街角に世界は回る(残り4日)
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※女監督生夢主/捏造ご都合主義
日曜日の街中というものは、どうしてこうも混雑してしまうのだろうか。前から後ろから、右から左から次々に人が行き来していく道を必死に前へ前へと進みながら、私は辟易とした思いを心の内に燻らせた。
こういう時、小柄な体躯というのはどうしても不利になってしまう。先を行く彼の周囲より頭ひとつ抜けた長身を必死に追いかけるのだけれど、人にぶつかり人に押されとしている間に、鮮やかなターコイズブルーは遠ざかっていく。人波によって視界も悪いせいで、このままでは本当に彼を見失ってしまいそうだ。
ここで彼の名前を叫んで「待ってください」とでも言えたならまた話は変わったのだろうけれど、私にはあまりそうしたくはない理由があった。
言ってしまえば私は彼からあまりいい印象を持たれてはいないようで、何かにつけて厳しい対応をされ続けているのだ。そんなひとに、自ら「相変わらずのろまですね、貴方は」なんて言われにいくというのは何とも気が引けてしまう、という考え方も特段おかしなことではないだろう。
まあ、幸いなことに彼は随分と目立つ容姿をしていることだし、見失うことはきっとないだろう。
そう考えて、私は声を上げることもせずそのまま人混みをかき分け続けた。──それがどれほど甘い考えであったのかを、私はそのたった数分後に思い知らされることになるのだけれど。
(……これは完っっっ全に迷子)
右を見ても左を見ても、私の視界にあの目の冴えるような浅瀬の色は映らない。知らない人、知らない風景、知らない街角、知らない昼下がりばかりがそこにはあった。
ひとまずは人混みから離れた道の片隅に避難したけれど、はてさて、私はこれから一体どうするべきなのか。
一応彼から今日の目的地についての説明を事前に貰っているので、行くべき場所は分かる。ここから4つ先の交差点を右に曲がってしばらく進んだ場所にある、とある魔法薬品店だ。
モストロ・ラウンジのアルバイトの延長で彼との外回りの用事を頼まれたのはいいのだが、果たして私がいる必要性とは何なのだろう。荷物持ちなら、他の寮生を連れてきた方が確実に効率がいいだろうし、私は特別交渉術や愛想に長けているわけでもない。むしろ彼ひとりで用事にあたった方が合理的なのではないかとさえ思うほどだ。
それに、きっと彼のことだから、私が今はぐれてしまっていることにもまだ気づいてくれていない可能性がある。いや、気づいていてなお、それを気にも留めず先へ行ってしまった可能性も否定できない。それぐらい、私は彼から嫌われている自覚があった。
邪魔になってしまうぐらいならば、このままここで彼を待っていればそれでいいのではないだろうか。どうせ帰る時にも彼はここを通るはずであるし、そのタイミングで顔を出して、「すみません、はぐれてしまって、道も忘れてしまったのでここで待っていました」とへらへら笑ってみせれば、きっと彼も呆れた顔をするだけでそれ以上何も言ってはこないはず。
頭の中に私の考える最善の結末を思い描いて、私はぼんやりと空を仰いだ。青い空に白い雲の浮かぶ、なんでもない空。今日もいい天気だなぁ、なんて呑気な現実逃避を頭の中に浮かべて、どれぐらいで彼の用事は終わるだろうかと考える。
それにしても、私はどうして彼にあんなにも嫌われてしまっているのだろうか。確かに、彼を始めオクタヴィネル寮の面々とは初対面の際に様々な衝突を起こしていたけれど、それでもアズール先輩やフロイド先輩は、彼のようにツンツンとした対応など私には向けて来なかった。となると、やはり彼個人に私が何か気に食わないことをしてしまったと考えるのが自然ではあるのだけれど、残念なことに、私の記憶が正しければそんな何某かを彼にやらかしてしまった覚えもない。
だというのに向けられる嘲笑、冷笑、蔑み、冷たい視線、厳しい言葉の数々。これはもうあれか、『生理的に受け付けない』というやつだろうか。そうなってはもう、状況打開のために私が取れる方法などありはしないためどうしようもない。
まあ、彼ひとりから嫌われたところで私の期間限定の(予定である)ナイトレイブンカレッジでの学園生活がどうなるということはきっとないため、そう深刻に考えてはいないのだけれど。気分が良くないことには良くないし、私もひとりの人間であるため、理不尽な嫌悪の視線には悲しさや苛立ちが募る。
私個人としては彼というひとりに対してそう嫌悪感は抱いていないため、仲良くなれるものなら仲良く、までは言わずとももう少し温厚な関係を築きたかった。が、彼が私を嫌いというのなら無理強いすることも出来はしない。
ここまであれこれ考えてはきたけれど、つまりは結論、現状維持以外に道はないということだ。
空を仰いでいた視線を足元に落として、ついでにため息もひとつ。飛んでいった幸せはきっと、あったかもしれなかった世界で彼と仲良くなることが出来た私の分のそれだろう。
爪先で赤茶けた煉瓦の敷き詰められた地面を蹴る。とん、とん。まるで母親の帰りを待つ子供のような自らの動作に気付いて、小さく自嘲の笑みをこぼした。
──その瞬間、だった。
俯けていた視界に突然影が落とされる。どうやら私の目の前に誰かが立ち止ったらしい。一体誰だろうか、私に何か用でもあるのだろうか。怪訝に思いながらも、ひとまずはその誰かの姿を視認しなければ話が始まらないため、私は視線をゆっくりと上へ持ち上げて、
「……何をなさっているんですか、貴方は」
その姿と、その表情と、その声と、その言葉に、今までにない程大きく目を見開いた。
私を見下ろすときのいつものしかめっ面に、ほんの少し乱れた様子のターコイズブルー。その肩が微かに上下しているのは、呼吸が荒れているためだろうか。問い詰めるように放たれた声には、どうしてか焦燥や安堵の色が滲んでいるようにも聞こえて、私はさらに分からなくなってしまう。
彼が一体どうしてここにいるのかも、彼が一体どうしてそんなにも慌てた様子で私の姿をその瞳に映しているのかも。
「……ぁ、え、っと、……人混みがすごくて、はぐれてしまったので、……ここで待っていました」
「……はぐれそうになる前に、ひと声かけてくださればよかったでしょう。突然姿を消されては僕も困ります」
「すみません……でした……」
蚊の鳴くような声でそう呟いた私に、彼からの大きなため息が落とされる。反射的にびくりと肩が震えるのだけれど、見上げた世界の中に瞬いた彼の両目には、私への落胆も苛立ちも宿されていなくて。
上手く言葉が出てこないばかりか一向に動き出そうとしない私に焦れたのだろう、痺れを切らしたように彼の左手が私へと伸ばされた。
その指先が捕まえたのは、他でもない私の右手。
「行きますよ」
たったひとこと、それだけを紡いで彼は私の手を引き再び雑踏の中へと足を踏み入れる。しっかりと繋がれた手のひらは、解かれる様子など微塵も見せてはいなくて。どくん、と心臓が悲鳴を上げるように跳ね上がった。
彼の後ろ姿を見つめる。大きな背中と高い背丈は、まるで私を人混みから守ってくれているようにも見えてしまう。そんなの都合のいい勘違いにすぎないだろうと冷静な思考回路は叫んでいるのだけれど、繋がれた手の感覚が、彼の首筋にわずかに滲んだ汗が、どうしたってその勘違いを加速させていって。
思考回路の暴走によって思わず手のひらに力が入り、結果的に私は彼の手のひらを握り返すことになってしまった。それに内心で悲鳴を上げるのだけれど、彼がそれを嫌がる様子はない。むしろ彼の方からも繋いだ手のひらに力を加えてくる始末だ。
もうすぐ爆発でもしてしまうのではないかというほどのスピードで血液を全身へと送り出す心臓に、思考回路までもが熱に浮かされていく。きっと口が軽くなってしまったのは、言動が普段の私では考えられない程大胆になってしまったのは、そのせいだ。
雑踏が奏でる喧騒に紛れてしまわないよう、私は必死に声を上げる。紡ぎあげる言葉は、他でもない彼の。
「ジェイド先輩!」
ぴたりと歩みが止まる。それに倣って私も足を止めて、真っ直ぐに視線を上へ。彼の瞳へ。
私を見下ろす彼と視線が交わった。左右で色の違う双眸は相変わらず怜悧で、どこか恐ろしくもある。けれど、今はそこに恐ろしさ以外の温度も確かに存在しているのだ。
「どうされました?」
彼お得意の穏やかな微笑みもない、どこか固い声色。けれど、彼の手のひらはまだ私の手のひらを握りしめたまま。
その事実を頼りに、呼吸を繰り返した私は再び口を開いた。
「探しに来てくださって、ありがとうございます」
ぱちり、と視線の先で彼の瞳が瞬く。きっと私の言葉が彼にとって予想外のものだったのだろう。それは結構、彼の表情が動いたという事実だけで私はもう満足だ。
──けれど、どうしてか世界は、それだけでは終わらなかった。
「……もう、何も言わずにいなくなったりしないでくださいね。流石の僕も心臓が持たなくなってしまいますので」
私に彼の微笑みが向けられたのは、一体いつ以来のことだろうか。いや、それもそうだが彼の言葉の意味とは一体? 一挙に与えられてしまった情報量の多さに、私の思考回路はあえなくショートしてしまう。
再び言葉を失った私を横目に、彼は再び私の手を引いて歩き始めた。手、やっぱり解かないんだな。なんてことをぼんやりと考えながら、私は彼の後を追いかける。
……彼には嫌われているとばかり思っていたのだけれど。どうやら、その認識は書き換えられる必要がありそうだ。
帰り道にもしっかりと繋がれることになった手のひらと、近く理解することになる彼のこと。
世界の歯車は、私の与り知らぬ場所でとっくのとうに回り始めていた。
2020/11/1
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