君さえ


はじめまして、あいしています(残り8日)



※現パロ/年齢操作/社会人設定/捏造ご都合主義


 見つけた。
 人波の中に紛れるその姿に、意図せずゆるりと口角が持ち上がった。

  ***

『間もなく2番線に電車が参ります、危険ですので──』

 朝、8時5分。眠気にぼんやりとしていた意識が、無機質なアナウンスによって現実に引き戻される。それにはっと視線を持ち上げると、丁度私の立つホームの線路に電車が滑り込んでくるところだった。
 開いた扉から人が溢れ出してから数拍を置いて、ホームに列を成していた人の群れがなだれ込むようにして電車の中へ吸い込まれて行く。その波から弾き出されてしまわないようにと必死に食らいつき、今日も今日とて何とか無事に電車に乗り込むことは出来た。そうなればあとはもう成すがまま。満員電車に押しつぶされながら、職場の最寄り駅である8駅先まで。
 朝のこの有様では席に座ることはもちろん、つり革や手すりになど掴まることも叶わないために人と人との隙間に挟まって何とかバランスを取る。時折身体が浮きそうになるけれど、そうなった時はそうなった時だという諦めも大事なのだと、新入社員1年目の時に早々に悟りを開いた。
 鞄からスマートフォンを取り出してそれを眺める余裕もなく、私は視線を当り障りのない適当な場所へ向けてぼんやりと時間を浪費する。
 そんな中でふと私の視界を色づけたのは、なんとも鮮やかなターコイズブルーの色彩。目の冴えるような輝きに思わず視線が奪われて、その横顔をじっと見つめてしまう。
 私から見て左手側のつり革の所に立っているその人は、私と同じように毎朝この時間のこの車両に乗車しているちょっとした有名人だ。とはいえ、それは彼が芸能人だからとかそういう理由によるものではなく、もっと単純に、「彼があまりにも人目を惹く美しい容姿をしているから」である。
 私が初めて彼を見かけた時の印象は、第一に「とても背の高い人」、そして次に「不思議な色彩と髪型の人」、続いて「国のひとつやふたつぐらいならば簡単に傾けてしまいそうなほどの美人」といったところだっただろうか。
 そのかんばせを正面からまじまじと見たことはないのだけれど、横顔からも分かるその美しさは確かに噂になってしまうのも頷けるほど。女性専用車両でもないのにこの車両における女性率が高いのは、きっと彼がいるがゆえの部分が8割以上を占めているのではないだろうか。
 彼のその輝かんばかりの美しさは、美に対する耐性の少ない私にとって、目の保養になると同時に少し眩しくもある。あまり眺め続けていれば網膜が焼けてしまいそうだと、数秒ばかりその輝きを浴びさせてもらった私はすぐに彼から視線を外した。

 私が降りる駅の2駅手前が大きなターミナル駅となり、乗っている人の7割以上がそこで降りていくため、多少電車の中の密度が随分とましになる。人の波の邪魔にならないよう適度に動きつつ、丁度良く目の前に空いたつり革に掴まった。この駅を出て少し進んだところで電車が少し大きく揺れるため、出来るだけ何かに掴まっておきたいのだ。
 何とはなしにつり革へ伸ばした自らの手へと視線を向けると、その視界の左端に鮮やかな色彩が踊る。それがつい少し前まで見つめていたターコイズブルーであることに気付いてようやく、私は自らの隣に件の彼がいることを理解した。
 今まで彼とこんな距離まで近づいたことがなかったために、意味もなく突然心が落ち着かなくなる。ついつい横目でこっそりと隣の彼の様子を伺い見れば、そこには静かな表情で窓の向こうを見つめている怜悧な瞳の姿が。目測で190センチにも届くのではないかという長身は、もはやつり革ではなくつり革がぶら下がっている手すりの部分を掴んでいて。そんな彼の真横で腕をほとんど直線にした状態でつり革に縋り付いている自分の有り様が、なんだかとても恥ずかしいもののように思えた。
 あと5センチでもいいから身長が欲しかったなぁ、なんてことを内心に涙をこぼしながら呟いていれば、電車はいつのまにか例の大きく車体の揺れる場所へと至っていたようで。
 がたん、と世界が傾いだ。
 つり革に掴まっていたお陰で転ぶことはなかったけれど、足元がおぼつかなくなって思わずたたらを踏む。それだけならば全くよかったのだけれど、まるでそんな私へ追い打ちをかけるように、私の右隣に立っていた人の身体が大きく傾いでこちらへとぶつかってきた。
 左隣の彼ほどではなくとも、私よりは随分と背丈があり体格もいいサラリーマンに身体を押されてしまえば、あとはもう玉突き事故が起こる他ない。
 元々不安定になっていた身体がそのまま左へと大きく揺れ、その先にあった何かへ肩をぶつけてしまう。そのまま倒れ込むことこそなかったけれど、思ったよりも勢い付いたその体あたりにさっと身体から血の気が引いていった。

「──っ、すみません、」

 慌てて身体を直立状態に戻し、ほとんど反射的に左隣の彼へと小さな声で謝罪を飛ばす。いやまあ、そもそもの元凶は、私にぶつかったことになど気づいていないのか素知らぬ顔でスマートフォンを眺めている右隣のサラリーマンなのだけれど。理由はどうあれ他人にぶつかったまま何も言わずにいるというのは、私の持つ人間としての道徳心により憚られてしまう。
 足元へ向けていた視線をぱっと持ち上げた。瞬間、その向こうに瞬いたふたつの色彩に呼吸が浅く止まる。今日の今日まで知らなかったけれど、どうやら彼の瞳はその色彩を左右で違えていたらしい。ぱちりと瞬きを落とした双眸は、呆然と彼を見上げる私を見下ろして、次の瞬間ゆったりと穏やかに笑みを浮かべてみせた。

「いえ、お気になさらず」

 どこか海のさざめきを連想させるその声の響きが、どうしてか酷く胸に突き刺さる。彼の瞳から逃げるように、私は小さく会釈だけを落として視線を車窓の向こうへと向けた。
 どくどくと心臓が煩い。電車が次の駅に辿り着く。隣から大きな影が消えていく。無意識のうちに視線が窓の向こう、ホームの人波に飲み込まれて行く彼の背中を追いかけていることを自覚して、私はあまりにも単純で愚かな自分自身へ自嘲をこぼした。
 やっぱり、人間はどうしたって美しいものには惹かれてしまう生き物らしい。

  ***

 終電のひとつ前の電車に何とか駆け込み、残業に疲れ果てた身体を引き摺る私はひとつ小さくため息を吐いた。
 こんな時間まで仕事が長引くのは一体いつ以来のことだろうか。久しぶりの残業は身体的にも精神的にも厳しいものがある。人気の疎らな電車の中をよろりよろりと歩いて、朝とは一変してがらんどうになっている座席の片隅に腰かけた。
 夜闇の中に街灯や建物からこぼれる灯りがちらつく車窓の向こうを、ぼんやりと見つめるでもなく眺める。がたがたと規則的に揺れる車内に眠気を促進させられながらも、流石に終電間際のこの時間に寝過ごすという可能性を高めてしまうのはまずいという危機感で何とか意識を保ち続けた。
 駅のホームに滑り込んだ電車が徐々に速度を落とし、そして止まる。空気が抜けるような軽い音を立ててドアが開くけれど、そこから出入りする姿もやはりこの時間となってはかなり少ない。
 私の向かい側の座席に座っていた大学生と思しき青年が降りていき、それと入れ替わるように誰かが乗り込んでくる影が視界の隅に映った。
 けれどその姿までもをわざわざ確認する気はなく、視線は未だ真正面の窓の向こうへと向けたまま。誰の姿もないホームの姿はとても閑散としていて、どこか物悲しい気分にもなる。朝方や普段の帰宅ラッシュ時の有り様を知っている分、その寂寥感にも拍車がかかるというもの。
 と、私がそんな風に取り留めもない感情を持て余していれば、ふと、視界の左端に人影が揺れた。どうやら先程乗り込んできた誰かが、私の左隣の座席にひとつ間をおいて腰かけたらしい。
 他の席も沢山空いていると言うのに、わざわざそこを選ぶとは。少しの驚きとともに、視線だけをそちらへ向けて横目でその姿を見やる。
 そしてそこに佇んでいた色彩に、私は胸中へ浮かび上がった驚きのまま顔までもをそちらへ向けてしまう。あまり他人のことをじろじろとあからさまに見つめるのは失礼だと分かってはいるが、向こうもこちらを見つめているとなればそんな配慮ももはや無用だろう。

「遅くまでお疲れ様です」

 しかもさらには話しかけられてしまった。あたかも、それなりに顔を合わせたことのある知り合いであるかのように親しげに。つい今朝方、初めて言葉を交わした──さらにいえばその会話も先述した通りのあまりにも簡素なそれである──ばかりのかの麗人から。
 それに驚くなという方がどうかしているだろう。困惑により返すべき言葉にもするべき対応にも迷った私は、ひとまず当り障りのない返答だけを紡ぐ。

「えっ、あ、はい、……お疲れ様、です」

 そうすれば左隣に座る浅瀬色の麗人が酷く嬉しそうにその相貌を綻ばせるものだから、私にはさらに何が何だか分からなくなってしまう。彼は一体何を考えているのだろうか、一体私に何の用だろうか。そんな疑問符ばかりが頭の中に連鎖していく。
 きっと、そんな脳内が表情にもありありと表れてしまっていたのだろう。おやおやと眉を下げ、困ったような素振りを見せて微笑む彼からは、どうしてか本気で困っているような雰囲気は微塵も感じられない。形のよい唇の向こうに覗いた歯は、まるでノコギリのようにぎざぎざと鋭く尖っていて。噛みつかれてしまえばひとたまりもないのだろうなと、生物としての本能的な恐怖が背筋を駆け抜けていった。

「ふふ。すみません、突然気軽に話しかけてしまって。驚かせてしまいましたね。迷惑でしたでしょうか……」
「い、いえ……! 驚きはしましたけれど、迷惑というわけでないので、……お気になさらず」

 少し寂しげに、悲しげに伏せられた瞼に、私は思わず慌ててそんな言葉を紡ぎあげた。そうすれば彼は「そうでしたか、安心しました」なんてぱっと再び微笑みを浮かべてみせるのだから、やはりその素振りも結局は『ふり』でしかなかったのだろう。それを理解した私は、優しく穏やかそうに見えて案外いい性格をしているなこの人は、と、脳内にぼんやりと存在していた彼の人物像に慌てて修正を加えた。
 不審さも困惑も驚きも溢れているけれど、残業疲れの頭ではろくな思考も出来はしない。彼の目的など分かりはしないけれど、こんな美人と言葉を交わす機会など今を逃せばもうないかもしれないからと、私はひとまず彼の話を聴く姿勢を整えた。何か怪しげな素振りを見せ始めたらすぐに別の車両へ逃げればいいだろう、なんて何とも楽観的な考えを頭の中に転がしながら。

「朝の電車でいつもお見掛けする方だなと、前々から少し貴女とお話してみたいなとは思っていたんです。ですが、朝の混雑の中では声をかけることもままなりませんし、帰りの電車の時間もなかなか合わなくて……今日は本当に運が良かった」

 残業でお疲れの貴女には少し申し訳ないですけれど、と少し悪戯っぽく笑う彼に思わずときめいてしまうのも仕方のないことではないだろうか。もしかしてこれは、所謂「美人局」的なそれなのかと不安を膨らませながらも、私はにこにことどこか嬉しそうに言葉を紡ぐ彼へ頷きを返すばかり。
 まさか彼にこちらのことを認識されているとは露ほどにも思っていなかった私としては、その言葉に衝撃的な驚愕しかない。毎朝数十秒ばかり彼の姿を見つめてしまっていたことも、もしかすると彼にはバレてしまっているのだろうか。そう思うと羞恥心までもがどうしようもなく掻き立てられて、募る居た堪れなさに視線を曖昧に泳がせた。

「僕も、今日ばかりは残業を言いつけてきた上司に感謝しなければいけませんね。お陰でこうして貴女とゆっくりお話することが叶ったわけですし」

 くすくすとたおやかに微笑んで見せる彼は、一体どうして私なんかと話してみたいだなんて考えたのだろう。
 逆ならばまだしも、私は彼と違って容姿にもそれ以外も平凡中の平凡を極めたただのOLなのだから。正直に言って、彼からそんなにも興味を傾けてもらえる理由なんてひとかけらも思いあたりはしない。

「……どうして、私なんかと?」

 そんな疑問のままに唇を震わせれば、視線の先で今朝と同じようにふたつの色彩が瞬いた。まるで夜空に輝く星屑のようだ、なんて随分と詩的な表現が頭に浮かんでは消えていく。
 ……ああ、けれど。ゆるりと弧を描いた黄金色の左眼は、まるで欠けていくお月様のようでもあって。


「──さあ、どうしてでしょう?」


 内緒話でもするような囁き声。静かな夜に響く海のさざめきのような音色。どこか懐かしさすら覚えてしまうそれは、けれども私の聴神経を痛いほどに刺激して。まるで心臓をかじり取られてしまったかのような感覚に、私はあえなく溺れてしまう。
 電車が止まる。アナウンスが伝える駅名は私が降りるべき駅のそれで。降りなければと思うのに、身体がどうしてか動かない。網膜を焼く浅瀬の色があまりにも鮮やかで、きれいで、うつくしくて、──とても、愛おしくて。
 胸に疼いた感覚の名前を理解した瞬間、私は弾かれたように立ち上がった。どくどくと煩い心臓の音が、鼓膜のすぐ傍に聞こえ続けている。
 引き攣った喉では言葉も上手く紡げない。だから私は、せめてとばかりに頭を深く下げて彼に背中を向けた。
 視界の隅に未だ穏やかな笑みを携えている彼の姿をかすめながら、私は全てを振り払うように電車の扉からホームへと逃げ出した。背後で扉が閉まる、電車が走り始める。静かなホームに存在する影は私のものだけ。
 呼吸が苦しい。空気を吸う、吐く、けれど肺に酸素が満ちる感覚は得られない。どうして。どうして、だろう。
 私はどうして、彼のことを。

「また朝の電車でお会いしましょうね」

 最後の最後に彼が私の背中へ向けて紡いだ言葉が、じわりと脳内に滲んでいく。まるで、私の奥深くへと鋭いナイフを突き立てるかのように。
 その切っ先に全てを切り裂かれてしまえば、私は理解することが出来るのだろうか。この息苦しさの理由を、このどうしようもない感情の理由を。胸にくすぶり続ける、筆舌に尽くし難いこの感覚につけるべき名前を。

 ──名前。彼の、名前。
 私は知らない。彼の名前を。

それなのに、どうしてだろう。

「──……どうして、貴方の名前を、貴方のことを、知っているような気がしてしまうの」

 その答えも分からない。今の私には、まだ。

  ***

 がたんがたんと電車が揺れる。車窓の向こうに揺れるのは、深い夜闇と人工的な灯りの姿ばかり。終電前の車両内に人影はたったひとつだけ。
 目の冴えるようなターコイズブルーを孕んだ男はひとり、つい少し前まで自らの隣に佇んでいたあの人の姿を脳裏に思い浮かべる。突然自らに話しかけてきた男の姿に困惑と驚愕を滲ませた瞳、微かに語尾の震えた声、少しでも力を加えれば壊れれてしまいそうなほどに華奢な身体。

 男の知る『彼女』のそれと、寸分違わぬその姿。

 弧を描いた唇に『彼女の名前』を小さく紡ぎ、男はその瞳に滲む狂喜の色彩をさらに深めた。

 ──ようやく巡り合うことが出来ましたね、監督生さん。

 早く貴女の名前を呼びたい。早く僕の名前を呼んで欲しい。あの頃のように、綻ぶような愛おしい笑顔を僕に見せて。その小さな手のひらを、この手のひらで包み込むことを許して。
 ただそれだけを願って、こうしてまた生まれ落ちて来ました。それぐらいに、僕は今もなお、貴女のことを心から深く愛しています。

 だから、どうか。
 もう一度、僕に貴女の愛をください。

 それが男、ジェイド・リーチの切なる願いだった。


2020/10/28

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