……置いてきたんです。願掛けとして」

 一体どこに? 貴方は何を願ったの? そんな問いかけが頭の中に湧き上がったけれど、私に許されているのはもう、夢に落ちていくことただそれだけ。いつの間にやら閉じていた瞼ではもう、身体を意思通りに動かすこともままならない。

「おや、これは困りましたね」

 リビングのソファで眠る体勢に入ってしまった私へ、彼の声が落とされる。ブランケットだけをかけて放置してくれれば私はそれでいいのだが、それを許してくれる彼でもない。

「──失礼しますよ」

 扉が開かれる音と彼の声に続いて、ふわりと身体が空に浮く感覚が私を襲う。どうやら彼に抱き上げられて寝室まで連行されているようだ。背中と膝裏に回された彼の腕は力強く逞しくて、身を寄せた彼の胸からは彼の鼓動が聞こえて、温かくて、どうしようもない安心感に私は包まれる。ゆりかごに眠る赤子は、こんな心地の中にいるのだろうか。

「……夢を、見るんだ、最近、ずっと、」

 夢も現も分からぬ微睡の中、私はほろりほろりと言葉を紡ぐ。それがちゃんと声になっているのかも、意味を成しているのかも、私にはもう分からない。

「だれかが、いるの、そこに……でも、だれなのか、わからなくて」

 まるで水の中を沈んでいくように、意識がゆっくりと闇に飲まれていく。その中にどうしてかただひとつ確かに分かったのは、私が今日もあの夢をみるのだということ。

「──あなたは、だれなの?」

 身体が柔らかいマットレスに沈む感覚。額に触れた優しくて柔らかな温度。その正体を私が知ることはない。そうして私の意識は闇に落ちた。


「……おやすみなさい、良い夢を」



2020.04.25

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