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「大丈夫ですか……?!」
絡まれていたのが観音坂さんであると分かった瞬間に、私は慌てて彼に駆け寄った。そして、未だ地面に座り込んだままであった彼に手を差し出す。
ぱっと見たところ怪我は無さそうだが……暗さのせいではっきりとは分からない。
「あ、ありがとうございます……」
そう言って彼が私の差し出した手に掴まろうとした時、私は自分が幽霊であることを思い出した。彼もまだ困惑が残っているのか、私が幽霊であることを失念してしまっているのだろう。
あっ待ってこれすり抜けちゃうやつ……!!
焦ったけれどももう遅くて、気づけば観音坂さんの手と私の手の距離はもう1ミリ単位の世界になっていた。これではもう手を引っ込めることもできない。
あー……どうしよう引かれちゃうかな……。
そんな心配を抱きながら、私は目の前の光景を見届ける。
──けれど、なぜかそれは杞憂に終わってしまうこととなった。
ぽすん、と私の手のひらに重なった観音坂さんの手。触れ合った感覚はあるけれど、体温は感じない。けれども確かに触れている。すり抜けていない。
またしても止まってしまった思考の下、私はじっと重なりあった私たちの手を見つめた。
そんな私の様子に観音坂さんは首を傾げ、私に倣って視線を動かし、……一拍の間を置いて固まった。彼も思い出してしまったらしい。私が幽霊であることを。
かたかたと錆びついたブリキの人形のような動作で私へと顔を向けた彼に、私も視線を向ける。そして視線が合った瞬間、小さく頷いた。
「……なんで、触れてるんでしょうね」
「なんで……でしょうね……」
あはは。理解しがたい現実に対して漏れるのは乾いた笑い。それが2人だけの路地裏にむなしく響き渡った。
とりあえずそのまま観音坂さんの手を引いて立ち上がってもらい、路地裏ではあれだからということで、少し歩いたところにぽつりと存在していた公園に向かった。その隅の方に並んでいたベンチのひとつに腰を下ろした観音坂さんと、彼の目の前でふわふわと揺れる私。光源は公園の各所に設置されている街灯だ。
「……あの、さっきはありがとうございました」
「え、あ、いえいえ! 大したことはしてませんので!」
ひと息ついたところで私に向かって頭を下げてきた観音坂さんに、慌ててそう返し頭をあげてもらう。本当に律義だなぁ……好き……。
「ええと、お怪我とか……大丈夫ですか……?」
今日の脳内告白ノルマを達成したところで、もう一度ちゃんと彼と向かい合い、先程は流れてしまった話題2つのうち、当たり障りのない一方を選び口にした。観音坂さんはその問いに「大丈夫です。怪我は無いです」と答えた後一度口を閉じ、視線を少し下に向けて小さく息を吐く。それはため息だったのだろう。
「…………はは……情けない話ですが、帰宅中に突然絡まれてしまって……力と数には敵わなくて……」
「……ご愁傷様です」
小さくぼそぼそと呟く彼には心から同情する。ヒプノシスマイクでも使えたら違ったのだろうけど……いまいちこの辺の制度がよく分からないのでこれは予想でしかないが、それをしてしまうと過剰防衛かなにかに当たってしまうのかもしれない。いや、本当に分からないのだが。
「本当、なんで俺がこんな目に……今日もこんな時間まで残業させられたし……いやそれは俺の仕事の効率が悪いからか……そうか、つまり全部俺のせい……」
「落ち着いてください観音坂さん。残業になるのは会社の采配とかが悪いせいですしさっきのも完全にあのヤンキーたちが悪いので……観音坂さん非は無いので……」
彼の優しさも真面目さも全て彼の美点であるのだが、そのせいで色々なことの原因を自分に結び付けてしまうところはあまりいただけない。まあそこも彼の個性ではあるのだが……心健やかに毎日を過ごしてほしい。切実に。
「ありがとうございます……気を使わせてしまってすみません……」
「いえ、……幽霊ですが愚痴ぐらいはいくらでも聞けますので、いつでもどうぞ」
眉を下げて薄く笑う彼に、軽く拳を握ってそう言って見せれば、返ってきたのはどこか悲しそうな色を孕んだ柔い笑み。
「……お優しい、ですね。ご自分もかなり、あの、……大変なのに……」
恐らくそれは幽霊になって異世界へやって来てしまったことを指していたのだろう。まあ確かに最初は困惑したし、今もいまいち現実味が無いが、大変というほどのものでは無い。毎日を気ままに過ごしているのだから。
「あはは、ありがとうございます。でも、仕事に追われることも無いですし、案外楽しいですよ、この生活」
へらりと笑って見せれば、今度はどこか痛みに耐えるような表情。……どうして彼がそんな顔をするのだろう。ああもう、本当に優しい人だなぁ。
2人の間に落ちた何とも言えない空気を変えるために、私は先程選ばなかったもうひとつの話題に手を出した。
それは、“私が彼に触れることができた”ということについての話。
「……観音坂さん、すみませんが手を貸して頂けませんか?」
まずは、あれがただの錯覚やその場限りの出来事では無かったことを確認しなければいけない。私がそう問いかけると、観音坂さんはほんの少し困惑しつつもゆっくりと手を私の方へ差し出してくれた。
空を向いたその手のひらに、私も恐る恐る自分の手を伸ばす。
──そして、触れた。彼の手のひらに。
私の手のひらが彼の手のひらをすり抜けていくことは無かった。私たちの手のひらは重なっている。体温は感じないが、確かに触れている感覚がある。
──なんで?どうして?
頭の中で疑問符が踊り暴れた。
だって、
だって、私は“生きているもの”には触れられないはずなのだから。
この一週間、様々なものに触れようとして、触れてみて、私はその結論に至った。
先程のプラスチック製のごみ箱や木の棒と言った“生きていないもの”には触れられるけれど、草木や動物、人間といった“生きているもの”には触れられない。触れられなかった。確かにそうだった。何度も何度も確かめたのだから、間違っているはずがない。
でも、彼には、観音坂さんには触れることができた。
頭が混乱して、何が何だか分からなくなって。私は彼から手を放し、ふらふらと近くに立っていた一本の木に近づいた。そしてそれに手を伸ばす。
私の手はその木の表面を捉えることなく、するりとすり抜け埋まっていった。
……ああ、そうだ。これが普通なんだ。
「……深町、さん……?」
彼の声が私を呼ぶ。
いけない、また彼を置き去りにしてしまっていた。私は慌てて彼に向き直って、口を開く。まだ頭の中はぐるぐると回っていた。
「ええと、……何と言うか、私、本当は生きてるものには触れないんですよね。さっきのごみ箱みたいな生きてないものには触れるんですけど。……でも、観音坂さんには触ることができて、」
彼の手に触れた自分の手を、もう片方の手で抱きしめる。
怖いわけじゃない、嫌なわけじゃない。
「ちょっと動揺してしまって……すみません」
ただ、この底知れない不可解さが、この現実が、ひたすらに不安なだけなのだ。
口を閉ざし、心を落ち着かせようと大きく深呼吸をした。もちろん、深呼吸をする動作をしただけで、私の体内から二酸化炭素が出ていくことも、私の体内に酸素が入って行くこともないのだけれど。
……なんとか落ち着きは取り戻した。原因も理由も分からないけれど、私は観音坂さんに触れることが出来る。とりあえずその事実だけは受け止められた、と思う。
まだ手のひらに残っている感覚を握りしめ、そして私は再び口を開いた。
「……本当に申し訳ないんですが、もう少しだけ、手を握らせてもらってもいいですか」
……不安で、不安で、仕方ないけれど、でも、
『彼に触れることが出来た』という事実自体は、私にとって酷く喜ばしいことだったのだ。
それはもう、堪えていなければ涙がこぼれてしまうぐらいには。
だって、推しと触れ合えるなんて狂喜乱舞してしかるべき案件だろう。……なんて思いも確かにあるけれど、一番大きいのは『生きているものに触れられた』ことだ。
この1週間でなんとか噛み砕いて飲み込んできた、私の死という事実を叩きつけてくる非情な現実のひとつが、部分的とは言え覆されたのだから。嬉しくて仕方ないに決まっている。いや、これで私の死が無くなる訳ではないのだけれど。
何と言うか………そう、救われた気がしたのだ。
生きていたころは当たり前だった全ての感覚を失って、誰にも気づいてもらえなくて。死んでしまった今、幽霊となってしまった今、そんなことは当たり前なのに。それでも、自分は本当にここにいるのか、そんな不安を心の奥底で抱いていたのかもしれない。
そんな不安が、解けた。
彼に触れたことで、自分は確かにここに存在するのだと、理解できた。幽霊としてではあるけれど、ちゃんと自分はこの世界にいるのだと。
幽霊が何を言っているのだ、と言われるかもしれないけれど。
幽霊のくせに自分の存在云々を気にするなんて、と自分でも思うけれど。
今はもうそんなことどうだっていい。
彼に触れられた。それが嬉しい。
ただそれだけなんだ。
──ああ、彼には救われてばっかりだ。
触れた私の手をぎこちなく握り返してくれた彼の手のひらに、微かな温もりを感じたような、そんな気がした。
20181113
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