君さえ


酸いも甘いもあなた次第(残り5日)



※女監督生夢主/捏造ご都合主義


 腕の中の鮮やかな橙が地面にこぼれ落ちてしまわないよう細心の注意を払いながら、私は人気のまばらな放課後の廊下を1人歩く。ゆく宛を持たない爪先は、手近に腰を下ろすことが出来そうな中庭の方向へと。
 日当たりのいい中央付近のベンチには先客の姿があったため、その視線を避けるように隅の木陰を目指してさらに歩いた。そうすれば、そこにはひっそりと隠れるように設置されたベンチの姿がひとつ。夕暮れの木漏れ日を受けながら静かに佇むその休憩所の存在を知る人は、聞くところによると案外少ないそうだ。
 こんな穴場を教えてもらうことが出来たのは僥倖だったなと内心に笑みを落とし、私はそのベンチに腰を下ろした。
 そして腕に抱きかかえていた5つの橙色──私の拳大ほどのみかんたちを、ごろりと膝上に転がす。その拍子に地面へと飛び跳ねていきそうになったお転婆なひとつをなんとかキャッチし、はてさてこれを一体どうしようかと考える。
 何故私が今こんなものを持っているかと言えば、つい先ほど、何やら荷運びに人手が足りず困っている様子の食堂のゴーストたちを手助けしたところ、そのお礼だと言ってありがたくも頂いてしまったのだ。
 因みにグリムはトレイン先生による呼び出し、エースとデュースは部活へと向かってしまっているためここにはいない。彼らがいれば適当に分けて食べることが出来たのだけれど、と思いはするが、いない人に頼っても意味などない。
 流石に5つ全部は無理だけれど、少し小腹が空いているので1つか2つをここで頂いて、残りは寮に持ち帰ってグリムと一緒に食べることにしよう。そう決意しひとつ頷きを落とした私は、5つの中から無作為に1つを手に取った。
 実が潰れてしまないように、汁が飛んでしまわないようにと気をつけながら、出来るだけ丁寧に皮を剥いていく。剥きやすいタイプのみかんであったそれは、皮がちまちまと千切れることもなく、きれいなヒトデの形になってくれた。
 白い筋の目立つ部分だけを簡単に取り除いて、まずは実のひとつだけを口へと運ぶ。

「……あ、甘い」

 ぷちんと口の中で薄皮が弾けて、その中に詰まっていた果実がじゅわりと舌先に甘みを与えていった。もしかしたらすっぱいかもしれないと用心していただけに、その甘さはより一段と優しい味わいに思えて。その後は丁寧にひとつずつではなく、数個ずつの塊のまま実を口の中へ放り込んでいった。
 そうしているとあっと言う間に一つ目を食べ終えてしまっていて、欲望に勝てなかった私はもう一つだけと再びみかんを手に取る。取り分の少なくなってしまうグリムには悪いけれど、まあ元々私にと頂いたものだからいいだろう。残った数が貰った数なのだと言えば、彼にその真偽を質す術は無いのだから。
 最初の1つが甘かったから、じゃあ2つ目も甘いはず。
 そんな砂糖菓子ほどに甘い考え方をしていた私は、その2つ目の実を口に含んだ瞬間自らの愚かさを呪うことになる。

「──っ、すっっっぱ……!!」

 人間の知覚とは不思議なものだ。甘いはずだと思い込んで食べたものが実際は酸味の強いものだった時、何故かその酸味がより一層際立ったものに感じられてしまうのだから。
 先ほどとは真逆のその結末に、私は思わず悲鳴にも似た声を上げながら身悶えた。すっぱいものは元来あまり得意ではないのだ。
 口の中の酸味が消えるまでを何とか耐え忍んで、上半身ごと頭を膝元まで落としていた私は、その視線をのろのろと持ち上げた。そうすれば視界に映るのは、食べかけのみかんが1つと、残されたまっさらなみかんが3つ。
 食べ物を粗末にするのは気が引けるが、このすっぱいみかんを自分で食べきる自信はない。はあ、とひとつ何ともし難いため息をこぼし、グリムならばこのすっぱいみかんも食べてくれるだろうかと考える。
 残り3つの甘酸の比率がどうなっているかも分からないし、ここはひとまず寮までみかんを持ち帰ることが正解だろう。このみかんを育てた農家の方と、それをくれた食堂のゴーストたちに微かな申し訳なさを覚えながらも、こればっかりはどうしようもないと私は内心に手を合わせた。
 もうひとつため息をこぼして、私がベンチから立ち上がろうとした、──その瞬間。

「……おや、ため息を吐くと幸せが逃げてしまうのではありませんでしたか?」

 どこからか落とされた声にぱっと顔を周囲へ巡らせる。その声の持ち主が誰であるかも、ほとんど反射的に理解することが出来た。

「あ、ジェイド先輩!」
「こんにちは。今日はおひとりですか?」

 この場所を隠す生垣の向こうから、ゆったりとした足取りでこちらへ歩み寄ってくる彼の姿。随分と輪郭のぼやけ始めた夕暮れに浮かんだ浅瀬の色は、相変わらず私の心臓を弾ませて仕方がない。先程までみかんのすっぱさに悶絶していたことも忘れて、私は自分でも分かるほどに瞳を輝かせた。
 折り目正しく私に一言の了承を取った彼は、私の隣へ優雅に腰を下ろし、その視線を真っ直ぐに私へ注ぎこんでくる。

「グリムがトレイン先生に呼び出されちゃって……ジェイド先輩はこれからモストロ・ラウンジですか?」
「ええ、はい。その道中に何となく、今なら貴方がここにいるような気がして足を運んでみたのですが……勘が当たりましたね」

 嬉しいことです、と恥ずかしげもなくそんなことを言ってのける彼に、思わず私の方が頬を赤く染めてしまいそうになった。
 じわりと首筋が熱を帯び、心臓が軋む。それを皮膚の下へ必死に隠し、少し泳がせた視線は膝上のみかんの群れへ。……ああ、そうだ。そこでふとあることを思いついた私は、照れ隠し混じりに彼へと言葉を飛ばす。

「ジェイド先輩、みかんは好きですか?」
「みかん、ですか? 好きな方だと思いますが」
「そうですか! 実はさっき、食堂のゴーストたちの手伝いをしたらお礼にみかんを貰っちゃって。よかったら先輩もどうぞ」

 普段よりほんの少し早口にそう言って、私は手の中で曖昧に佇んでいたみかんから実をひとつ取る。そしてそれを、ほとんど無意識に彼の方へ。

「はい、あー……」

 同時に持ち上げた視線の先で、彼の瞳がぱちりと大きく瞬いている。呆気にとられた様子の彼に首を傾げた私は、そこでようやく自らが何をしようとしていたのかに気が付いた。
 ん? と、中途半端に疑問を帯びた最後の撥音が勢い余って転がり落ちていく。視界の隅には、ひとかけらのみかんを彼の口元へと向ける自らの指先が。
 自分の行いに自分で驚愕してしまった私は、咄嗟に「すみません、グリムにやるのと同じノリでやっちゃいました」と笑い飛ばして手を下ろすことも出来ないまま固まってしまう。
 そんな私の目の前で、ひと足先に時間を取り戻した彼の瞳がゆるりと細められていく。……あ、これ、だめなやつかもしれない。愉快の二文字が刻みこまれているその視線に、ようやく動作を思い出し始めた思考回路で私は自らの未来を儚んだ。
 ぴくりと指先が震える。あと数秒を許されていれば、その指先も断頭台から間一髪逃げ遂せることが出来ていたのかもしれない。
 逃げろの信号がようやく手首に辿り着いた時にはもう、視線の先で彼の長い睫毛がその肌に淡い影を落としていて。手のひらが革手袋を纏った彼の手に捕まってしまってはもう、逃げ道などないも同然。
 近づいた距離に心臓を高鳴らせる暇もなく、指先から橙のひとかけらが奪い去られていった。
 その刹那指先に微かに触れた柔らかな感覚は、もしかして。

「……すっぱく、ない、ですか?」

 キャパシティをオーバーしてしまった思考回路は、最早正常な思考回路も放棄して好き勝手に暴れ始める。咄嗟に口をついて出た言葉は、何とも情けない声色で紡がれていた。
 体温が上昇しすぎて逆に寒気すら覚えてしまう身体も、思考回路同様バグに陥ってしまっているのだろう。自分が今、一体どんな表情を浮かべるべきなのかも分からぬまま、私はただただ彼へ視線を注ぎ続けた。

「そうですね、確かにすっぱいと思います」
「……その割に、表情変わりませんね」

 悶絶するほどのすっぱさを誇るみかんを食べたとは思えぬほどに涼しげな表情で、彼はにこりとたおやかに微笑んで見せる。その手に捕まえた私の手を自らの方へと引いて、その指先に小さく唇を落としながら。
 あのみかんのすっぱさもすっかり忘れてしまうほどに、その瞳の奥を甘く甘く蕩けさせながら。
 
「貴方が手ずから僕に食べさせてくださったことが、とても嬉しくて。すっぱさも気にならなくなってしまいました」

 なので、もうひとつ、頂けますか?
 二度目となる柔らかな感触に指先を侵されながら、私は今度こそ、ぶわりとその頬を赤く赤く染め上げた。
 これではもう、夕日のせいです、なんて使い古された言い訳も口に出来ない。そんな諦めを心の中に独り言ちて、私はまだ8割ほどが残されたすっぱいみかんに手を伸ばした。


2020/10/31

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