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新宿ディビジョン。
その文字列からまず連想されるのは、『ヒプノシスマイク』というジャンル名。
……何を隠そう私が生前ドハマりしていたジャンルの1つである。
さて、以上の発言から分かるように、私にとってこの8文字は現実に存在するはずのない言葉。電信柱などという公共の物に堂々と書かれることなどあり得ない言葉なのだ。
だというのに、それが今、私の目の前でこれが当たり前なのだと言わんばかりに胸を張って存在している。一体どういうことだ。誰にも自分の姿が見えないのをいいことに、私は頭を抱えてその場にうずくまった。ただし体は浮いている。
死んで、幽霊になって、まあそこまでは理解できる。理解した。
だがその行き先があの世でも死んだ場所でもなく、好きだった二次元の世界というのは流石に理解しがたい。受け止めきれない。
確かにひとりのオタク、いちファンとしてこの世界に行きたい、あの世界に行きたいと各ジャンルにハマるごとに叫んできた。今回問題になっているヒプマイに対しても何度もそう願った。推しに会いたいと何万回何億回と咽び泣いた。
だが、それは叶わないからこそ願うものであって、いざ本当に叶ってしまうとどうしていいのか分からなくなる。叶い方がこんな形だとさらに。
喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。
やり場のない感情を持て余し、果てには本当にここは自分の知るヒプマイの世界なのかと言う疑問に辿り着き、思考は迷宮に迷い込んだかのようにぐるぐると渦巻いていた。
実体の無い体で有るのか無いのかも分からない脳みそを捩じっているこの状況、冷静になってみるとなかなか面白いな。なんて、現実逃避がてらそんなどうでもいい方向へ思考を逸らしていると、どこからか聞こえた複数の女性たちのはしゃぐ声。
どうやらその声の塊はこちらへ近づいてきているようだ。蹲っていた体をほぐして、なんだろうとそちらへ視線をやる。
「──ねえ一二三くん、今日もお店に行っていい?」
「ああ、もちろんだよ子猫ちゃん」
近づき鮮明に聞こえ始めた女性たちの声の隙間から零れ落ち、私の聴覚を刺激したのは、とても聞き覚えのある声だった。艶のある、女性の心を掴んで離さないその甘いマスク。果ては視界に飛び込んできた、網膜を焼く輝かしい金髪と洒落たスーツ、整った顔。
……その瞬間、全てが確信に変わった。
ここは私の知る“新宿ディビジョン”なのだと理解せざるを得なかった。
何人ものきれいな女性たちを引き連れ街を歩く彼は、伊弉冉一二三。新宿ディビジョンを代表するグループ、摩天狼のメンバー。女性恐怖症のホスト。スーツを着ると人格が変わる。浮かぶのは私が知る彼についての情報たち。シャンパンコール聞いてみたいなと思ってしまうのは最早条件反射なので仕方ない。
彼の取り巻きにこっそりと紛れ込み街を行くこと数分、目の前に広がったのはネオン煌めく夜の街。いつの間にやら空も夜を間近に控え、薄闇に染まっていた。きっとこの先に彼の務めるホストクラブがあるのだろう。
自由に動ける、他人から姿は見えない、誰の邪魔にもならない。こうなったらもう現状に対する疑問やら何やらは放っておいて、今と言う時間を楽しむしかないのではないだろうか。未練のない私がいつまでこうしてこの世界に存在していられるのかも分からないのだし。
目の前に聖地が広がっているのなら、甘んじて飛び込むのがファンというもの。
そうと決まれば話は早い。
ふよふよと相変わらず宙を漂いながら、彼らに着いてネオン街を行く。
──折角なら、最推しの彼にも会いたいなぁ。
そんな中、ぽつりと落ちた一粒の願いが、あっという間に思考を染め上げていく。このまま一二三君に取り憑いていれば、自ら探しに行かずとも、近いうちにきっと彼にも会えるのだろう。そう理解はしているものの、一度こぼれ落ちた願いが消えて無くなることは無い。自分はこんなに強欲な人間だっただろうか………だったな。
まあそう焦るな自分。果報は寝て待てというだろう、落ち着くんだ。
そう自分に言い聞かせていると、目の前で一二三君が何かに気づき、その何かに向けて親し気に手を挙げた。
思考に浸っていた私も、その行動に視線を導かれ、その何か、その誰かを視界に映す。瞬間、あるはずのない心臓がどくりと脈打ったような感覚に襲われた。
「やあ、独歩くん!」
……どうやら私の願う力はいささか強すぎたらしい。
まさか自分からではなく、向こうがこちらに来るという形で願いが叶ってしまうとは。
「一二三お前、忘れ物ぐらい自分で取りに来いよ……」
いやまあ彼がここに来たのは、私に会いにではなく一二三君に用があってなのだが。でも、今私の目の前に最推しである観音坂独歩が存在している事実に変わりはない。
やばい、推しが生きてる。喋ってる、瞬きしてる、呼吸してる……!!!
気持ち悪いとか言わないでほしい。推しに会えばきっと誰だってこうなる。こうなるよな。こうなると言ってくれ。
やばいと尊いとしんどいで埋め尽くされた頭を抱えつつ、視線は観音坂独歩から離れない。離さない。ずっと見ていられる。つらい。
茫然としつつもなんとか耳に収めた2人の会話によると、なんでも観音坂独歩の家に一二三君が忘れ物をして、それが仕事に必要なものだったからこうして観音坂独歩に持ってきてもらったということらしい。一二三君ありがとう君のおかげで私はこんなにも早く推しに会えました。もういつ成仏してもいい。いや嘘、もうちょっとだけ、もうちょっとだけ推しを堪能させて……。
はわわ……今の私の様子に効果音をつけるとすればそんな感じだろうか。誰にも姿が見えていなくてよかった。見えていたら完全に不審者だった。霊体万歳。
とまあそんな感じで彼らの会話を聞きながら観音坂独歩の姿を網膜に焼き付けるように見つめていた時だった。
──ふとした瞬間に、視線が交わった。
誰と? 皆まで言うな、最推しとだ。
交わった視線はすぐに外されたが、またすぐに戻って来た。そしてまた外されて、また戻って……いわゆる三度見というやつか。
その後、彼は私の姿をじっと見つめて、視線を私の足元の方へ……。
──……あ、そうだ。私今幽霊だ。
悲鳴も上げず真顔のまま固まってしまった彼、観音坂独歩には、どうやら私の姿が見えているらしい。
20181113
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