君さえ


世界最後の日までそばにいて(残り3日)



※not監督生夢主/年齢操作/現パロ(?)/捏造ご都合主義


 誰にだって、腹の虫の居所が悪い時というのはあるだろう。
 普段なら許せてしまうようなことも許せなくて、謝罪の言葉にさえ苛立ちが募って、感情のコントロールが効かなくなって、あまりのままならなさに涙まで滲んでしまって。
 困惑と焦燥と驚愕を孕んだ彼の瞳が瞠目していく様を視界の片隅に掠めながら、私はその場から逃げ出した。このままでは彼にもっと酷いことを言ってしまいそうだったから。それだけは嫌だと、辛うじて理性を残していた私の一部分が叫んでいたから。
 彼からちょっとした揶揄いや意地悪を言われることは、何もその時が初めてではない。むしろ、彼との数年来の付き合いでもう随分と慣れてしまったことではあった。けれどもまあ、……そう、全てはタイミングが悪かっただけの話だ。
 もう3日ほど前のことになるそんな云々を思い出しながら、私は電車の窓の向こうに広がる夜の姿をぼんやりと見つめる。
 正直に言えば、彼から一体何を言われて自分がそんなにも激昂したのかさえ、今の私は覚えていない。なんならその日の夜眠って次の日の朝目覚めた時には、もう既にそのあたりの記憶はすっかり私の頭の中からは消去されてしまっていた。なんと呑気な脳みそだろうかと自分に呆れながらも、ならば彼の前に何の抵抗もなく戻ることが出来るかと聞かれればその答えはノーであって。
 端的に言ってしまえば、気まずかった。それはもう大いに気まずかった。いつもならば「まーた言ってるよ」と適当にあしらうことが出来た彼の言葉に、大袈裟なほど噛みついてしまったのだから。その時に自分が彼へ何を言ったのかもよく覚えてはいないのだけれど、そこそこきつい言葉を放ってしまったような気はする
 大人気なかったなぁ、とか、情けない姿をさらしてしまったなぁ、とか、売り言葉に買い言葉とはいえ酷いことを言ってしまったなぁ、とか。そんな後悔と罪悪感とその他諸々によって、私はあの日以来彼と連絡を取ることさえ出来ずにいる。
 彼の方もきっとその程度で怒ったり気を悪くしたりはしないだろうと分かってはいても、やはり不安なものは不安なのだ。

「……でも、流石にそろそろ仲直りしないとなぁ」

 ため息混じりの呼吸が凍てついた夜の空気に白く輪郭を浮かべる様を眺めながら、私はそんな独り言をひとつ、マフラーの中に転がした。

 最寄り駅から歩いて十分少々という、まあまあな好立地にある自宅アパート。その3階が、今の私の愛すべき我が家だ。
 ポストを覗き込んで中に何も入っていないことを確認し、自動点灯の蛍光灯の光を頼りに階段を上る。今日は一段と冷え込みが激しいから、晩御飯は温かいお鍋にしよう。どこからか漂ってきた美味しそうなシチューの香りに心を揺さぶられつつも、頭の中で自宅の冷蔵庫の中身を漁った私はそう決意した。
 白菜、豚肉、白滝、きのこ、お豆腐。今日は辛い物の気分だから、キムチ鍋にしてみようか。朝食用のウインナーの賞味期限がそろそろ近かったはずだから、それも入れよう。
 階段を上りきった私は、ずらりと扉の並んだ廊下に出る。等間隔に設置された蛍光灯は、今日も真白い光で夜の中に世界の輪郭を与えていた。
 私の部屋は、この階の奥から3つ目の部屋にある。一直線に伸びた廊下は、その端から端までを一度に見渡せるようになっていて。──だから、私はその姿にいち早く気付くことが出来たのだ。

「……ジェイ、ド……?」

 私の部屋の扉の前に座り込んだ、誰かの姿。それに怪しさを覚えるよりも早く、私の意識はそれが一体誰であるのかを理解出来てしまう。
 無意識に小さく紡ぎあげたその声は、廊下の向こうに佇む彼には決して届いていないはず。それなのに、まるでその呼び掛けに答えるかのように彼の瞳がこちらへ向けられるものだから。私はそれ以上の言葉も思考もなく、ただただ真っ直ぐに、彼の下へと歩み寄ることしか出来なかった。
 扉を3つ分歩いて、我が家の扉の数歩手前で爪先を止める。視線はもちろん、その扉の前に膝を抱えて座り込んでいる彼の姿へと注いだまま。
 人工的な蛍光灯の白と、夜の闇に満たされた黒のコントラストの中に、目を焼くほどに鮮やかな浅瀬の色が踊る。いつもは私を見下ろしてくる色違いの双眸が、今は私の足元でこちらをじっと見上げていた。

「……合鍵渡してるんだから、家の中で待ってればよかったのに」

 今日、こんなに寒いんだから。
 しゃがみ込んで彼と視線を合わせることはせず、私はただただ言葉を雨粒のようにこぼしていく。
 重力に従って降り注いでいく音たちの目的地である彼は、私の言葉にわずかにその目元を細めた。
 怜悧な印象が強いはずのその眦は、揺れる瞳や下げられた眉の姿とも相まって、まるで迷子になって困り果てた子供かのよう。

「……1秒でも早く貴女に会いたくて、仕方がなかったんです」

 彼らしくもない、どこか弱々しい声と表情。それに酷く心が震えてしまった私は、結局膝を折り曲げて、彼の頬にそっと手を伸ばしてしまうのだ。
 指先に触れた彼の滑らかな頬は、やはり冬の夜の寒さに冷え切ってしまっていて。いくら寒さに強いと言えど、このままでは体調にまで影響が及んでしまうだろう。するり、とまるで猫のように私の手のひらにすり寄ってくる彼の姿に愛おしさを覚えながら、馬鹿だなぁと心の内に独り言ちた。
 同時にこぼれ落ちた笑みをそのままに、私は唇を震わせる。

「晩御飯、今日は寒いからお鍋にしよう」
「……はい」
「きのこのたっぷり入ったキムチ鍋がいいな」
「それは素晴らしいですね」

 途端に瞳を輝かせた彼の姿にまた笑って、私は鞄の中から家の鍵を取り出した。美味しいお鍋よりも先に、この凍え切った彼をお風呂に入れてやらなければ。

「……先日はすみませんでした」

 扉に手をかけた私にこぼされたのは、他でもない彼が発した言の葉の響き。立ち上がった彼の方へ視線を向ければ、そこにはまた不安げな表情が揺れていて。どうやら、このたった二日や三日が彼にはかなり効いてしまったらしい。
 もっと早く連絡をしてやればよかったなと罪悪感を抱くと同時、そんなにも不安がってくれた彼の存在にどうしようもないほどの愛おしさまで込み上げてくる。ああ、やっぱり好きだなぁと何度目かになる実感を噛みしめて、私も彼に言葉を返した。

「ううん、私こそごめんね。この間はちょっと虫の居所が悪くて……意固地になっちゃった」
「いえ、もとはと言えば僕が貴女に意地悪を言ってしまったことが原因ですし。……貴女に嫌われてしまったのかと思って、今日までずっと、生きた心地がしませんでしたよ」
「ふふ、なにそれ。たった2日3日なのにそんなに寂しがってくれたの?」
「僕も驚きましたよ。まさか、自分の中で貴女という存在がこんなにも大きくなっていたなんて」

 私を見下ろす彼の双眸が、ゆるりと柔らかに弧を描いた。今日は新月であるはずなのに、その姿を見つめていると、まるで大きな三日月を見上げているような錯覚に陥ってしまう。


「──どうやら、僕はもう、貴女なしでは生きられない身体になってしまったようです」


 責任、ちゃんと取ってくださいね。
 そう言ってにこりと笑った彼に、私は無言のまま瞬きを繰り返すばかり。ゆっくりと、ゆっくりと彼の言葉を噛み砕いて飲み込んでいく。


「……それは、プロポーズ、的な?」
「おや、バレてしまいましたか」


 隠す気などさらさらなかっただろうに、よくいけしゃあしゃあと言ってのけられるものだ。相変わらず彼は彼だなとわずかな安堵さえ覚えながら、私はこちらへと伸ばされた彼の腕に自らの身体を預けた。
 冷たい彼の温度が私を包み込む。けれど、そのひやりとした感覚もやがてはふたり分の温度にかき消されて、残されたのは涙が溢れそうになるほどに優しいあたたかさだけ。

「……指輪も花束も美しい夜景もありませんが、……受けて頂けます、でしょうか?」

 そんなのなくたって、貴方の言葉と貴方の存在がこの腕の中に在ってくれるなら、私はそれだけでもう十分。その気持ちを込めて、彼の背中に回した腕に力を加える。そうすれば彼の鼓動と温度と呼吸がまたさらに近づいて、そんな幸せの輪郭が、どうしようもなく私の心を震わせた。

 好きだよ、ジェイド。

 彼の心臓に囁きかけるようにそう紡げば、また一層強く身体を抱きしめられる。呼吸も出来なくなるほどのこの愛を、きっと私は、この世界が終わるその日まで、手放すことなどできはしないのだろう。


2020/11/2

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