君さえ


どうかあなたもこの呪いに苦しんで(残り2日)



※現パロ年齢操作/捏造ご都合主義



「──……い、…………起きてください」

 随分と間近に囁かれた声の響きに、私の意識は暗い闇の底から急速に引き上げられた。
 その勢いのまま持ち上げた瞼をぱちぱちと忙しなく瞬かせながら、反射的な動作で視線を声の聞こえた私の左隣へと向ける。眠りから目覚めたばかりの視界はどこか曖昧で覚束無いけれど、その輪郭を捉え損ねはしない。
 がた、がた、と世界が規則的なようで時折不規則なリズムに揺れている。いや、世界が本当に揺れている訳ではない。ただ私たちの乗車している電車がその動きに合わせて揺れているだけだ。どうやら電車に乗っている最中に、いつの間にか随分と寝入ってしまっていたらしい。
 丸く見開いた私の瞳を埋めるのは、蛍光灯の真白い光の下に輝く鮮やかなターコイズブルー。電車が揺れる度に、彼が身じろぐ度にはらはらと踊るその毛先が、車窓の向こうに広がった夜の闇にあんまりにも映えていて。心臓が軋むような悲鳴をあげてようやく、私は自らの置かれた状況を理解した。
 5車両電車の2車両目。そこに残された人影は、私と彼の2つ分だけ。
 困惑に視線をうろつかせた私の様子に、彼の眉が困ったように下げられる。けれどもやはり、その表情が本当に困りきったそれには見えなくて。そんな姿に心の中で芽生えた安堵と不安の両極端のせいで、私は咄嗟に言葉を放つことも出来なくなった。
 彼の唇が何か言葉を紡ごうと開かれる。けれど、それを遮るかのように、どこか無機質な車内アナウンスが流れ始めた。
 ──次は終点、
 その先に続けられた駅名は、私の知らない響きをしていた。けれど、終点という言葉の意味だけは確かに分かってしまったものだから、私は胸の内に燻る困惑の色を深くしていく他なかったのだ。
 アナウンスに思わず虚空へと向けていた視線を、恐る恐る再び彼の下へと戻す。ゆるりと細められた彼の瞳が、ふたつの色彩で私を静かに見つめていた。

「すみません、どうやら寝過ごしてしまったようです」

 私だけならまだしも彼まで電車で寝落ちてしまうだなんて、随分と珍しいこともあるものだ。その言葉の信憑性は正直に言ってかなり低いけれど、車内アナウンスの伝える「終点」の2文字が取り消されることはない。さらに言えば、脳内に残る私の記憶が確かなら、私たちが乗車していたこの電車は今日の最終便だったはず。
 スピードを落とし始めた電車の窓の向こうには、疎らな街灯により生み出されたわずかな明かりと、月光に揺蕩う水平線の姿しか見えはしない。ああ、どうやら随分と遠いところまで来てしまったようだ。夜の闇も相まって、いつの間にか世界が私の知らないものに様変わりしてしまったかのようにも思えた。

「……ひとまず、降りましょうか」

 電車が止まる。扉が開く。終点に辿り着いた電車はもう動かない。終電を終えた世界に残された私たちは、この夜をどう持て余せばいいのだろうか。
 空回り続ける思考回路に、ひと足早く座席から立ち上がった彼の声が隣から落とされた。視線を彼の方へと持ち上げるよりも早く、彼の手のひらが私の目の前に差し伸べられる。
 その向こうでにこりとたおやかに微笑む彼は、一体何を考えているのだろうか。
 答えなど一欠けらだって分かりはしないけれど、経験則的にその表情はイエローカードも通り越したレッドカードものなのだけれど、今の私に残された選択肢はたったひとつしかありはしない。
 彼の手を取り、私も座席から立ち上がった。そうすれば彼の笑みがまた一層深くなるものだから、惚れた弱みを握られている私は、呆気なく絆されきってしまうのだ。
 ふたり手を繋いで、明るい車内からどこか薄暗いホームへと降り立った。夏の終わりの夜は、うだるような暑さの向こうにそこはかとない冷たさを滲ませている。

「……誰もいないね」
「もう日付も変わってしまいましたからね」

 行き交う駅員さんたちの姿だけを時折横目にしながら、「折角なので駅の外に出てみませんか」なんていうジェイドの提案のままに改札を抜けた。
 先程車窓で見た通り、どうやらここは海辺の街であるようだ。改札を抜けた途端に鼻先をついた潮の香りが、心の裏側をくすぐるような優しさを孕んでいて。そのときめきのままに瞳を輝かせた私に気付いたのだろう、隣から小さく彼の笑い声がこぼされた。
 疲れ切っていた身体は電車の中での仮眠で随分と回復しているし、終電での寝過ごしに鬱屈としていた心も、目の前で待つ「知らない街での夜の探検」というものに完全に惹き付けられてしまっている。我ながらなんて単純な人間だろうか。これは彼に笑われてしまうのも仕方がない。……と分かりながらも、やはり苛立つものは苛立つので、彼と繋いだ手のひらにぎゅうと出来る限りの力を込めてやった。もちろん彼の笑いはさらに酷くなった。許さない。
 駅の傍にはそれなりに並んでいた民家も、微かな潮騒を頼りに海辺へと向かっていくうちに疎らになっていく。それに合わせて減っていく街灯に心許なさが募るけれど、隣に彼がいてくれたから、手を握り続けていてくれたから、恐怖心は決して芽生えなかった。
 ふたり分の足音をふたりきりの夜に響かせながら、私たちは知らない街を歩き続けた。
 駅からその海辺までは、徒歩でおよそ10分。砂浜に足跡を残しながら波打ち際へ近づけば、空にぽっかりと浮かんでいる丸い月が視界に随分と大きく映り込んだ。
 波間に揺れる月光の帯がきらきらと輝く様を数秒見つめて、視線をおもむろに右隣に立つ彼の下へと。
 刹那私の視界に揺れた2色に、思わず呼吸が浅く止まった。どうやら、私が彼を見るよりもさらに前から、彼は私のことを見つめていたらしい。
 交わった視線の先でゆるりと細められた彼の瞳に、かあ、と身体が急速に火照っていく。夜の闇の中とはいえ、今日はこんなにも月が明るいから、きっと赤く染まったこの頬を彼から隠し通すことなど叶いはしないのだろう。
 照れ隠しとばかりに目付きを鋭くはしてみるけれど、それに誤魔化されてくれる彼ではないことなど、こちらもよくよく知っている。形のよい彼の唇から私へのからかいや意地悪が飛ばされてくる前に、私は先んじて声を発した。

「──寝過ごしたなんて嘘、何で吐いたの?」

 彼の瞳に動揺は映らない。私が気づいていることにも、彼は最初から気付いているから。そして、その上でここまでの茶番を繰り広げてきたから。
 にこり。微笑みひとつ。怜悧な印象の強い切れ長の彼の瞳が、私の姿をそこに映して酷く甘ったるい表情で笑う姿に、私は永遠に解けることのない呪いをかけられている。
 言ってしまえば恋だの愛だのと呼ばれるその呪いはあまりにも厄介で、恋が人を狂わせるだとか、愛が人を殺すだとか、そんな物騒な言い回しの意味までもを身を持って教えられてしまったほどだ。
 ぎゅう、と手のひらを握り直される。私よりも平熱の低い彼の温度は、やはり夏の夜の中にはどこかひんやりとしている。けれど、私を見下ろす双眸の向こうに宿された温度は、それに反して触れれば火傷を負ってしまいそうなほどに熱くて、あつくて。
 きっと私は、この瞳とこの温度にいつかは殺されてしまうのだろうなと、そんな物騒なことを心の内に理解した。

「……貴女と、もう少しだけ一緒に居たくて」

 随分と呆気なく紡ぎあげられた彼の本心からの言葉に、予想外を突かれてしまった私は、咄嗟にその意味を理解することも出来なかった。彼は大抵、いつも最初からその本心を打ち明けることなどしてはくれないから。今日も、この瞬間も、きっとそうなのだろうなと勝手に思っていたから。
 ざざ、と淑やかな波のささやきが、私と彼との間に落ちた沈黙の中を駆けていく。私は彼を見つめていた。彼も、私を真っ直ぐに見つめていた。酷く静かで、あまりにも儚い微笑みをそこに携えながら。ただ、ただ、私だけを。
 私が呼吸を取り戻したのは、それから10秒後のこと。
 ぱちり、とひとつ瞬きを落とす。明滅した世界に、月明かりがなぞる彼の輪郭が酷く輝いて見えた。

「……そんな健気なこと、言えたんだ」
「おや、心外ですね。僕はこんなにも健気に一途に貴女のことを愛しているというのに。悲しいです」

 しくしく、なんて言葉を吐くぐらいなら、泣き真似ぐらいしてみせてほしいものだ。目元に手をやるどころか満面の笑みを浮かべたままいけしゃあしゃあとそうのたまった彼に、私は遠慮もなく顔を盛大に顰めてやった。
 不細工ですね、と笑った彼にうるさいと可愛げもなく返して、私は視線を水平線へと向けた。
 始発までの時間はまだ数時間単位で残され、周囲にあるのは海と自然と疎らな民家に街灯ばかり。駅に行けば屋根や座る場所はあるだろうけれど、そこで何時間も電車を待つというのは苦行にも等しい。ちゃんと自宅の最寄り駅で降車していれば、きっと今頃、私は柔らかな布団の中にいたはず。こんな夜の中に彼とふたり、置き去りにされてしまうことはなかったはず。
 ……それを分かっていてもなお、そちらの方が良かったと現状を嘆くことが出来ないのはきっと、結局私も彼と同じ気持ちを抱いているという事実の証明。

 まあ、たまにはこういうのも悪くないか。

 そんな言葉で自らを宥めすかして、私は再び彼と視線を交えた。空にはもう既に立派な丸い月が浮かんでいると言うのに、ゆるりと弧を描いた彼の左眼が、ふたつ目のお月様のようにきらきらと輝いていて。

「月が、きれいだね」

 口をついてこぼれたそのひと言は、海のさざめきにかき消されることもなく彼の下へと届いてしまったようだ。
 笑う三日月がとろりと蕩け、煮詰められた蜂蜜に様変わりしていく様を視界の間近に見つめながら、私は自らへ向けられたその牙に、呼吸の全てを明け渡す。凶悪なその牙と感情が一身に私を求め、その全てを喰らい尽くそうとする姿が、私はこの世界でいっとう好きだった。

 恋に狂った私はいつか、彼から与えられる愛に殺されるのだろう。
 実は、そんな未来を私は密かに心待ちにしているのだ。

「ジェイド、好きだよ」

 まあ、そんなことは口が裂けても言えはしないのだけれど。
 彼に食まれる酸素にその想いのひとかけらを忍ばせて、月明かりと水平線だけが見守る夜の中、私は数百回目の恋をした。
 それは、まるで呪いのような恋だった。


2020/11/3

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