1
しとしと、というよりはざぁざぁという効果音が似合うような雨。
空は分厚い雲に覆われていて、世界はまだ夕方にも満たない時間だというのに薄暗い。
街を行く人は皆傘を片手に持っていて、自転車に乗っている人はレインコートを身に纏っている。今のところ傘差し運転をしている人が見当たらないので、この辺りはなかなかマナーが良いのではないだろうか。傘差し運転は自分にも周りにも危険だから良い子も悪い子も絶対にやってはいけません。レインコートを着るか潔く濡れるか、傘を差して歩くかしか選択肢はないのでよろしくお願いします。
ちなみに、私はもちろん傘なんて差してないしレインコートも着ていない。なぜなら雨は私の体をすり抜けていくから。多分意識すれば濡れられるのだろうけれど、わざわざそんなことをする必要もない。まあ、万が一濡れたとしても、死んでいるから風邪なんてひかないのが。いやはや、本当に便利な体だ。
傘を広げた人たちの間は、ぶつからないとはいえ少々進みにくいので、彼らの頭上を飛ぶように私は街を行く。
今日も今日とて予定は特にない。すなわち暇。
雨が降っているから、駅前の弾き語りや路上パフォーマンスはやっていないだろうし、最近見つけた猫のたまり場になっている空き地にも猫たちはいないだろう。図書館へ行って読書というのもいいが、試験が近いのか最近学生たちが多いので行ってもゆっくりできないし。図書館の七不思議扱いされるのはごめんである。
となると、あてもなく街を彷徨うか……映画館で無賃鑑賞するか。後者は幽霊の特権をフル行使した暇つぶしであるが、若干良心が痛んだりする。体は死んでも私のモラルはまだ死んでいない。
でもあんまりに暇だと精神的に病んでしまいそうだし……。
致し方ない。確か一昨日公開された新しい映画があったはずだ。それを見させてもらおう。
そう決めた私は、映画館へと進路を固定した。
確か、映画館へ行くには大通りから少し外れた道を通るのが近道だったはず。頭の中で地図を描き、道を選びながら私は進む。
ゆっくり行くのもいいが、今日は近道を選ばせてもらった。大通りからひとつ逸れると、人通りも車通りも随分と少なくなる。ざあぁ、と車が水たまりの水を跳ねさせながら走って行った。
「あーめあめふーるな」
適当な替え歌を口ずさみながら、ふよふよと道路の左側の歩道を進んでいると、前方に人影が現れる。
スーツ姿に黒い傘。その後ろ姿に見覚えがあった。
「観音坂さん…かな…?」
確証はないけれど、確信はあった。多分、あれは観音坂さんだと。
そうなれば、私の心に浮かぶ思いはたったひとつ。彼に話しかけたい。しかし、ここは往来だ。十分に注意して行動に移さないと、観音坂さんが周囲から変な目で見られてしまう。推しのことを最優先に考えるのは、ファンの必修項目だ。
今のところ、周囲に歩く人の姿は無い。後ろからこちらへ走ってくる車ぐらいだろうか。あの車が通りすぎて、その後も誰もいなければそっと話しかけに行こう。そう心の中で決めて、私はどこか疲れたように歩いている彼の背中を見つめた。きっと今日も仕事だったんだろうな……いや、今はまだ夕方だから、もしかしたら営業から会社へ帰る途中なのかもしれない。そうだとしたら声をかけるのは迷惑か…?
私が悶々と考えているうちに、私の隣を車が通り、彼を追いかけるように走って行った。それに我に返って、私は意識を前方へ向ける。
そして気づいた。
丁度、車と彼がすれ違うだろう地点の車道に大きな水たまりが広がっていることに。
車は、それを避ける素振りも見せずに真っ直ぐ真っ直ぐ走って行く。
……大惨事の予感。
私は慌てて彼の所へと飛んだ。
頭の中では、どう行動すれば彼が水跳ねの被害に遭わずに済むかを考えながら。
まだ観音坂さんと水たまりまでにはほんの少しだけ距離がある。今彼を止められたら……!!
「観音坂さん……! ストーップ!!」
彼の腕にしがみつくように纏わりついて、彼の歩みを無理矢理止める。立ち止まった彼と彼にしがみつく私の目の前で、車が豪快に跳ねさせた水がばしゃりと歩道を濡らした。間一髪、何とか間に合ったようだ。ついでに、この人が観音坂さんである確証も得られた。
安堵に胸を撫で下ろしながら彼の腕から離れ、かなり驚かせてしまっただろう彼に声をかける。
「す、すみません観音坂さん、突然引っ張ったりして! お怪我とかありませんか、あと濡れてませんか……?!」
私にもまだ動揺と焦りが残っていたらしい。ついつい早口で、畳みかけるようにそんな問いかけをしてしまった。ようやく視界に入った観音坂さんの顔を見ると、彼は丸く目を見開いて若干硬直してしまっていた。そうなるのも仕方ない。ごめんなさい。
「……深町、さん」
「はい。深町です。先日ぶりですね、観音坂さん」
確かめるように私の名前を呼んだ彼に、肯定を返す。
「あ、はい。どうも。……えっと、今のは……?」
「常識の無い車が思いっきり水を跳ねさせて、それが観音坂さんに直撃しそうだったので……思わず引き止めてしまいました。驚かせてすみません」
「え、あ、いや、そんな! 謝らないでください……!! 助かりました。ありがとうございます」
ぐう聖。優しくそう言ってくれた彼に感激しながら、小さく笑みを返す。
「……濡れてませんか?」
「はい。お陰様で……」
彼のその言葉に、私はもう一度安堵の息を吐く。良かった、私の努力が実を結んでくれた。もしこれで濡れたりしていたら格好がつかなさすぎる。
良かったです、と返答して私がまた笑うと、彼は私をじっと見つめた後、はっと何かに気づいたような顔をした。どうしたのだろうと思っていると、次の瞬間私の頭上を覆った黒い傘。今度は私が豆鉄砲を食らった鳩のような顔をする番だった。
「なんで、傘……! 差さないと濡れますよ……?!」
ぽたぽたと降り注ぐ雨が、彼の癖がある赤茶の髪を濡らしていく。
そこで私は理解した。彼が私に自分の傘を差しかけてくれているのだということを。
彼は心から、本気で私のことを心配してそんな行動に出たようだ。やや焦りの滲む彼の表情がそれを物語っていた。
私は自分の口元が緩むのを堪えようとして、堪えられなくてにやにやと笑ってしまいながら、傘の柄を彼の方へと押し返す。
いやもう、本当にこの人は。そういうところだぞ、観音坂独歩! と心の中で叫ぶことでこの感情を何とか押さえつけて、私はあくまで普通を装って笑った。
「大丈夫ですよ、私は幽霊ですから!」
雨粒は私の髪を濡らすことなく地面に落ちていく。
傘を持つ彼の右手がぴくりと小さく動いた。
「雨だってこの通りすり抜けちゃうので、ご心配には及びません。それにたとえ濡れても風邪ひいたりしませんし。……私よりも観音坂さんの方ですよ。今日もお仕事お疲れ様です。傘差してても多少は濡れちゃいますし、体が冷えて風邪ひかないようにお気をつけてくださいね」
私がそう言って傘の柄から手を離すと、彼はそのまま自分の頭上に傘を固定した。よしよし。今ので少し濡れてしまっただろうから、早く帰ってあったかいお風呂にゆっくり浸かってほしい。となると、私は早めに退散した方がいいだろう。
「……それじゃあ、私はこれで。何度も言いますが、体調にはお気をつけて」
おどけたように小さく敬礼をしながら、私は空中でくるりと身を翻した。
彼からの返答は無い。不思議に思って彼の顔を覗き込む。
「………観音坂、さ、ん……?」
ほんの一瞬だけ、私はそれを見た。
「……あ、……すみません、なんでもないです。……深町さんも、……ごめんなさい、なんでも、ない…………っ失礼、します」
ぱしゃぱしゃと足元の水を跳ねさせながら、彼は去っていく。
私は何も答えられぬまま、そんな彼の背中をぼんやりと見送った。
……脳裏には、先ほど見た彼の表情が焼き付いていた。
酷く傷ついたような、どこか絶望したような、そして今にも泣き出してしまいそうな、そんな、彼の表情が。
20181113
- 11 -