第5話
──鮮やかなあおい色が、私の視界全てを埋め尽くした。
一瞬空を飛んでいるのかとも思えたそれは、空と呼ぶにはあまりにも色彩が深く、暗く、そして私の存在全てを包み込むように穏やかだった。
ゆらゆらと揺れる身体をそのままに、こぽりと口元からこぼれ落ちた小さな泡の群れが上へ上へと上って行くのを眺め見る。見上げた空できらきらと淡く光る陽光に、不規則に揺れるその視界に、私はようやく、そこが水の中だということに気が付ついた。
自分は一体、どうしてこんなところにいるのだろう。
ぼんやりと覚束ない頭で記憶を辿るけれど、曖昧な光の色はどうしてか掴まってはくれなくて、私はただ首を傾げるばかり。
……まあ、いいか。
いつまで経っても思い出せはしない記憶に匙を投げて、私はただ青に身を任せてゆらゆらと揺蕩う。こぼり、とぷり。身体が少しずつ海底へと沈んでいくのを感じながら、そっと瞼を閉じた。
大丈夫、きっとすぐにあのひとが迎えに来てくれるから。
ゆらりとひとつ大きく水が波立った。──ああ、ほら。やっぱり来てくれた。
何かに身体が包み込まれて、そうして私の身体は優しくあのひとに連れられていく。
──あれ、そういえば。
ぱちりと瞼を開いた。深い蒼がまた視界に色づいて、じわじわと闇に染まっていく世界に小さな不安が瞬いた。けれどもその不安はたった一瞬で儚くも消えていき、残されたのはあのひとに手を引かれて笑う私ただひとりだけ。
「 」
あのひとが何か言葉を紡いだ。けれど、その音は私の鼓膜に届くことなく、儚い泡沫となって消えて行く。その事実があまりにも悲しくて、私は追いすがるように唇を震わせた。
けれど、私の言葉もまた声にはならず、あのひとへ思いを伝えることはできぬまま。
霞んでいく視界の中に、あのひとが優しく、哀しく微笑む姿だけが残されて、そうして世界は真っ暗な闇に包まれた。
──ああ、そうか、私はまた夢を見ていたのか。
ようやくそう理解したのは、涙で濡れた頬に指先で触れた瞬間。薄暗い寝室に、あの鮮やかな色彩は残されていなかった。
「……もっとちゃんと、私にも聞こえるように呼んでよ、」
そうじゃないと、分からない。あなたの声も、あなたの名前も。
あなたが、一体誰なのかも。
***
「──この新作メニューの紅茶クッキー、珠華さんが考案したって本当ですか?」
平日の19時半を回った頃。朝の10時から夜の20時までという比較的長い営業時間を設けているこのカフェには、近隣の会社に勤めているサラリーマンが仕事帰りに顔を出してくれることも少なくはない。
現に今、カウンター席に座って私と言葉を交わしている彼もまた、このすぐ近くの会社に勤めているサラリーマンで、弊店の常連さんでもある。
「ああ、はい。ありがたいことに採用して頂けまして」
「すっごく美味しいですよこれ! 何枚でも食べられそうだ」
いつものホットストレートティーに加えて、今日は私が先日考案して店長に採用してもらった紅茶のクッキーを頼んでくれた彼の名前は、倉石さん。私と年齢も近く、彼自身とても人懐こい性格をしていることもあって、お店が落ち着いている時はよくこうしてお話をさせて頂いている。
夕方のピークも過ぎて閉店準備に店全体がシフトし始めたこの時間、店内にいるのはノートパソコンを前に険しい顔をしているサラリーマンと、読書中のおばあさん、そして勉強をしているらしい大学生という顔ぶれ。いつも通りの平和な夜だ。
大学生アルバイトのささらちゃんにテーブルの拭き掃除を任せて、私はカウンター内でグラスを拭きながら倉石さんとの雑談に興じる。店長は厨房の奥で、恐らくささらちゃん用の賄いを作っているのだろう。
因みにジェイドの今日アルバイトは全日お休みで、朝からずっと家で留守番だ。多分読書でもしているのだろう。この間また新しい小説を貸したところであるし。
「このクッキーを焼いたのも珠華さんなんですか?」
「いえ。今日は店長が焼いたものですね。店長の手が空いていない時は私が焼くこともありますが……」
「そうなんですか。次は珠華さんが焼いたクッキーも食べてみたいな」
私に向けられた彼の屈託ないその笑顔に、思わず眩しさを感じて目を細めてしまう。
ジェイドのおかげで美形への耐性は意図せずともついてしまった今日この頃であるが、やはりこの純粋無垢なきらきらとした笑顔を向けられるとまだ弱い。確か私よりも1、2歳は年上であるはずなのに、何故彼はこんなにも明るく元気で若々しいのか。世の中とはやはり理不尽で不平等なものである。
「その時はいつもより気を引き締めて美味しく焼かないとですね」
「あはは! そう気負わず、楽しーく作って下さいよ。その方が絶対美味しくなると思いますし、俺も嬉しい」
彼のその言葉に、思わず私は続けるべき言葉を失ってしまう。相変わらずこの人は、天然たらしというかなんというか。こうやって直ぐ相手を喜ばせる言葉をぽんぽんと量産してくるのだから。それが他意の無い善意100パーセントという点で、ある意味ジェイドよりも対応に困ってしまう。
「お客様がお帰りでーす」
出入り口の方から聞こえたささらちゃんの声に、反射的に「ありがとうございました」と声をあげる。ノートパソコンのサラリーマンが退店していったようだ。
見上げた時計は19時50分に近く、店内に鳴り響いたドアベルの音と店員たちの声に、他の客たちもゆっくりと帰り支度を始めた。マナーの良いお客様ばかりで本当に助かる。
「わ、もうこんな時間か。俺も帰らないと」
カウンター席の倉石さんも、閉店の時間を察知し、手に持っていたクッキーを口の中に放り込んだ。急いでいても食べ物はちゃんと味わうがモットーという彼は、もぐもぐと咀嚼をしながら、クッキーの美味しさに幸せそうな表情を浮かべている。
可愛い人だなぁとそれに和みを貰って、ささらちゃんがお会計をしてくれている間に私はテーブルの片付けに向かう。とはいえどのお客様もドリンクだけの注文だったため、グラスやカップを下げてテーブルを拭き掃除すればそれで終わり。洗い物の量も少ないため、すぐにそちらも片が付くだろう。
ドアベルが鳴る度に、もう喉に染みついた「ありがとうございました」を紡ぎながら、私は閉店後の掃除のためにと床用の箒を用意する。
「ごちそうさまでした」
「今日もありがとうございました!」
「最近この辺りに不審者が出てるらしいけど、ささらちゃんは大丈夫? 帰り道とか、この時間だともう暗いし……」
「ご心配ありがとうございます。でも大丈夫ですよ、私は自転車通勤なので」
最後に残った倉石さんのお会計をしながら、親しげに会話を続ける彼女たち。倉石さんの明るさからか、ささらちゃんのコミュニケーション能力の高さからか、はたまたその両方からか、2人の会話はいつもぽんぽんと歯切れよく進んでいく。
手を動かしながらそんな2人の声に耳を傾けていれば、ふと意識に引っかかった言葉。
今話題に上がっているそれは、最近駅前で出たという不審者についての話だろう。塾帰りの女子高校生が、夜道で謎の男に追い駆け回されたとか。なんとも怖い世の中だ。
自転車を利用しているとしても、やはりささらちゃんのことが心配になるのは必定。私もその話を聞いた時は、これでもかというほどに彼女に注意するよう言い含めた。そういう輩はやはり若い女性を狙いたがるのだから、気を張っておくに越したことはない。防犯ブザーを手渡した時はさすがに微妙な顔をされてしまったのを覚えている。
それでも危ないから気をつけて、と心配そうな倉石さんに、私は全面的に同意する。
「もしもの時は自転車で轢き飛ばしちゃうので、安心してください。……私はそれよりも徒歩通勤してる珠華さんの方が心配です」
手放しで安心していいのかよく分からないささらちゃんの言葉に首を傾げていると、突然話の矛先がこちらへ向けられた。私が先端恐怖症なら失神してしまう程の勢いだ。そんな驚きに、思わず目を瞬かせながら彼らの方へと視線を送る。
「……え、私?」
「そーですよ。珠華さん、不審者騒動の時も私の心配ばっかりして自分のことは後回しなんですから。ちゃんと自分用の防犯ブザー持ってます?」
どうして私は、年下の女の子にかなりの剣幕で説教をされているのだろうか。流石に一応防犯ブザーは持っているし、警戒を怠っているつもりもない。
「え、珠華さん徒歩通勤なんですか? それは危ないですよ!」
「倉石さんもっと言ってやってください」
……のだけれど、こうも2人から言い募られると返す言葉も無くなってしまうのが私という人間で。縋り付くように箒の柄を握りしめて、私は彼らの圧に慄いた。
「今日も締め作業が済んだらひとりで歩いて帰るんですよね? 倉石さん、もしこの後お時間あるなら珠華さんのこと送って行ってあげてくださいよ。私心配で」
「それはもちろん。流石に今の時間に女の人が1人は良くないですし」
「え、いやいやいや、流石にそれは申し訳ないので! 大丈夫です……!」
彼の申し出を有難く受け取りながらも私は固辞するが、やはり優しい彼はそれで引き下がってなどくれない。なおも言葉を紡ごうとする彼に、「それに、」と私が口を開こうとしたその瞬間、店内に鳴り響いたのは来客を伝えるドアベルの音。
もう閉店時間だというのに一体誰だ、と心が喧嘩腰になってしまうが、ある意味今の私にとってそれは天からの救いだった。
まあ、その認識も、来店してきたそのひとの姿を見た瞬間にかき消されてしまうのだが。
「──こんばんは、お疲れ様です」
相変わらず私の心を射抜いてやまない浅い海の色に、左右で色彩の違う瞳。ゆるりと弧を描いた唇はまるで彫刻と見紛うほどに美しく、一瞬にして周囲の人間の呼吸を奪っていく。──そう、つまりは彼、ジェイド・リーチがそこに立っていた。
「わ、ジェイドさんだ、こんばんは! どうされたんですか?」
予想外の彼の登場に目を丸くしたささらちゃんが、彼にその理由を問いただす。確かに彼女にとって、シフトに入っていない日のさらには閉店時間丁度に彼が店に姿を見せた理由など、全くといって思い当たらないだろう。
何故なら彼女は、私と彼が同居している事実など知らないのだから。
「珠華さんをお迎えにあがりました」
彼の言葉に、ぴしりと空間が固まるような音が聞こえた。いや、実際にはそんな音など聞こえはしないのだが。もののたとえというものだ。
そう、彼と同居を初めて以来、私がこうして仕事で帰りが遅くなる日は、必ず彼が迎えに来てくれることになっているのだ。最初は、別に今までもひとりで徒歩だったから大丈夫だと突っぱねたのだが、彼の口八丁であっという間に言いくるめられて、気が付けばそれが習慣になってしまっていた。
彼も夜までのシフトに入っている時はいいが、今日のように彼がシフトに入っていない日は店の近くで待ち合わせて帰るようにしようと、せめてとばかりにそう決めていたというのに。どうして彼は今日に限ってここまで迎えに来てしまったのだろう。
「え、そうなんですか!?」
「はい。彼女1人で夜道を歩かせる訳にはいきませんし……」
驚いているささらちゃんに、いけしゃあしゃあと言ってのける彼は、彼女たちが私たちの同居を知らないことを忘れているのだろうか。いや、忘れている訳がない。
わあ、と驚き混じりに口元へ手をやったささらちゃんの視線が私に刺さる。ああ、これは絶対に邪推されている。そりゃあそうだろう、家族でもなんでもない男が態々迎えに来るだなんて、私が逆の立場でも「なるほどそういうことか」と内心で頷いているはずだ。
「倉石さんも、お騒がせして申し訳ありません。彼女のことは僕が責任をもって家まで送り届けますので、ご心配なさらず」
私がささらちゃんからの視線を浴びせられている中、当の彼といえば慇懃に倉石さんを店外へと導いていて。いやまあ確かに倉石さんに迷惑をかける訳にはいかないし、彼が来なかったとしても倉石さんにはお帰り願っていたため結果としては変わらないのだが、何と言えばいいのだろうか、この何とも言えない状況と心情を。
「く、倉石さん! お気遣い本当にありがとうございました!」
倉石さんが帰ってしまう前にこれだけは言っておかなければと、私は慌ててレジ前まで向かいぺこりと頭を下げた。
「ああ、いえいえ! ジェイドさんがいるならもう安心ですね! とはいえ世の中何が起きるか分からないですし、気をつけてください」
この人の前世は聖母か何かなのかもしれない。ジェイドが開いた扉から出ていく彼の背中に、もう一度「ありがとうございました」と礼をした。次に来てくださったときに私がいたら何かしらのサービスをさせて頂こう。そう心に決めて。
はてさて、これでお客様は皆様お帰りになり、ドアのプレートはオープンからクローズドへ。今から始まるのは、掃除と締め作業──なのだが。
「え、ジェイドさんと珠華さんってそういう関係なんですか……!?」
背後から駆け寄ってきた、恋愛話の気配を察知した女子大生の圧力たるや。きらきらと輝く瞳と僅かに赤く染まった頬に、若いなぁなんて年寄りじみた感想しか落とせない。
「さあ、どうでしょう。ご想像にお任せします」
「きゃー! 意味深!」
そんなんじゃないよと私が答えるよりも先に、ジェイドが何故か意味もなくまた邪推を煽るような言葉を吐いた。一体何を考えているんだこの男は。
「違う違う、ささらちゃんが考えてるようなことは何もないから! ジェイドはただ私と家が近くて、厚意で迎えに来てくれただけ。以上! ほらほら、締め作業するから、掃除して掃除。ジェイドはカウンターにでも座って待ってて!」
私がまくし立てるようにそう言えば「はーい」と素直にモップを手にしてくれるささらちゃんであるが、その表情はまだにやにやと笑っていて。これは絶対に理解してくれていないなと直感的に察知する。いやまあ、彼女はまだいい。にこにこと愉快そうに笑いながら私とささらちゃんのやり取りを見つめているこの男だけは絶対に許さない。
絶対帰り道に問い詰めてやるからなとそんなジェイドをひとにらみして、私も締め作業に取り掛かった。
***
「今日も一日お疲れ様でした。それでは帰りましょうか」
ひと足先にささらちゃんを帰らせて、店長と2人で締め作業の仕上げを終わらせ、戸締りを店長に任せて店を出た私を待っていたのは、もちろん彼の姿。少し前に店を出て店の前に立っていた彼の前を、一瞥だけ残して半ば無視する形で私は素通りする。ただの子供じみた意趣返しだ。まあ、そんなもので彼に意趣を返せるわけもないのだけれど。
私の様子にくすくすと困ったような笑み──確実に困ってはいないけれど──を浮かべて、後ろに着いてくる彼。私がどれだけ大股で先を歩いても、コンパスに大きな差がある彼相手では一瞬で距離が詰められてしまう。ああ、本当に腹が立つ男だ。
「何をそんなに拗ねているんです?」
理由もどうせ分かっているくせに、どうして彼はそう聞きたがるのか。隣に立った彼をじろりと睨みつけて、私は尖った声で答えを紡ぐ。
「どこかの誰かさんが約束破って店まで迎えにくるから、ささらちゃんに邪推されたじゃない。これ絶対明日には皆瀬くんにまで話が広まってるよ」
「おやおや、邪推とは?」
「そんな察しの悪い男じゃないでしょうに」
相変わらず楽しそうな様子のこの男は、本当に一体何を考えているのだろう。ジェイドから視線を外して、吐いた息が白く染まっては随分と深まった冬の闇に消えて行くのをぼんやりと眺める。21時にも近い駅前の道は、それでも人が多く行き交っていた。
私たちはただの利害の一致で同居しているだけのふたりで、そこにそれ以上もそれ以外もありはしなくて、──そう、決して恋人でもなんでもないのだ。私たちの関係は。
それなのに、
突然、彼の左手が私の右手に触れた。手袋越しでは彼の体温など分からないけれど、どうしてかそれが酷く冷たいものに感じられて、心臓がどくりと変に軋む。咄嗟にその手から逃げることも出来なかった私の右手を、彼の左手が包み込むように捕まえた。
驚きに目を見開き呼吸までもを止めた私は、足を止めて彼を見上げる。高い背丈の彼を見上げる首の角度は、一瞬にして定まった。
──刹那、視界に瞬いた色は、どこまでも深い、深いあお。
それは電気屋のショーウィンドウに並んだ、最新型のテレビ画面の群れが映した色。大きな字で書かれた『鮮やかな色合いで臨場感が最大に』という商品紹介の文は、確かに事実を訴えていた。だって今、私の視界は確かに海の中に沈んだのだから。
「……手袋を忘れてしまいまして。もしよければこのままでいさせてもらえませんか?」
青い海を背景に、彼がそう言って淡く微笑んだ。まるで今にも消えてしまいそうなその姿の儚さに、私が繋がれた手を振り払う術も全てが殺されてしまった。視界がくらりと柔く揺れたのは、その光景に、無いはずの記憶がどうしようもなく震えたから。
ぎゅうと胸が握りつぶされて、心臓が軋む音がした。喉がストライキを起こしたせいで、肺までもが苦痛に身悶えしてしまう。肺呼吸とはこんなにも難しいものだっただろうか。
「……今日は冷え込むって、朝のニュースで言ってたじゃない」
「ふふ、ついうっかり」
よく言ったものだ。どうせそのコートのポケットに、いつもつけている皮の手袋を隠しているくせに。いつもの仕返しにそれを言い当ててやろうかとも思ったが、見上げた彼の表情があんまりにも嬉しそうで、幸せそうだったから。私は結局何も言えないまま。
「……仕方ないから、そういうことにしておいてあげる」
そんな可愛げの欠片もない言葉を吐いて、ほんの少しだけ彼の手を握り返してやった。
駅前を行き交う忙しない人の影は、私たちふたりの姿になど一瞥も残しはしない。いや、時々ジェイドの目立つ容姿には目を奪われているけれど、ただそれだけ。繋いだこの手のひらを見咎める世界は、ここにはなかった。
「……ねえ、ジェイド」
駅前を抜けて、住宅街へと至る道へ入る。街灯が疎らに息づくその街路に、揺れる影は私と彼のふたつ分だけ。静かな闇の中にふと彼の名前を転がしてはみたけれど、その先に続くはずの言葉はどうしてか行方不明になって、中途半端な沈黙が私たちを包み込んだ。
「どうされました?」
優しい優しい彼の声が、先を急かす訳でもなく私にそう問いかけた。相槌代わりのその言葉に、何故か心が震えてどうしようもない。
「ううん、何でもない」
──どうして貴方は何も言ってはくれないの?
胸の奥底で、我儘な私が、不安と不満の入り混じった声で彼を非難するようにそう呟いた。その言葉に全くだと頷きながらも、私はただ静かな自嘲を残すばかり。
彼は確かに何も言ってはくれない。はっきりとした言葉を、何も。けれど、私もそれを問い質しはしないのだから、畢竟私も彼と同じ穴の狢でしかないということだ。
いつの間に、私はこんなにも臆病な人間になってしまったのだろう。
全てを知りたいと願いながらも、どうかどうか、今のこの平穏が可能な限り長く続いてくれと祈っている。何という情けないジレンマ。手のつけようも有りはしない。
晴れた冬の夜空には、小さな星がきらきらと瞬いては自らの存在を主張している。
それを見上げて、私はまた空に白い息を吐いた。
「──ジェイドは、海が似合うね」
白が空に掻き消えて、1秒、2秒。ほろりとこぼした言葉もまた、ふわりと泡のように夜闇に弾けては溶けて行った。
視界に映った彼の瞳が、まるで星のような色彩に輝いて、そうしてゆるりと優しく弧を描く。眉を下げて、何かを堪えるような笑み。
ほら、またそんな表情で貴方は私を見るのだから。
「……はい。よく言われます」
それは、一体誰に?
問いかける言葉を飲み込んで、私はただ彼と手を繋いで夜の道を歩いた。寒い、寒い冬の夜に、彼の存在だけがどうしようもなく温かくて、視界が滲む。
終わりの時が、もうすぐそこまで迫っていた。
***
世界というのは静かで優しいものに見えて、その実酷く残酷だ。変わって欲しいと願うものほどいつまで経っても変わってはくれなくて、変わらないでと願うものほど急速な速度で変わっていってしまう。──なんて、私たち人間は何でもかんでも世界の所為にしてしまうけれど、大抵の場合、その引き鉄を引くのは私たち人間の指先なのだ。
あの夜からまた暫くの時間が過ぎた。私と彼の間に満ちるどうしようもない空白は、不安定な安定を残したままずっとそこに居座っている。どちらかが一度つつけば、それだけで崩れ去ってしまう平穏の中に、私は今日も息を吸い込んだ。
「──いらっしゃいませ、……って、倉石さん。珍しいですね、平日のこの時間に」
月曜日の昼下がり。昼時を過ぎて落ち着いた店内に、休日になる明日は何をしようかと考えていた頃ふと現れたのは、あの夜以来姿を見ていなかった倉石さんの姿だった。
「こんにちは。最近大きな仕事に取り掛かってたんですけど、それがようやく終わったので今日は休みになったんです。それでまあ、何となくここの紅茶が飲みたくなって」
「わ、それはお疲れ様でした……お休みの日まで、ご来店ありがとうございます」
彼をいつものカウンター席に案内して、お冷を用意する。テーブルに置いたグラスに律義にありがとうございますと笑ってくれた彼のオーダーは、やはりいつも通りのホットストレートティーと紅茶のクッキー。
「今日のクッキーは私が心を込めて焼きましたよ」
「本当ですか? 楽しみだなぁ」
以前話した内容をなぞってそんなことを口にすれば、彼もぱあと表情を綻ばせて笑ってくれる。今日の焼き上がりもなかなかに自信があるので、気に入ってくれたら嬉しいなあと思いながら私は厨房へ向かった。
クッキーを指定の数よりこっそり数枚多く盛り付けて、紅茶と一緒にカウンター席へ。
「あれ、クッキーの量増やしたんですか?」
「いえ、倉石さんにはいつもご愛顧頂いていますし、この間はお気を遣わせてしまったので私からの個人的なサービスです」
「そんな、気にしなくてよかったのに……ありがとうございます、頂きますね!」
にこにこと喜んでくれた様子の彼にほっと胸を撫で下ろして、カウンター席の傍に立ったまま、ぐるりとホール内を見回した。今日はジェイドと私、そして店長というメンバー編成でカフェを運営している。因みに店長は忙しいランチ時が終わったため、奥のスタッフルームで休憩中だ。
4人掛けの席に2組と、2人掛けの席に3組が来店している店内は静かな賑わいに満ちていて、その中に立つジェイドの姿は相変わらず私の視線を惹いていく。テーブルの拭き掃除をしているだけだというのに、なぜあんなにも様になってしまうのだろうか。
彼のそのスペックの高さに遠い目をしてしまうのも、もう何度目だろう。そろそろ飽きてしまった頃だが、どうしても思わずツッコミを入れてしまう。
「……珠華さん」
と、そんな風に彼へ胡乱な視線を向けていれば、ふとカウンター席の倉石さんが囁くような声で私の名前を呼んだ。はっと我に返った私はそれに慌てて応える。紡いだ声が反射的に彼に倣った小声になってしまったのも、まあ仕方のないことだろう。
「はい、なんでしょう」
口元に手を当てて内緒話の体勢を取る彼に誘われるように、そっと距離を詰めてその言葉に耳を傾ける。一体突然どうしたというのだろうか。
「珠華さんとジェイドさんって、お付き合いされてるんですか?」
ひそひそと小声で落とされたその爆弾に、私の思考回路は儚くも爆破されて四方八方へ飛び散ってしまう。声や表情にこそその衝撃は現れなかったけれど、内心ではてんやわんやの大騒ぎだ。さて、彼は今一体何と言った?
「……どうしてそうなったんです?」
「いや、この間の感じとか、普段の様子とかを思い返して何となく?」
この間、の下りはまあ私も得心がつくが、普段の様子という点には首が傾いてしまう。
いや、今彼がそう思い至った理由については置いておこう。大切なのは、まず彼のその勘違いを正すことだ。
「勘違いさせてしまってすみませんが、全くそんな事実はありませんね。ただの同僚です」
「え、そうなんですか?」
何故そんなにも意外そうな顔をするのか。私も驚いた顔で対応したいものだと思うけれど、表情筋は虚無に固まってしまったまま動かない。
「絶対そうだと思ってたのになぁ」
「いやいや、なんでそう確信的なんですか……」
「俺もこの間の件までは特に何も考えてなかったんですけど、あの後色々思い返してそうだったのか〜ってなりましたもん。だって──」
だって? 彼の言葉の続きを聞きたいと耳を澄ませていたけれど、その音が私の鼓膜を震わせるよりも前に、まるで私の耳を塞ぐように別の誰かの声が世界に落ちてきた。
「──珠華さん、」
私の名前を呼んだ彼の声はいつも通り優しいものであるはずなのに、どうしてか背筋がぞわりと波立った。彼らしくない、どこか硬い色を孕んだその音。ぱ、と振り向いた場所に立っていた彼の微笑みにも、どうしてか息が止まった。
「ジェ、ジェイド……?」
「お話し中のところすみません。こちら、五番テーブルのオーダーが入りましたので、よろしくお願いします」
穏やかな微笑みに、丁寧な口調と、柔らかな立ち居振る舞い。それがどうして今、こんなにも威圧的に感じるのだろうか。困惑した頭では答えなど弾き出せるわけもなく、私はただ彼から伝票を受け取って無言で首を縦に振るばかり。
倉石さんに失礼しますと告げて、厨房へ戻るために踵を返そうとした、その瞬間。
「……珠華さん、少しいいですか?」
彼の指先が突然こちらに伸びてきて、私の思考も置いてけぼりに視界を過ぎ去っていく。
頭に軽く触れられたその感触が、微かながらも確かに私の神経全てを撫でていくものだから、思わず呼吸まで忘れてしまった。髪についていたごみを彼が取り払ってくれたのだと気付くことも出来ぬまま、私は間近に迫った彼の顔に意識の全てを奪われる。
「すみません、糸くずがついていたので……」
失礼しましたと微笑んで、彼の表情は遠のいていく。
再び入ったオーダーの声に彼がホールへと戻っていってから数秒後、ようやく私の身体は忘れていた生命維持機能を再開させるのだ。
どくどくと煩い心臓に働き過ぎだと叱りつけて、私は大きく大きく息を吐いた。寿命が一気に5年分は縮まったような気がする。どうしてあの男は、髪についていたごみを取るというただそれだけの行動でこんなにも人の感情を荒れさせることができるのか。
じわじわと熱を帯びようとする頬をどうしようと考える私に、ふと隣から聞こえたのは、堪えようとしたけれど堪えきれなかったと言いたげな笑い声。出所はもう分かっている。
「ふ、ふふ……っ」
「倉石さん……」
「すみません、ふふふ、っすみません……あはは、やっぱりそうだ」
全く、一体何がそんなに面白いというのか。接客スマイルもかなぐり捨てた私は、恨みがましい視線を彼に向ける。しかしそれが彼に効くわけもなく、くすくすと笑い続けた彼は、息を整えながら私に向けてこんな言葉を吐くのだった。
「『そんなに威嚇しなくても大丈夫ですよ』って言っておいてください」
一体いつから、彼は番犬の類になっていたのだろうか。
***
はてさて、そんな昼下がりを過ぎて、気付けばもう帰り道。今日はふたり揃って閉店までの勤務だった私たちは、未だどこか浅い夜の中を並んで歩いていた。会話も無く、ただただ静かな闇の中。彼との間に落ちる沈黙を、そういえば私が窮屈に感じたことはない。そんなことを思い返しながら、私はふと唇を震わせた。
「……今日はちゃんと手袋持ってきたの?」
私を見下ろす彼の瞳が、街灯の僅かな光の中に優しく揺れている。
「忘れたと言えば、今日も手を繋いでくださるんですか?」
その聞き方は、正直狡いと思った。相変わらずの計画的確信犯だ、私が先の言葉を吐いた時点で、もう答えなんてひとつしかないと分かっているくせに。
「そういう変な小細工使わずに真正面から言ってくれたら、いくらでも」
だから私は、そんな彼につっけんどんな声を返してやるのだ。
「それは手厳しい。……良ければ、今日も手を繋いで歩きませんか?」
くすくすと笑って、彼が私に左手を差し出してくる。仏頂面を浮かべたままの私は、その手のひらをほんの数秒眺めて、そうして右手をその上に。すぐさま彼の大きな手のひらに包み込まれた私の手は、隙間もないほどに抱きしめられる。逃げることなんて許さないとでも言うように。
彼に手を引かれながら歩く夜道に、ふわりと柔らかな白が空から降り始めた。
雪が降るなんて聞いていないのだけれど。今朝のニュースを思い出しながら仰いだ空からは、はらりはらりと小さな白い雪が舞い踊るように姿を現していて。積もるまではいかなくとも、暫く止むことはなさそうだとぼんやり考える。
──まるで、私が彼を拾ったあの夜のようだ。
「……倉石さんが言ってたよ。『そんなに威嚇しなくても大丈夫ですよ』って。ジェイド、何したの倉石さんに」
「おや、それはそれは。彼にはご迷惑をおかけしてしまいましたね」
惚けた口調で彼は笑う。倉石さんも笑っていたから、きっとそこまで酷いことはしていないのだろうけれど、一体私の知らないところで何をしていたのやら。
「倉石さん良い人なんだから、失礼なことはしないでよね」
「ええ、分かっています。……けれど、」
はらはらと、粉雪が私と彼の世界に舞う。街灯の光を乱反射させながら笑うように揺れるそれが、あんまりにもきれいで、幻想的で、
「──大切な人が他の誰かに取られてしまわないようにと警戒して威嚇してしまうのも、仕方のないことでしょう?」
彼のその微笑みまで、まるで1枚の絵画かと見紛うほどに酷くひどく、うつくしくて。
世界とはいつの間にこんなにも美しいものになっていたのだろう。見上げたその情景に、雪の舞い落ちる夜に、彼という存在のかたちに、私はどうしようもないほどの感情に襲われる。自分自身が息を呑む音が聞こえて、心臓が胸から飛び出さんばかりに跳ねていた。
繋いだ手のひらに、ぎゅうと力が籠もってしまう。けれどきっと私の握力なんて、彼にとっては赤子に掴まれた程度のものでしかないのだろう。
彼は本当に狡い人だ。本当に、本当に、嫌になるほど。
確かな言葉のひとつも私にはくれないくせに、そうやって思わせぶりなことばかりと口にして、彼はまた私の心を捕まえる。馬鹿みたいに安直な私の心が揺れているのを知っていて、もう逃げられない状態にあることを理解していて、この曖昧な距離感にただただ微笑んでいるだけ。
「……ねえ、ジェイド」
結局その名前のない空白に耐えきれなくなったのは、私の方。
こんな言葉、本当は口にするつもりなんてなかった。口にしてはいけないのだということぐらい、分かっていた。
けれど、もうどうしようもないのだ。だって、私は、
「はい、なんでしょう」
立ち止まった私に倣って、彼も足を止めてくれる。繋いだ手を握りしめて、闇に瞬くふたつの星を見上げて、私は冷たい空気を肺一杯に吸い込んだ。
「私、ジェイドのことが好きだよ」
頬に触れた粉雪は、体温に溶けて一瞬にしてその姿を消してしまった。僅かなその冷たさに、瞼がふるりと震える。寒さから逃げるように、彼の反応から逃げるように、私はマフラーに口元を埋めた。どうしてか視界が滲んで、吐く息が震えていた。
落とされた闇の中の沈黙。落とした視界に映るのは、時折呼吸に揺れる彼の胸元。手のひらはまだ、ふたりの間を繋いだまま。
ふと、彼の右手が動いて、空になっていた私の左手をも攫って行った。
まるでその存在を確かめるように私の両の手を包み込んだ彼の手のひらが、酷く優しい指先で私に触れるから、思わず耐えていたはずの涙がこぼれ落ちそうになってしまう。
「……すみません、」
どんな答えを返されてもそれを受け入れてみせようと、そう思っていた。だって彼の帰る場所は私ではなくて、ここは一時の逃げ場所で、彼はいつか、彼の在るべき場所へ帰らなければいけない存在だから。彼のことを何も知らない私ではなくて、彼の全てを知っている誰かの下へ。私は、それを笑って見送らなくてはいけないのだ。
だから。だから私は、本当はこんな言葉を吐いてはいけなかった。そんな権利は、私にはなかった。それでも、私は彼が好きで。どうしようもなくて。
ああ、本当に、人の心というものはままならない。
全部分かっているから大丈夫だと聞き分けの良い振りをする思考を無視して、さようならなんて嫌だと、この想いを否定されたくないと赤子のように泣き喚くのだから。
彼の姿を視界に映していることが今はどうしようもなく苦しくて、視線をさらに下へ下へと落としていく。足元で粉雪が地面に落ちて消えていく様が、まるで水中に弾けて儚く消える泡沫のようだった。
微かに聞こえた呼吸の音は、きっと彼が言葉を紡ぐ予兆。
ぎゅうと瞼を閉ざして、私は彼の言葉を待った。訪れるだろう悲しみの渦に耐えなければと、奥歯を噛みしめる。たった数秒が、千秋にも匹敵するほど長い時間に感じられた。
雪が、はらりはらりと舞い落ちる。
「──僕も、貴女のことが好きです。貴女のことを、愛しています」
開いた視界に映った夜と雪のコントラストが、どうしようもなく私の網膜に焼き付いた。
ぱちり、ぱちりと目を瞬かせて、ゆっくりと視線を上へ、上へと持ち上げる。浅い呼吸では酸素が足りないと喚く肺の苦しさも、今はどうしてか気にならない。
雪の降る夜空を背に、彼が私を見下ろしていた。
交わった視線の先にきらきらと輝く、星のようなその瞳に。そこに宿る光の優しさに、温かさに、切なさに、今すぐその場に膝をついて泣き叫んでしまいたい衝動に襲われた。
言葉を紡ぐことも出来ないまま、ただただ私は彼のその表情に意識を奪われていく。
優しい微笑みに宿る、そのどうしようもない悲しみに、心を握りしめられる。
今にも泣き出してしまいそうだと、どうしてかそう思った。どうかどうか泣かないでと、そう願った。理由なんて、私には何ひとつとして分からないけれど。
「……泣かないでください。僕は貴女の涙には弱いんですから」
彼の困ったような声色に、その言葉に、濡れた頬の感覚に、私はようやく自分が鳴いているという事実に気が付いた。堰の壊れてしまった涙腺は、意志とは関係なく涙と後から後から溢れさせる。彼の指先が私の頬に触れる感覚ですら、今はどうしようもなく切なくて、哀しくて、涙は一向に止まらない。
そんな私の姿に彼はまた困ったような笑みを深くして、私に腕を伸ばした。
ぽすん、と身体が彼の腕の中に閉じ込められる。背中に回された腕はしっかりと私と捕まえて、後頭部に置かれた彼の手のひらは、まるで幼子をあやすように私の頭をぽんぽんと優しく撫でていく。彼の腕に抱きしめられているという事実と、私を包み込む彼の温度の温かさに、また涙がひと粒こぼれ落ちた。
私が落ち着くまでそうしていてくれた彼は、腕を解いて涙の収まった私の手を引き、再びゆっくりと雪の降る夜を歩き始めた。
「帰りましょう」
彼の優しい言葉にまた視界が滲んだけれど、唇を噛みしめることでなんとかそれを堪えて、私はひとつ頷きを返す。握り返した彼の手のひらの感覚に、彼の存在は今、確かにここにあるのだと理解し胸の内に安堵を転がした。
──ねえ、ジェイド。私、貴方の前で涙を流したのは、今日が初めてなんだよ。
世界のどこかで何かのカウントダウンが始まった音が、頭の奥に響いていた。
2020.04.25
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