君さえ


5


「──キャプテン! ユエが……!!」

 ユエの見張り番をしていたはずの船員が、仮眠を取っていたローの下へ慌てた様子で飛び込んで来たのは、島への到着をその夕方に控えた日の朝のことだった。そのただならぬ様子と紡がれた名前に、ローはすぐさま立ち上がりユエのいる病室へ急ぐ。

 どうやらユエの異変は、ローだけでなく船全体に知れ渡っているようだ。辿り着いた病室の前には十数人の船員が押し合いながら群がって、不安げに部屋の中を覗き込んでいた。それでも騒ぎはせず病室の中に足を踏み入れていないのは、やはりこの船の船員であるからだろうか。
 彼らはローの姿を見ると、すぐさまその不安を和らげて彼に道を開ける。それに応えることも無くローは病室に踏み込み、そしてそこに広がっていた光景に僅かに目を見開き、次の瞬間眉間に深い皺を刻んだ。
 病室の奥のベッドの傍には、ローが到着するまでを任されたのだろうペンギンの姿。彼もまた、ローの姿に気が付くとすぐさまその場所を彼に明け渡し、今の状況を説明し始める。
 その説明を聞きながらも、ローの視線は真っすぐにそのベッドの上に横たわるユエへと向けられていた。

 すっかりと色の抜け落ちた肌の色は、最早純白と呼んでも過言ではないほどで、さらにその身体はずっと小刻みに震え続けている。紫色に染まった唇も震え、きっと歯の根も合っていないことだろう。その姿はまるで、雪山の中に薄着で放置されている人間のようだ。
 意識はなく、呼吸も途切れ途切れ。心音は随分と弱い。ペンギンに提示されたユエの現在の体温は、もう30℃を下回ろうとし始めていた。それは人体の限界にも切迫する温度で、これ以上の低下は心臓に影響が生じるなど命の危険にも直結する。

「ベポ、いるか」
「ア、アイアイキャプテン……!」

 ユエのことが心配で部屋の外に集まってきていたのだろう。ローの呼び声にすぐさま反応したベポは、さっと彼の下へ向かった。

「こいつはもう自分の体温で自分の暖を取ることも出来ねえ。お前のその毛皮と体温で温めてやれ」

 端的な彼の指示を瞬時に理解したベポは、アイアイ! と威勢のいい返事をしてユエの身体を布団や毛布ごとその腕に抱き込んだ。ぐったりと力なくその腕にもたれかかる彼女の蒼白な顔を覗き込んで、「死なないで、ユエ」とベポは切実な声を紡ぐ。

 それを確認して、今はこれ以上彼女にしてやれることないとローは病室を後にする。近くにいた女船員にも可能な限りユエの傍にいるよう指示を出して彼が向かったのは、現在の船の舵を担当する、ベポとは違うもうひとりの航海士の下。

「あとどれぐらいで着く」
「このまま進めば、予定通り今日の夕方か昼過ぎには」

 時間にすれば後7、8時間と言ったところだろうか。

「……ユエちゃんは、大丈夫ですよね」

 ぽつりとこぼれされた航海士のその声は、きっとこの船の船員全ての言葉だろう。船の操縦を行うその指先も、声と同様に僅かに震えていた。

「……この船の恩人を、むざむざ死なせはしねぇよ」

 
 あの日の出来事は、未だ記憶に新しい。
 それはハートの海賊団がたったひとりの少女に救われた日の話。


  ***


 それは今から約1年前。
 偉大な航路に入ってそう時間も経っていない頃、ハートの海賊団はとある島に船を寄せることになった。冬島ほどの寒さはないがそれでも雪のちらつくその島へ、記録指針が貯まるまでの時間を過ごすためにと足を踏み入れた、その瞬間。ローの鼓膜を震わせたのは、ベポではないもうひとりの航海士の悲鳴だった。
 それに視線を向ければ、つい先ほどまで地面に足を付けていたはずの彼の身体が宙に浮いているではないか。その原因は、航海士の胴体をしっかりと捕まえた、鋭い爪を携えた足。そして空に大きく広げられた不気味な翼。ハートの海賊団の航海士が、異常なほど大きな鷹にその身体を捕らえられていたのだ。キャプテン、と航海士が弱々しい声でローを呼んだ。その手首にはこの船の航路を示す記録指針の姿。
 能力者の類かとローもまた自身の能力を発動させようとする。しかし、それを遮るようにどこからか誰かの声が響いた。機械を通して聞こえるその声は、酷く愉快そうな音でハートの海賊団に、ローに語り掛ける。

『ようこそ、ハートの海賊団の皆さま』

 声から判断するに、恐らく声の主は中年を超えた程度の年の男。真っ先に記録指針を持った航海士の身柄を拘束した点から見て、あまり穏やかな話ではなさそうだ。能力を一度留めて、ローはその男に問いかけた。

「随分な歓迎だな。……一体何の用だ」
『ははは、いえ、少しあなたとお話をしてみたいと思っただけですよ。“トラファルガー・ロー”さん?』

 どうやら、こちらの素性については全て筒抜けであるようだ。恐らく、相手はかなりの計画を積んだうえでこの蛮行に及んでいる。眉間に皺を寄せながら、ローは能力を発動させるかのように手を動かした。

『ああ、能力はやめてくださいよ。うちの可愛い子は臆病でね、少しでもあなたが攻撃の姿勢を見せるとつい足に捕まえた人間を縊り殺してしまうかもしれない』

 これで、相手が何らかの方法で遠方からこちらの様子を伺っていることも知れた。
 この海で記録指針と航海士を失うことはすなわち死を表す。相手の思惑も分からない今、ひとまずはこの声に従うしかないだろう。ローが腕を下げれば、声はまたけらけらと不愉快な音で笑う。

『話の早い人は好きですよ。……それでは、船長さんお1人だけでこちらへいらっしゃってください。案内はうちの者が致しますので』

 男の声に船員たちがざわりと口々に声をあげる。船長を1人で敵地に向かわせるなんて、正気の沙汰ではない。そんなことできるわけがない、許さない、と船員は叫ぶが、それを決定する権利は彼らには無い。

「……分かった」

 静かに足を踏み出した彼の背中を止められる人間はここにはいなかった。ただひとつ分かるのは、自分たちの船長が強く賢い人間だということ。きっと彼なら航海士と共に無事に帰って来てくれるはずだ。
 不安を飲み込んで、彼らはローを見送った。


2019.10.19

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