君さえ


スイート・スイート・シガレット(残り9日)



※not監督生女夢主/成人済み喫煙者/喫煙表現あり


 煙で満たした肺がずしりと重くなっていく感覚がどうしようもなく嫌いで、堪らないぐらいに好きだった。
 カチリ、と手の中にライターが乾いた音を立てる。ゆらりと大きく揺らいだ橙が細く立ち上がったことを確認し、口に咥えた煙草の向こう岸へと翳した。じわ、じわりと炎が白い紙を焦がしていくのをぼんやりと眺めながらゆっくりと息を吸う。
 わずかな焦げ臭さと舌にしみる苦みをひと息に飲み下せば、なんだか頭の中にわだかまっていた全てが解けていくような心地がして。けれどそれも結局はただの錯覚に過ぎないとよくよく理解しているから、軽くなった脳みそに反して、心臓のあたりはその重さを増していくばかり。
 タール量の多いこれを吸い始めた当初は、あまりの苦さに思わず咳き込むほどだったというのに。人間とは何歳になってもその成長を止めようとはしないらしい。
 もうこの苦さでも全てを誤魔化すことが出来なくなったのだという事実に、それなら一体何でこの燻るような感情を叩き潰せばいいのだろうかと思考する。
 けれどそれも、もう一度深く吸い込んだ煙によって容赦なくかき消されてしまうのだから、私に残された選択肢などその場でただ足踏みをすることだけ。
 ずしりと重くなった肺に心臓が押しつぶされていく感覚。たかが10センチにも満たないそれによって壊されていく、未来の私の5分と30秒。
 ため息を吐くように煙を吐き出す。ふわりふわりと空気に揺れて解けていくその紫煙は、私の肺を満たしたあの重さなど忘れたと言わんばかりの軽さで遠くへ遠くへと駆けていった。
 それをほんのわずかな羨望を孕んだ瞳で見送って、胸のあたりにぽっかりと空いた隙間を埋めるようにまた煙を詰め込む。もうその苦さなんてほとんど感じやしないぐらいに感覚は麻痺しきっているというのに、どうしてかあまりの苦さにじわりと視界が滲むようだった。
 1本を吸いきって、2本目に手を伸ばす。無意識にも近い動作で再び火を点ける。吸い込む。吐く。箱の中に残った本数はあと9本。もうこれも纏めて吸いきってしまおうか。そんなことを考えながら、背後の大きな木の幹に背中と後頭部を預けて緑の枝葉と薄青の空を仰いだ。

「──また煙草を吸っていらっしゃるんですか?」

 直後、随分と白々しい温度を孕んだ声がどこからか聞こえて、私は思い切り顔を顰めた。
 身体を木から離して、いやいやながらも視線をそちらへと向ける。そうすれば予想通りにいけ好かないターコイズブルーの視界が眩しく網膜を焼きつけるものだから、私はまたさらに眉間の皺を深くするのだ。
 手に持っていた2本目の煙草はまだ8割近く残されているのだけれど、残念ながらそれともお別れだ。苛立ちを隠そうともせず粗野な素振りでそれを携帯灰皿に押し付ければ、向こう側から「おやおや」なんて含み笑いを伴った声が聞こえてくる。それにもまた神経が逆撫でられるのだけれど、それを言葉や態度にありありと見せてやるのもなんだか癪に思えて。
 平静を装ってはみるものの、やはり視線には険が込められてしまっているのだろう。そんな自覚があったけれど、私の目の前に立つ彼はそれに怖気づく様子などもちろん見せはしない。
 むしろさらにその笑みを深めて私を見つめてくるのだから、相変わらずこのガキの考えていることはいまいちよく分からない。いっそ気味が悪いぐらいに。

「わざわざ火を消して頂かずとも良かったのですが……」
「未成年の前で堂々と煙草を吸えるほど倫理観を捨ててはいないのよ、私も。……それで、何の用かしら?」

 何とも健気ったらしく彼は言うけれど、そんな彼の目的が「私の喫煙を止めること」であるということも私は既に理解していた。その理由なんてもちろん分かりはしないし、分かりたいとも思わない。少し、いや、かなり腹が立つだけだ。
 不服な契約による臨時雇用に過ぎないとはいえ、仮にも未成年が集まる学園に勤務している大人の身としては、どんな理由があろうとも未成年の前で喫煙をするというのは憚られる。
 その倫理観があるならば最初から敷地内で煙草など吸うなと言われそうだが、これでも我慢に我慢を重ねた末のそれである上に、学園長からも許可をとって、学生が立ち入ることの少ないこの学園裏の森の中を特別に借りているのだ。加えて、今はそもそも生徒たちの出歩かない授業時間であるはず。だというのに学生の側からこちらへ寄ってくるというのは、私の方にも少しばかりの文句ぐらいは許されて然るべきだろう。

「いえ、貴女の姿をお見掛けしたのでご挨拶でも、と思っただけです。特に用という用はありません」

 けろりとそうのたまってみせる彼に、私は思わずこぼれそうになった大きな大きなため息を必死に飲み込んだ。タールのそれよりもずっと苦々しい感覚に、早くここでの契約期間が終わらないものかと切に願う。けれど、残された時間は目の前の学生が卒業した後にもさらに続くほど長く、あの胡散臭い学園長に目を付けられたことが私の人生における一番の失敗だったのだなと、今更過ぎる理解を脳内に荒々しく放り投げた。
 そのうえ、またさらにこんなにも面倒くさい学生に絡まれ続けるとは。我ながら何とも運の無いことである。これではもう未来における希望なんてものも期待は出来そうにない。

「そう、ご丁寧にどうも。今は授業中なんだから、早く教室に戻ったらどう? 学生の本分をちゃんと果たしなさいな」
「ご心配ありがとうございます。けれど、僕のクラスは丁度今自習中なので。僕はこれから魔法薬学室へ向かうところです」

 それならさっさと行けよ。と思わず飛び出してしまいそうになった罵倒を再び必死に奥歯で噛みしめる。人の憩いの時間を邪魔した挙句、心の拠り所である喫煙を辞めさせ、さらにはこのまま雑談にでも乗じようとでも言いたげな雰囲気。
 高い背丈に甘いマスク、そして魅惑的な程に整った容姿は、確かに私の中にある「女性」の部分をくすぐってくる。けれど、今が休憩時間とはいえ勤務時間内であること、そして何よりも、彼がまだティーンの学生である時点でそんなことは全てが無に消えてしまう。
 彼の年があと10歳は上で、かつ顔を合わせた場所がここではない何処かであったならばまた話は変わったのかもしれないが、現実は今ここにあるそれだけだ。つまり、私に彼と他愛のない雑談をしようなんて気はさらさらない。

「……それなら、早く行きなさいな。大切な学生の時間なのだから、1分でも1秒でも無駄にするものではないわ」

 ごきげんよう。そう言い残して、私はさっさとその場所から立ち去ろうとする。けれど、そんな私を呼び止める声があったせいでそれもままならない。
 学生から「先生」と呼ばれることが嫌いだ。その呼び方で話しかけられてしまうと、私の意志に関係なく、こうして足を止めて応えてやらなくてはいけなくなるから。
 なに。今日も今日とて律義に振り返った私の視界に、再びターコイズブルーが踊る。こんどは同時にカナリーイエローとオリーブの煌めきも。
 数メートルばかりの距離があったはずなのに、それも彼の長いコンパスをもってすれば一瞬にして埋めることが出来てしまうらしい。随分と間近に世界を彩ったそれらへ思わず呼吸を奪われていると、意識の片隅で私の右腕がいとも容易く攫われていった。
 もちろんその犯人は目の前にいる彼。その名前をジェイド・リーチという。優等生の皮を被った問題児である彼には、その片割れや幼馴染も含めていつも手を焼かされているのだ。
 にこりとたおやかな笑みを崩さない彼は、そのまま私の右手のひらに何かを乗せて握らせる。固さと、冷たさと、ビニールのかさかさとした感触が指先に触れた。
 視線を落とす。手のひらに乗せられたそれは、学園の購買部で販売されているチープな棒付きの飴だった。しかも、数多く並ぶそれの中のたった一種類がどうしてか3つも。

「口寂しい時は飴を舐めるのがいいと聞きましたので。もしよければ貰ってやってください。煙草を吸うよりはきっと身体にもいいと思いますし」

 もちろん対価は求めませんので、ご安心を。
 薄紫色の、魚のような何かを模した飴。食べたことは無いから、一体どんな味をしているのかは分からない。けれど、きっと酷く甘ったるいものなのだろうなということだけは予想がついた。
 それは何故か、なんて。

「そんなもののせいで貴女の貴重な5分30秒が失われてしまうのはあまりにも惜しいですし。そんなことをするぐらいなら、その飴を舐めて僕のことでも考えていてください」

 私を見下ろすそのふたつの色彩が、今にも溶け落ちて来そうなほどに蕩け切っていたから。そのせいで、思わずあの苦々しさを忘れてしまいそうになったから。
 咄嗟に何を答えることも出来ず固まった私へと、彼の指先が伸ばされる。革手袋のどこか無機質な滑らかさが頬を滑って、皮膚と粘膜の境目にあるその柔い部分へ触れようとする。
 すっと細められた瞳の奥に滲む「それ」に気付いてはいけないと、優秀な私の頭が、生存本能のままに思考回路をシャットアウトした。
 先の彼の言葉の意味を上手く理解することもできず、私は彼の指先から必死に逃げ出した。堪らなく煩わしい彼のわずかな温度は案外呆気なく私の逃走を許し、追い縋る様子を見せようともしない。視線の先でゆったりと弧を描いた三日月にまた臓腑の焼けるような心地がして、思わずシガレットケースに手が伸びてしまいそうになった。
 手のひらをぎゅうと握りしめて、私は今度こそ踵を返して足早にその場所を去る。また声が背中に投げつけられるけれど、今度はそれに引き留められることはなかった。きっとあいつは、どんな言葉で私が足を止めるのかということも重々に理解しているのだろう。ああ、本当に腹が立つ。

 自分以外の気配が完全に消えたことを確認して、さらに森の奥へと足を運んだ私はようやくため息を吐いた。そのまま崩れ落ちるように地面にしゃがみこんでようやく、自らの右手のひらにあの棒付き飴が握りしめられていることに気が付く。あのまま投げつけてやればよかったとも思うけれど、食べ物にはひとかけらも罪がないのだからどうしようもない。
 愛らしくもどこか間の抜けた表情をしたその3匹を持て余しながら、私は左手でシガレットケースを探す。けれどそれがどうにも見当たらず、驚きと焦りに大きく首を傾げた。
 ここまでの道中で落としたのだろうか。いや、何かを落としたような音は一切しなかった。彼と出会った頃までは確かに持っていたはず。──そうなると、考えられる可能性としては。
 どうやらあの生徒、案外手癖も悪いようだ。
 未成年にシガレットケースを奪われたというのは、こちらの故意では無かったにしろやはり他へバレてしまえば厳罰物になるのだろうか。がんがんと痛みを訴える頭を抱えて、私は小さく唸り声を上げた。
 全く本当に何もかもがままならない。これだから教師職になんて就きたくはなかったのだ。教師職を嫌がる理由に最初は無かったはずのそれを付け加えて、私は内心に強い強い悪態をこぼした。
 手持ちの煙草も全てが奪われてしまった今、私に残された選択肢など有ってないようなもの。口寂しさにはどうしたって敵わないのだから仕方がない。誰かに言い聞かせるようにそう独り言ちて、私は手の中にあった棒付き飴のひとつからビニールの包装を取り外した。
 それを口に咥えれば、途端に口内に広がるのは胸が焼けそうになるほどの甘ったるさ。タールの苦さとは180度異なるその味わいに、思わずむせてしまいそうになった。
 初めて煙草を吸った時のようなその感覚に、嘲笑とも苦笑ともとれない笑みを小さく浮かべて、私は舌先にその甘味をころりと転がした。こんなものを口にするのは、一体いつ以来のことになるのだろうか。
 もう思い出すのも億劫になるほど記憶の奥底へ追いやられたそれは、随分と埃を被って色褪せてしまっていて。目頭が熱くなる感覚は、この砂糖の塊があんまりにも甘ったるくて堪らないせいで生まれたものだ。きっとそうに決まっている。

「煙草を吸いたくなるほど口寂しくなってしまった時は、いつでも僕にお声がけください。きっと貴女の力になれると思います」
 背中に聞いた彼の声を脳裏に思い出して、誰が声などかけるものかと毒を吐いた。けれど、シガレットケースを返してもらうためにもあの忌々しい学生には必ず何かしら接触を図らなければいけない。私だってわが身が一番に可愛いのだ。
 面倒くさいと苛立たしいのふたつをかき消すように、口の中に含んだそれへ歯を立てる。案外簡単にぱきりと砕けたそれは、さらなる甘さを纏って私の味覚を痛いぐらいに刺激した。
 重たい煙を与えられなかった肺が物足りなさを訴えるけれど、羽が生えたかのように軽いそれが心臓を押しつぶすことはない。それを知覚すると、なんだか随分と呼吸がしやすくなったような気がした。
 残りのふたつの飴を丁寧にポケットにしまい込み、よいしょ、なんて情けない声を上げながら立ち上がる。次の授業に向けて準備をしなければいけない私に、先程の彼の謎に満ちた行動と視線について考える余裕なんてない。
 そんな風に、考える余裕なんてものをいくらでも理由を付けて無くしてしまえるのが大人というものだ。
 教員室へ向かおうと軽くなった爪先を前へ踏み出した私はまだ知らない。その数年後、成長して20歳を越えた件の彼に、その後の人生をまるっと頂かれてしまううえに、完璧なる禁煙までさせられてしまうことを。
 今は、まだ。


2020/10/27

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