君さえ


だって、貴方のことが好きなので。(残り30日)


30
※女監督生夢主/捏造過多

 ……あ、怒ってる。
 その双眸と視線が交わった瞬間、私はほとんど反射的にその事実を理解した。カーン、と頭の中に鳴り響いた開戦のゴングの幻聴に身体を身構え、じり、と微かに後ずさる。心持ちとしては山の中で熊に遭遇してしまった人のそれだ。多分たとえとしてはひとかけらも間違えていないと思う。
 ぞわりと身体から体温が抜け落ち、背筋を冷たい汗が伝い落ちていった。命の危機に晒された人間が何をするかだなんて、答えはたったひとつ以外にあり得ないだろう。
 そして、そんな私の思考を聡い彼は容易く見抜いてしまったに違いない。「逃げるな」という圧力を滲ませた双眸にまた身体が竦むけれど、まさかそれに従っていられる訳もなく。
 この冷戦状態を打ち壊すがごとく、1歩、彼がこちらへと足を踏み出した。そうなれば次に巻き起こされるのは仁義なき戦いのみ。
 三十六計逃げるに如かず。先人のありがたい教えに従い、私は踵を返して全力で駆け出した。もちろん、彼のいる方とは全くの逆方向に向けて。
 その場に残したグリムたちの呆れたような声と、周囲から向けられる「あいつらまたやってるよ」とでも言いたげな視線も無視して、私は廊下をひた走った。
 先生ごめんなさい、私はやっぱり自分自身の命が惜しいです。
 まあ、いくら私が必死に走ったところで、身長によるコンパスの違いと元々の運動神経諸々を考えれば、私が彼から無事に逃げおおせるなど何をどう考えても無理でしかないのだけれど。
 階段を2段飛ばしして駆け下り、1階へと逃げ込んだ私はそのままの足で中庭へと向かった。走り続けながらちらりと背後を振り返った先に彼の姿が無いことにわずかな安堵を浮かべたのもつかの間、私の進行方向1メートル先に大きな影が落ちて、私の足が驚きに急ブレーキを踏む。
 石畳の敷き詰められた地面に私のローファーが滑稽なステップを踏んだ直後、空から降り注いできたその影が私の目の前に踊った。風が荒れて、降り注ぐ陽光が乱反射する。勢いと重量のわりにその着地音は酷く軽いもので、魔法でも使ったのだろうかと思うものの、彼の胸元に佇むマジカルペンに嵌め込まれた魔法石は酷く静かな表情を浮かべている。なるほど、どうやら彼は100パーセント生身かつ自力で、2階の窓からここへ降り立って来たらしい。
 これは勝てるわけがないと諦めを孕んだ私は、ゆらりと陽炎のように立ちあがる彼の姿を、逃げる素振りも見せずにただ見つめるばかり。ここでまた逃げ出せば、この後の展開がさらに酷いものになるというのは経験則から理解済みだ。それなら最初から逃げ出すなよという言葉は正論も正論なのだが、そこはそれ。
 からりと彼の左耳に片方だけのピアスが揺れる。落下と着地の衝撃で荒れてしまった髪の毛を手のひらで乱雑に整えた彼は、鋭い光を孕んだ双眸で私を真っ直ぐに見据え、そして恐ろしいぐらいに美しい表情でにこりと微笑んだ。うん、怒っている。滅茶苦茶怒っている。その事実を改めて深く理解し、私は死にゆく自らへそっと花を手向けた。
 記念すべき30戦30敗目を迎えた私に、1メートル先に立つ彼は酷く静かな声色で言葉を放つ。ついでに伸ばされたその手のひらは、きっと私がこれ以上逃げ出さないようにという戒めの形を取るのだろう。

「……それで、その姿は一体どういった了見で?」

 予想通り私の手首をしっかりと掴み取った彼の手のひらは、私を握りつぶすことなく、それでも確かな圧迫感を与えてくる。いやはやなんと適度な力加減だろうか。最初の頃はよく私の手首を捻り潰す勢いで握りしめ、私が痛い痛いと叫ぶ姿にバツの悪そうな表情を浮かべていたと言うのに。
 現実逃避がてらそんなことを考えて、私はそっと彼から視線を外す。すると、どうやら彼はそれもお気に召さなかったようで。
 ぐい、と手首が突然引っ張られ、その力に抗えなかった身体が彼の胸の中に迎え入れられる。
 ぶ、と情けない声を上げて彼の胸板に顔を突撃された私は、恐る恐ると視線を上へ持ち上げた。背の高い彼をこんなにも至近距離で見上げると首が痛くなるのだけれど、そんな文句をまさか今この状況で吐けるわけもない。それに、もうこの首の角度にも慣れてしまった私が今更その程度で痛みを覚えることなどないと、彼もよく知っていることであろうし。

「……暑くなってきたから、夏服を用意してもらったんです」

 彼の言う「その姿」とは、今日から新しく身に纏い始めたこの夏服姿のことだろう。校舎内にはある程度空調が効いているとはいえ、流石に今まで通りの長袖とスラックスでは暑いだろうと気を回してくれた学園長が、新しく私専用の夏服を用意してくれたのだ。『女子用の制服』のかたちで。
 ブレザーとベストとしばしの別れを告げて、半袖のシャツに白黒のネクタイを締める。そしてその下には、私にとって数カ月ぶりのご対面となったプリーツスカートの姿。ブレザーに合わせて黒地に金のラインが入ったデザインのそれはとても洒落ていて、私としてもかなり気に入っている。
 その丈を膝上にして、靴下はハイソックス。つまりそれは、言ってしまえば、何ともありがちな夏の女子生徒の姿でしかない。というのに、どうして彼はそれに対してこんなにも怒りを露わにしているのか。その理由なんて分からないと言えば嘘になってしまうのだけれど、まあ、折角なので彼の口からそれを聞き出したいという私も確かに存在していて。
 別に私は悪くないです、何もおかしなことはしていませんと言いたげな表情を携えて、私は彼に視線を向ける。すると、彼は何とも釈然としない表情で唇を引き結んだ。顰められた眉に、普段の穏やかでたおやかで余裕たっぷりな彼の様子はひとかけらも残されていない。彼のそんな表情を引き出したのは他でもない自分であるという事実に、心臓がとくりと疼くように跳ね上がった。

「最近急に暑くなりましたし、今までの制服は暑くて。熱中症になってもだめじゃないですか。ね?」
「……それは、分かりますけれど」

 事実、学園も既に衣替えを済ませて、皆が皆、この暑さに耐えるための夏用の制服を身に纏い始めている。ついでに言えば私の目の前の彼も、ブレザーとベストを脱いで半袖のシャツにスラックスという夏の姿だ。
 覗く彼の腕の白さに女としての矜持を突かれながら、それなら私だって夏服になってもいいはずでしょうと胸を張る。
 彼自身も暑さの恐ろしさは重々理解しているため、私の言葉に上手く切り返すことが出来ないようで。口の達者な彼にしては珍しく言い淀む様子に、貴方の一番に言いたいことは何ですかと、言葉にせず私は視線だけで問いかけた。
 それを見てぐ、とたじろいだ彼へ、これはあとひと押しだと確信した私は唇を震わせる。

「やっぱり似合わないですか? 半袖とスカート」

 眉を下げて、出来るだけ悲しげな声色を意識して、残念だなぁとでも言いたげに私はそんな言葉を紡いでみせる。もちろんそれが演技だということぐらい彼は簡単に見抜いてしまうのだけれど、見抜いたとしても彼はちゃんとこれに乗ってくれるのだということを私は経験則から理解しているのだ。
 だからほら、今日もその例に漏れず。

「そんなことはありません。とてもお似合いですよ。……似合いすぎて、僕が参ってしまうぐらいには」

 じり、と焼けていく心臓は照り付ける太陽のせいか、それとも私を射抜くように見下ろす彼の双眸のせいか。
 困り果てた彼のその表情に、思わず私まで居心地の悪さを覚えて身じろいでしまう。ああもう本当に、一体何だって貴方はそんな表情で私を見てくるのか。その答えも痛いほど彼から教え込まれている私は、ただただ夏の中に体温を上げていくことしか出来ない。

「……もう少し露出は抑えられませんか。あと、スカートが短すぎはしませんか」
「これでも少ない方だと思いますけど。スカートの下にちゃんと短パンは履いてますし」
「スカートを膝丈にして、長袖のシャツの袖を肘まで折るというのは?」
「それ普通に暑いと思います」
「……明日までに魔法を織り込んで着ていても暑さを感じない制服を用意しますので、それを着てください」
「え、そこまでします?」
「しますよ。全力でします。……それぐらい、僕は貴方の肌を僕以外の誰にも見せたくないんですよ。分かってください」

 正直、僕の与り知らぬ間にこんな服を着て二の腕や足を晒していた貴方のことや、それを見た全ての人のことを考えると、今にも腸が煮えくり返りそうです。
 2階から勢いよく飛び下りるぐらいに? と茶化し半分に問いかけてみれば、それにも真剣な面持ちで頷かれてしまって、私は口を噤むことしか出来なくなる。
 いやはや、まさかそこまで独占欲を抱かれていたとは。彼から注がれるその愛情の方が、夏の暑さよりもずっと質の悪い温度を孕んでいた。

「とりあえず、今日は僕のジャージを貸しますのでそれを羽織っていてください」
「……拒否権は?」
「あるとお思いで?」
「デスヨネ」

 何だかんだと言って、その事実に底のない喜びを覚えてしまう私がいることを一切否定など出来ないのだから、もうどうしようもない。犬も食わないというのはすなわちこういうことなのだろう。
 オーバーサイズにも程がある彼のジャージを羽織って、暑さなど忘れたにやけ顔で教室へ戻って来た私に、グリムとエースとデュースの三人が酷くしょっぱい顔を浮かべていたことが、その最たる証拠だ。


2020/10/6

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