君さえ


判決、汝、終身私を愛すること(残り6日)



※女監督生夢主/捏造ご都合主義

 魔法薬学室に満ち満ちたその何とも言い難い匂いが、私はとても大好きだ。
 草と、薬品と、微かに土。元の世界に居た時はあまり身近になかったそれらに心が惹かれるようになったのは、そう最近のことでもない。
 いつものように白衣を片手に魔法薬学室の中へ足を踏み入れれば、私の高揚を掻き立てるその空気が、私を包み込むように迎え入れてくれた。
 あの鉢の魔法植物は今日も元気そうだな、とか、また新しい顔ぶれが増えているな、とか。周囲に忙しなく視線を巡らせながらも私が真っ直ぐに向かうのは、魔法薬学3―B教室。
 扉の前で一度足を止め、軽く髪や服を整えて深呼吸を数度繰り返す。よし、とひとつ心の中に言葉を転がして、私はその扉へ手を伸ばした。
 鍵のかけられていないそれは引っかかりや軋みもなくスムーズに開き、その向こう側に広がる世界を私の視界に惜しげもなく晒し出す。
 その音に私の来訪を知ったのだろう、部屋の奥に立っていたそのひとがゆっくりとこちらを振り返る。しゃらしゃらとその左耳にピアスが踊って、鮮やかな浅瀬の色が瞬いた。窓の向こうに広がる柔らかな空の青とも相まって、まるで世界の全てが海の底に沈んでしまったかのような、そんな錯覚に陥ってしまう。

「──こんにちは、監督生さん」

 優しい声。その響きが自らへ向けられるだけで早鐘を打ち始めてしまう私の心臓は、きっともう空を望むことも許されはしない。そう確信してしまうぐらいには、私はもう、彼というたったひとりの人魚に全てを奪い去られてしまっていた。
 だらしなく蕩けてしまいそうになる口元を必死に引き結んで、私はたおやかに微笑む彼へと挨拶を返す。

「っこ、こんにちは、ジェイド先輩!」

 緊張のあまりわずかにつっかえてしまった声に羞恥が募るけれど、彼はそれを気にした様子もなく笑みを深めるばかり。もっと余裕のある人間として彼の前に立ちたいとは思うのだけれど、やっぱり彼の姿を見るとどうしようもなく心が逸ってしまって仕方がないのだ。
 今日も今日とてまだ理想の私には程遠い自らを理解して、内心にため息を吐く。けれどそんな憂鬱も、ひとたび彼に声をかけられると一瞬にして霧散してしまうのだから、この恋心なんて呼ばれるものは相変わらず現金な感情であるようだ。

「やる気は十分、ですね」
「はい! 今日もよろしくお願いします」

 ぺこりと深く頭を下げて、彼の時間を無駄にしてはいけないと急いで荷物を隅の棚の上に置く。そして白衣を身に纏って彼の待つ実験台の前へと向かえば、そこにはもう既に、今日使われる予定の薬草や素材などがずらりと並べられていた。

「今日は前回の応用編ということで、前回学んだリゾディール水を利用した『メゾン薬』と呼ばれる傷薬の調合を行います」

 それらが一体何と呼ばれるものであるかを懸命に思い出す私の隣から、ジェイド先輩のゆったりとした声が転がされる。リゾディール水の調合方法を記憶の中から引っ張り出して、私は再び元気のいい返事を弾き出した。

 魔法薬学の基本は、採取、計量、そして正確な調合。実技系教科の中でも、錬金術や飛行術とは違い、基本的にその過程で魔力を必要としないその学問は、魔力を持たない私にとって何よりも手を伸ばしやすいものだった。
 できることをやりたくなるというのは、人間の心理としてもそうおかしくはないことだろう。元々植物などに対する興味や関心が強かったということもあり、私が魔法薬学にのめり込むまでそう時間はかからなかった。
 とはいえ、まだ1年生である私が授業時間外で自由に実験を行うことはできず、私に許されていることと言えば、教科書を何度も読み込んだり、図書館で魔法薬学についての書籍を探しまわったりという程度。
 次の授業ではどんな実験を行うのだろうか、この調合を実際に行うとどうなるのだろうか、などということを想像しながら自分の好奇心を募らせていく日々の中、そんな私に手を差し伸べてくれるひとがいた。
 それが彼、ジェイド・リーチ先輩だったのだ。
 2年生であり、かつ魔法薬学の成績が優秀な彼は、特別に魔法薬学室に個室を借りることを許され、さらには、ある程度の薬草や素材などを自由に利用する許可も得ているのだという。実力主義的な側面の強いナイトレイブンカレッジでは珍しいことではないと彼は笑っていたが、何をどう考えても普通にすごいことだと私は思った。
 そんな彼が、図書館で魔法薬学書を読み漁っている私に出した提案とはこのようなものだ。

「2週間に一度、放課後に魔法薬学室で魔法薬の調合を体験させて差し上げます。僕の付き添いがあれば、1年生の貴方でも授業時間外で自由に実験できますので。その対価として、僕が個人的に育てている薬草やキノコの世話を手伝って頂ければ十分です。どうでしょうか?」

 ちなみに、私はその契約に一も二もなく「はい」と頷いた。それぐらいには魔法薬の調合をやってみたくて仕方なかったうえに、彼からの対価として示された薬草やキノコの世話という内容にも興味が惹かれたためだ。
 エースたちからは「あのオクタヴィネルの副寮長と契約を結ぶとか絶対ろくなことにならないぞ」と心配されたけれど、彼から提示された契約書は、隅から隅まで確認しても特別私の不利になるようなことなど書かれてはいない、非常に良心的なものだった。それに微塵も不安を感じなかったと言えば嘘にはなるけれど、こちらが内容に反するようなことさえしなければ、基本的には彼らも誠実に対応してくれるということは知っている。

 だからまあ、なんとかなるだろう。というのが私の結論だった。

 それに加えて、少々不純なことを言ってしまえば、私は前々からジェイド先輩に対して憧れめいた感情を抱いていたので、この提案はそういった意味でも私にとって非常に好都合だったのだ。
 やはり恐ろしいところのある彼ではあるけれど、こちらから彼に危害を加えようとさえしなければ、彼から牙を向けられることもない。魔法薬学室での彼とのやり取りは、数カ月前のオクタヴィネル寮とのひと悶着の際とは違って酷く穏やかで、いっそ安心感すら覚えるほどのものだった。
 さらに、魔法薬学において特別扱いを受けるだけあって彼の知識量や技術というものはやはり素晴らしく、教え方まで完璧といった具合なものだから、私の魔法薬学への興味はより一層掻き立てられて行くばかり。2週間に一度のその日が何よりの楽しみになって、読書量もさらに増えた。
 そうしているうちに、気付けば魔法薬学の成績だけならば学年でもトップクラスに食い込むほどのものとなっていたのだから、やはり好奇心と知識欲というものは、学習におけるモチベーションとして何よりも重要なものなのだろう。
 本音を言うと「魔法薬学でいい成績を取ると彼から褒めてもらえる」というのも、私のそれにおける大部分を占めていたのだが、まあ、その点については内緒ということにしておこう。
 前々から憧れていた彼というひととこうして関わりを持ち、顔を合わせ、言葉を交わし、そうしている間に、気付けば私は、彼に「恋」なんていうなんとも愚かでくすぐったい感情を抱いてしまっていた。
 きっかけを思えば当然の帰結とも言えるそれだけれど、当事者である私にしては大問題も大問題。
 何故なら相手は他でもない彼、ジェイド・リーチという浅瀬色の麗人なのだから。
 この恋を自覚したその瞬間に、この恋が叶うことはきっとないのだろうと私は深く理解した。その理由について語ると悲しくなってしまうので、今は割愛させてもらおう。
 いつかは死んでしまう感情を抱えて、今日も私は、彼の隣でただの後輩として笑ってみせる。こうして彼と時間を共に過ごすことが出来るだけで、もう十二分に幸せなことなのだと自らへ何度も言い聞かせて。


「……よし! ジェイド先輩、リゾディール水が出来ました!」
「はい、よくできました。調合も完璧でしたね」

 集中に浅くなっていた呼吸を戻した私は、手元の大きなビーカーの中に無事完成したリゾディール水を隣で見守ってくれていたジェイド先輩に見せた。すると彼がにこやかに私を褒めてくれるものだから、単純な私のテンションはぐんぐんと急上昇していくばかり。
 だからといって浮かれていてばかりもいられないので、慌てて心を落ち着かせ、彼からの次の指示を待つ。

「では、次にこちらの満月草をすりつぶして下さい。力任せにするのではなく、出来るだけ優しく丁寧に擂っていくのが成功のコツですね」
「分かりました!」

 彼の言葉に注意深く耳を傾けながら、時折注意されながら、彼のお手本を見せてもらいながら、少しずつゆっくりと調合を進めていく。
 満月草をすりつぶした後、ラビリジアの種を潰し、その中から出て来た液体と共にリゾディール水の中に混ぜてよく撹拌すれば、少しずつ全体がとろみを帯び始めた。
 そこに人魚の涙を3滴加え、ヤギの骨粉をひとつまみ。さらに撹拌を続ければ、透明だった液体が橙を帯びた白に変化していく。調合開始前にジェイド先輩に見せてもらった「メゾン薬」のそれと同じ色だ。
 つまりはこの調合が成功しているということ。
 それを理解すると心が逸ってしまって仕方がないのだけれど、魔法薬の調合は最後まで決して気を抜いてはいけないもの。唇を軽く噛みしめて、私は慎重に撹拌を続けていく。

「──もう十分ですよ。完成です」

 ジェイド先輩からの声に手を止めた。視線の先にあるのは、とろりと少し柔らかな軟膏状になった「メゾン薬」の姿。
 私が混ぜ棒をビーカーから取り出せば、ジェイド先輩の手がそれを机から持ち上げて空にかざす。
 笑みを消して真剣な視線で魔法薬の出来を確認している彼を、私も緊張で心臓をばくばくとさせながら見上げた。もしかすると、この瞬間が一番、緊張の度合いが強いのかもしれない。

「……ええ、よくできていますね。この出来ならば、クルーウェル先生からも十分な評価を貰えるでしょう」
「っやったー! ありがとうございますジェイド先輩!!」
「いえいえ。僕はただ横で口出しをしていただけですから。監督生さんはやはり魔法薬学に適性がありますね」

 僕の目に狂いはありませんでした。そう言って微笑む彼に、また心がどきどきと弾んだ。けれどそのリズムは、先程の緊張によるそれよりも随分軽やかなもので。

「……ジェイド先輩が教えてくださるようになってから、前よりもさらに魔法薬学が楽しくなってきて……本当に、先輩には感謝しかありませんよ」

 この世界の基盤には、どうしたって私の持たない「魔力」や「魔法」というものがあって。しかも私が突然放り込まれたこの場所は、その中でもさらにそれらとの結びつきが強い名門魔法士養成学校。慣れない生活と魔力を要する授業とに押しつぶされる日々の中、この魔法薬学という学問が私の心の支えになっていたと言っても決して過言ではないだろう。
 魔法薬の調合をしている間だけは、自分はこの世界にいてもいい存在なのだと思うことが出来た。
 魔法薬学の成績で上位に入ることが出来た時には、自分はちゃんとこの世界における「価値」を有している存在なのだと思うことが出来た。
 自分の在るべき場所がここではないとしても。それでも、私はずっと、自分の存在に対する証明が、自分自身の存在する意味が、欲しくて欲しくて仕方がなかったのだ。
 眉を下げて笑った私に、ジェイド先輩の瞳がぱちりと小さく瞬いた。あまり弱音を吐いたりはしたくないし、彼にそんな惨めな姿を見せたくもない。だから私は、熱を帯び始めた喉元と目頭を隠すように、努めて明るい表情を作り上げてみせる。
 そんな私の様子をどう解釈したのか、彼の瞳もゆるりと優しく弧を描いた。こちらを見下ろしていた視線がテーブルに置かれたビーカーへと落とされて、長い睫毛が彼の瞳にわずかな影を落とす。

「……貴方が魔法薬学をもっと好きになってくれたなら。そんな思いから、僕は図書館にいた貴方に声をかけました」

 白衣の胸ポケットからマジカルペンを取り出した彼は、それをビーカーにひと振りする。そうすれば、透明にも近い水晶のような魔法石がきらきらと光をこぼして世界を美しく煌めかせた。
 ビーカーの中に満たされていたメゾン薬が、彼の魔法によって小さなガラス瓶の中に詰められていく様をぼんやりと眺めながら、私はぽつりぽつりと落とされる彼の声を追いかけた。

「ですから、貴方がそう言ってくださるというのは、僕にとってもとても喜ばしいことです。……けれど、……そうですね。折角なのでお教えしましょうか」

 実は、僕の最終的な目標は、本当はそれではないんです。

 ひそひそとまるで内緒話でもするかのような声色が、私の心をどうしようもなく惹きつけていく。
 からり、と微かに聞こえたそれは、きっと、多分、彼の左耳にピアスが揺れた音。
 メゾン薬の全てが詰められたガラス瓶が、橙混じりの白をその向こうに揺らめかせている。こうやって体積も無視してコンパクトにまとめることが出来るのだから、やはり魔法というものはなんとも便利なものだ。そんなことを、脳内の片隅にちらりと考えた。
 彼の瞳が、再びその虹彩に私の姿を映し込む。
 優しくて、穏やかで、冷たくて、どうしようもなくおそろしい瞳。けれど、それでもなお、私はその瞳に恋をすることをやめられない。
 恋は盲目、恋は愚か。そんな言葉の意味を、私は自らの身を持って理解してしまった。


「──貴方は、元の世界に帰りたいと考えていらっしゃるのでしょう?」


 疑問系のかたちをしていながらも、その言葉は随分と確信めいた口調で紡がれていて。私は咄嗟に頷くことも首を振ることも出来なかった。
 けれど、やはり彼は私の答えなど求めてはいなかったようだ。瞠目し言葉を失った私の姿にくすりと笑って、彼はそのまま言葉を繋いでいく。海のさざめきを連想させる穏やかなその声は酷く優しいのに、どうしてか泣きたくなるほど悲しくて。いっそおそろしくもあって。
 胸がじわりと焼かれていくような感覚に、私はまた声のかけらを奪われてしまった。

「別にそれを咎めたりはしません。それは至極当たり前の感情で思いなのですから。そして、貴方にとっては元の世界に戻ることこそが一番の幸せであるはずなのですから」

 そして、それが最も正しい正解であるはずなのですから。
 私を見下ろす彼の瞳がきゅう、と細められていく。それは微笑みをかたちどるというよりは、眇める、という表現の方が似合うようなそれであって。蛇に睨まれた蛙の心地とはこんな風なのだろうかと、やけに呑気な思考回路がそんなことをふらふらと考えた。


「……けれど、僕はずっと思っていました。それはあまりにも『つまらないことだ』、と。……ええ、そうです。端的に分かりやすく言えば、僕は、『貴方に元の世界へ帰って欲しくない』と思った。──思って、しまったのです」


 じわりと心臓に熱が広がる。その言葉の意味を上手く理解しきるまでに少しの時間を要してしまったけれど、彼がそんな私を咎めることはない。むしろ、間抜けな顔を晒しているのだろう私の姿にくすりと優しげな笑みをこぼすばかりで。
 私はその言葉を、私にとってあまりにも都合のいいように解釈してしまってもいいのだろうか。
 困惑と期待と微かな不安を織り交ぜながら、私は彼に視線を手向ける。その視線に宿る温度はきっと、煩わしくなるぐらいに熱くて、馬鹿みたいに蕩け切ってしまっているのだろう。そんな自覚があった。
 ああ、本当に愚かなことだ。
 そう自嘲するけれど、この感情にかけるブレーキはとっくに壊れていた。


「だから、僕は貴方に魔法薬学を教えることにしました。貴方が魔法薬学の楽しさに、美しさに魅入られて、心を奪われて、そして魔法薬学のあるこの世界を惜しんでくださればと。……それが、貴方が元の世界を捨ててこの世界を選ぶ理由になってくれたならば、と。そう思って」


 馬鹿げている、と僕を笑いますか?

 眉を下げて微笑んだ彼が、あまりにも静かな声で私に問いかけてくる。その言葉の通り、「馬鹿ですね、先輩」と笑い飛ばすことが出来ればどれほど良かっただろうか。「その程度じゃ私は世界なんて捨てられませんよ」と、きっぱり切り捨てることが出来れば。

 いいや、ちがう。

 私はそうしなければいけなかった。元の世界に帰るという『正解』を選ぶためにも、私は彼の言葉から逃げ出さなければいけなかった。
 だって、そうしなければ。私は、もう。


「──最初は、ただそれだけでした」


 彼の声が、ひたすら真っ直ぐに私へと注がれる。
 私は耳を塞ぐことも、それを遮ることも出来ず、ただただ彼の声をひとかけらも逃してなるものかと耳を傾けるばかり。
 私の生きる場所はここではない。私の居場所はここにはない。私と彼の未来には、いつかの「さようなら」以外にありはしない。

 それが、『正しい結末ハッピーエンド』であるはずなのに。


「けれど、僕は。──気づけば、『他でもない僕自身がその理由になることが出来れば』と、考えるようになっていました」


 そんなことを言われてしまったらもう、私は。
 全てを捨てて、ただただ貴方との『幸せな結末バッドエンド』だけを望んでしまう。


「……ずるいと思います、そういうの」
「そうですか?」
「そうですよ。……だって先輩、もう気づいているじゃないですか。全部。その上でそんなことを言うなんて、ずるすぎますよ、ほんと」
「ふふ、すみません。ウツボは案外臆病な生き物なので、確信がないとどうにも行動に移せないのですよ」
「……嘘ばっかり」
「心外ですね、嘘なんて吐いていませんよ。……ただ、まあ、そうですね。欲しいものは何としても手に入れたい質ですから、少し慎重に時期を見計らったりはしていましたけれど」

 ほらやっぱり。いつからかなんて分からないけれど、私が貴方への恋心に揺れ動いている様を見て、密かにほくそ笑んでいたんじゃないですか。

「……ほんと、相変わらずいい性格していますよね。ジェイド先輩」
「ありがとうございます」
「褒めてないですから。……ああもう、ほんと、なんでこんなひとのことを好きになっちゃったんだろう私……」

 風船がしぼむように様々な感情が身体からこぼれ落ちていき、ついでに力までもが抜けてしまったようだ。へなへなと床にしゃがみ込んだ私は、そのまま手のひらで自らの顔を覆い隠す。そんな私の姿にくすくすと笑う彼の声が、私を追いかけてしゃがみ込んでくることにもまた腹が立った。
 鼻孔をくすぐる薬品の匂いも、今は私の胸に燻る釈然としない思いを掻き立てて仕方がない。苛立ちに形を変えたこの愛おしさへの対処方法を、私はまだ知らないと言うのに。
 ジェイド先輩にこの想いを見抜かれていることぐらい、気付いていた。だって彼は私より何倍も頭が良くて聡いひとなのだから、それぐらいは見抜かれてしまうのだろうと思っていた。
 けれど、彼はそれに気づいてもなお、私に何も言ってはこなかった。ただただそれまでのように優しく丁寧に私へ魔法薬学を教えるだけの、少し怖いけれど優しい先輩で在り続けていた。
 だから、きっと『そういうこと』なのだろうなと私は理解していたのだ。ばっさりと切り捨てて欲しいという思いもあったけれど、怖がって確かな言葉にしようともしなかった私に、そんなことを望む権利など有るわけがない。
 私は人間で、異世界人で、そして彼は人魚で、この世界の住人だ。そんなふたりが結ばれるなんて御伽噺が現実になるなどと、どうして信じることが出来ようか。
 衣擦れの音が微かに聞こえる。きっと彼が身動ぎをしたのだろうけれど、視界を自ら閉ざした私にその真偽は分からない。

「……嫌いになってしまいますか? 僕のこと」

 それが出来ないから困っているんですよ、こっちは。
 苛立ちに任せてそう悪態を飛ばしてしまおうかとも考えたけれど、それも私の横髪を撫でていく指先の感覚に息の根を止められてしまう。
 姿を見なくても、どうしてか理解出来てしまったのだ。私の髪を優しい動作で梳いていく彼が今、私の目の前で、砂糖菓子も逃げ出すほどに甘く蕩け切った表情を浮かべていることを。心臓が張り裂けてしまいそうなほどに、呼吸さえ忘れてしまいそうなほどに、理解してしまったのだ。

 そんなの、ずるい。

 羞恥心と、怒りと、どうしようもないほどの歓喜。私の籠城は、湧き上がってきた好奇心によって呆気なく解かれてしまった。だって、仕方ないじゃないか。見たいと思って然るべきじゃないか。好きな人が自分を見つめるその視線を真正面に見据えてみたいと思うことも、きっと自然な感情であるはずだ。
 顔を覆い隠していた手のひらをそっと下ろす。視線を持ち上げる。しゃがんでいてもなお、やはり彼の視線は私より随分と高い場所にあった。

「……嫌いになれるわけ、ないじゃないですか」

 そんな瞳で私を見つめてくれる貴方のことを、嫌いになんてなれない。そんなの無理に決まっている。だって、ほら。私の心は、また恋の深みに落とされてしまったのだから。
 私の答えに、また彼が満足げに瞳をゆるりと細める。するとその瞳に宿る色彩と温度が一層濃度を増したように見えて、私の心臓はさらに情けなく泣き喚くばかり。このまま心臓が馬鹿になってしまったら一体どうしてくれるというのだろう。
 これまでそんな姿、ひとかけらも見せてはくれなかったくせに。本当に、嫌になるほど隠しごとが上手で、優秀な策略家で、なんとも食えないひとだ。そんなところまでもが愛おしい、ずるくてずるくて恋しいひとだ。

「……魔法薬学について、もっと教えてください」
「ええ、もちろん」
「私が飽きちゃわないように、ちゃんと隣で見守っていてください。ジェイド先輩じゃないと意味がないんですから」
「もちろん。僕の全力を尽くしましょう」

「──ジェイド先輩の想い、聞かせてください」
「はい。貴方のことが好きです。愛しています」

 ほろりと瞳から一粒の雫がこぼれ落ちていく。
 微かに滲んだ世界にある色彩は、私の大好きな彼のものばかり。ターコイズブルー、カナリーイエロー、オリーブ。網膜が焼け焦げてしまいそうなほどに鮮やかな輝きに、また呼吸が奪い去られていった。


「だから、僕を選んではくださいませんか?」


 結末なんてたったひとつだけれど、ただ素直に頷くのはなんだか癪な気がして。ほんのわずかな意趣返しとばかりに、私は敢えて可愛げのない言葉を紡いでみせるのだ。


「……ジェイド先輩の頑張り次第ですね」
「おや、手厳しい。それでは、精一杯頑張らなくてはいけませんね」


 貴方と『さようなら』なんて、したくはありませんから。

 頬を指先が撫でていく。視界の間近に彼の色彩が瞬く。涙が、呼吸が、心臓が食まれていく。そのユニーク魔法を使うまでもなく、私の心はもう既に、全てを彼にかじり取られてしまっていた。


2020/10/30

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