君さえ


3


 ユエが目を覚ましたのは、その翌日の夜のこと。

 深い夜の闇の中、ランプから零れる橙の光を頬に受けながら、その瞼がふるりと震えた。そうしてゆっくりと開かれたその瞳はぼんやりと天井を見つめながら、ぱちり、ぱちりと緩慢な動きで瞬きを繰り返す。

「……起きたか」

 まだ微睡から抜けきらない思考の中に転がり落ちてきたのは、聞き覚えのある誰かの声。それを頭の中で噛み砕き、飲み込んで、そうしてようやくユエははっと意識を覚醒させた。咄嗟に起き上がろうと動かした身体は、瞬時にその声の主に諫められる。

「動くな。傷の手当はしたが毒はまだ抜けていない」

 薄暗い部屋の中、温かな橙を背に自分を見下ろす彼の目元には相変わらず濃い隈の姿。それをぼんやりと眺めていれば、じわじわと自分に起きた出来事の記憶が脳裏に蘇っていく。

「……たすけてくださって、ありがとうございます」

 寝起きだからか、それとも毒のせいか、うまく回らない舌でそれでもユエはその言葉を紡ぎだした。彼に伝えなければいけない言葉を。そうすれば、彼はぐっと眉間の皺を深くするのだ。

「まだ治療は終わっていない。礼を言うには早すぎるだろう」

 その海賊とは思えぬ医療への真面目さに、思わず笑みが零れてしまう。けれどその笑みも、普段のユエのものとは全く違う弱々しいもので。ベッドサイドに置かれた木製の椅子に腰かけたローは、そんな彼女の笑みにまた眉間に皺を寄せた。

「……体に何か異常はあるか?」
「そう、ですね……手足の指先に少し痺れが。あと、……とても、寒いです」
「体温が下がっているんだ。……もう一枚増やすか」

 ユエの言葉に頷き、ローは部屋の隅から毛布をまた1枚持ってきて彼女にふわりと被せた。冬の気候も相まって寒さを緩和するのは難しい。冬の気候を主とするこの島から離れることが最善なのだろうが、解毒剤の調合方法も知らずにいつ何が起きるとも分からないユエを乗せたまま潜水するのは得策とは言えない。

「今お前の所の船長がその毒について調べている。分かり次第、解毒剤を調合する予定だ。……だから、あと数日耐えろ」

 ローの無骨な手が伸びて、その指先でユエの頬に触れる。氷のように冷たい肌を撫ぜるその指先が酷く優しくて、温かくて、その心地よさにユエはふわりと表情を緩めた。それと同時に、また深い眠気がその身体を包み込む。

「はい」

 小さな声で、それでもしっかりと頷いて、ユエは眠りに就いた。毒に浮かされるその夢が、せめて少しでも穏やかなものであればいい。


 ***


 ユエが眠りに就いてから、2時間ほどが経った頃。深まった夜の帳の中に、電伝虫の着信音が響いた。その音もそう長くは続かない。電子音はすぐさま人の声に代わり、病室の闇の中に静かな声が満ちる。

『夜分遅くにごめんなさいね。───分かったわ、毒の成分が』

 ローの視線の先には、すやすやと眠るユエの姿。何時彼女の状態に異変が起きるか分からないため、ローは昨日から今日と一睡もせずに彼女の傍らに居続けた。眠らないことには慣れていた。目の下の隈が濃くなることにも。

「……すぐに解毒剤の調合に移る」
『よろしく頼むわ。……ごめんなさいね、ハートの坊や』
「その呼び方はやめろ。謝られることは何もない。あんたらに借りがあるのはおれたちも同じだ」
『ふふ、私たちに、と言うよりはその子に、だけどね』

 脳裏を過るのは、1年前のあの日の記憶。
 確か、あの日も雪が降っていた。

「……また連絡する」
『ええ。本当に、ありがとう』

 何度も繰り返されるその礼に落ち着かなくなりながら、ローは電伝虫を切った。部屋に残ったのは静けさの中に時折聞こえる波の音だけ。ふと視線を向けた窓の外には、夜空を背景に雪がはらはらと舞っていた。

 それから視線を剥がして、出来るだけ足音を立てないようにとベッドへ近づく。
 眠るユエの容態は一見安定しているように見えるが、その身体はじわじわと毒に食い荒らされ死へと向かっているのだろう。肌の白さが刻一刻と増しているのがその証拠。

 ───“白”にいい思い出はない。

 それは全てをこの手のひらから奪って行ってしまうから。
 大切なものを、消し去ってしまうから。

 だから、彼はこの白を許すことなんてできないのだ。

 救わなくてはいけないのだ。
 まだ手を伸ばせるこの命を。この命だけでも。この手のひらで。

 それは酷く自分勝手な理由だった。
 けれど、救いたいという気持ちに嘘偽りはない。

 解毒剤の調合に必要な材料は、ほとんど全てが既にこの船にある。
 けれど、たったひとつ。たったひとつだけ足りない薬草があるのだ。
 それが手に入るのは、この島をさらに進んだ先にある島。その場所に辿り着くまで、この船で3日ほどかかる。毒の進みを遅らせているとはいえ、ユエの体力も考えるとかなりぎりぎりの瀬戸際だ。島に辿り着くまでに解毒剤の基礎を作っておき、最後のそれを加えてすぐさまユエに投与しなくてはいけない。全てはユエの生命力にかかっていると言っても過言では無いだろう。

 できるかできないかではない。やらなくてはいけないのだ。

 大丈夫、ユエはこう見えて案外しぶとい人間だ。それをローは知っている。


「耐えろよ。……絶対に治してやる」


 返事は無い。静かな寝息を背に、ローは病室を後にした。
 まだ夜は明けない。

 解毒剤の完成まで、あと3日。

 ───ユエの身体が毒に食いつくされるまで、あと、


2019.10.16

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