第6話
「寒かったでしょう、先にお風呂に入って来てください」
言葉もなくふたり、雪の中を歩いて辿り着いたのは、もうひと月以上を共に過ごしている住み慣れた我が家。彼ももう随分この家の勝手を理解して、彼自身の我が家でもあるようにてきぱきと様々な支度や片付けを済ませてくれる。
「ジェイドも、寒いでしょ、」
「僕の心配は要りません。ちゃんと温まって来てくださいね」
掠れた声で紡いだ私の異論も、彼には一瞬にして棄却されてしまう。バスタオルを渡されて押し込まれた脱衣所の中、私はふと、まるで初めて出会ったあの夜のようだとくだらないことを考えた。あの時とは立場が逆になっているけれど。
どれだけ防寒着を着込んだとしても、寒さという奴はそれすら跳ねのけて、私たちの身体を蝕んでくる。夜の寒さと雪に冷え切った氷のような体を、シャワーが生み出す温かいお湯でゆっくりと溶かしていけば、ようやく心も落ち着いて、思考もクリアになって、様々なことを考えられるようになった。
私は彼に「好きだ」と告げた。そうして彼も、「好きだ」と応えてくれた。それはとてもとても嬉しいことで、幸せなことで、確かに私の心臓は歓喜に飛び跳ねている。
それなのに、どうしてだろう。
私の髪先からこぼれた水滴が、浴槽に落ちて波紋をつくった。
どうしてこんなにも、心がざわざわと波立っているのだろう。
湯船から出て、身体を拭いて、服を着て。髪を乾かすのは後にして先に彼を風呂に入れなければと、頭にバスタオルを被ったまま脱衣所を出る。
ぺたぺたと幼い音を立てる爪先が冷えた廊下にじわじわと温度を奪われて行くのを感じながら、私は明るい光の灯ったリビングへと吸い寄せられるように足を進める。ふわりと鼻孔をくすぐった紅茶の香りに、思わず吐息がこぼれた。
「……ああ、ちゃんと温まりましたか?」
リビングに顔を出した私に、キッチンに立っていた彼が視線を向けて微笑んだ。その優しさにまた心臓が跳ねてしまう。一度声に出してしまった想いは、我慢も忘れて私の心で踊るばかり。ああ、やっぱり私は彼のことが好きだ。それはもう、何をどうしたって変わらない事実として私の中に息づいていた。
「髪の毛、乾かしてこなかったんですか?」
「リビングで乾かすから、ジェイドも早くお風呂で温まってきて」
私の言葉に眉を下げた彼は、「ちゃんと乾かしてくださいね」と手の焼ける子供を相手する様に私の頬を撫でた。子供に対するには些か甘すぎるその指先は、先程の雪の中でのやり取りをまた私に思い出させてくる。
その手のひらにずっと触れられていたいと思う我儘を抑え付けて、私は彼の背中を廊下の方へと押した。彼に風邪をひかれては私も困ってしまうから。
「紅茶、淹れておいたので」
そう笑って脱衣所に消えていく彼の背中を見送って私はリビングのローテーブルへと向かう。その上で私を待って居たのは、彼が用意してくれた紅茶のティーポットとひとつのティーカップ。ああ、本当に、いつかの夜をなぞっているようだ。
髪の毛を乾かすことも忘れて、私はティーポットに手を伸ばす。ティーカップに満たした琥珀色がゆらゆらと柔らかに湯気を揺らす光景に、どうしてかまた涙がこぼれた。
紅茶をひとカップ分頂いて、彼に見咎められる前にと慌てて髪を乾かした。バスタオルは後で洗濯機に入れようと、一先ずダイニングの椅子に掛けて置く。
彼用のティーカップもローテーブルに置いて、私はソファに深く腰掛け息を吐いた。
仰いだ天井に輝く、カバー越しの蛍光灯の白い光に瞬きを繰り返し、廊下の方から聞こえる音に耳を澄ませる。足音がリビングに近づいて、扉が開く音。視線をゆるりとそちらへ向ければ、いくらか血色の良くなった彼の姿が視界に映った。
「ちゃんと髪は乾かしましたか?」
私の隣に腰かけた彼の手が、私へと伸ばされる。それから逃げるなんて選択肢は私にはないから、私はただ髪を優しく梳いてくれる彼の指先に目を細めるだけ。
「眠たそうですね。このままではまたソファで寝てしまいそうだ」
くすくすと笑う彼の笑い声も、今の私にとっては子守唄のよう。緊張が解けたからか、ただ疲れが溜まっていたのか、ゆるゆると私の瞼は重く閉ざされて行く。
「寝室まで動けますか?」
頬に触れた彼の手のひらの優しい温度にすり寄って、私は彼の言葉に答えようと唇を開いた。ふわふわと揺れる思考回路は、もう半ば夢の中。
「……ジェイド、今日、一緒に寝てくれる?」
彼の指先の僅かな震えに気付かぬまま、私は懇願するように彼に縋り付いた。
怖かったのだ。このまま眠って、明日の朝になったらもう、ここにジェイドの姿は無くなっているような気がして。さようならも何も言えないまま、彼がいなくなってしまうような気がして。せめて、せめて、明日の朝を彼と迎えたいと願った。
「……それは、構いませんが、」
どこか動揺を孕んでいるような彼の声に小さく首を傾げるけれど、彼が許可を出してくれたことの嬉しさにその疑問もすぐさまかき消されてしまう。ふふ、と小さく笑みをこぼせば、彼も困ったように微笑んでくれた。
「貴女のベッドは少し僕には小さいので、布団を引きましょうか」
ソファに私を残して、彼はいつも彼が眠るために使っている布団をリビングに用意してくれる。そこに私はすぐさま寝転がって、ふわふわのシーツと毛布と布団に包まれた。
ぱちりとリビングの電気を消した彼が、私のいる布団のもう半分に横になる。限られた布団の面積を精一杯に使うためにと、彼の腕が私の身体を抱きしめた。抱き寄せられるその瞬間、彼の指先に躊躇が滲んでいたような気がしたのは、ただの気のせいだろうか。
「……ひとつ、お聞きしていいですか?」
「なに?」
闇の中に、彼の声が私の鼓膜を震わせた。
彼の体温に包まれて心地良く微睡む私は、何とか意識を繋いでその言葉に答える。
「これは、据え膳と呼ばれるものでしょうか」
どこか躊躇しているような沈黙の果てに紡がれたそんな彼の声に、私は思わず声を出して笑ってしまった。真剣な声色に何かと思えば、そんなことか。
「あははっ……そうだね、好きに解釈してくれていいよ」
彼の胸元にすり寄って、私は深く呼吸を繰り返す。ほんの一瞬飛んでいった眠気が、またすぐに戻って来て私の身体を睡眠の底へ手招いていた。
「……据え膳食わぬは何とやら、と言いますが、こんなにも眠たそうな貴女に手を出すのは気が引けてしまいますね」
困ったような彼の優しい笑い声に、唇がゆるりと綻ぶ。旋毛のあたりに彼の唇が落とされた感覚を遠くに覚えながら、私は深い眠りの中に沈んでいった。
「──おやすみなさい」
***
──繋いだ手のその先で、そのひとが優しく微笑んでいた。
見上げたその姿に私も笑って、ふたりどこかへ向けて歩いていく。
私の小さな右手を包み込む彼の手のひらの大きさは、確かに私の知るもので。安堵が胸に満ちると同時に、……私は、ようやくそれを理解する。
きらきらと陽光に輝く色彩の眩しさに目を細めて、手のひらをぎゅうと握りしめる。その形を、その存在を、その温度を確かめるように。──夢に温度など宿りはしないはずなのに、どうしてかその手のひらは酷く、酷く温かく感じられて。
じわりと滲んだ世界の中に、そのひとが私の名前を呼んだ。
優しい声。穏やかで、温かくて、どうしようもなく愛おしい、その声。
「……ああ、そっか、」
やっぱりあなたは、
***
ふわりと浮上した意識に背中を押されるように、瞼がゆっくりと持ち上がった。
瞬きを繰り返すうちに次第にクリアになって行く視界に映るのは、カーテンの隙間からこぼれる朝の光に包まれた世界のかたち。朝が来たのだと、私は未だぼんやりと覚束ない頭の中に呟いた。
肌に感じる自分以外の温度と腹部に回された腕の重さに、彼がまだここにいてくれていることを確認し、ひとつ安堵の息を吐く。身体を少し身じろがせて、私は視線を彼へと注いだ。瞼を閉ざして静かに眠る彼の姿に、そう言えば彼が眠っている姿を見るのはこれが初めてだと思い出す。隙の無い彼は、いつだって私より先に目覚めて身支度を終わらせてしまっているから、これはとても新鮮な光景だ。
込み上げてきた幸せな笑いに唇を歪めて、私はくすくすと静かに笑みをこぼす。
彼がまだ眠っているのをいいことに、私は彼の身体にもう一度身を寄せて、その温もりにそっと瞼を閉じた。かすかに聞こえる彼の鼓動の音にどうしようもない感情が胸を震わせて、ぎゅうと心臓が切ない苦しさに支配された。
このままもう暫く微睡んでいても許されるだろうかと思いながらゆっくりと呼吸を繰り返していると、ふと私の背中に回されていた彼の腕が、ぎゅうと私の身体を包み込むように抱きしめてきた。隙間など全て埋めてやると言わんばかりのその力強さに、苦しさはなくとも思わず身体がびくりと揺れてしまう。
寝惚けているのだろうかと思ったけれど、どうやら違うようだ。
私の肩口に頭を埋めている彼の身体が、ほんの僅かに震えていた。この男、何故かは知らないけれど何かが面白くて震えるほどに笑っているらしい。
「……おはよ、ジェイド」
「……おはようございます、珠華さん」
一体何がそんなに面白いのやらとやや呆れた表情でそう呟けば、寝惚けた様子など一切ない彼の声が帰ってくる。
もしやこの男、私が起きる前かそれと同時に起きて狸寝入りをしていたな? と私の心の中の名探偵が推理したけれど、それを咎める気にはどうしてかなれなかった。それも偏に、彼と過ごすこの朝の時間があまりにも心地よかったからだろう。
くわりとひとつ小さな欠伸をこぼして、私はゆっくりと起き上がる。
重力に従って落ちてきたぼさぼさの髪を適当に追い払って、私は伸びをする。
「おや、もう起きてしまうんですか?」
寝転がったまま頬杖をついている彼の誘惑に心を揺さぶられながらも、私は強い意思で勢いよく立ち上がった。
そのままカーテンを開けて、部屋の中いっぱいに朝の光を導き入れる。昨夜の雪の姿などひとかけらも残ってはいない、晴れた空に満たされた世界の眩しさに少し目が眩んだけれど、心はやけに晴れやかで。
くるりと振り返った先で上半身を起こしこちらを見ていた彼に、私は笑って口を開いた。
「──ジェイド、デートしに行こっか」
***
それぞれ身支度を済ませて、家を出て、以前ショッピングモールに向かったのとは逆方向の電車に乗って、約15分。乗り換えて、平日の微妙な時間で人も疎らな電車に揺られること、さらに30分ほど。「どこへ行くんですか?」というジェイドの言葉に「着いてからのお楽しみ」なんて笑いながら答えて、そうしてようやくたどり着いたその場所で、私は彼の手を引き歩き出す。
「ここ、は……?」
目の前の建物を見上げて目を丸くしている彼は、こういう場所に来ること自体がきっと初めてなのだろう。私も昔はよく足を運んでいたけれど、就職してからは疎遠になってしまって、ここに来るのはもう随分と久しぶりのことだ。
記憶の中のそれとは少し異なる部分もあるけれど、それでも大きな部分は変わらないその建物の姿に懐かしさを覚えながら、私は彼に答える。
「水族館だよ。来るのはやっぱり初めて?」
イルカと白クマの可愛らしいオブジェクトが来客を歓迎している広場を抜けて、真っ直ぐに向かう先はチケット売り場。平日ということもあって、人の姿もそう多くはない。スムーズに購入できた大人用チケットの1枚を彼に渡して、中へと入った。
「そう、ですね。話に聞いたことはありましたが……」
エントランスで館内マップを何となく1冊貰って、ひとまず正規ルートで回ろうと彼を連れて行く。幼稚園児ぐらいの小さな女の子がジェイドを指差して「おっきー!」と声をあげている姿に、思わず笑ってしまった。確かに、今でこそ私も慣れたが、190センチもあるという背丈を持つ彼は、子供にとってはやはり巨人にも近い存在なのだろう。
薄暗い廊下にライトアップされた小さな水槽の中で、小さな淡水魚たちがゆらりゆらりと揺れながら泳いでいる。こぽこぽと微かに聞こえる水音に耳を傾けながら、水槽の中を指差し、時折書かれた説明文になるほどなと頷き、まるで水の中にいるようなその世界の中をふたり、手を繋いで進んだ。
「ジェイド、見て、ペンギン」
「ふふ、可愛らしいですね」
彼にとってこの場所が楽しい場所かどうかなんて、私には分からない。それでも彼が私を見つめて優しく微笑んでくれているから、きっとそれでいいのだ。そう自分に言い聞かせて、私は青い水中を指差しまた笑う。じくじくと軋む心は、気を抜いたその瞬間に砕けて壊れてしまいそうだった。
さらに暗さを増した深海魚コーナーで中々にグロテスクな見た目の魚たちに慄き、水中トンネルで空を泳ぐ魚やペンギンたちの姿に視線を奪われ、水中を満喫する。
「あ、ウツボだ。かわいい」
「……かわいい、ですか」
「うん、かわいい」
なんでそんなに微妙な顔をするのだろう。かぱりと口を開けている、黄色に茶色で模様のついたウツボの姿に、私はくすくすと笑みをこぼした。海のギャングと言われる通り、確かにそのギザギザの歯は恐ろしいけれど、その表情にはどこか愛らしさがある。
──似ても似つきはしないけれど、愛は屋烏に及ぶということだ。
水槽の中のウツボとにらめっこをしているジェイドの姿に笑って、また彼の手を引いた。
次に辿り着いた場所は、浅瀬の生き物たちに触れることができるというふれあいコーナー。私は以外とこの場所が好きで、いつも真っ先にナマコを触りに行ってしまう。
「あはは、相変わらずぐにゃぐにゃしてる」
「基本的に女性はナマコなどが苦手だと思っていましたが、珠華さんは違うんですね」
「ん? うん、そうだね。ナマコは好きだよ、食べても美味しいし」
この話をすると大抵引かれてしまうのだが、ナマコは薄切りにしてポン酢で食べるとなかなかに美味しい。割と普通の食べ物だと思っていたのだが、私の友人や知人にはあまりナマコを食べる人がいなくて、いつもアウェーの気分を味わっていた。
また久しぶりに食べたいなぁなんて思いながらナマコを優しく突いていると、隣から耐えきれないとでも言いたげな笑い声が転がってくる。
「ふ、ふふ、……っ貴女らしい考え方ですね……」
食べられるというのは重要なポイントじゃないだろうか。相変わらず彼の笑いのツボはよく分からないけれど、まあ彼が楽しいのならそれはそれで構わない。未だに笑っている彼にも触ってみなよと促せば、手袋を外した彼の指先が水の中に沈んだ。
ヒトデやウミウシの身体も存分に突かせてもらい、近くにあった水道で手を洗う。
流れるように彼から差し出されたハンカチを有難く使わせてもらって、館内マップを開く。ついでに腕時計で時間を確認すると、時間はもう13時を回ってしまっていた。
「もうこんな時間か。ジェイドお腹空いたよね。先にお昼ごはん食べに行こうか」
「僕は大丈夫ですが……」
「ジェイド、あんまり燃費良くないんでしょ? 私もお腹空いちゃったし」
私の言葉にぱちりと目を瞬かせた彼ににこりと笑って、同じ階にあるレストランでいいかとそちらへ足を向ける。ここのオムライスは美味しいから、私はそれにしよう。
「……ジェイド?」
3歩ほど歩いた私と、先程の場所にそのまま立ち止っている彼。いつもなら一瞬にしてゼロになるはずのその距離が、今はどうしてか中途半端に開いたままで。それを不思議に思った私は、首を傾げて彼の名前を呼んだ。
私の姿を映したその瞳が、丸く見開かれたその色が、ゆらゆらとまるで水面のように揺れている。けれど、その波も瞬きの間に収まって、残されたのはいつものように凪いだ彼の表情だけ。
「……いえ、すみません。行きましょうか」
彼の脚が、1歩と少しであっという間に私との距離を詰めてしまう。
隣に立った彼の瞳を見上げて、ああ、そうかと私は理解した。
「うん」
微笑む彼に頷いて、再び私たちは歩き始めた。2本の脚で、床を踏みしめながら。
***
レストランで昼食を終えて、私たちは再び館内を巡る。丁度良くイルカショーが行われるという館内放送が流れたため、折角だからとスタジアムへと向かった。
屋根はあるが壁がなく、外気が入り込むスタジアムは少し寒い。適当に選んで腰を下ろしたベンチに暖房が通されていたことにありがたさを感じながら、私はイルカショーの始まりをわくわくと楽しみに待つ。
「寒くはありませんか?」
「え、うん、大丈夫! ベンチもあったかいし」
私はそう答えたのだが、眉を下げた彼は自らの上着を私の肩に羽織らせてくる。これではジェイドが寒いだろうと抗議するが、「僕はある程度の寒さには強いので」なんて言葉で制されてしまった。
納得のいかない私は、そうだ、と思いついて身体をジェイドの方へと寄せる。
「折衷案ということで」
大きなジェイドの上着を、まるで毛布か何かのように彼と私の肩にかける。座高さもあるから少し不格好ではあるけれど、まあいいだろう。バカップルめと周囲からはなじられそうだが、正直周りにいるカップルも似たり寄ったりだから気にしたもの負けだ。
ほんの少しの恥ずかしさを隠しながら、私は視線を正面の大きな水槽へと戻す。
「……もう少し寄らないと、隙間風が寒いですよ」
けれど、肩に伸ばされた彼の手のひらが私の身体をぐい、とさらに彼の方へと密着させるものだから、思わず情けない声が喉からこぼれてしまった。慌てて見上げた隣の彼の瞳には愉快さが滲んでいて、またからかわれているのだと理解する。けれど、いつもと違うのは、そこにどうしようもないほどの甘さが溶かされていたこと。
ぐ、と言葉も返せず口を噤んだ私の姿に、また彼の笑みが深くなった。
マイクに拡張された元気なスタッフの声が響いて、イルカショーの始まりを伝える。
「ほら、始まりましたよ」
彼の声に視線を水槽へと戻すけれど、すぐ傍に感じる彼の温度に、存在に、心臓が落ち着かなくなってしまう。自分で言い出したことではあるけれど、やはり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
まあそんな羞恥心も、始まったイルカショーに全てかき消されてしまうのだけれど。
笛の音に合わせて高く飛び上がる姿に、トレーナーと共に自由に泳ぐ姿に、跳ね上がる水滴が照明の光を乱反射させた輝きに、私の視界はあっという間に奪われていく。幼い頃からずっと、私はこのイルカショーが大好きだった。
瞬く間に終わってしまったショーにぱちぱちと手を叩いて、今回もすごかったなと余韻に頬を緩める。
「イルカショー、お好きなんですね」
「うん、大好き」
彼からの問いかけに大きく頷いて、上着を彼の肩に返した。なんで好きかと聞かれたら、その理由は上手く言葉に出来ないけれど。わくわくするから好きだ。水族館という場所が。
立ち上がってふたり、スタジアムを後にする。元の順路に戻って一番初めに私たちが足を踏み入れたのは、真っ暗な部屋の中に、円柱の水槽が複数、床から天井へと伸びている空間。紫から青、青から緑、緑から黄色を通して白になり、そうして再び紫に。ゆっくりと、ゆっくりと、水槽の中で照明の色が次々に切り替わる。
その水槽の中にふわりふわりと揺れるのは、透明な身体に光を通し、あちらへこちらへ、上へ下へと水流に漂うクラゲたちの姿。
息を呑むほどに幻想的なその光景に、私は無意識のうちに足を動かし、水槽へと歩み寄る。手のひらを寄せたアクリルガラスの冷たさも、今は意識の外に追いやられたまま。
「……なるほど、照明を利用して魅せているのですね」
趣も何もない彼の冷静な分析に笑って、柔らかく上下するクラゲの姿を指で追いかけた。
「きれいだよね」
「……そう、ですね。美しいと思います」
白から紫に戻った照明の光を浴びながら、どちらからともなく再び手を繋いだ。
闇の中を歩いて、そうして開けた空間に出る。
一番に視界を焼いたのは、深い、深い、あおい色。
空とは違う、全てを包み込むような闇を孕んだ、あおい、蒼い色。
そこに、海が広がっていた。
床から吹き抜けになった上階の天井までを貫く、大水槽の姿。小さなものから、大きなものまで、沢山の魚が泳ぎ回るその世界の姿が、あんまりにも美しくて。天井から降り注ぐ光が水に揺れて、はらはらとこぼれ落ちてきたそれが、私の網膜を柔らかく焼いていく。
水槽に近寄って、彼とふたり海を見上げた。
視線をゆっくりと、隣に立つ彼へと向ける。
青い光をその身に受けながら佇む彼は、まるで本当に水の中にいるようで。その形にゆらゆらと揺れる光が影を落とす情景が、また私の呼吸を奪っていった。
──ああ、やっぱり。
滲んだ世界の中で青に揺蕩う彼の姿に、私は思わず笑みをこぼす。
「……ジェイドは、やっぱり海が似合うね」
***
全てを回り終えた水族館を後にして、そのすぐ近くに広がっていた浜辺でふたり、手を繋いで砂を蹴った。潮風が少し冷たくて強いけれど、それから庇うように彼が立ってくれているおかげで私の身体への被害は少ない。
夕に染まり、夜を呼んでいる空の下。浜辺に存在するのは私と彼のふたりだけ。
砂浜に並ぶ足跡も、ふたり分。
ふと立ち止まって、言葉もなく、ただ水平線の向こうに沈んでいこうとする太陽の姿を見つめた。橙色の光の眩さにそっと目を細める。
欠けていく太陽の形にほんの少しの切なさを感じながら、彼の手のひらを強く握りしめる。そうすれば彼も応えるように握り返してくれるものだから、どこまでも単純な私の胸は、たったそれだけのことでどうしようもない喜びに震えてしまうのだ。
じわり、じわりと消えていく光を網膜に焼き付けながら、私は彼に紡ぐべき言葉を心の中に組み立てる。ああ、けれど、どうしよう。喉がどうしようもなく苦しくて、引き攣って、これではちゃんとした声を発することも出来ないかもしれない。
「……珠華さん、」
そんな不安を噛み砕いていた私に、彼の声が落とされた。
ざあ、と波が寄せては返す音が、やけに強く鼓膜を震わせてくる。
「なに?」
それでも彼の声を聞き落とすことなど出来ないと、私は必死に耳を澄ませた。
低く落ち着いた、優しい、優しい彼の声に。
私の大好きな。ずっと、ずっと大好きな、彼の声に。
「──思い出して、下さったのですか?」
ああ、やっぱり彼にはバレてしまっていたのか。
苦さを孕んだ笑みをこぼして、私は彼に視線を向けた。
黄金と黄灰の色が、どうしようもない切なさをそこに宿しながら私を見下ろしている。
……まったくもう。どうして貴方がそんな顔をしているの。
「……約束通り、会いに来てくれたんですね。ジェイド先輩=v
そんな顔をされてしまったら、泣きたくても泣けないじゃないですか。
2020.04.25
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