君さえ


あめあめ、ふれふれ(残り40日)


40
現パロ/年齢操作/女夢主/捏造ご都合主義


 しとしとと雨の降り続ける空を見上げて、ふとジェイドはとあることを思い出す。それは今から数時間前、今日の朝方のことだった。
 確かその時はまだ麗らかに晴れ渡っていた青空に、今日はいつもよりも出社時間が早いからと慌ただしい様子で家を出ていった彼女。今日が休日である代わりに昨日が夜遅くまでの勤務だったジェイドは、短い睡眠時間による倦怠感と眠気を引き摺りながらも何とかその出勤を見送ることは出来た。
 けれどまあ、やはりそんな状態でいつも通りの彼ご自慢のサポート力を発揮することなど叶わず。
 わざわざ起きて来なくていいのに、と苦くも酷く嬉しげな表情で笑ってくれた彼女に「いってらっしゃいませ」を紡いで、そのまま再びベッドに倒れ込んで、目を覚ましたのがもうすぐ昼になろうかという頃のこと。どうやら自分でも気づかない間になかなかの疲れを溜め込んでしまっていたようだ。アズールのことを言えませんね、と胸中にひとりごちて、ジェイドは久々の休日を目一杯貪ることに決める。そこに彼女がいないことだけが唯一にして最大の不満だけれど、仕事ばっかりはどうしようもない。
 次の休日こそは無理矢理にでも彼女と重ねようと決意して、まずは簡単に家の中の掃除でもしようとジェイドは立ち上がり、──その十数分後、玄関先に取り残された彼女の携帯雨傘の姿に気付くのだ。

 つい一昨日使用されたそれを、どうやら彼女は今朝忘れて出社してしまったらしい。おやおや、とジェイドは少しの困り顔をするけれど、天気予報が伝えていた今日の降水確率は10パーセント程度。よっぽどのことがなければ雨も降らないだろうし、きっと大丈夫だろう、……と、思っていたのだけれど。

「なんともタイミングが悪いですね……」

 たったの10パーセントが実を結んでしまった雨空に苦笑をこぼして、はてさてどうしたものかとジェイドは顎に手をやり考える。
 雨はざあざあ降り、と言う程でもないぐらいの可愛らしいもの。けれども外を数分も歩けばそれなりに濡れてしまうだろうということは分かる。しかし、変なところで倹約家なところのある彼女はきっと、「これぐらいならわざわざ傘を買う必要もないかなと思って」なんて言って、濡れながら帰ってきてしまうのだろう。
 容易く想像できたそんな未来に、それを見過ごすのは流石に頂けないなとジェイドは軽く首を振る。

 となれば、残された選択肢はひとつ。

 仰ぐように壁に掛けられた時計を見やる。その短針と長針とが指し示す時刻は17時を少し回ったところ。予想が正しけば、もうすぐ彼女も退社して電車に乗ろうかという頃だろう。
 会社から駅までは流石にサポートしきれなくとも、駅から家までの道のりには何とか間に合うはず。そう考えて、ジェイドは手早く外出の準備を済ませた。とは言っても、財布とスマートフォンと家の鍵を持つ程度だけれど。
 そして玄関先で傘を手に取ろうとして──ふと、その指先がぴたりと止まった。
 視線の先には、ジェイド用の黒く大きな傘と、彼女用の小柄な薄青色の傘。きっと正解は、その両方を持って家を出ること。それぐらいは理解出来た。けれど、
 もしも、ジェイドが大きな黒い傘だけを持って彼女を迎えに行けば。焦って貴女の傘を持って来るのを忘れてしまいました、なんて言葉が嘘八百のものだと彼女には確実に見抜かれてしまうだろうけれど、それでも、帰り道は彼女とひとつの傘で歩くことが出来る。
 言ってしまえば『相合傘』を合法的に許されるだろう未来を頭の中に考えて、ジェイドは数秒の沈黙を世界に落とした。
 天秤にかけるのは、何とも甘美なその未来と、ジェイドと相合傘をすることで必要以上に雨に濡れてしまうことになるだろう彼女の姿。背の高いジェイドと小柄な彼女とでは、その間に横たわる大きな身長差のせいで、いくら傘が大きいとはいえども、傘を共有するとなるといくらかは彼女に雨粒が吹き込んでしまうに違いないだろう。
 彼女を雨に濡らしてしまわないために彼女を迎えに行くというのに、それでは本末が転倒してしまうのではないか。彼女のことを思うならば、ちゃんと彼女の傘も持って行った方が善いに決まっている。ああ、けれど、相合傘をするという選択肢も捨てがたい。

 考えて、考えて、考えて、数十秒。

 ジェイドが選んだ選択肢は、彼女との相合傘は諦めて、ちゃんとふたつの傘を手に彼女を迎えに行くことだった。
 少しの残念さはあるけれど、雨の中を彼女と並んで歩くことが出来るだけで充分だと自らに言い聞かせる。
 一面を灰色の雲に覆い隠された空を見上げて、ジェイドは雨の降る町の中に足を踏み出した。
 傘を持って彼女を迎えにやって来たジェイドの姿を見て、彼女は一体どんな反応してくれるだろうかと考えながら。

 帰宅ラッシュの始まった人足の多い駅に辿りついたジェイドは、彼女の姿を見つけやすいようにと改札前に立ってその帰りを待つ。電車が到着する度に津波のように人が改札から溢れ出てくる様子をぼんやりと眺めながら、人の熱気と雨の湿度による不快感を首筋に燻らせながら、待ち続ける。
 彼女の姿が改札の向こうから現れたのは、ジェイドが駅に到着してからおよそ10分後のことだった。
 人波に飲み込まれてしまいそうなほどに小さなその姿を、けれどもジェイドは決して見逃さない。ぱ、と自覚の及ぶほどにその表情を輝かせて、ジェイドは壁際から抜け出し彼女の下へと歩み寄る。
 どうやら、彼女はひとりでは無かったらしい。隣に立っているスーツ姿の女性は、確か以前写真の中に見た、彼女の友人兼同僚だっただろうか。
 その友人と楽しげに何か言葉を交わしながら改札を抜けた彼女は、ふと視線をこちらへ向けて、そしてその丸い瞳をさらに丸く見開かせた。いるなんて思ってもみなかったジェイドの姿に驚いたのだろう。その様子に悪戯の成功した子どものような表情を浮かべて、ジェイドはにこりと微笑みを浮かべた。
 ほんの少しだけ湿ったその髪と肩先に、やはり会社から駅までの道のりで濡れてしまったようだと微かに眉を下げる。

「ジェイド!?」
「お仕事お疲れ様です。今日、携帯雨傘を忘れてしまっていたでしょう? 貴女が雨に濡れてはいけないと思って、お迎えに上がりました」

 手に持っていた彼女の傘を掲げ見せて、未だに驚きの抜けないらしい彼女にその旨を伝える。ついでに彼女の隣の友人にも丁寧に会釈を向ければ、向こうからも慌て半分の会釈が返された。
 ぱちぱちと数度瞬きをこぼした彼女は、ジェイドの手の中にあるふたつの傘の姿を見て、そして次の瞬間いいことを思いついたと言わんばかりの表情で瞳を輝かせた。

「丁度良かった! 私たちは一緒の傘で帰るから、今日はこの傘使って帰りなよ。また今度返してくれたらいいからさ」
「え、いいの?」
「うん! 風邪ひいちゃいけないし、迷惑じゃなければ使って使って」

 ジェイドの手から彼女用の傘を攫っていった彼女は、明るい表情で友人に向けてそう提案する。どうやら友人の方も傘を忘れてしまっていたらしい。
 半ばふたりに取り残された状況のジェイドは、ジェイドたちへ感謝を告げながら、彼女の傘を手に去って行く友人の背中をただただ静かに見送るばかり。残されたのは、満足げな彼女と、ジェイドと、ジェイドの黒く大きなひとつの傘だけ。
 友人の背中に振っていた手のひらをぴたりと止めた彼女が、ゆっくりとジェイドに視線を向ける。ほんの少しの申し訳なさと気恥ずかしさを孕んで、まるでジェイドの様子を伺うように。

「……と、いうわけなので……あの、……相合傘して、帰りませんか?」

 その表情と視線と声色に、じわりとジェイドの心臓のあたりに疼くような熱が生まれた。こみ上げてくる感情に軽く奥歯を噛みしめ、ジェイドは「もちろんですよ」と冷静を装ってたおやかに微笑んでみせる。
 そうすれば、彼女が安堵したように、酷く嬉しそうに微笑むものだから。さらには「……あの子には悪いけど、実はジェイドと相合傘したいなぁとかいう下心がありました」なんて追い打ちのように爆弾発言を落としてくるものだから。格好つけたジェイドの平静の仮面も、あっという間にはがされてしまう。

 僕も、家を出る前に貴女と相合傘をしたくて馬鹿みたいに頭を抱えていたんですよ。

 なんて言葉を素直に紡げば、彼女は一体どんな表情を浮かべてくれるのだろう。
 それは帰り道の楽しみにしようと、ジェイドは大きな傘ひとつを手に、彼女と2人雨空の下に並び歩いた。
 恋人同士になって数年が経つ今となっては特別騒ぎ立てるような距離ではないというのに、それでも、傘の中に時折触れ合う2人の肩にどうしようもなく心臓が跳ね踊って仕方がない。
 彼女が濡れてしまわないようにと精一杯傘をそちらへ傾けて、早く帰らなければと思うと同時、出来るだけ長くこの時間が続いてくれと願う愚かな自分の存在にも気が付いて。本当にどうしようもないな、とジェイドは彼女に隠れて苦笑をこぼした。もう既にひとつ願いが叶っているのだから、それ以上なんて願っては罰が当たってしまう。
 傍らに笑う小さな最愛の姿を視界に映して、ジェイドはその瞳をゆるりと柔らかく綻ばせた。この存在が隣にあるというただそれだけで、もうそれ以上に望むものなんてありはしないというのに。

(強欲はいけないと、分かってはいるのですけれど)

 どれもこれも貴女がこんなにも愛おしいからいけないのですよ、なんて、責任転嫁にも程がある言葉を心の中で燻らせ、ジェイドはまたひとつ、彼女の方へと傾ける傘の角度を急にした。


2020/9/26

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