君さえ


2(観音坂視点)



「大丈夫ですよ、私は幽霊ですから!」

 ────その言葉を聞いた瞬間、頭から冷水を思い切り浴びせかけられたような、そんな感覚に襲われた。さぁ、と頭から足のつま先まで一気に体温が引いていくのが分かって、俺は声を失う。

 まだ何か言葉を紡いでいる彼女の声は、彼女の体をすり抜けては地面に落ちていく雨粒のように、俺の耳を通り抜けていった。その代わりに俺の聴覚を埋めたのは世界を叩く雨音。ざぁざぁとまるで砂嵐のような、煩わしい音だった。

 目の前の彼女は笑っていた。まるで今日の天気について話しているかのような自然さで、先程の言葉を放ったのだ。確かにその言葉は正しかった。事実だった。どうしようもないほどに。


 ───彼女、深町ひなたは、つい数週間前、突然俺の目の前に現れた幽霊だ。

 初めて彼女の存在を認知したのは、一二三が俺の家に忘れていた物をあいつの職場近くまで届けに行った時だった。
 いつものように何人もの女性に囲まれた一二三。その取り巻きの隅に彼女は佇んでいた。一見、普通の、生きている女性かのように。しかし、よくよく見て見ればその体は透けているし、膝から下は存在していないし、さらにはふわふわと空に浮いている。驚きのあまり悲鳴すらでなかったことは今も記憶に新しい。
 動揺のあまり一二三に取り憑いた悪霊かと疑ってしまったことは、本当に申し訳なかったと思っている。今でもなお、罪悪感はじわりじわりと膨れ続けているぐらいだ。
 なぜなら、彼女と言葉を交わすたびに、思い知らされるから。

 彼女がとても、とても優しい人だということを。

 ガラの悪い男たちに囲まれた俺を、ポルターガイストを起こすことで助け出してくれた。木に登って降りられなくなった子猫を、必死に助けようとしていた。
 彼女が必死だったから、子猫が無事だと分かった時に酷く安堵した表情を浮かべたから、だから俺も、子猫の里親を探すなんて柄にもないことを口にしてしまったのだ。

 そして今も、風邪をひかないようにと俺を気遣ってくれている。
 
 傘の柄をこちらへ押し返した彼女の手が、柄を握っていた俺の手に微かに触れた。
 生きているものには触れられないという彼女が唯一触れられる人間が、生きているものが、“俺”だという。これは一体どんな因果なのだろうか。理由なんてわかりはしない。分かりはしないけれど、

 そこには確かに、彼女の存在があった。

 ……でも、彼女の体は透けていて、雨粒は彼女を濡らさなくて、彼女の膝から下は存在していない。触れた手はあまりにも冷たくて、それが俺に痛いほど現実を叩きつけてくるのだ。

 彼女がもう、死んでいるのだという現実を。

 そんなこと、彼女と出会った時にはもう既に知っていたはずなのに。改めてそれを飲み下すと、心臓のあたりが握りつぶされるかのような苦しさに襲われた。


 彼女は死んでいる。
 俺と出会う前にはもう。

 ……でも、でも彼女は。


 脳裏を過ったのは、薄暗い路地裏での記憶。
 彼女が生み出した、淡く朧げな光を反射して輝く雫。
 
 俺と、もう一度誰かと話すことが出来て嬉しいと泣いた彼女の姿。

 その雫は地面を濡らしはしなかったけれど、確かに俺の胸を揺さぶったのだ。


 彼女は笑った。彼女は泣いた。
 俺の目の前で。

 俺の名前を呼んで、そして俺の手を優しく握った。

 
 まるで、生きているひとのように。


 だから、俺は、


 何も言わない、何も言えない俺を不思議に思ったのか、彼女は俺の顔を覗き込んで声をかけてくる。俺はそれによりはっと我に返って、そして慌てて口を開いた。

「……あ、……すみません、なんでもないです。……深町さんも、……ごめんなさい、なんでも、ない…………っ失礼、します」

 息だけが喉を通って、なかなか声が生まれなくて。そしてようやく生み出せた声も、情けなく震えていた。きっと、彼女にもそれは伝わってしまっただろう。

 ついつい言ってしまいそうになった「深町さんもお気をつけて」、という言葉をその寸でのところで飲み込んで、俺は彼女に背を向け足早にその場から立ち去った。
 
 ……ああ、どうしよう、とても失礼な態度を取ってしまった。彼女を嫌な気分にさせてしまっただろうか、苛立たせてしまっただろうか。……次に会った時には、彼女はもう今までのように声をかけてくれないかもしれない。俺はいつもいつも、こうやって周りの人に嫌な思いをさせて、そして嫌われるんだ。

 ぐずぐずと靴の中に染み込んでくる雨水のように、自己嫌悪が俺の脳内を埋めていく。穴があれば入りたかった。


 ───……彼女には、嫌われたくなかったな。


 ぽつりと零れた声は、雨音にかき消されていく。
 まだ雨は止みそうになかった。


20181113

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