君さえ


8


 船が目的地である島に到着したのは、予定通りその約7時間後。夕暮れが目前に迫った昼下がりのことだった。

 港に錨が下ろされる中、ローは再びユエの下を訪れる。

 ベポに抱きかかえられたままの彼女の顔色は、変わることない白い色。呼吸も随分と弱くなってしまっているうえに、体の震えさえなくなろうとしている。恐らく後1、2時間が関の山といったところだろう。不安そうなベポの声と表情に「心配するな」と一言だけを転がして、ローはユエの額にかかった長い前髪をそっと指先で撫でた。

「……、」

 その感覚に意識を呼び戻されたのだろうか、ユエの瞼が弱々しく震えながらその奥の瞳を世界に開いた。焦点の合わない視線はそれでもゆっくりとローを捉えて、そして酷く安堵したかのように小さな笑みを浮かべるのだ。

「───すぐに戻る。待っていろ」

 ローの言葉が彼女に届いたのかどうかは分からない。穏やかな表情で再び眠りに就いた彼女の頭を優しく撫でて、ローは立ち上がる。


 雪とは縁遠いだろう温暖な気候に包まれたその島を、目的のものを手に入れるために彼は真っすぐ歩いていく。その足取りに迷いはない。
 長身に鋭い眼光、そして体中に刻まれた刺青というその恐ろしい風貌に加えて、纏う空気は殺気と見紛うほどに張り詰めている彼を、町行く人々は避けて歩く。怒り狂う猛獣の前に自ら足を向ける者など、誰もいない。───一部の命知らずを除いては。

「そこの兄ちゃん、見た顔だな」
「アニキ、こいつあれですよ、最近調子に乗ってるっつールーキーの1人!」

 ローの行く手を塞ぐように道に立ったのは、壁かというほどに大きな巨体を持った男と、それに付き従うおかしな髪型の男。もちろんローはそんな男たちになど目もくれずに突き進むのだが、それを見過ごす男たちではない。

「おいおい、無視はよくねぇよなぁ」

 巨体の男が、ローに向かってその大きな拳を勢いよく振り上げた。
 ローはそちらに視線を向けることすらせず、ひとつ舌打ちをこぼして口を開く。


「……今、てめぇらに割いてやる時間はねえんだ。───失せろ」


 次の瞬間、地面に落ちたのは男たちのばらばらになった身体の破片だけ。町中に広がった悲鳴にも背を向けて、ローは歩き続ける。
 彼が足を止めるのは、彼女の命を繋ぎ留められたその時だけ。


  ***


 暗くて、冷たくて、酷く寒い場所にいた。
 体の芯まで凍り付いてしまうんじゃないかというほどに寒いその場所で、私は自分の身体を抱きしめてがたがたと震えている。動かすことも出来ない自分の身体が情けなくて涙が出そうになるけれど、そんな体力さえ自分には残されていなくて。

 このまま自分は死んでしまうのだろうか。

 ふわふわと自分に襲い掛かる眠気に身を委ねてしまえば、きっとこの寒さからは解放されるのだろう。でも、それはきっと、もうあの人たちには会えなくなってしまうということ。

 私を拾ってくれたマザー、私を仲間だと言って笑ってくれた仲間たち。
 いつも私を温かく歓迎してくれるハートの海賊団。


 ───そして、


 暗闇の中に、誰かの声が聞こえた気がした。
 それに耳をすませば、次第にその声は大きく私の中に響いて、響いて、そうして私の身体を温める。
 凍てついて動かなかったはずの身体が、少しずつ、氷が溶けるように自由を取り戻していく。

 いつの間にか、世界は温かい光に包み込まれていた。それは涙が溢れそうになるほど優しくて、温かくて、きれいで。私は縋るように自らの腕を伸ばした。必死に、光がこぼれる方へ。私の名前を呼ぶ、誰かの声へ。


 ───ユエ、


 その声は、私のよく知るあの人のもの。
 ……ああ、また、貴方は私を救ってくれた。

 ふわりと揺れた意識の向こうで、あの人が優しく笑みを浮かべたような、そんな気がした。


  ***


 目が覚めるその瞬間は、本人の意識にとっても突然のことだ。
 ふ、と空から急降下した時のような感覚に目を開けば、視界に映ったのは見覚えのある天井と白い色。まだぼんやりとした視界や聴覚でははっきりと自分を取り巻く世界のことを知覚出来ないが、それでも、誰かが自分の名前を泣きながら呼んでいることだけは分かった。
 それが誰であるかも、意識が鮮明になっていくにつれてすぐさま理解する。

「ユエ、ユエ……っ!!」

 真っ白な毛皮に包まれた彼は、ユエの友人である白熊のベポ。ぽろぽろと零れる彼の涙がユエの頬を濡らした。

「……べ、ぽ、」

 彼の名前を紡いだ声は、長く眠っていたせいかがさがさに乾いて随分と情けない有様だ。それでもしっかりと彼はその声を受けとってくれたらしい。その涙の勢いがさらに増した。
 体がうまく動かないので視線だけを動かして周囲を見れば、そこにはべポ以外の姿もある。それは言うまでもなくハートの海賊団の船員たちで、彼らはユエと視線が交わる度に安堵の声や涙をあふれさせていた。
 一体どうして彼らがそんな表情で自分を見るのか。それに疑問を抱いたユエだったが、すぐさま自分がどういう状況に置かれていたのかを思い出し理解する。
 随分と心配をかけてしまったようだ。それに感謝と謝罪を述べようと口を開いた、その時だった。


「ユエ」


 自分をあの夢から救い上げてくれた声が、聞こえた。
 それにユエが視線を向ければ、そこにはこちらを真っ直ぐに見つめている彼の姿。

「……また、たすけられちゃいましたね」

 弱々しい笑みを作りながら彼にそう言って見せれば、彼もまた小さく笑みを浮かべて応えてくれる。やっぱりこの人の笑った顔が好きだな、なんて思ったことは自分だけの秘密だ。

「ありがとうございます」
「……その言葉は空を飛べるようになってから言え」

 きっとその日は遠くない。


2019.10.19

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