君さえ


最終話


 ──それは、不思議な世界のお話。今となっては、もう随分と色褪せた記憶。
 高校一年生のある日、知らぬ間に黒い馬車によって私が連れて行かれたその場所は、私の生きていた世界ではおとぎ話の中にしか謳われていなかった『魔法』と呼ばれるものが存在する、『ツイステッドワンダーランド』。さらに、その中でも名門と称される魔法士養成学校、『ナイトレイブンカレッジ』の鏡の間。
 入学式が行われるその日にその場所で目を覚ました私は、蒼い炎と灰色をその身に宿した猫のようなモンスター、グリムと出会い、元の世界に戻る術が見つかるまでという期限付きで、彼とふたりで1人前の存在として、魔法士になるための学園生活を送ることになる。
 個性的な生徒たちや不思議な世界の中で様々なトラブルに巻き込まれ、そして様々な協力を得てそれを解決しながら、オンボロ寮の監督生として、元の世界に帰ることが出来る日までを必死に生きていた。──そして、その日々の中で、私は。

「ジェイド先輩、」
「はい。何でしょう、珠華さん」

 ひと学年上の先輩である、彼、ジェイド・リーチ先輩と恋に落ちた。
 恋に落ちたきっかけはよく覚えていない。気が付けば私は彼に想いを寄せていて、そして信じられないことに、彼もその想いに応えてくれた。
 珊瑚の海という海底に栄えた国で育った彼の本当の姿は、ウツボの人魚。生きる世界どころか種族すら超えた私たちの関係は、それでも確かに温かくて、優しくて、そしてどうしようもないほどの幸せに満ちていた。
 彼の淹れるお茶と私の作ったクッキーでお茶をして、勉強を教えてもらうという名目でお互いの部屋を行き来して、彼の趣味である山登りやテラリウムを教わって、楽しんで、そうして時折、彼の故郷である海を共に泳いだ。
 両の脚で地面を踏む陸の姿も、海を優雅に泳ぐ本当の姿も、その全てが愛おしくて、愛おしくて堪らなかった。彼という存在を、私は確かに心から愛していたのだ。

 ──けれど、私たちの間には最初からさようならしか用意されていなかった。

 あの世界で約1年の時を過ごした、とある日のこと。
 闇の鏡に突然告げられたその言葉。

『7日後の満月の夜、世界は繋がり、汝は全てを忘れ在るべき場所に戻るだろう』

 語り掛けられた声の意味を理解したその瞬間、私は揺れた視界に床へ崩れ落ちた。
 元の世界に帰ることが出来る。ずっと、ずっと望んでいたこと。
 もう二度と、彼と会うことは出来ない。絶対に、絶対に、受け入れたくはない事実。
 ただひとり、闇の鏡の前で、私はその事実にただただ絶望した。私はどうすればいいのだろうと、考える権利も私には与えられていなかったから。

 闇の鏡は言った。『在るべき場所に戻る』と言った。
 つまり、そこに私の意志など関係ないということ。

 両親や友人、知人、今まで生きてきた私の記憶が全て残る場所。元の世界。けれどその世界に、私の愛したあの愛しい人魚の姿はない。
 さらには、『全てを忘れる』という言葉。
 それが本当ならば、私はこの世界の記憶を全て失い元の世界で生きていくことになる。
 彼の存在も、彼との思い出も、彼への想いも、全てを忘れて。

 ──嫌だ。そんな未来、私は絶対に。

 どれだけ世界を詰っても、運命を呪っても、魔力すら持たないちっぽけな私が、世界という強大な存在に一矢報いる術など有りはしない。許されているのは、やがて訪れる満月の日をただ震えながら待つことだけ。

 誰にもその事実を伝えられないまま、私は日々を過ごした。

 1日が終わる度に、月が満ちる度に、その日が近づく度に、心が軋み悲鳴を上げた。友人のエースにも、デュースにも、ジャックにも、相棒のグリムにも、何も言えない。言ってしまえば、優しい皆はきっと悲しんでしまうだろうから。

 3日前に、ようやく学園長にだけは真実を口にすることが出来た。なんだかんだと一番お世話になったひとだったから。彼はほんの少しの悲哀をこぼしながらも、私が元の世界に帰れるという事実を祝福してくれた。

「寂しくなりますが、……世界の定めたことならば、きっとそれが最善なのでしょう」

 他の人には伝えたのかという彼の問いかけに、私は首を左右に振った。このまま、誰にも何も言わずに帰ろうと思います。そう笑った私に、彼はただ「そうですか」と優しく、どこか悲しげに微笑むだけだった。

 ──そうして、ついにやって来た別れの日。

 いつも通りに起きて、授業を受けて、そうして放課後、部活に行くというエースやデュース、ジャックたちと「また明日」の言葉を交わして別れた。その約束が守られないことを知っているのは、私ただ1人だけ。
 夜になって、先に寝るゾとひと足先にベッドへ向かったグリムの寝顔を覗き込んだ。いびきをかいている少し不細工なその姿にくすくすと笑って、そっと毛並みを撫でた。
 一緒に偉大な大魔法士になるんだと約束したのに、私はそれを果たせない。

「ごめんね、グリム」

 どうかどうか、良い夢を。君の未来に、大きな幸を。
 決して届かないさようならを残して、私は静かにオンボロ寮を出た。窓から悲しげな視線をこちらへ向けているゴーストたちにひらひらと手を振って、満月の夜に私は足を踏み出す。空に輝く満月は眩しいぐらいに夜の世界を照らしていて、そのあまりの美しさに、結局私は恨み言のひとつも紡げやしないのだ。

 夜の闇を歩いて、旅して、そうして私が辿り着いたのは──海の中に存在する、オクタヴィネル寮。もう通い慣れたその中を、私はただ一つの目的地に向けて進んでいく。23時を過ぎた深夜でも、モストロ・ラウンジを経営しているこの寮に人の姿は多い。
 廊下で何度か寮生とすれ違ったけれど、別の寮の人間である私の姿を見咎める人は誰もいなかった。私がジェイド・リーチの恋人だと、恥ずかしながらもこの寮の全員が承知しているためだ。やはり、副寮長という立場はかなり大きいらしい。
 その権利の延長線か、寮の中に特例として1人部屋を持つ彼の部屋を訪れるのも、これでもう何度目だろう。もう忘れてしまったその回数が増えることももうなくなるのだと思うと、涙がこぼれそうなほどに心がぎしぎしと悲鳴を上げた。

 息を吸って、吐いて、目の前の扉に手を伸ばす。
 こん、こん。軽いノックを2回。微かなその音は、静かな廊下に反響し消えていった。

「──はい、どなたですか?」

 返ってきたその言葉に、彼がまだ起きていたのだという事実を知り安堵した。彼が比較的夜を好むひとだとは知っていたけれど、やはりどうしても不安だったのだ。もしもこのまま、彼に会えずじまいで元の世界へ戻ることになってしまったらどうしようかと。
 元の世界に帰ることを、私はまだ彼に伝えてなどいないのに。

「……こんばんは、ジェイド先輩」
「、珠華さん?」

 声の震えを必死に抑えて彼の名前を呼べば、すぐさま目の前の扉が開かれて、闇に包まれていた廊下に部屋の明かりがこぼれ落ちた。その眩しさに目が眩むけれど、すぐさまそれも収まって。私の視界を埋めたのは、愛しい愛しい彼の姿。
 部屋で寛いでいたのだろう。ブレザーを脱いでネクタイを解いた彼の姿は、今までにも何度か見たことはあるのにどうしてか新鮮で、思わず視線がそちらを見てしまう。

「どうされたんですか、こんな遅くに……ああ、どうぞ中へ」
「──いえ、」

 驚きと困惑を僅かにその瞳に滲ませながらも、優しい彼はそう言って私を部屋の中へと導き入れようとしてくれた。けれど、私はその言葉に首を左右に振るばかり。
 彼の表情が、そんな私の反応に困惑の色を深くする。ポーカーフェイスに見える彼は、その実かなり表情豊かなひとだ。私がようやくそれを読み取れるようになったのも、つい最近のことではあるけれど。
 そんな彼の姿を見て、私は眉を下げて笑った。その笑顔がちゃんと笑えていたのかも、私には分からないまま。

「お別れを、言いに来ました」

 カチリ、カチリ。時計の針は止まることなど知らずに進んでいく。
 満ちた月は、もうすぐそらの天辺に。

「……どういう、こと、ですか?」
「そのままの意味です。……今日、日付が変わる瞬間、私は元の世界に戻ります」

 星の輝きを閉じ込めたような彼の瞳が、信じられないでもと言いたげに大きく揺れて、その形を歪めた。時刻はもう、23時45分を回ったところ。私たちに残された時間は、あと15分もない。

「──どうして、そんな大切なことを今まで黙っていたんですか」

 やるせなさや、怒りや悲哀。どうしようもない感情をそこに孕んだ彼の声が、私を責め立てるように放たれる。いつも冷静で落ち着いている彼がこんなにも感情を荒れさせてくれるとは、私は自分が思っていた以上に彼に愛されていたようだ、なんて。そんな間の読めない幸せを、変に呑気な私の心は感じてしまった。

 手袋をしていない彼の手のひらに、私は自らの手を伸ばした。
 私の小さな手のひらでは、両手をもってしても彼の片手を包み込むことが出来ない。それでも、それでも、その形を、その存在を確かめるように、私は彼の手を握りしめた。

「……本当は、さようならなんてしたくはなかった。でも、世界になんて、私は逆らえない。元の世界に戻れば、私はこの世界での記憶を全て失ってしまいます。もしかしたら、先輩たちからも私の記憶が消えてしまうのかもしれない」

 闇の鏡はこちらの世界の人たちの記憶について言及はしていなかったけれど、その可能性の方が高いだろう。私はこの世界の記憶を無くして、彼らは私の記憶を無くして、そうしてそれぞれが在るべき場所で、在るべき記憶と共に生きていく。そんな未来。
 もしもそれが本当ならば、私が彼らに「さようなら」を告げることは、要らない悲しみを彼らに抱かせてしまうことになるのではないか。どうせその悲しみも明日になれば消えてしまうとしても、彼らが悲しんだという事実に変わりはない。

 それなら、いっそ何も知らせずにさようならをした方が。

「──そう、思っていたんです」

 けれど。たったひとりだけ。彼だけには、どうか、どうか。

「でも、先輩にだけは……ジェイド先輩にだけは、ちゃんと『さようなら』を言いたかった。そして、──出来ることなら私との別れを惜しんで欲しかった」

 それは本当にどうしようもない、私の自分勝手で我儘だった。
 彼に苦しんで欲しかった。私との別れに。
 彼に悲しんで欲しかった。私のいない未来を。
 彼に、惜しんで欲しかった。私の愛を、存在を。

 腕が引かれて、身体が何かに包み込まれる。背中に回された腕の感覚に、彼に抱きしめられたのだと私はすぐさま理解した。そして私は、自分の腕を彼の背に伸ばす。縋り付くように、必死に、短い腕を精一杯、彼へ。

「……迎えに行きます。どれだけ時間がかかったとしても、いつか必ず、貴女を」
「……忘れちゃうかもしれませんよ? 日付が変わったら、私のことなんて」
「忘れませんよ、絶対に。貴女との記憶も、想い出も、全部僕のものです。それがたとえ世界だろうと、神だろうと、この幸せを奪わせはしません」
「……私も、忘れたくないなぁ。先輩の美味しい紅茶の味も、テラリウムの楽しさも、先輩のきれいな色も、優しい声も、瞳も、温かいこの温度も、忘れたくない……!」

 彼のシャツに皺を残してしまうことへの気遣いも出来ないまま、私はぎゅうと彼の背中に縋り付く。時間は残り5分。終わりの時が近づいていると、確かに分かった。

「それなら、思い出してください。忘れてしまってもいいですから、いつか僕が貴女を迎えに行ったその時に、ちゃんと僕のことを思い出して」

 ほろほろと、涙がこぼれ落ちては重力に従って頬を伝っていく。
 ゆるりと腕が解かれて、彼の瞳がまた私の世界を彩った。

「……ああ、泣かないで。僕は貴女の涙には弱いのだと、もう何度も言ったでしょう?」

 彼の指先が、私の濡れた頬を優しく撫でた。涙に引き攣った喉で、それでも彼に何か言葉を紡がなければと酸素を吸い込む。素直じゃない照れ隠しの言葉も、ごめんなさいの謝罪も、違う。今、私が彼に伝えるべき言葉は、そう。

「──ジェイド先輩、私は、貴方のことを愛しています。ずっと、ずっと。生きる世界が違っても、想い出を無くしても、貴方のことを忘れてしまっても」

 彼の頬を手のひらで包んで、瞳を真っ直ぐに見据えて、私は紡ぐ。

「貴方だけを愛し続けると誓います」

 稚拙だけれど、それでも、私の想いの全てを込めた愛の言葉を。

「……ええ、ええ。僕も誓いましょう」

 彼の声が、優しく私を抱きしめる。
 まるで、柔らかな粉雪が空から降り注いでくるようだった。

「貴女だけを永久に愛し、守ります」

 どちらからともなく合わせた唇と、同時に天へ辿り着いた時計の針。
 どこかの世界のおとぎ話では、魔法は零時に解けてしまうのだという。
 私の長い長い夢のような現実もまた、新しい日を伝える鐘の音と同時に終わりを告げた。

「──どうか、待っていてください」

  ***

 そうして次に目覚めた時、私はあの夢≠ノ旅立った次の日の世界で息をしていた。
 呆気なくあの世界のことも、彼のことも、全てを忘れてのうのうと生きてきた。
 ……ただ、それでも、残されていた。彼の記憶は、確かに私の中に。

 紅茶が好きになっていた。紅茶のクッキーをいつからか焼くようになっていた。テラリウムの存在に興味を惹かれた。海の世界に、心を奪われた。

 彼と生きたあの1年間は、確かに私の中に、ずっとずっと存在していた。

「……思い出すのが遅れて、ごめんなさい」
「いいえ、これでも待つのは得意ですから」

 微笑む彼に、眉が下がった。どうやら向こうの世界での私の記憶は、予想に反して失われることがなかったらしい。結局私は、優しい彼らを悲しませてしまったわけだ。
 心の中に届かない謝罪だけを転がして、私は彼に向き直る。太陽はもう水平線の向こうに消えて、残されたのは僅かなその光の残滓だけ。きっともうすぐ、西の空に滲むあの橙も夜の群青に染め上げられてしまうのだろう。

「ええと、ジェイド、先輩……? ジェイド?」
「ああ。……もうここは学園ではありませんし、『先輩』なんて言葉に意味はないので、是非そのままジェイドとお呼びください。敬語も不必要ですよ」
「……うん、分かった」

 素直に頷いた私に、彼はにこりと満足げに笑った。その笑みは、先程までの切なげなものとは少し違う、どちらかというと普段の彼に近い表情。

「あと、もうひとつ。訂正しておくことがあります」

 重要事項だとでも言いたげな彼の声色に、私は無意識に背筋を正した。はてさて、私は一体何を正されてしまうのだろうか。

「──正確には、『会いに来た』、ではなく、『迎えに来た』、ですよ」

 1秒、2秒。十分な時間をかけてその言葉の意味を理解した私は、次の瞬間堪えきれずに声をあげて笑ってしまう。そんなところも確かに彼らしいと言えば彼らしい。
 話が続かないからと、私は必死に笑いを治めて彼に言葉を返す。

「……私のこと、連れて行くの? 向こうの世界に」
「おや、予想外の反応ですね。まるで帰りたくないとでも言いたげだ」

 顎の傍に手をやって、どこか大げさな素振りで彼は首を傾げた。どこか威圧的な口調だけれど、その表情は未だにこにこと笑っている。彼は私にまだ何かを隠しているようだ。

「まあ、確かに迎えに来てって私もあの時言ったからね。……でもまあ、やっぱりこの世界には家族や友人がいるし、あのカフェも、正社員は私1人だけ。私が突然いなくなったら、きっと店長たちは困るだろうな」

 つらつらと、私はこの世界への未練を並べていく。それらが気がかりであるのは、確かに事実だ。彼らと本当にもう二度と会えなくなると思うと、心臓がこんなにも苦しくなる。

「……ねえ、ジェイド。もしも私が『一緒に帰れない』って言ったら、どうする?」

 その言葉は、ほんの少しの意趣返しでもあった。いつも私を揶揄って楽しんでいた彼への、悪戯心。それに気づいているのか、いないのか。彼はまた笑みを深くする。伏せられた瞳がゆらりと揺れたのは、一体どんな感情によるものなのだろう。

「……そう、ですね」

 言葉を探すような素振り。視線が少し彷徨って、瞬きをひとつ。再び彼の瞳が、真っ直ぐに私を見つめた。まるで射抜くようなその眼差しの鋭さに、息を呑む。

「──その時は、僕が泡になって消えてしまうことになります」

 予想外のその内容に、呼吸が止まった。
 声も、言葉も、思考回路も、一瞬にして全てが驚愕に奪いされられていく。
 見開いた瞳に映る世界で、彼はいつものように優しく穏やかに微笑むだけ。今自分が吐いた言葉の意味も、全てを理解したうえで、それでもただただ静かに佇んでいる。

「どういう、こと?」
「そのままの意味ですよ。貴女が僕と一緒にあちらへ帰って下さらないと言うのでしたら、僕は契約に従い泡となって消えてしまいます。契約には代償が付き物ですからね」
「……どんな契約を結んだの?」

 情けなく声が震えた。浅い呼吸では十分な酸素を体内に取り込むことが出来なくて、酷く、酷く息苦しい。陸に打ち上げられた魚は、こんな思いをしているのだろうか。

「──『世界を渡り愛する者の下へと転移し、そして愛する者をこちら側の世界へと迎え入れることを可能にする。対価は、愛する者をこちら側の世界の住人にすること。それが叶わなければ、契約者は泡となって消えてしまう』……そんな魔法薬を、貴女が消えたあの夜から、8年間の時をかけてようやく作り上げました。フロイドやアズール、グリムさんやエースくんたちの力もお借りして」

 懐かしい名前の羅列に、視界が揺れる。けれど、今私が気にするべきはそこではない。

「その期限は? 達成の、条件は?」

 彼の微笑みが、酷く悲しいものに見えた。

「期限は、僕が貴女に『愛している』と告げてから、3日後の日没まで。達成の条件は、貴女から『誓いのキス』をして頂くこと。共にあちらの世界へ帰るという、誓いを」

 そうして私は理解する。今まで彼が私に確かな言葉をくれなかった理由を。
 思い出す。昨夜、彼が私に伝えてくれた「愛しています」の言葉を。
 彼の言葉が正しければ、期限は明後日の日没まで。そして昨夜の私はまだ、彼との記憶の全てを取り戻してはいなかった。彼もきっと、そんなことぐらい知っていたはずだ。

 ──それなのに、彼は。

「……どうして言ったの? 昨日の私に、まだ貴方のことを思い出してない私に、愛してるなんて。それを言ったら、カウントダウンが始まっちゃうんでしょう?」

 私がいつ彼の記憶を取り戻すかなんて、彼には分からない。
 もしも私が期限となる明後日の日没までに彼のことを、あの世界のことを思い出さなければ? 記憶を失ったままの私に、『誓いのキス』なんて出来るわけがない。何故なら、そのもしもの私は、あの世界のことなんて知りはしないのだから。

 そうなれば彼は、泡となって消えてしまっていた。

 脳内に浮かぶあり得た未来の想定に、背筋が凍る。
 彼が消えてしまうかもしれなかった。泡になって、私の目の前から。考えただけで恐ろしすぎて、哀しすぎて、涙で視界が滲んだ。

 揺れる世界のその中で、色を濃くした浅い夜の闇の中で、彼が微笑む。
 困ったように。それでいて、酷く、酷く愛おしさに満ちた表情で。


「愛する人に愛を伝えられて、どうして愛を伝え返さずにいられるのでしょう」


 ──本当に、馬鹿なひとだ。頭はいいくせに。勉強も出来るくせに。馬鹿で、馬鹿で、馬鹿で、……どうしようもなく、言葉も出ないほどに、愛おしいひとだ。

 胸に溢れた激流のような感情に身を任せ、私は彼の胸に飛び込んだ。涙がひと粒目尻からこぼれ落ちたけれど、今はそれに構っている余裕などない。
 少し勢いをつけたというのに、私の突然の体当たり程度では、彼の身体はびくともしなかった。たたらを踏むこともなく受け止められた身体で爪先立ちをして、彼の襟元を両手で掴んで、半ば無理矢理、彼との距離をゼロにする。
 ほんの少し乾燥している彼の唇に、触れるだけのキスを残して私はすぐさま離れようとした。けれど、それを許さないとでも言うように、彼の手のひらが私の後頭部へと回される。いつの間にか背中にももう片方の手が伸ばされていて、私の退路は絶たれてしまった。
 触れるだけのキスを2回。酸素を求めて開いた唇をいいことに、彼の舌が私の口内へ侵入しては中を好き勝手に荒らしていく。呼吸すら食らい尽くすようなキスの雨に、私はただ酸欠になった頭で酔いしれることしか許されない。
 もうすぐ腰も抜けてしまうという瀬戸際で、ようやく彼から解放された。
 つう、と一筋の銀が私の間に伝い、そうして儚く途切れた。
 荒れた息を整えようと、必死に呼吸を繰り返す。誓いの言葉を伝えなければと思うのに、朦朧とした頭と彼に食い荒らされた呼吸では、うまく声も紡げない。
 滲んだ涙が酸欠によるものなのかそれとも違うのかも、もう私には分からないけれど。
 それでも、私を抱きしめる彼の温度は優しくて、そして確かにそこに存在していた。

「……誓うよ、」

 震える声で、私は言葉を紡ぎあげた。
 愛するひと。私の知る全ての世界のその中で、いっとう、一番、愛おしいひと。

「ジェイドと一緒に、生きる。世界なんて関係ない。私は貴方と一緒に未来を生きたい」

 ぱりん、と何かが割れるような音が聞こえた。それは決して、不吉なものではない。
 世界と世界が繋がって、空間が歪む音。

「……ありがとうございます。僕のことを思い出してくださって。僕のことを、選んでくださって」

 絞り出したような彼の声に、思わず笑みがこぼれてしまう。

「それは、こっちの台詞だよ。……ありがとう、ジェイド。私のことを覚えていてくれて。私のことを、迎えに来てくれて。私のことを、愛していてくれて。本当に、ありがとう」

 抱きしめていた腕を解いて、ふたり、手を取り合った。
 繋いだ手のひらが解けることは、きっと、もうない。

「向こうに行ったら、皆にちゃんと顔を出して謝らないと」
「そうして差し上げてください。皆さん、本当に悲しんでいらっしゃいましたから」
「……私に世界を捨てさせたんだから、ちゃんと幸せにしてよね」
「それは勿論。もう何を言っても、何が起こっても、貴女を手放しはしません」

 世界と世界の隙間へ同時に足を踏み入れる。振り返ることは、もうない。
 砂浜に残されたふたりの足跡も、いつしか波が攫ってしまうのだろう。


「──帰ろう、ジェイド」
「──ええ、帰りましょう。一緒に」


 さようなら、世界。久しぶり、世界。
 ……そうしてその日、私の生きたあの世界から、ひとつの存在が掻き消えた。



 ──それが、ふたりの出会いと、別れと、ハッピーエンドのお話でしたとさ
 めでたし、めでたし


fin, 2020/4/25

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