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アデリアから連絡を受けたローたちハートの海賊団は、夜も明けきらぬ翌日の早朝にその島を出港した。
次の島へ向かう進路上の海流に目だった荒れは見られず、この一帯は気候が大きく変動することも少ないため、恐らくこのまま進めば予定通りかそれよりも早く目的地にたどり着くことが出来るはずだ。一刻を争う状態にある彼らにとって、それは僥倖とも言える。
船内の病室で眠るユエの表情と呼吸は安定しているが、その体温は低下の一途を辿っている。この毒はこうして少しずつ生物の体温を奪い、そして死へと追いやっていくものだとアデリアの報告で明らかになった。その成分も、その解毒剤の調合に必要な素材も。
彼女の様子見を船員に任せ、ローは別室でその解毒剤の調合に勤しんでいた。その素材も調剤方法も決して難しいものでは無かったが、ただひとつ、この場に足りないものがあるせいでそれはまだ完成しない。
机に向かっていた体をほぐすためにひとつ伸びをして、ローは窓の外を見やった。
船とすれ違いどこかへと泳いでいく魚の群れと、海面から僅かに届く光のゆらめきがその向こうに広がっている。
視界の隅に映った時計が示す時間に、もう経過観察の時間かと息を吐いた彼は、おもむろに椅子から立ち上がり部屋を後にする。向かう先はユエの眠る病室だ。
「……キャプテン!」
廊下を歩いていれば、目的地である病室の前に立っていた船員がローの姿を認めぱっと彼を呼ぶ。それに視線だけを投げて、彼は淡々と問いかけた。
「何か異常は」
「ありがたいことに何も。着替えたいっていうんで今はひとりにしてます。俺は次の立ち番の奴を呼んできますんで」
そう言って去って行く船員の背中を見送って、ローは病室の扉を叩く。返事は無いが、ローが扉を開けることに躊躇することはない。
がちゃ、と扉が開く乾いた音の直後、ローの視界を彩ったのは僅かな黒い色。それが何であるのかを理解するまでそう時間はかからない。
「……返事がないのに扉を開けるの、どうかと思うんですけど」
「ここはおれの船で病室、そしてお前は患者だ」
「正論ではあるんですけどね」
ベッドの上で上半身を起こし座っているユエの背中には、数えられるほどの羽根しか携えていない、翼にもなりきれていないそれ。空を飛ぶことなど到底出来はしないだろうその姿は、正しく彼女の今の状態を表していた。
翼を出すためにはだけさせた病衣を戻しながら非難の声をあげる彼女の姿は、一見すれば元気そうにも見える。しかし、ぐるぐると包帯の巻かれた身体も、疲れを滲ませるその顔も、彼女の肌と言う肌は全てが命を削る白に染まっていた。それが思い出させる嫌な記憶を必死に追い払って、ローは彼女の佇むベッドの傍へ歩み寄った。
「……寒ぃだろ。早く布団に入れ」
可能な限りの暖房設備をここには用意しているが、それでも体温の低下している彼女にとっては寒空の下にいるも同然の寒さだろう。だから、暖を取るためにも、身体を休めるためにも早く横になれとローは彼女に言いつける。しかし彼女はどこかぼんやりとした表情で虚空を見つめ、そうしてゆっくりと唇を開いた。
「───ハートの皆さんの航海もあるのに……本当に、すみません」
普段はかなりのマイペースな人間であるくせに、相変わらず彼女の謝り癖は健在なようだ。それは美徳でもあるのかもしれないが、今この場ではその例にあたらない。
深いため息を零したローは、ぎゅっと眉間に皺を寄せて彼女に言い放つ。
「今から向かう島はおれたちの次の目的地でもあった。お前ひとりを治す程度のこと、おれたちの進路の邪魔にすらならない。……だから黙って寝てろ」
口調こそきついものではあるが、その声はあまりにも優しくて、ユエは思わず笑ってしまった。そんなユエに、彼は怪訝そうな表情を隠すこともしない。これ以上彼の機嫌を損ねてもいけないだろう。体温を計ったらすぐに寝ますよ、とユエはベッドサイドに置かれていた体温計を手に取る。
体温計がその職務を全うするまでの間、ユエは自分の羽根を1枚、その指先で弄ぶ。闇を溶かしたようなその黒は、宿主がこんな状態にあったとしてもまだ光沢を失っていない。それを見つめながら、ぽつりぽつりとユエは言葉を転がした。
「……まさか、これを欲しがるような物好きがいるとは思いませんでした。今の世の中、翼があるぐらいは特段珍しいことでもないのに」
脳裏を過るのは、この黒い翼を見て不吉だと詰った人々の姿と声。きっと、それが人間として普通の反応なのだろう。恐らく、今回の元凶となったあの王子も、もの珍しさ故にユエを捕らえようとしたが、実際にそれが手に入ればすぐさま不吉だ不気味だと言ってユエを罵ったことだろう。そんな人間を、ユエは何度も見てきた。
「マザーたちにも、迷惑をかけてしまった」
抱え込んだ膝に顔を埋めて、あの島に残してきてしまった大切な仲間たちの姿を思い描く。自分を救って、拾って、そして仲間にしてくれたあの優しい人たち。彼女たちの重荷にだって、なりたくはなかった。
『こんな能力も、こんな翼も要らない』なんて思うことはもうない。これは自分の大切なものを守るための力だから。
でも、それのせいで彼女たちを危険に晒してしまった。
その事実がどうしようもなく胸に突き刺さるのは、毒のせいで情緒が安定しないせいだろうか。
もしもこれが無ければ、なんて、意味の無いことを考えてしまうのは。
「───まあ、分からなくはねぇ」
ぎし、とベッドが軋んだのは、その上に1人分の体重を増やされたから。
近づいた気配に顔を上げれば、ベッドの隅に腰を下ろした彼が、その手をユエへと伸ばしていた。DEATHという物騒な文字が刻まれたその指先が触れたのは、まだユエの背中に佇んでいた翼の欠片。相変わらず、この人の指先はどうしようもないほど優しい温度で触れてくる。
なぜか込み上げてきた涙をそっと堪えて、ユエは彼を見つめた。
ふ、と微笑んだその姿に胸が痛みを訴えたのは、きっとこの身を蝕む毒のせい。
「“これ”を手に入れたいと思う奴の気持ちもな」
布団の上にひらりと落ちた1枚を摘まみ上げてそれに唇を寄せた彼は、その笑みのままユエへ視線を向ける。黄色混じりの深い銀灰色に射抜かれてしまえば、思わず呼吸を忘れてしまうのも仕方のないことだろう。
体温は下がっているはずだというのに何故か熱を宿す自分の頬。それを彼から隠すように、ユエはぱっと翼を消して、その勢いのまま布団に頭まで潜り込んだ。
「体温、計り終わったので……! 寝ます、おやすみなさい!」
布団の隙間から体温計だけを彼に突き出して、ユエは籠城の姿勢をとる。くつくつと笑う彼の声なんて聞こえないふりだ。
「ああ、おやすみ」
降り注いだ彼の声と、布団越しにユエの背中に触れた手のひら。たったそれだけで、今まで姿も見せていなかった眠気が突然ユエの全身を包み込むのだから、やはりこの人はただものではない。
身体を侵す寒さを、布団を掻き抱くことで何とか耐えて、そしてゆるゆると深い眠りへ落ちていく。
──布団に包まったユエは知らない。
手にしていた彼女の羽根が掻き消えたことに、ほんの少しだけ名残惜しそうな表情を浮かべた彼のことなんて。
2019.10.16
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