君さえ


人魚の握った銀のナイフは、最愛の心臓を貫くか(残り20日)


20
※女監督生夢主/捏造過多ご都合主義

 監督生を元の世界に戻す方法が見つかった。
 そんなトップニュースは瞬く間に学園中に広まり、そしてもちろん、かのひとりの人魚の下へも届く。

 齢たった16にして、世界の悪戯なんていう傍迷惑によって家族や故郷から引き剥がされてしまった哀れな少女。そんな彼女が、1年という長い時間を経てようやく元の世界へ。
 これが子ども向けのファンタジー小説か何かだったなら、そのストーリーはきっと、華々しい大団円のハッピーエンドとして最終話を飾ることになるのだろう。
 そうして異世界を旅した少女は無事に元の世界へと戻り、家族や友人たちに囲まれて幸せに過ごしましたとさ。めでたし、めでたし。
 そんなフレーズを紡いで、世界はいとも容易くハッピーエンドを謳ってみせるのだろう。

 ──残される側の不幸に意味はないと吐き捨てて。

 その情報を聞いた時、ジェイド・リーチはほとんど反射的に、「ああ、彼女は帰ってしまうのか」と考えた。
 知っていたから。彼女がずっと元の世界へ帰りたがっていたことを。分かっていたから。この世界に彼女を繋ぎ止めておくことの出来る『何か』など、ひとつたりとも存在してはいないことを。自分自身という存在だけでは、彼女を引き留めることなど決して叶いはしないということを。
 残酷なほど冷静に、悲しいほど正確に、ジェイド・リーチはその事実を理解していたから。

 それゆえに、思ったのだ。

 あの人が元の世界へ帰ってしまう前に、この想いが儚い泡と消えてしまう前に、あの人の心臓へナイフを突き立ててしまわなければと。ただただ真摯に、純粋に、そう思ったのだ。

 愛する人が幸せならばそれでいい。
 その隣に自分の姿が無いとしても、その糧として自らの命を捧げたとしても。

 もしもそんな温かく優しい愛で彼女を慈しむことが出来たなら、どれ程良かったことだろう。彼女の幸せのためならば、と喜んでこの想いを捨てることが出来たなら。何度もそんなことを考えてはみたけれど、結局、ジェイドにそんなことは出来なかった。そんな未来を許せはしなかった。

 だって、そんなの酷いじゃないですか。
 酷すぎるじゃないですか。

 ジェイドはひとり、暗い闇に包まれた廊下を歩く。
 オンボロ寮と名付けられただけあって、やはりその内装も廊下の床材もくたびれ朽ち果てかけているけれど、少し気をつけさえすれば、足音を立てないようにすることは案外容易に叶えられた。
 この寮の主たる彼女に、唯一の寮生たるあのモンスターにその存在を悟られないよう、闇に紛れる式典服を厳かに身に纏ったジェイドは、そのフードまでもを丁寧に被り、静かに静かにオンボロ寮の廊下を進む。
 目指す場所は、今頃彼女が健やかに眠っているだろう彼女の寝室。手に握りしめた銀のナイフは酷く重たいと言うのに、足取りだけはどうしてか羽根のように軽くて。今にも空へ飛び立つことができてしまいそうだ、なんて、あまりにも人魚らしくない錯覚を覚えた。
 扉の鍵なんてものは、魔法の存在するこの世界において大した効力も有しはしない。オンボロ寮の玄関と同様に寝室の扉さえいとも容易く押し開けて、ジェイドは眠るその人の枕元へと歩み寄った。
 天蓋もない、シンプル過ぎていっそ粗末とも呼べるベッドの上、呑気に眠るたったひとりの小さな人間。相棒のモンスターは別室で眠っているのだろうか。静まり返った夜の中にこぼれる寝息は、彼女の微かなそれだけだった。
 細い首に華奢な手足、何とも頼りのないその小さな身体には、本当に生きていくための機能の全てがちゃんと備わっているのだろうか。そんなことを、ジェイドはずっと疑問に思い続けていた。
 この銀のナイフを心臓に突き立てるまでもなく、ジェイドがその手を添えればそれだけで折れて、壊れて、崩れて、綻んで、そうして溶けて消えてしまいそうなほどに脆弱ないのち。そんなものが、どうして自分の心を、感情をかき乱して仕方が無いのか。それが、ジェイド・リーチの生涯における一番の謎で、誤算で、失錯だった。
 それほどまでに、ジェイド・リーチは愛してしまっていたのだ。彼女と言うたったひとりを、どうしようもないぐらいに。

「……僕をこんな風にしておいて、貴方はひとりでハッピーエンドを迎えてしまうのですか?」

 酷すぎますよ、そんなの。
 僕のことを散々「あくどい」だとか「性悪」だとか罵っていらっしゃいましたけれど、貴方の方が僕の何倍だって酷くて悪くて薄情で残酷じゃないですか。

「そんなこと、許せるわけがない」

 ぽつりとひとつ呟いて、ジェイドはそのベッドへと乗り上げた。増えた190センチ分の重さにぎしりと悲鳴が上がったけれど、もちろんそれを気にかけてやる余裕もない。窓の向こうからしんしんと降り注ぐ冷徹な月の光が、まるでジェイドの全てを咎めているかのようだった。けれど、声も形も持ってはいないそんなものが、戒めになんてなるものか。
 この怒りを宥めるには、この悲しみを慰めるには、この激情を晴らすには、このナイフを彼の冷酷非道なる異世界人へと突き立てる以外にない。ジェイドの聡明な思考回路から導き出される最適解は、どうしようもなくただそれだけだった。
 薄っぺらなその腹に跨り、今になってようやく目覚め始めた彼女の姿を眺め下ろす。闇に溶ける鬱憤のオリーブと、それに反して闇に鈍く輝く激怒のカナリーイエロー。ゆるりと持ち上げられた瞼の向こうに瞳が覗く。その瞳に自らの姿が映し込まれる瞬間を、ジェイドはいっとう愛していた。けれど、その愛おしさも今は怒りに変わって臓腑の底に募りゆくばかり。
 まだ覚醒しきってはいない彼女の意識が、それでもここにいるはずのない来訪者の姿に切なる驚きを弾き出す。揺れた虹彩と震えた唇に、彼女が「自分の存在を知覚した」のだということを理解したジェイドは、彼女の息の根を止めるがごとく、その小さな口を大きな手のひらで覆い隠した。
 ジェイドの手のひらの向こうに、彼女が息をのむ微かな音だけがこぼれ落ちていく。その瞳に宿された驚愕に、困惑と恐怖の色が混ざっていく。本当に困っているのも、恐れているのも、全て僕の方なのですよ。口にはしないその言葉が彼女へ届くはずもない。

 どうして? 彼女の瞳が問いかける。
 どうしてだと思いますか? ジェイドは瞳で答える。

 きっといくらジェイドが問いかけたところで、彼女はその答えになど思い至ってはくれないのだろう。だから、ジェイドは彼女に答えを教えてやるのだ。深い深い慈悲の心で。
 その胸に巣食うどうしようもない感情の全てを。

「……こんばんは、監督生さん」

 それは、自分でも驚くぐらいに酷く静かな声だった。あんまりにも穏やか過ぎて、いっそ恐ろしいぐらいの響きだった。それを聞かされた彼女が、思わず恐怖に身体を震わせるほど。
 ナイフの柄を握りしめる手のひらへさらに強い力を込めて、ジェイドはこれまでの生涯で一番に美しい笑みを浮かべてみせる。式典服のフードの向こうに隠された彼の鮮やかなターコイズブルーが、こぼれ落ちてきた月明かりによって淡く輝いた。
 昼間の明るさの中では温かな浅瀬を連想させるその色彩も、夜闇の中には深く冷たい海の表情に一変してしまう。ひとたび溺れてしまえばもう二度と空を仰ぐことなど許してはくれないだろう深海が、少女の姿をじっと見つめていた。

「御覧の通り、僕、怒っているんですよ。ええ、とても怒っています。僕にこんな感情があったなんて、と自分自身でも驚くぐらいに」

 他でもない、貴方のせいで。

「僕にこんな感情を教えて、僕にこんな思い出を与えて、僕をこんなにも溺れさせて。……ねえ、どうしてくれるのですか?」

 僕はもう、貴方に出会う前の『僕』ではなくなってしまった。
 貴方に出会う前は知らなかった。
 ただその笑顔が咲くだけで情けなく弾む胸も、ただその声で名前を呼ばれるだけで満ち足りてしまう心臓も、知らぬ間にその姿を視線で追い駆けてしまう無意識も、その影を踏もうと躍起になる爪先も、煩わしいだけの柔い温度を追い求めてしまう指先も、制御の効かない嫉妬心も、恋心も、愛情も。

 たかが脆弱な人間ひとりがこの手の中からいなくなってしまうというだけの未来に怯え震える自分自身も。

 ジェイド・リーチは知らなかった。
 彼女に教えられてしまった。

 誰かを心から愛するということを、知ってしまった。


「僕をこんなにも『違ういきもの』にしたのは他でもない貴方だと言うのに、貴方は、……っ貴方は、僕を置いて元の世界へ帰ってしまう。僕のいないハッピーエンドを迎えてしまう……!!」


 そんなのひどいです。ひどすぎます。
 苦しい。悲しい。痛い。辛い。切ない。腹立たしい。憎たらしい。寂しい。酷い、酷い、酷い!!

「だから、そう、──ハッピーエンドを迎えることの出来ない僕にだって、少しぐらいの反抗は許されて然るべきでしょう?」

 だって、こんなにも苦しいのだから。胸が張り裂けそうなぐらいに悲しくて、喉が焼け落ちてしまいそうなほどに切なくて。このナイフをちっぽけなその心臓へ突き立ててしまいたいほどに、貴方が恋しくてたまらないのだから。

 それでもなお、たったそれだけのことが出来ないほどに、貴方が愛おしくてたまらないのだから。

 今日この瞬間、このたった一夜ぐらいは、惨めったらしく泣き喚いて貴方に呪詛を吐き散らすことを許してください。
 こんな体たらくでは、あの愚かな人魚姫をせせら笑うことももう出来やしない。人間を愛するということは、こんなにも痛くて悲しいものなのか。ああ、本当に嫌になる。こんなもの、知りたくはなかった。


「ねえ、酷い人。僕を捨てていく残酷な貴方。僕の抱いたこの純粋で一途でひたむきな想いを泡にしてしまう薄情な人間さん。その命を、だなんて我儘は言いませんから。どうかせめて、」


 ほろりと何かが夜の中にこぼれ落ちた。
 ひとつ、ふたつ、みっつと続くそれは、彼女の口を塞ぎ続けるジェイドの左手の甲に、彼女の頬に、とても小さな水たまりを作っていく。


「──貴方の21グラムを、僕にください」


 その声があまりにも震えていたから、空気を吸い込んだ喉が煩わしいぐらいに引き攣ったから、ジェイドはようやく、それが自らの瞳からあふれ出た涙であることを理解した。
 はらはらと、雨と言うよりは雪のように静かに降り注ぐそれを、ジェイドの真下に在る彼女は酷く凪いだ瞳で見つめ続けている。その向こうに一体どんな感情が宿されているのかも分からぬまま、知らぬまま、ジェイドはただ縋り付いた。
 指先から滑り落ちた銀のナイフが、シーツの海にたいした音を奏でることもなく沈んでいく。

「それだけでもう十分だと言ってみせますから。元の世界へ帰っていく貴方の姿を笑顔で見送って見せますから。だから、ねえ、どうか、……僕を好いてくださった貴方のその想いを、その21グラムを、僕に残していってくださいませんか」

 だってほら、元の世界に戻る貴方にはもう、それは必要のないものではありませんか。僕から逃げてしまう貴方には、もう不要なものではありませんか。

 なら、僕にくださいよ。

 貴方の「好き」の言葉を、貴方の「愛している」の感情を、貴方がその記憶に刻みつけた僕との思い出を、僕に貴方が手向けた全てを、僕にください。
 そして貴方は、僕のことなんて全部忘れて、のうのうと元の世界でハッピーエンドを迎えればいい。

 ねえ、いいでしょう? それぐらい。

 ナイフを落とした右手で胸元に隠し持っていた魔法薬の小瓶を取り出して、ジェイドは儚くほほえんだ。
 人間の記憶や感情の一部を抜き取り、結晶化してしまう魔法薬。僕を想った貴方の結晶は、一体どんな形とどんな色で世界に輝きを与えてくれるのでしょう。
 たとえそれがどんなものであっても、ジェイドはそれを愛することが出来てしまう。そんな馬鹿げた確信を抱いてしまう自分に、ジェイドはもう何度目になるのかも分からない自嘲をこぼした。
 凪いでいた彼女の瞳に焦燥が浮かぶ。ジェイドから逃げ出そうとその身体が身じろぐけれど、もちろんジェイドがそれを許すはずもない。

「怖がらないで。大丈夫、痛いことも苦しいこともありません。この夜の記憶も、僕の紡いだ言葉の全ても、ちゃんと貴方から奪い取ってみせますから。貴方はただ眠って、そして明日の朝目覚めて、僕を忘れたままもとの世界へと変えるだけ。それだけです。何も貴方に不都合なんてないでしょう?」

 ああ、魔法薬の効果が不安ですか?
 安心してください。僕の調薬の腕は貴方もご存知の通りなのですから。
 貴方が僕を思い出すことは一生ないと断言します。
 21グラムなんて重さは、人間にとってはその増減を知覚することも難しいぐらいに些細なもの。あってもなくても変わらないようなもの。
 また新たに生まれたひと粒が、死にゆくためにと頬を伝い落ちていく。見開かれた彼女の瞳にそのきらめきが映り込む。どうか見つめて、どうかその網膜に僕を焼きつけて。そしてそれらの全てを忘れて生きて。
 ジェイド・リーチという人魚のいない世界で。
 その世界を、他でもない僕が作って差し上げます。他でもない僕が許して差し上げます。

「……だから、最後に一度だけ、願わせてください」

 叶うことのないこの想いを、夜の中に眠らせて。
 失われる貴方の記憶の最後に、刻ませて。


「──お願いします、どうか、僕を 泡沫に消さないで 置いていかないで


 魔法薬で満たした小瓶の蓋を開け、ジェイドはそれを彼女の口元へと押し付けた。唇を覆い隠していた左の手のひらで、壊さないようにと力加減をしながら顎を掴み上げて、無理矢理それを飲み込ませる。
 それほどの量もない液体は、あっという間に全てがその唇の向こうへと消えていった。その姿をぼんやりと眺めて、これでようやく全てが終わるのだとジェイドが指先から力を緩めた、──その瞬間。

 窮鼠が猫を噛むように、小エビだっていざという時はウツボに牙を剥くんですよ。いつかの折に彼女が紡いだその言葉が、ふとジェイドの脳裏に蘇った。

 思いもよらぬ勢いと力強さでジェイドの戒めを振りほどいた彼女が、その両手でジェイドの胸倉を掴み上げる。呆気にとられたジェイドの身体はそのまま下へ、勢いのついた彼女の身体は腕と腹筋の力も使ってそのまま上へ。そんなふたりの終着点がどこかなんて、考えずとも分かるだろう。
 がん、と額に衝撃が走った。遅れてやってくる鈍い痛みを知覚してようやく、それが彼女による全力の頭突きによるものだと理解する。そしてそんなジェイドへ追い打ちをかけるように、襟首を掴んだ彼女の腕がジェイドの身体を強く引き付けた。
 そんな勢いを経てもなお、ジェイドの唇に触れたその感触は涙があふれるほどに柔らかくて。わずかに開いたその隙間から押し込まれる液体を拒むことも、ジェイドには許されなかった。
 こくり、こくりと向かい合ったふたつの喉が上下する。ベッドに沈むのは銀のナイフと空になった小瓶、そして向かい合うひとりの人間とひとりの人魚の姿ばかり。青じろい月光にかたちどられた輪郭が、夜の中に淡い輝きを孕んでいた。
 視線を交えた二対の瞳が、同時にゆるりと瞬きを落とす。そして再び開かれたそれぞれの左眼から、一筋の涙がこぼれた。
 頬を伝い、顎先から重力に従って滴るそれは、シーツに落ちた刹那その色と形を大きく変える。ジェイドの涙は深い紫を宿した丸い結晶に、彼女の涙は鮮やかなターコイズブルーを宿したひし形の結晶に。
 1人分を丁寧に調合した魔法薬だったのだ。それをふたりで半分ずつ飲み込めば、その効果も半分ずつになって当たり前。結晶化するのは、目の前にいる相手に関する記憶と感情。つまりそれらは、ジェイドが彼女を、彼女がジェイドを想って生み出したふたつの宝石。しかもそれぞれ、全ての中の半分ずつ。
 ジェイドの親指の先ほどにしかない大きさのそれは、手のひらに握りしめれば一瞬にして砕け落ちてしまいそうなほどに儚いものだった。

「……何をしているんですか、貴方は」
「それはこっちの台詞ですよ。夜中に寝室に忍び込んだ挙句、私の話も聞かないであれやこれやと好き勝手言って、さらには了承も無しに無理矢理魔法薬を飲ませるなんて。馬鹿なんですか」
「酷い言い草ですね。僕をそんな大馬鹿者にしてしまったのは、他でもない貴方でしょう?」
「……そうみたい、ですね」
「──そして、そんな僕を残して、貴方は帰ってしまうのでしょう?」
「…………はい」

 ほら、やっぱり。
 知っていたはずのその答えが、まるで銀のナイフのように鋭くジェイドの心臓に突き刺さる。
 ジェイド以上に頑固なところのある彼女は、こうだと決めればもうそれ以外の選択肢なんて選ばない。1年にも満たない時間の中で、ジェイドは痛いほどにそれを思い知らされている。
 だから、彼女は帰ってしまうのだ。元の世界へ。
 その事実に分かっていますよとへたくそな微笑みをこぼし、ジェイドは転がり落ちたふたつの宝石へと手を伸ばす。この宝石を飲み込めば、その中に閉じ込められた全てを取り戻すことが出来るようになっている。
 自分のものは直ぐに飲み下して、そして彼女の10グラムと少しのそれを貰っていこう。半分も足りないけれど、これで妥協してやろう。そう思って。
 けれど、その指先を戒めるように、誰かの手がジェイドの手のひらを包み込んだ。誰か、なんて、この場所にいるのはジェイド以外にたったひとりだけ。


「私は、元の世界に帰ります」


 何度も言われなくたって、そんなことはもう分かっている。
 ジェイドの手を握りしめて再びの宣誓を行う彼女に、ジェイドは辟易とした思いで苦痛に顔を顰めた。けれど、彼女の言葉はその先にもまだ続いていたのだ。
 視線の先で、彼女の瞳がジェイドの姿をひたすら真っ直ぐに見つめていた。

「──そして、もう一度この世界に戻ってきます」

 瞬きをする。呆気にとられた心臓は、驚きに跳ね上がることも出来ぬまま通常通りの速度で血液を全身へと押し出した。脳内で彼女の言葉を反芻する。一度、二度。三度目でようやく、彼女が一体何を言おうとしているのかを理解した。
 理解したと同時に、堪らないぐらいの感情が込み上げてきて、どんな表情を浮かべればいいのかも分からなくなったジェイドは、悩んだ末にくしゃりと力の抜けた笑みをこぼす。

「正気ですか?」
「正気も正気、本気も本気です。私の世界に魔法は無いですけど、そのかわり科学が発展しているので。世界のひとつやふたつぐらい繋ぎ合わせてみせますよ」
「……そんなこと、」
「不可能を可能にしてこその『ハッピーエンド』ってやつでしょう? 私は絶対に諦めませんから。ふたつの世界を揃えての大団円ハッピーエンド以外、私はぜーったいに認めません」

 私は手を伸ばします。どれだけそれが愚かなことだとしても、この世界に向けて、貴方に向けて、手を伸ばし続けます。

「──だから、貴方も諦めないで。私に手を伸ばし続けて。絶対、絶対、もう一度この手を掴み取ってみせますから」

 小さな手のひらが、縋るようにジェイドの手のひらを握りしめる。温かな体温と柔らかな輪郭が、痛いぐらいにジェイドの心臓を苦しめた。折角覚えた肺呼吸もままならなくて、焼けついた喉が引きつるような悲鳴をあげている。

「と、いうわけで。そんな崇高な使命を持つ私ですので、貴方にこの大切な21グラムは差し上げられません。……でもまあ、この10グラムと少しぐらいはよしとします」

 ベッドから拾い上げたターコイズブルーのそれを、彼女はジェイドの手のひらに乗せる。あんまりにも軽くて小さなそれは、けれども堪らないほどに優しい温度を孕んでいて。思わずこぼれ落ちそうになった涙を、どうにか必死に抑え込んだ。

「──その代わりに、私はこっちの10グラムと少しを預かります」

 紫色のちっぽけなそれを、けれどもジェイドにとっては酷く大切なそれを、彼女は世界で一番の宝物であるがごとくその手のひらに抱きしめる。愛おしげに伏せられた瞳が、あまりにも慈しみ深い表情でその欠片を見つめるものだから、思わずジェイドまでどこか気恥ずかしいような気分になってしまった。
 その視線をゆっくりと持ち上げた彼女は、そんなジェイドの姿を虹彩いっぱいに映し込んで、そうして柔らかな微笑みを浮かべてみせる。人間とは、こんなにも優しい表情で笑うことが出来るのか。またひとつ彼女に教えられたそれを、ジェイドは心臓に深く深く刻みつけた。

「預かったこれを、いつか返しに来ますから。預けたそれを、貴方もちゃんと返しに来てくださいね」

 こういう『契約』は、お得意でしょう?

 ──ああ、本当に。どうして僕は、こんな魔法のひとつも使えはしないちっぽけで脆弱な存在に、「敵わない」だなんて思わされてしまうのだろうか。

「……僕はこれでも寂しがり屋なので、あまりにも遅いとまた情けなく泣いてしまいますからね」
「涙はちゃんと再会の時のために取っておいてくださいよ。それに、ジェイド先輩の努力だって必要不可欠なんですからね? まあ、私になんてもう会いたくないって言うなら話は別で──」

 彼女がそれ以上の言葉を紡ぐ前に、ジェイドはその腕の中へ全て全てを閉じ込めた。声も、鼓動も、温もりも、輪郭も。明日にはこの腕の中からいなくなってしまう彼女という存在を。強く強く抱きしめる。
 このままひとつに溶け合わさってしまうことが出来たら、なんて仄暗い思いがあったことを否定はしない。
 けれど、この温もりをこうして抱きしめることが出来なくなってしまうのはあまりにも惜しいと、確かに思ったのだ。

「そんなの、逢いたいに決まっているでしょう。逢いたくて、逢いたくて仕方ないに決まっている。だって僕は、こんなにも貴方のことを愛しているのですから」

 だから、ちゃんと僕に逢いに来てください。
 僕も、ちゃんと貴方を迎えに行きますから。

「契約違反は許しませんからね」
「それはこっちの台詞ってやつですよ」

 首を洗って待っていてくださいね、ジェイド先輩。

 海に沈んだ銀のナイフ。
 貫くことのできなかった最愛の心臓。
 けれど、人魚が泡と消えることはない。

 本当のハッピーエンドが、未来で待っているから。


2020/10/16

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