君さえ


9


 ユエに解毒剤が処方されてから一夜が明けた昼下がり。ユエの状態と言えば、体温も少しずつ平常に戻り、感じる寒さも穏やかになってきた頃だ。腹部の傷ももう塞がり、無茶さえしなければこのまま完治するだろう。ユエ自身はもう歩き回っても大丈夫ではないのかと思いはするものの、主治医であるローが絶対安静を言い渡すのだからそれに従う他ない。
 布団に潜り込みながら、空が恋しいなぁと内心息を吐く。船の方も心配であるし、出来れば早く帰りたいという気持ちもある。色々な感情を持て余しながら瞼を閉じるが、今まで眠りすぎたせいか眠気は全くと言っていいほどやってこない。端的に言って暇である。

 どうやら今停泊している島の記録指針が貯まるまで2週間ほどかかるらしく、船は波打ち際の穏やかな波に時折揺られるだけで静かなものだ。船員も半分ほどが街に降りているらしく、人の気配も疎ら。ぼんやりと周囲の音や気配に感覚を澄ましていれば、ふとどこからか誰かの足音が聞こえた。
 それを辿っていると、どうもその音はゆっくりとこちらへ近づいてきているらしい。見上げた時計の示す時間的に、船長であり主治医のローが経過観察にでもやって来たのだろうと推測される。
 だからユエはベッドの上で上半身を起こし、彼の到来を待った。
 そろそろ太陽の下に出たいという主張をそれとなくしてみようか、なんて考えながら。

 すぐそこまで近づいて止まった足音と、それに続くノックの音。
 それにはーい、と返事をすれば名乗りもなく扉が開かれる。まあいつものことだ。扉の向こうから姿を見せた予想通りの姿に、ユエはへらりと笑みを浮かべる。

「こんにちは」
「寝てろって言っただろ」
「寝すぎて寝られないんですよ」

 そう言えば「だろうな」という言葉が返ってくるのだから、相変わらずこの人はいい性格をしている。そういうところですよトラファルガーさん、と大げさに眉を寄せると彼は少し愉快そうに笑って見せた。

「体調はどうだ」
「もう随分寒さも感じなくなりました。身体はまだ少し怠いですけど動くのに支障はなさそうです」

 手渡された体温計で体温を測りながら、“名前”は彼の問診に応える。今のところ毒の後遺症も見られないし、きっとあと一晩休めばほとんど元通りだろう。ただ体力や筋力は衰えてしまっているだろうから、そこはリハビリが必要になる。

「……体温も35度まで戻って来たな。まだ低いがほとんど平熱だ」
「良かった。そろそろ空も恋しくなってきたので早く治さないと」

 ぽろりとこぼれ落ちたユエの願望に、ローはまた小さく笑ってぽんぽんとユエの頭に手のひらを乗せた。「そうだな」という彼の声が耳朶を叩く。突然のことに思わず呼吸すら止めてしまったユエに気付いているのかいないのか、彼は何事もなかったかのように診察を続けた。

「能力の方はどうだ」
「え、ああ。……うーん、全回復とまではいかないですけど、多分もう空を飛ぶぐらいはできるんじゃないですかね」

 ローに背中を向けて病衣を少しはだけさせて背中を晒し、能力を発動させる。
 虚空から生まれた羽根はふわりふわりと瞬時に集まり翼を形成した。能力の発動にも感覚にも違和感はない。しかし、飛ぶことに問題は無いと言えやはり翼を構成する翼の数は少なく、武器としての鋭さも心もとないことが、今のユエがまだ本調子でないことを示している。

「そうか」

 ふわ、と触れられる感覚に少しくすぐったさを感じながら、ユエは翼をふるりと揺らめかせた。どうも彼はこの翼の触り心地を気に入っているらしい。白熊のベポのふわふわも気に入っているそうだし、さもありなん。気恥ずかしさはあるが彼が喜んでくれるならそれはそれでいいのかもしれない、なんてことを思いながら、ユエは彼の指先が離れていくまでじっと与えられる体温を甘受していた。

 満足したらしい彼の体温が離れて行って、ユエが病衣を治しベッドに横になった頃、ふいに電伝虫の音が部屋に響き渡った。それはユエの持っていた小型のそれで、恐らく相手はユエの所属する船の船長、アデリア。
 思わず向けた視線の先でローが頷いたのを確認して、ユエは再び起き上がって電伝虫に手を伸ばした。久しぶりに、彼女の声を聞く。

「……もしもし、マザー?」

 不思議な緊張に少し震えた声なんて、誰にも気づかれなければいい。
 少し早鐘を打つ心臓を飲み込めば、鼓膜を震わせたのは聞き慣れた声。

『もしもし。その声はユエね? ……よかった、無事に解毒できたのね』

 安堵しきった彼女の声に、随分と心配をかけてしまったのだろうなと申し訳なさを感じる。それと同時に胸に満ちたのはくすぐったいほどに優しく温かい感情。

「心配かけてごめん。トラファルガーさんたちのおかげでもうほとんど元通りだよ。まだ絶対安静だけど、明日には体温も平熱に戻ると思う」
『そう。ハートの坊やのOKが出るまではちゃんと安静にしておくのよ。あなたはすぐに無茶するんだから』
「流石にトラファルガーさんたちに迷惑はかけないよ。もう子供じゃないんだから」
『ふふ、私にとってはずっと可愛い我が子よ。……あなたが生きていてくれて、本当によかった。ハートの坊やには感謝してもしきれない恩がまた増えてしまったわね』

 彼女がユエへ向ける愛情は、まるでアガペーのようだった。惜しみなく注がれるその愛情をまだうまく受け止めきれない自分が情けなくて仕方ない。ありがとう、マザー。ぽつりと零したその声の震えにだって、きっと彼女は気付いている。そこに滲んだユエの思いにも。

『ハートの坊やはそこにいる? もしいるなら少し話がしたいのだけれど』

 アデリアの言葉に、ユエは無言で傍に佇んでいたローへ視線を向けた。彼女の声は彼にも聞こえているから、彼はそのまま静かに口を開いた。

「なんだ」
『ああ、いたのね。良かったわ。……そうね、まずは感謝を。私の大切な娘の命を救ってくれて、本当にありがとう』
「感謝はいらない。おれたちはこいつへの借りを返しただけだ」
『あなたも相変わらずね、ハートの坊や。……その迷惑ついでにあなたにひとつお願いしたいことがあるのだけど、聞いてもらえるかしら』

 予想もしていなかったアデリアの言葉に、ぱちりとユエは瞳を瞬かせる。アデリアがローに頼み事とは、一体何だろう。

「内容による」
『ふふ。実はまだ私たちはユラにいるの。ここでの病気の治療がまだ終わっていないうえに、この国の国政に関するいざこざにも巻き込まれてしまって、暫くはここを離れられなさそうで。けれど、ユエを狙った人間がいる国にユエを置くことは出来ないでしょう?』

 それは確かに、とユエも内心で頷く。出来るだけ誰にも気づかれないよう戻って、隠密に専念するのが吉だろうか。そんなことを考えるユエの隣で、ローは静かにアデリアの言葉を聞いていた。
 電伝虫の向こうでアデリアが小さく息を吸い込むのが分かった。

 そして、その直後に言い渡された彼女の言葉に、ユエは思考を止めることになる。


『──だからね、暫くの間、ユエのことをハートの海賊団にお願いしたいの』



2019.10.27

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